第18話 儀式

「喰え。お前が豚なら胡瓜ぐらい喰えるはずだ」


 僕は豚じゃない。

 それと胡瓜だけはどうしても無理なんだ。


「何故こんな物も喰えないのか?その無駄に肥えた身体は伊達なのか?」


 目の奥が熱くなり視界が歪んでくる。

 しかし、ここで涙を流したら俺は、俺は、俺は…


「胡瓜を喰え!」


 烈堂の一喝に僕の睾丸は一瞬にして縮み上がる。

 胡瓜の浅漬けを食べないと…

 まるで腕で貧乏揺すりをしているのかというぐらい、箸を持つ手が震えている。

 腕に力を入れ、震えないようにすればするほど手が震えている気がするのだが、僕はやっとの思いで胡瓜の浅漬けを箸で掴む。

 そしてこの胡瓜を口へ運ばなくてはならない。


 嫌だ、嫌だ…

 胡瓜は嫌だ!


「胡瓜を喰え!」


 烈堂の気迫に押され、僕は胡瓜の浅漬けを一気に口の中へ頬張る。


「飲み込まずに味わってから喰うのだ」


 即飲み込もうとしたところを先回りされた。

 口の中に入れただけで胡瓜の嫌な風味が広がり、えずきそうなのに味わえと言うのか⁉︎

 僕には無理だ!


「何をグズグズしているのだ⁉︎

噛め!100回噛んで味わえ!」


 烈堂に圧倒され思わず胡瓜を噛んだ。

 その刹那、嫌な酸味のある熱い物が一気に喉の奥にまで迫り来る。

 ダメだ、ダメだ、ここで吐いたらダメだ!


 リバースしそうだっ!



「うっ、

うっ、

うっ、ぼうぇ、ぼぅえぇぇぇ〜〜〜っ」



 胃の中にあるもの、全てが逆流する。


「情けない男だ。この前は糞を漏らし、今度はゲロを吐くのか」


 烈堂が吐き捨てるかのように言った。

 あぁ、僕はゲロを吐いてしまった。

 豪快に大量のゲロを吐いた…


 母は慌てふためき食卓を離れ、烈堂は冷たく刺すような視線で僕を見据える。


「明日からお前の食事は全て胡瓜のみに決定だ」


 え?胡瓜のみ?そんなの無理だよ…


「わかったら消え失せろ」


 僕は言われるがままに立ち上がり、食卓を離れ部屋へと戻る。

 僕は今、決心した。


 もう、こんな家出ていってやる…


 今、烈堂が本当の父ではないと確信が持てた。

 本当の父なら、嫌いな物を無理矢理に食べさせたりしないだろうし、何よりもあんなことは言わないはずだ。

 やっぱり僕の本当の父さんは烈堂ではなく、あのコマをくれた昭和の二枚目俳優風の人だ。

 なんでもっと早く思い出さなかったのだろう。


 ゲロを吐いて気分が悪いはずなのに何かが違う。

 ゲロと一緒に心の奥底にある引っかかりが取れたような気がする。


 そうだ…、僕にはゲロに関する何かがあるような気がする。

 その何かは、朧げではっきりとした形の無いものだが、多分記憶だと思う。

 僕は今、本当の父さんの記憶と同様に、まだ失われた記憶があるんじゃないかと感じている。

 例えるなら、それは肛門から出そうで出てこない糞のようなものだ。

 俺はこれからそれを探しに行く。


 俺は部屋の押し入れの襖を開け中へと入る。

 結局、ダンキンドーナツ跡地で見つけたコマを持ってきたのだが、それと同じ物が部屋にあれば、あの記憶が本物であると確証が持てる。

 コマが見つかるといいのだが…


 押し入れの中にある物を全て取り出し、箱や鞄など中に収納出来る物の中身から何から何まで調べる。


 しかしコマは出てこなかった…


 あの記憶は何だったのだろう。

 口の中が渇いて苦い。

 それはさっきリバースして身体の水分が失われたせいか、それとも失望したせいか。

 押し入れから取り出した物を元に戻す為、押し入れ内に潜り込む。


「え?」


 俺は自分の目に映った物に驚愕する。


「あった!

やっぱりあの記憶は本物だったのか!」


 コマは押し入れの奥の端にあった。

 かなりの埃を被っていて長い年月、闇の中で俺に見つけられるのを待ち続けていたかのようだ。

 押し入れの中から出て、灯りの下でコマに付いた埃を払う。

 ダンキンドーナツの枯れ木の下で見つけた物と同じだ!

 いや、喜ぶのはまだ早い。とりあえず見比べてみよう。

 俺は外出用の斜め掛け鞄から拾ったコマを取り出し、部屋にあったコマと見比べる。


 寸分違わず同じ物だ。

 大きさと材質から色、重さまで全て一致している。

 これで確信が持てた。あの記憶は本物なのだ!


 何か軋むような音がした。

 押し入れから探し出した方のコマが何か変色している。

 変色では無い、透き通っていくように見える。

 これは何だ⁉︎

 コマはゆっくりとだが、目に見える速さで透き通っていく。

 コマは半透明から透明へと変り、まるでガラス細工の様になり、コマ越しに俺の手の平が見える…

 完全な透明へと変わった時、弾けるような音と共にコマは砕け散った。


 驚愕、まさに驚愕ってやつだ。

 コマが透明になり砕け散った。

 しかも砕け散ったのに破片さえも残っていない。

 そんなことはあり得ない。

 俺は床を観察し手の平で触ってみるのだが、破片らしき物は無い、何も無い…

 俺のコマは完全に消え失せた。これは夢か現実か?

 わからない。


 俺は残った方のコマを手に取り、軸を摘み指で捻って回転させる。

 コマは次第に回転を弱め、不安定な動きをした後に倒れた。

 このコマも透明になり消えるのではないかと眺めているのだが、このコマはそのまま存在し続けている。



 シャツとズボンがゲロと埃にまみれ、酷いことになっていた。

 ゲロ特有の嫌な臭気まで放っている。

 俺はシャツとズボンを脱ぐ。

幸いなことに白ブリーフはゲロの被害を免れていたのだがな…、敢えて白ブリーフを脱ぎ捨てる。


 俺は今、全裸に靴下のみだ。

 風呂場の脱衣所で靴下を脱ぎ忘れ、先にパンツを脱いだ時のなんとも言えない気分…、無意識のうちに自らしてしまった羞恥プレイのような気分。

 それを今、俺は敢えてしたのだ。

 これは俺の新たな旅立ちの儀式。

 俺はここで新品の白ブリーフを着用する。


 タンスの中にストックしてある、新品の白ブリーフを取り出す。

 ビニール袋の封を開け、中に入っているうちの一枚を取り出しそれを広げる。


「よし!」


 白ブリーフに右足を通し、続いて左足を通す。

 そして白ブリーフの腰にくるゴムの辺りを掴み、一気に引き上げる。

 新品は穿き慣らした物に比べたら硬く、フィット感もいまいちなのだが、それもそれで良いものだ。


 俺は服を着て、鞄に着替え等、生活必需品を詰めていく。

 本当の父からもらった物と同型のコマも忘れずに鞄へ入れる。


 烈堂と母が寝静まった頃合いを見計らって俺は玄関へ行く。

 そして、そっとドアを開け外に出る。


 外は一面の銀世界だった。

 11月末にしては早すぎる初雪、しかし俺の新たな旅立ちには悪くない。


「こんな家、出ていってやる」


 これは俺の失われた記憶探しの旅だ。

 無くしたものを見つけ出すまでは帰らない。


 さらば所沢、ADDIO,所沢

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