昨今の校庭事情
草村 悠真
昨今の校庭事情
窓際の席に座っている男子生徒が 「犬だ!」と窓の外を指差して声を上げた。
窓際の他の生徒も体ごと窓の方を向いて 「ホントだ!」、「大きい!」などと騒ぎ始める。その声につられるようにして、教室内の人口密度は窓際に偏った。
私も窓から校庭を見下ろすと、確かに一匹の犬がとぼとぼと校舎に向かって歩いて来ている。
白い毛が黄ばんだのか、元からそういう色なのか判断がつかないが、とにかく汚れた印象を与える犬だった。野生の犬だと私の脳は瞬時に思い至ったが、生徒たちは違うようだ。「誰の犬だろう」と疑問の声を上げている。犬は人間が飼う生き物だという認識しかないのだろう。それが現代を生きる子供の発想だ。それが悪いことだと思わない。ただ、教師という自分の立場を鑑みれば、教科書の内容を説くよりもそういった誤解を解いてやる方がずっと子供たちのためになると思う。
「静かに。落ち着いて」ひとまず私は授業を再開するために生徒の注意を犬から引き離しにかかる。「ウイルスを持っている可能性があるので絶対に窓を開けないように」
この教室は2階なので、もしかしたら校庭からジャンプして飛び込んで来る可能性がある。まさかとは思うが、警戒するに越したことはない。だが私は動揺していた。いや、校庭に犬が入ってくるという小さな非日常に、私の気持ちも浮き足立っていたのかもしれない。本来なら、ここで犬の危険性をしっかりと説明するべきだったのだ。頭ごなしに席に着くように言ったところで、生徒が素直に従うわけがないのだから。むしろ、ここぞとばかりに私の言う事に反抗し、窓に張り付いて離れようとしない。
この時間の授業を持っていない他の先生だろうか。一人の男性が校舎から出て来て、犬に近づいていく。男も犬も歩みは遅く、互いにゆっくりと距離を詰めていく。距離が縮まると、男は両手を広げ、犬を捕捉する意思を示した。犬が左右のどちらに動いても対応できるように構えていたのだろう。しかし、それは間違いだった。
跳んだのだ。
犬は男の頭上を越えて、足にバネでも仕込まれているのかと疑いたくなるほどの高度まで跳んだ。
私の認識違いを改めなければならない。校庭に入って来た犬を見て、ただの野生の犬だと決思い込んでしまった私が悪かったのだ。現代において、校庭にただの野生の犬が入ってくるわけなどないのだから。いつまでも古い常識に囚われている私の責任だ。
犬はそのまま教室に向かって空中から一直線に向かって来た。
私の注意を聞かずに、あるいは聞いた上で逆らっていた生徒が開けていた窓から犬が侵入した。
教室は一層騒がしくなる。
興奮の喧騒はほとんどが悲鳴となった。机や椅子を押しのけ、生徒たちは一斉に犬から少しでも距離を置こうと逃げ惑う。
私は急いで教卓の天板の裏を手で探る。手の平で撫でると、隅の突起に当たった。
これだ、とその突起、つまりボタンを押した。
教室は一瞬で静かになり、生徒たちの姿も消えた。
乱れた教室に私と犬。
犬の動きに注意を払いながらゆっくりと廊下へ続くドアへ足を動かす。
視界で何かが動いた、と思ったら、犬が机の上に乗っていた。
私と犬の間に障害物がなくなる。
私は犬と目を合わせたまま、できるだけ音を立てず、動きも小さく、すり足で移動。
ガムでも噛んでいるかのように、犬は顎を動かしている。
そっと腕を伸ばし、教室の扉に手をかける。
その手を引くと、アルミサッシの上を扉が滑る。
その瞬間。
がたんと机が倒れた。
犬が机を蹴飛ばして私の胸に飛び込んでくるように向かって来た。
駄目だ。
すぐにそう判断して、私はログアウトした。
私が半開きにした扉から犬は廊下に出たかもしれない。
申し訳ないが、他の先生に対応してもらおう。私よりずっと若い先生ばかりだが、オンラインスクールという性質上、ああいう侵入者への対応は、今の世代の先生の方が詳しい。
生徒の強制ログアウト及び自身の無断ログアウト。
対応としては思考停止に等しい。
非難されるだろう。私よりも若い他の教師陣に。
もう辞めどきかもしれない。
それにしても、犬の姿を模した侵入者は初めてだった。
校庭に入って来た犬にはしゃいだ子供時代を経験したのだろうか。
どこの誰だか知らないが、あのサイバーテロリストは私と同年代かもしれない。
私はログアウトしているにも関わらずゴーグルも外さず、ソファに座ったまま目を閉じる。
今の世界は虚しい。教師という職業の、なんと前時代的なことか。
昨今の校庭事情 草村 悠真 @yuma_kusamura
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます