四章 決戦の朝に
十二話 戦いはいつも、自分の為(1)
鳥居強右衛門が磔にされてから、二日後。
長篠城から西に歩いて五十分弱の設楽原に、織田・徳川連合軍が陣を敷いた。
土地の起伏の大きさを利用して柵と土塁を幾重にも張り、武田に対して横長に防御ラインを形成する。
近寄る敵兵には、防御ラインの内側から大量に揃えた銃器で迎撃。
たとえ一つの防御ラインを破られても、隣接する陣がフォローし合って敵兵を迎撃する。
武田は大軍勢同士の決戦を頭に描いていたが、織田信長が頭に描いていたのは、野戦築城。
味方を可能な限り損なわずに、敵を効率良く殺戮するシステムを、織田信長は採用した。
この野戦築城を前に、武田軍は歴史の教科書に必ず載るレベルの大敗北を強いられる。
この章では、その大敗北、織田・徳川にとっての大勝利の決戦が起きる、朝までを描く。
設楽原に布陣し終えた翌日。
微調整を重ねる野戦築城を横目に、織田・徳川連合軍の軍議は、「此方の戦力は三倍。小細工抜きで正面対決」と決まった。
酒井忠次が、
「
と、アグレッシブな作戦を提案したものの、信長が、
「三倍の兵力で普通に勝てるから、不採用。
小細工の必要はないから、不採用。
有利なのに別動隊に兵力を割くなんて下策だから、不採用」
と、酒井忠次の
と見せかけて、軍議を解散した後で、信長は小細工をする為に指示を出し始める。
敵を騙すには、まず味方からという言葉を、本当に実行している。
「
信長の親衛隊の中でも、特に選抜された武将で構成された
その中から、信長は金森
信長に呼ばれて、
金森
「笑い話の途中で人を呼び出すとか、悲しいわあ。どうせ勝ち戦なのに、何の急用やろか? 摘便? 酒呑みの代役なら、小姓で十分やろうに」
五十歳を過ぎても軽さと明るさを失わない武将を前に、信長は笑いを堪えながら命令する。
「酒井忠次に付け。酒井忠次がいいと言うまで、彼奴に手を貸せ」
「ははぁ〜」
軍議とは真逆の命令を下す主君に対し、金森
信長の天邪鬼じみた行動にも、すんなり順応する。
そういう人材でないと、信長の側近は務まらない。
後は秘書の堀久太郎に任せて、信長は戦場の全体図を見渡しながらの微調整に入る。
「此処が薄いだぎゃあ。此処と此処に、柵と鉄砲三十追加」
「佐久間が抜かれた時の予備戦力が薄い。猿にフォローさせろ」
「野々村に、左右は気にするなと伝えろ」
「金柑頭と家康が近過ぎる。右にズラせ。赤備えは徳川に任せよ」
堀久太郎が、話し声が邪魔にならない位置にまで移動すると、詳細を伝える。
「酒井忠次が、
「これ、寄騎ですよね、実際に?」
「そのおつもりで」
(通りで、おれが呼ばれる訳や)
織田と徳川の現在の力関係は、大きな差が出来つつある。
同盟国とは言っても、国家の中枢を支配している織田(最大規模の領地を保有するトップ企業)と、二カ国を保持する徳川(有料中型企業)では、自然と織田の方が徳川を下に見る傾向が生まれる。
この段階で「徳川の家来のサポート役に徹しろ」と言われて、素直に指揮権を全て任せてしまえる上級将校は、金森
(武家のプライドとか、薄いからなあ〜、おれ)
仏門に入った弟から仕入れた笑い話を、茶会で披露するのが生き甲斐という、織田家の中でもトップクラスの変人である。
勿論、武将としても優れており、信長は度々、一軍の指揮官を任せている。
そして、必ず完全に勝利を収めて帰って来る。
剽軽な趣味人にして、一流の武将。
そんな出鱈目に高いスペックを持ちながら、この人物は誰からも警戒されないし、信用される。
後世、千利休が切腹させられた際、その子息を匿っていたが、秀吉は一切咎めなかった。
七十四歳の時には、晩年の秀吉を背負って有馬温泉に入るような人物なので、信用度は最高値。
家康・秀忠父子も例外ではなく、伏見の邸宅に遊びに行く程だ。
大河ドラマの主人公にしていい程に、優良な人材である。
そんな隠れ名将が、
信長にとって、この作戦は絶対に成功させたい作戦だった。
そんな期待を背負わされても、この武将が考えているのは、
(伝説の宴会芸『海老すくい』を、完コピするチャンスやで)
面白いイベントが起きて、話のネタにできるかどうかの、一点だった。
「兵二千と鉄砲五百丁を預けます」
堀久太郎が、預ける幹部クラスの名簿を手渡す。
「酒井さんとこの兵力は?」
「二千です」
「鉄砲は?」
「三百は、あるかと」
「引き抜き過ぎな気もするが…」
金森
秘書でも、今現在のピリピリした信長に意見して再考を促すのは、覚悟がいる。
さりとて、この隠れ名将の意見は、確実に戦況に影響する。
「金森殿の仰せなら、言上致しますが?」
金森
「いや、これでええわ。退路を断ってトドメを刺す所まで考えたら、確かに鉄砲はこれだけ必要や。
よし、これで結構。
行って来るで」
金森
酒井忠次の方は、既に出撃の準備を終えていた。
軍議で信長に却下されても、構わず奇襲の準備を整えていた。
(軍議での却下は、芝居と見抜いていたのか。怖いなあ〜)
やや緊張しながら酒井忠次を訪ねると、酒井忠次の方は笑顔で大歓迎してくれた。
「有り難い! これで勝ったも同然!」
「それは言い過ぎでんがな」
「想定よりも無茶が出来そうで、嬉しい」
「酒井さんの無茶基準に、わてまで巻き込まんといて。主命だから逆らえないけど!」
「金森殿を好きに使える機会など、二度とないでしょうから、諦めて使われてくだされ」
「そら主命やからね。けど、出発前に、確認するで」
長篠城周辺に配置された武田の兵力は、三千。
酒井忠次と金森可近の兵力は、合わせて四千。
普通に考えると勝てる奇襲作戦だが、一つ大きな問題がある。
武田の本隊が、
「奇襲のタイミングは、武田の本隊が決戦に出撃してからで、ええでっか?」
「明日の夜明け頃に、武田は設楽原で決戦に及ぶと見ておる。此方も、夜明けと同時に奇襲を始めれば、鉢合わせせずに済む」
「武田が、日の出の後に朝飯を食ってから出撃したら、どないされます?」
冷やかしではなく、有り得る戦況予測を、確認しておく。
即席で連合を組む部隊同士である。
その場で最悪の事態を、今の段階で整えておく。
「その時は、そのまま武田勝頼を討ち取りましょう」
「きっつい修羅場やなあ。酒井はんの隣で、楽でけると思うて来たのに」
「金森殿は、無欲ですなあ。武田を殲滅する手柄が、目前に転がっているのに」
金森は苦笑しながら、もう一つの場合も確認する。
「長篠城周辺を押さえている最中に、武田の本隊が救援に戻ってきたら、どないします?」
「武田勝頼は、救援に兵力を割かずに、見捨てると考えている」
「断言できますか?」
「彼奴は、決戦で織田信長を討ち取る事に賭けている。敗北した味方の救出には、興味がない」
落ち目の武田を救う為に、ハイリスク・ハイリターンを取る。
その退路がない有様を、武田勝頼は見透かされていた。
「終わっとりますな、武田」
戦場での乾坤一擲に賭けて、滅びた武家を長年見てきた金森可近は、今回の勝ち戦を疑っていない。
そこまで同意した段階で、この奇襲作戦の落とし所を確認する。
「うむ、大勢は、もう決まってますな。この小細工の主旨は、長篠城周辺を押さえて、明日の昼過ぎに撤退してくる武田勝頼を討つ。で、宜しいでんな?」
そのややくどい確認の意味を、酒井忠次は理解している。
だから口に出さずに頷いた。
だが、酒井忠次の傍に控えて両将の会話を聞いていた武将は、堪らずに口を出した。
「長篠城が、明日の朝までに落ちていた場合は、話さないのか?」
長篠城までの案内役を務める奥平
「俺が武田なら、決戦前には、必ず長篠城を落とすはずだ」
嫡男を案じて焦れる定能の心中を慮るも、持ち出された以上は、向き合うしかない。
(洒落抜きでは、キツい話題やなあ)
金森可近は、言葉を選んで、静かにその話題に対する。
「今からこの軍勢で長篠城に駆けつければ、救助に間に合う確率は上がりますなあ。武田の目を迂回しながら、夜の山道を行軍しても、
性急に奇襲作戦を進めた場合のメリットを提示しておいてから、金森はデメリットを明言する。
「しかし、そのタイミングやと、長篠城周辺には、武田の本隊が押し掛けるよって、朝までには助けた長篠城の連中と一緒に、ボロカスにやられてお終いでんな。
武田は兵力を減らしますが、後方を気にせずに決戦に臨めるようになる。織田・徳川の勝利は確実やけど、撤退された時に、だいぶ討ち漏らしますな」
奥平定能が、項垂れる。
「分かった。よく分かった。朝まで倅が持ち堪えていると信じて、目的地手前で、朝直前まで待機する」
奥平定能が、己に言い聞かせるように、口に出す。
(この御仁、わてらを直接、
金森は、信長の軍略にも平気でアレンジを加えようとする奥平定能の危なさに、肝を冷やす。
「わしは、早めに奇襲を成功させても、構わないがな」
酒井忠次が、むしろその方が良さそうな感想を述べるので、金森は信長に派遣された意味をより深く理解する。
(こらあ、よく見張っておかんと、色々とやり過ぎるコンビや。下手すると、設楽原に進まずに逃げてまうで、武田)
織田信長の獲物を横取りされない為の、監視役だった。
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