五章 朝陽の名残り、落日の影法師

十五話 左三つ巴、無双(1)

 その古風な武者装束の武将は、徳川の陣営で浮いていた。

 二十年前に、その武将が背に差した「左三つ巴」の戦旗を戦場で見たら、敵は響めき、味方は安堵していただろう。

 既に大名の座を追われ、京都でひっそりと暮らしている今川氏真に現在も仕えている健気な朝比奈家の旗は、今の徳川にとっては郷愁すら感じさせる程度のものだ。

 オワコンの武家に忠義を尽くす彼には、やや同情的な視線すら、集まる。


「むかつくな」


 朝比奈泰勝やすかつは、三十路前の充実した肉体を震わせながら、味方からの好奇の視線を切り捨てる。

 味方ではなく、最前線の、敵方を見る。

 最前線・柵の前を横切る川沿いを臨める視界には、数えるのが馬鹿馬鹿しい程に、武田軍の死骸が敷き詰められている。

 特に徳川の陣には赤備えが攻めて来ていたので、死体の山の上に彼岸花の群生地が発生したかのような、強烈な光景が広がっている。

 赤備えの指揮官である山県昌景まさかげは、今日の武田の運命を象徴するかのように、既に戦死している。

 最強部隊の最強の指揮官として全国レベルで武名を知られた武将が、鉄砲で狙撃されて戦死していた。

 日の出と共に始まり、昼過ぎまで続けられた合戦は、ほぼワンサイドゲームになっていた。


 朝比奈泰勝やすかつは、今回のお使いには結構な期待を抱いていた。

 お使いの用事は「今川氏真の使者として、徳川を陣中見舞いする」

 通常なら、挨拶がてらに兵糧や矢弾を差し入れするとか、形だけでも加勢してみせる程度で済ませる。

 朝比奈泰勝やすかつは、これを機会に戦場で目立った戦功を挙げる気で来た。

 何せ、織田・徳川連合軍VS武田オールスター軍団の総力戦である。

 一騎でも、味方は多い方が良いに決まっている。 

 陣中見舞いに乗じて、戦功を狙う気だった。

 その戦国武将らしい期待は、設楽原に敷かれた野戦築城の有り様を見て、霧散する。

 広範囲に、城の虎口が出現したような布陣である。

 血の気の多い朝比奈泰勝やすかつでも、こんなに恐ろしい陣地に攻め込まずに済んで安堵した。

「…これを見たら、普通は撤退するのでは?」

 そのような感想を述べると、朝比奈泰勝やすかつを取り次いだ酒井忠次は、嬉しそうに保証した。

「武田は、退かぬよ。餌が美味しそう故」

 目線で、信長のいる本陣を示す。

 今、日本で最も権力を集めている大大名が、同じ戦場で待ち受けている。

 倒した者は、次の天下人として君臨できるだろう。

 無理ゲーだけど。

(これは…確かに、自分より好戦的な大将なら、攻めてしまう気がする)

 そう納得しつつ、そんな脳筋の戦い方をするのは、大名としてはアウトだとは分かる。

 今川家の衰退を間近で体験し、戦争のデメリットをたっぷりと味わった朝比奈泰勝やすかつである。

 武田はより派手に衰退すると、見て取れた。

「ところで、朝比奈殿」

 今川嫌いで有名な酒井忠次が、怖いくらいに友好的に接してくれる。

「武勲を立てるのに、最適な役目を、押し付けたいのだが」

「明日の決戦では、武田の本陣に突入して、勝頼の首級を挙げてしまってもよろしいと?」

 朝比奈泰勝やすかつは先回りして、一番酷い作戦を言ってみた。

 酒井忠次は、それを嫌味とも冗談とも取らずに、真顔で続ける。

「やってくれるか?」

 陣中見舞いに来た「客人」に対して、「鉄砲玉」扱い。

(筆頭家老ともなると、嫌い方にも芸風が出るな)

 十年以上の逆風生活で、朝比奈泰勝やすかつも悪意のある交渉には慣れている。

 涼しい笑顔で、凶悪なリクエストに応じる。

「某、単騎で来ましたので、武田の本陣への突入は、酒井殿の采配にお任せしたいのですが」

 トリガーを任せて、この無礼だが素晴らしそうなリクエストを受ける。

「よし、話が早くて助かる。動く時は、必ず同行してくだされ」

 酒井忠次は、理想的な鉄砲玉を得て喜んではいた。

 だが、その後の奇襲の準備に忙しくて、朝比奈に声を掛けるのを失念した。

 動けば言わなくても付いてくるように躾けた部下に囲まれているせいか、客将の取り扱いで、一手しくじった。

 朝比奈泰勝やすかつが気付いた時には、酒井忠次の軍勢は、奇襲を掛けるために別ルートへ出陣してしまっていた。

(今更、夜道を追いかけても、迷子になった挙句、明日の決戦に遅れてしまう)

 朝比奈泰勝やすかつは、酒井忠次に頼らずに、独自の判断で戦働きをしようと、決意する。



 決意した結果、目の前で延々と、武田の軍勢が射殺されていくのを見物するだけの時間が過ぎていった。

 場所によっては、武田に柵の中まで踏み込まれて苦戦する箇所もあったが、朝比奈のいる部署は無事。

 出番は、全くなかった。

 織田・徳川連合軍は、余裕だった。

 ランチまで奢られてしまった。

 ここまで余裕だと油断して、桶狭間のように波乱が起きないかなとか思ったが、起きなかった。

 これまでは。

 武田の兵数が、およそ半数以上削られ、そろそろ日の傾きを気にしなければならない頃合いで。

 武田の本陣が、退却を始めたという知らせが、陣中を駆ける。

「武田が、退き戦に…」

 生まれて初めて、朝比奈泰勝やすかつは、武田が撤退する有り様を目撃する。

 しかも、本陣が退いているのに、最前線の武田兵は、前に出てくる。


(本隊以外、全て殿しんがりに回っているのか?!)


 追撃に出て、武田にトドメを刺したい織田・徳川連合軍の出足は、直ぐに鈍った。

 陣地を出て武田の軍勢と真っ向から勝負をすると、出鼻を挫かれた。

 特に織田の本隊と徳川軍最強・本多忠勝の部隊に、武田の残存部隊は集中して用兵されている。

 武田は兵数で劣る以上、織田・徳川連合軍の最も厄介な二部隊に焦点を合わせて、足止めに成功している。

 武田の残存部隊に絡まれなかった追撃部隊は、退いていく武田の本隊に追いつく部隊もあったが、最後尾を守る馬場隊に撃退された。


(何て素晴らしく効率の良い退き戦なんだ!)


 朝比奈泰勝やすかつは思わず退き戦を指揮する武田の指揮官を、内心で賞賛する。

 このままだと、追撃部隊は速度も兵数も突破力も不足したまま、武田の本隊を取り逃すだろう。

 行く手を酒井忠次が塞いでいるだろうが、この勢いなら、かなりの確率で本隊は突破に成功する。


(いや、敵を褒めて感心している場合ではない。駿府を占領している、今川の仇のだぞ)


 気を取り直して、退き戦の指揮を取っている部隊を見定める。

 退き戦に残っている軍勢の中で、鼎のような位置で頻繁に使い番の馬を行き来させている軍団。

 朝比奈泰勝やすかつの目は、白地に胴赤の旗を、見定める。

 縦に長く垂らした白生地の、真ん中部分を赤く染めた旗。

 内藤昌秀まさひで(旧名・工藤昌秀)。

 武田信玄が生きてい頃から、今に至るも武田の副将の旗。

 朝比奈泰勝やすかつが生まれる前から、最強軍団の重鎮であり続けた超有能武将。

 それ程の武将が、捨て石になって織田・徳川連合軍を防いでいる。

 織田・徳川連合軍は、追撃部隊を出して兵力を大きく割いている上に、野戦築城の外に出てしまっている。

 地の利と大軍の有利を活かせないタイミングで、内藤の逆襲を受けてしまった。

 内藤昌秀が率いる軍勢の玉砕同然の猛攻を受けて、足止めされるだけでなく、押されている。


(うん。あれを先に討っておかないと、誰もまともに追撃出来ないな)


 標的を定めると、朝比奈泰勝やすかつは近くの徳川の武将に、断りを入れておく。

「某、これから内藤昌秀の首を獲りに行きますので、陣を離れます」

「お一人で?!」

 言われた方は、それは驚く。

 朝比奈泰勝やすかつの戦力は、自身のみ。

 連れは馬の世話と荷物持ちの部下二人のみ。

 織田・徳川連合軍が部隊単位で追撃に出ている中、単騎で追撃するという。

「案外、その方が身軽で良いかもしれませんな」

 榊原康政は、朝比奈を止めずに行かせる。

「出来れば、今すぐに討ち取ってください」

 榊原康政は、余裕のない顔で、むしろ催促しちゃった。

 内藤昌秀の軍勢は、足止めどころか、本多忠勝の軍勢を押し返し、家康の本陣へと迫ろうとしている。

 榊原康政の部隊も、家康の防御に専念しなければならい程の、切迫した戦況だ。

 戦国最強軍団の最後の意地が、この局面で未曾有の大金星へ近付いている。


 馬に騎乗して赤い戦場の激戦区へ駆けながら、朝比奈泰勝やすかつは愉快な気分が湧いてきた。

「どうやら俺は、家康の命を救う事になりそうだよ、従兄弟殿」

 なんだか痛快な気分で昂揚しながら、左三つ巴の戦旗を背に指した騎馬武者は、内藤軍に横合いから突撃する。

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