見つかりますよね!(傘)

 玄関を開けると、ずぶ濡れの三原みはらかえでが立っていた。その顔は泣いているように見えたが、それは誤解だろう。単に雨水が前髪から伝って頬まで流れているだけだ。少なくとも、片塰かたあま叶花かなかはそう認識した。

「ずぶ濡れじゃない」

 珍しく楓が何も言わないので、叶花は仕方なく見たままの状況を言葉にした。

「ずぶ濡れです。ずぶ濡れのずぶずぶです」

「可哀想に……」叶花は意識的に優しい声を出した。

「可哀想です。慰めてください」楓が涙声でこちらを見上げる。

「ついに傘の使い方すらわからなくなったのね」

「違います! コンビニで傘を盗まれたんですよ!」

「あそう。とりあえずタオル持ってくるから——」

 叶花は玄関に背を向けて洗面所にタオルを取りに行こうとした。

「うえーえぇ」叶花の耳元で楓の泣きつく声。

「えっ?」なぜこんな耳元で、と思って振り向こうとしたが、遅かった。すでに背中に楓が抱きついていて、腕は叶花の腰に回されている。「ちょっと、やめてよ、そんなびしょ濡れで。私の服まで濡れるじゃない」

「うー、一緒に濡れてください。お気に入りの傘だったんです。ショックなんです」

「どうしてあなたのお気に入りの傘が盗まれたら私が濡れなきゃいけないのよ」叶花はどうにか楓を振り解こうとするも、日頃の運動不足が祟ってか、それとも単に楓の力が強いだけなのか、成果は見込めなかった。「だいたい、盗まれたのに気づいた時に電話かメールでもくれればコンビニまで迎えに行ったのに」

「嘘です。引きこもり叶花ちゃんがこんなジメジメな雨の日に外に出るわけないです。絶対あっそうの一言で済ませて何もしてくれませんでした」

「そんなこと……、なく、なくも、ない、かもしれないわよ」

「なく、なくも? えっと……、結局かもしれないじゃないですか! そこはせめて断言してくれないと困ります!」

 楓が背中に顔を擦り付けているのを感じる。どうやら感情表現のついでに濡れた頭を叶花の服で拭いているようだ。勘弁してほしい。

「とりあえず、シャワー浴びて来なさいよ。文句ならその後にいくらでも聞いてあげるから」

「うわーあ、わかりました」悲哀とも歓喜とも取れる声を上げつつも、楓の腕が叶花から離れる。そしてとぼとぼと洗面所へ歩いて行った。

「妙に素直なのよね」叶花は独り言を呟きつつ、楓の濡れた靴下が作った廊下の足跡を見ながら溜息を吐いた。

 濡らされた服を着替えてから廊下の掃除を済ませ、楓のタオルと着替えを用意する。一通りの作業を終えて、叶花はリビングのソファに戻った。座った途端に疲れを自覚して、もう動く気になれなくなった。

「見つけてください!」その声は、リビングと廊下を隔てるドアを勢いよく開け放つ音と同時に、叶花の耳に届いた。

「えっ?」声と音に若干驚きつつ、そちらへ目をやると、叶花が用意した服をまとい、髪を湿らせた楓が立っていた。「ああ、ドライヤーね。洗面台の右側の引き出しの——」

「違います! ドライヤーじゃなくて、傘を見つけてください」

「ああ、自然乾燥主義なのね」

「もう! だからドライヤーの話じゃなくて、もしかして叶花ちゃん、面倒臭そうだからわざと話を逸らしてません? コンビニで盗まれた傘を見つけてください」

「無茶言わないで……」

「お気に入りの傘だったんです……」その声で楓が落ち込んでいることは判る。

 とはいえ、大勢が利用するコンビニで盗まれた傘を見つけ出すなんて真似はできない。仮に監視カメラの映像を見ることができたとしても、傘立ては外に置いてあるため、盗んだ犯人を見つけられるとも限らない。

「あなたがあの傘を気に入ってたのは知ってるけど……。あのピンク色のやつでしょう?」

「そうです。よく知ってますね。楓ちゃん博士ですね」

「いや、そりゃあ雨の日でも関係なく毎日遊びに来るんだもの。どんな傘を使ってるかくらい覚えるわよ。それにピンク色って目立つし」

「そうなんです! だから盗まれたんですよ。他にピンク色の傘はなかったんですから、誰かが間違ったなんてあり得ないんです」

「おお、珍しく論理的。確かに、誰かが間違えて持って帰ったなら、その人のピンク色の傘が残ってないと不自然なのよね」

「え? ああ、はい。そうですよね!」

「ごめん。あなたが論理的なんてあり得なかったわね。いつも通り直感的でいい感じよ」

「褒められました!」

「そうそうその調子」叶花は天井を仰いで後頭部をソファの背もたれの上部に載せる。「つまり、意図的に、狙ってあなたの傘を盗んだ。そんなに魅力的な傘だったのかしら」

「魅力的ですけど、コンビニで盗みますか? 盗むならお店で新品を盗みません?」

「それは犯罪になるじゃない」

「これも犯罪です!」

「じゃあ警察に届け出るとか」

「そんなの相手にされないに決まってます」

「相手にしたくないのは私も同じなんだけど……。あっ」思いついて叶花は首を動かして楓に顔を向ける。「今日の雨って、いつから降ってるの?」

「いつからって……」片手を顎に当てて楓は首を傾げる。「確か、朝起きた時には降ってましたかね。夜は降ってなかったから、寝てる間に降り始めたんだと思います」

「ふうん」叶花は視線を何もない壁へ向ける。

「えっと、それがどうかしましたか? というか、どうして雨がいつから降ってるか聞くんですか。それくらいわかりません? 叶花ちゃん、もっと外見てくださいよ」

「なるほどね」叶花はソファの肘おきに片肘をついて視線を斜めに、リビングの窓へ向けた。

「ああ、いや、そういう意味じゃなくて、もっと外の世界をっていう——」

「雨が降っていれば、傘を持って家を出る。傘を持っていれば、他の人の傘を盗む必要はない。つまり、犯人は傘を持っていなかった」

「えっと、ああ、はい、そうなりますね」

「でも、雨は朝から降っていた。コンビニに何時間もいるような人でないと、傘を持たずにコンビニに行くなんてことはない。ということは——」

「店員さん!」楓が声を上げ、叶花はそちらへ目線を移す。「もしかして、コンビニの店員さんが盗んだんですか?」

「盗まれたとするなら、その可能性が高いと思うけど、どう?」

「ええと、つまり、夜中のバイトが仕事を終えて帰ろうとしたけど雨が降ってる。でも傘はない。それで傘立てから適当に取って帰ったってことですか?」

「多分、適当じゃないと思う。意図的に、あなたのピンク色の傘を選んだ」

「えっ、どうして。どうしてですか! 嫌がらせですか! 雨に濡れないようにするだけなら安そうなオンボロビニール傘にすればいいじゃないですか」

「ビニール傘は、違いが分かりにくいでしょう」

「違い? 何の違いですか?」

「あなた、他にピンクの傘がなかったから間違いじゃなくて盗まれたんだって判断したんでしょう。逆に、あなたがその傘じゃなくて何の変哲もないビニール傘を使っていたとしたら、どうしてた?」

「うーん、そうですね……」楓は腕を組んで首をひねる。「叶花ちゃんの言う通り、誰かが間違えて持って帰ったって考えると思います。あっ、でも自分も間違えて他のビニール傘を持って帰っちゃうかも」

「そう、それなのよ。もしもありきたりな傘を使って、その傘の持ち主がまた別の人の傘を間違って持って帰ると、さらに他の人に迷惑がかかるでしょう。だから、明らかに他とは違う傘を選んだのよ。負の連鎖が生まれないように」

「酷いです! 確かに言ってることは判りますけど、あんまりじゃないですか。人がその傘をどれだけ気に入ってるか知らないで」

「それはそうね。同情するわ」

「同情するなら傘をくれ!」

「いいわよ、適当に持って帰って。どうせ使わないし。帰りの傘、無いんでしょう」

「わあ、ありがとうございます。大事にしますね」

「気に入ってもらえるかは判らないけど」

「気に入ります気に入ります。どんな傘か知りませんけど、叶花ちゃんの傘ですもんね」

「私の傘だから何なの?」

「好きな人からもらったものを気に入らないわけないじゃないですか」何を当たり前のことを、とでも言いたげな顔で楓はこちらを見て小首を傾げた。

「まあ、うん……。そうよね」雨だというのに何だか眩しくて、叶花は楓の目を真っ直ぐに見れなかった。

 何にしても、楓がコンビニに行って直接確かめてくると言い出さなくて助かった。まあ、そのために傘をあげるわけなのだけれど。

 実際のところ、コンビニの店員が盗んだなんて、何の証拠もないただの推論だ。いや、推論だなんて格好良いものでもない。こじつけくらいが丁度いい。

 何はともあれ、落ち込んでいた楓が多少は元気を取り戻してくれたようで、叶花としてはようやく一仕事終えたという感じだ。

 シャワーを浴びさせて、自分も着替えて、廊下を掃除して、犯人探しをさせられて、傘をあげて。

 三原楓。彼女一人のために、一体どれだけの面倒を受けているだろうか。

 本当に、感情的で我儘で騒々しくて、存在が明るい。

 頭も体も疲れているのに、叶花は今を楽しいと感じていた。

 同時に、夏休みが終わると同時にこの楽しい日常も終わるという事実に、寂しさを覚えてしまった。

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