踏み切り
あべせい
踏み切り
西成増駅に最も近い、一方通行の踏み切りに、1台の乗用車がやって来た。
突然警報音が鳴り始める。まだ遮断機は降りていない。
車の運転席には、30才前後の女性。黒縁の眼鏡をかけ、シャレたセピア色の鍔広帽子を被っている。女性は、走りぬけようか、待つべきか、一瞬判断に迷う。
レールは上下線の4本だけだから、踏み切り幅は10メートルほどに過ぎない。スピードを出せば数秒足らずで渡りきれる。しかし、前方を見ると、すでに踏み切りを渡り終えた車が、立ち往生している。その先が渋滞しているようなのだ。
女性はやむなく、ハンドブレーキを引いて踏み切り手前で停止した。
と、警報音が、
「バッカ、バッカ、バッカ、バッカ、バッカ」
と鳴っているように聞こえる。
「なにがバカよ。バカなのはあいつじゃない。わたしを信用するからよ」
女性は、形のいいマユをヘの字に曲げる。
遮断機が降りて、踏み切りの前に、たちまち、歩行者をはじめ自転車に乗った主婦らの列ができていく。
と、女性の目がハッと大きくなった。知った顔があるのだ。
踏み切りに電車が来て、通過していく。すごい轟音だ。
女性は、助手席の窓を開け、小さくクラクションを鳴らした。しかし、電車の通過音にかき消される。
もう一度クラクションを鳴らす。こんどは力強く。
すると、電車が通過し終えたため、車のクラクションがひときわバカ高く、周囲に響いた。
立ち止まっている歩行者の群れが一斉に車のほうを振り向く。
その中の一人、ショルダーバッグを肩から吊るした女性が気がつき、車に駆け寄った。
車の女性は、「違う。あなたじゃないの!」と心のなかで叫ぶが、もう遅い。
「乗っていいの?」
ショルダーの女性が、開いている助手席の窓から言う。
警報音が止まり、遮断機が上がり始めた。
車の女性は仕方なく、頷いた。
歩行者や自転車が一斉に踏み切りを渡り始める。
ショルダーの女性は助手席のドアを開け、素早く乗った。
車の女性はハンドブレーキを解除すると、静かに車を発進させる。そして、その目は、踏み切りを渡っていく一人の歩行者を追っている。
彼がこの街にいた!
車の女性は考える。彼はブルゾンの紺色ジャンバーに、ジーンズをはいている。仕事中とは考えられない。
「季利子(きりこ)、どこに行くのよ」
季利子と呼ばれた車の女性は、慎重にハンドルを操作しながら、
「風子(ふうこ)、あなたこそ、こんなところで、なにしてたのよ」
風子は、それには答えないで、
「季利子、わたしたち、どれくらいぶり?」
「ちょっと、黙っててくれない」
季利子は、前を行く男を追うのに懸命なのだ。
「季利子、どこに行くつもりよ」
「あの男に聞いてよ」
「なに? なに言ってンの」
「わたし、あの男の行き先が知りたいの」
「男って?……」
風子は、季利子の視線の先を追った。
「あの、ジーンズをはいている男のひと……」
と、季利子。
風子は黙った。季利子が彼のことを知っているなんて。ウソでしょう……。
待って、よく考えてみよう。2人とも、児童用学習教材のセールスをしている。いまは支店が違ったけれど、去年の春までは、同じ東池袋支店にいて、池袋周辺をセールスしていた。そうか……なら、知っていて当然かも知れない。でも、ここは黙っていたほうがいいか。
「風子、どうしたの。突然静かになって……」
季利子が、助手席をチラッと見て不思議がる。
ジーンズの男は、踏み切りを渡りきると、駅前のタクシー乗り場を素通りして、まっすぐ国道のほうに向かう。
風子は、アレッと思う。タクシーで外車を見に行くと言っていたのに……。
「季利子、あのひとがどうかしたの? あなたの見込み客?」
そんなことはありえないのに、聞いてしまう。
風子には、求める答えが期待しない方向に行くような気がしてならない。
「わたし、もう学習教材のセールスはやってないの」
季利子は前を向いたまま、関心なさそうに答える。
「アッ、入った!」
風子は季利子のその声につられて、男を見る。
男は、あと少しで国道というところを左に曲がったかと思うと、角の喫茶店に入った。
「さっき、一緒にコーヒーを飲んだばかりなのに……」
風子の口から、溜め息のような声が出た。
季利子は、ようやく、昔の仲間の、心の中を覗いたような気がする。
「風子、あなた、あのひととつきあってンの?」
風子はそれには答えず、
「季利子、あなたのその帽子とコート、ショールと眼鏡を貸して。眼鏡はダテだったでしょッ」
「そッ、そうだけど。どうすンのよ」
季利子は、喫茶店のなかがガラス越しに見える車道の端に車を停めた。
「いいから、早く貸してよ」
そう言いながら、風子の目は喫茶店に入った男から、離れない。
数分後、風子は、季利子の黒縁の眼鏡をかけ、鍔広の帽子をかぶり、モスグリーンのコートとショールを借りて喫茶店に入っていった。
口元をショールで深く覆っている。
季利子は車の中から、そのようすをじっと見守る。
男は、窓越しに見られているとは全く気がつかないようすで、歩道際の窓からは最も遠い、壁際の席に腰掛けている。
男の前には、黄色いジャケットを着た女子大生風のキラキラした若い女がいる。お下げにした髪が、憎らしいほど似合っている。女が先に来て、彼を待っていたのだ。
男の名は、岬公示(みさきこうじ)。職業はデザイナー、年齢35才。しかし、どれもこれも、本当かどうかはわからない。
風子は、公示のテーブルの真後ろの席に腰掛け、男と背中合わせになっている。これだと2人の会話はよく聞こえているはずだ。
季利子は、昨年のいまごろ、池袋周辺のマンションを一軒一軒、絨毯セールスをしていたとき、公示と出会った。
あるマンションの廊下で、しくしく泣いている迷子の女の子がいたため、セールスで訪れていた季利子は気になり、「どうしたの?」と声を掛けた。
すると、女の子はそばを通りかかった男性を見つけて、「おじちゃん!」と言い、抱きついて行った。
その男性が岬公示だった。
女の子は、公示の隣の部屋にすむ子で、年齢は6才、越してきたばかりだったせいか階数を間違えたらしかった。
季利子は、公示と一緒に女の子の自宅の部屋を訪ね、母親に引き渡した。
それっきりになるのが当たり前の出会いだったが、季利子は女の子の母親にセールスして、1年分の学習教材を買ってもらった。それには公示が口添えしてくれたことが大きかった。
「お嬢さんが泣きべそをかいていたところを、この方が声をかけてくださったから、お嬢さんも気持ちが落ちついたのだと思いますよ」
公示は、女の子の母親にそう言って、季利子を紹介した。
季利子はその後すぐに公示の部屋を訪ね、お客さまを紹介していただけた方に贈る、千円相当の図書券を手渡した。
それがきっかけで、季利子は公示に入れ込んでいった。
優男風の甘いマスクに惚れたのだ。ところが、別れは突然やってきた。公示が仕事のミスで、友人でもある顧客に借りができた。季利子はお金を立て替えて欲しいと公示に言われ、30万円を貸した。
ところが、翌日、公示は突然いなくなった。
池袋のマンションから引っ越し、携帯も繋がらなくなった。わずか30万円のために、逃げたとは考えたくなかった。出会ってから、わずか1ヶ月足らずだった。
風子は、苛立っていた。真後ろにいる公示に、正体をさらして、どなりつけたい気分に襲われていた。
公示は、サキエという若い女とドライブの打ち合わせをしている。
「よしッ。決まりだ」
「そうね。わたし、車を出してくるから、外で待っていて」
女は伝票を持って、出ていく。
公示は、その後ろ姿をじっくり見送ってから立ちあがると、後ろにいる風子に上からチラッと視線を送り、喫茶店を出た。
風子は、30分ほど前に、公示から「酒気帯びで免停になった。罰金30万、持ち合わせがなくて、貸して欲しい」と言われ、貸したばかりだ。
「成増周辺は仕事仲間が多いから見られたくない」と言うから、喫茶店を出たあとは互いに素知らぬふりして別れたのだが、何が「見られたくない」だ。若い女に見られたくなかった、だけじゃないか。
風子は、この男をどうしてくれるか、と思う。いくら変装しているといっても、わたしをチラ見しても気がつかない、なんてッ。わたしのプライドは、もォ、ズタズタだ。
風子は思い出す。公示と出会ったときのことをだ。
セキュリティロックのないマンションにセールスに行ったとき、玄関付近で、4才くらいの娘と仲良く遊んでいる父親を見つけた。これは、教材を売りつけるのに、格好のターゲット。うちの会社は幼児教育から、中学3年の受験教材までを幅広く扱っているから、息長くつきあってもらえる。
風子が声をかけようとすると、年若い主婦が外から帰ってきたらしく、女の子の名前を呼んだ。
「あッ、ママ!」
女の子はすぐに母親に駆け寄った。
「すいません。いつもお相手をしていただいて」
主婦は恐縮して、男に頭を下げる。その男が公示だった。
「ぼくもきょうは仕事が休みで、退屈していたンです」
「5分ほどですむと思っていたら、近所の奥さんにつかまって……。すいません。これで3度目ですよね。どちらにおすまいですか?」
「ぼくは、9階の906号室の岬公示です」
「岬さん。906号……」
主婦は、公示の、微笑を絶やさない甘いマスクをじっと見つめている。
「岬さん、お子さまは?」
「できませんでした……」
「できなかった?……」
「はい、先立たれてしまって……」
「失礼しました。ごめんなさい」
主婦は、ポッと顔を赤らめて下を向く。
「いずれ、お礼をさせてください」
「とんでもない。では、失礼します」
公示はそう言うと、すぐにエレベータに乗って消えた。
主婦は、娘を連れて、奥に行く。1階に居住しているようだ。
風子は、公示に後ろ髪引かれる思いをしながらも主婦を追った。セールスしなきゃ。
しかし、主婦を捕まえ、学習教材の説明を始めると、「この前もお宅のセールスが来たが、お断りしました」と言い、セールスは空振りに終わった。
風子はその近くを5、6軒セールスしたが、いずれも同じ反応が返ってきた。会社の同僚のだれかが、一帯をしつこくセールスをしたらしいのだ。
風子は、部屋番号を聞いたときから、すでにそのつもりになっていた、906号室に向かった。
公示の見た目は年齢30代半ば。男やもめで、子どもナシ。風子には、これ以上の条件はいらない。
風子は33才独身。結婚願望は強過ぎるほどにある。
906号のインターホンを押し、「お子さまの学習のお手伝いにまいりました」と言ったところ、公示はすぐにドアを開け、話を聞いてくれた。
公示は「子どもは欲しいけれど、いません」と言ったが、それで引き下がるくらいなら、来た意味はない。
風子は「それにはうってつけの教材がございます。子育てにお悩みのご両親がふえていることから、弊社では、育児教材というものをご用意しております」
ウソではないが、いま開発中のもので、発売は未定だ。しかし、風子は「将来のためにご検討なさる方も多いですよ」と言って、公示をグイッと舐めるように見た。
公示は、微笑を返す。反応は悪くない。風子は、営業用の名刺を手渡し、
「お考えがまとまりましたら、ご一報ください。いつでも飛んでまいりますッ!」
そう言って、公示の部屋番号とマンションの住所をメモした。
それっきりになると思っていた。
いくら好男子でも、相手の素性はわからないのだ。2日3日とたつうちに、どうでもよくなった。会社にだって、いい男はいる。そっちのほうから飲みに誘われグループでバカっぱなしする日が続き、公示のことはすっかり忘れていた。
20日ほどもたったろうか。いきなり、営業用の携帯に公示から電話がかかった。
「引っ越したから」と言い、会社の近くまで来ているから、コーヒーでも、と誘われたのだ。
ちょうどセールスに出かけようとしていたから、風子に断る理由なンか、あるわけがない。
たちまち個人的な関係に発展した。それが、先月初めのこと。で、きょうが3度目のデートだった。なのに「罰金」を信じて30万円を貸してしまった。
「こいつは詐欺シだ」
風子は、女が運転して来た「わ」ナンバーの車に近寄る公示のそばまで行くと、そうつぶやいた。
しかし、車のエンジンにかき消されたのか、公示は振りかえりもせずに、背中を向けたまま、女と入れ替わって車の運転席へ。
あんた、90日の免停でしょッ! 風子はその車を蹴飛ばしたい衝動に駆られた。
女の車が出ると、すぐそのあとに、季利子の車が来た。
風子は助手席に飛び乗る。風子と季利子の思いは同じだ。
女と公示を乗せた車は踏み切りに差しかかる。
さきほどは西成増駅の東側の踏みきりだったが、こんどは西側だ。こちらも一方通行になっている。
警報音が鳴り始める。
公示は車のアクセルをふかし、構わずに踏み切りに進入した。その後ろにいた季利子は、遮断機を見つめたまま、ためらう。
「いィや、いけ!」
季利子はつぶやいた。ここで見失ったら、あいつに2度と会えなくなるかもしれない。
しかし、
「ダメよ。ダメダメ!」
風子がそう言って助手席からサイドブレーキを掴んで強く引いた。
こんなとき、芸人の流行語をマネしている場合じゃないだろうが。
季利子は、キッと風子を見た。
遮断機が降りてきて、警報音がさらに大きく響く。その音は「イケッ、イケッ、イケッ、イケッ、イケッ!……」だ。
「警報音も『行けッ!』って、言ってるじゃない! もォ!」
季利子はキレた。
ところが、
「あいつらの行き先はわかってンの。この耳で聞いたンだから」
「そォ……」
季利子はあっさりと納得した。
公示と女は、「池袋のラブオン」と言ったのだ。
池袋周辺で駐車場を備えている、数少ないその種の施設だ。
季利子も風子も、ラブオンと聞くと、むずがゆくなる。公示が、出会った女と最初に使うところなのだろう。
2度目は、巣鴨の「バラライカ」、3度目は……風子にも季利子にもなかったから、わからない。そんことはどうでもいい。
遮断機が完全に降りて、公示の運転する車は、うまく渡りきった。
風子が、季利子に言う。
「あなた、公示に何されたのよ?」
電車がやってきて、通過していく。
季利子は、助手席の風子をチラッとみて考える。
この女は、わたしより3つも上だ。自分じゃ高島礼子に似ていると言われる、なんて自慢しているけど、ぽっちゃりを通り越して、もうすぐデブの仲間入りだ。
風子は、捨てられて当たり前。わたしは、捨てられたわけじゃない。何かの行き違いで会えなくなっただけ。
「お金を用立てたのよ」
「いくら?」
「30万」
「だったら、わたしと同じじゃない」
警報音が、「ドコガッ、ドコガッ、ドコガッ、ドコガッ」に変わった。
風子と同じには見られたくない。季利子は反撃する。
「あなた、わたしに気付くまで、公示と一緒に歩いてたでしょ」
風子、痛いところを突かれて、
「あれは……」
押し黙る。
季利子は、風子が哀れになる。あんな男に惚れたばかりに。幸い、わたしは風子ほど入れ込む前に、公示はいなくなった。
おかげで、わたしはセールスをやめて、男を利用することを学んだ。ただし、大金はダメだ。恨みが残らない程度の額。多くて一度に10万円。
全て出させるデート代は別だが、弟が入院した、兄がヤクザにからまれた、母が骨折した、など思いつく限りのウソを並べたて、お金を出させる。
最初から、自分の本当の住まいは絶対に教えない。総額で30万円に達した男とは、すぐに手を切る。携帯を変え、髪型、眼鏡を変える。公示を見習ったのだ。わたしに近付く男はバカだ。
国産車のディーラーで受付け嬢をしていると、近付いてくる男は、いくらもいる。妻帯者のほうが、あとあと扱いやすい。やばくなったら、「親が倒れ、急に介護が必要になった」と言って職場を変える。
電車は下りの各停に続いて上りの各停が通過したあと、急行と特急が続き、遮断機が上がる気配がない。
きょうの男は独身だったから、少し厄介だった。妊娠したと言ったら、結婚しよう、と言う。役所勤めで、誠実、見かけもいい男だったが、結婚なンて冗談じゃない。まだまだ、したいことがヤマのようにある。なんで男と2人で暮らさなきゃいけない。
で、これから妹を病院に見舞いに行くからと言って30万を借りてきた。もォ、あの男はよそう。名前は「片品一喜」。どうして、会う気もない男の名前を覚えているンだろう。
すると、警報音が、「スキッ、スキッ、スキッ、スキッ、スキッ」と聞こえる。
バカなッ。季利子の頭の中を、片品の誠実そうな笑顔がよぎる。片品の手が、季利子の胸に触れそうになる。わたしは、何を考えているンだッ。
「季利子、遮断機が上がったわよ」
見ると、人と自転車がぞろぞろと踏み切りを渡っていく。
「わかっているわよ。歩行者を先にやらないと、危ないでしょ」
季利子は、甘ったるい夢想を破られて腹が立った。
池袋に向かって国道に出る。相変わらずの渋滞だ。公示と女の車は、まだ見えない。相当、先を走っているのだろう。
「風子、もうやめようか」
季利子がぽつりと言う。
「エッ、なに?」
風子は耳を疑う。
「だから、あの男の後をつけて行って、どうするの?」
「決まっているじゃない。お金を返してもらうのよ」
「風子はヨリを戻したいだけじゃないの」
「な、なに言ってンの。あんな男……」
「ラブオンの前で、2人が出てくるのを待つつもり?」
風子は黙る。そんなマの抜けたことは出来ない。したくないッ!
「季利子、裏道を行こォ。次の角を右に入って!」
風子は有無を言わせぬ強い調子で命じた。
ラブオンには行かせない。阻止してやるッ!
季利子は、風子が指図するままに車を走らせる。
道幅は4メートル弱と狭いが、その分車の通行量は少ない。信号も少なく、この分では、公示の車を追い抜くかもしれない……と呑気なことを考えていると、目の前にまたまた踏み切りが現れた。
遮断機が降りていて、警報音が鳴っている。
よく見ると、
「なに、あれッ!」
風子が遮断機のすぐ前に停まっている車を指差す。
季利子の車の前に車2台を挟み、公示の運転する車が遮断機のすぐ手前にいる。
風子はいきなり、ドアを開け車から降りた。
「なに、すンの!」
季利子は窓を開け、叫んだ。
しかし、風子は、季利子を無視して、公示の車まで駆けていく行く。そして、車のなかを見て、アレッという反応をするやいなや、なんと助手席のドアを開け、公示の車に乗った。
季利子は自分の目を疑う。
助手席には、若い女子大生がいるはず。風子が乗れるわけがない。それなのに、どうして?……。
運転席を離れて、確かめるべきか。季利子は迷う。
すると警報音が、「ヤメッ、ヤメッ、ヤメッ、ヤメッ」に変わった。そんな気がする。
しかし、季利子はドアを開けて外に出た。
と、警報音がやみ、遮断機が上がり始める。
季利子の車の後ろにも、車が数台続いている。
「もォ!」
季利子は運転席に戻り、前の車に続いて車を発進させた。
公示の車はゆっくりと踏み切りを渡って行く。
季利子は予想する。ラブオンに行くには、国道側に行かなければならないから、もう一度踏み切りがある。そのとき、ケリをつけよう。風子が、例え何をしていようと。それまでは見失ってはいけない。季利子は、慎重に公示の車についていった。
やがて、公示の車のあとに続いていた車が1台消え、2台目も消えた。
公示の車のすぐ後になったため、季利子は公示の車の中を見た。後ろからだが、運転席のようすは、その後ろ姿で想像はつく。
公示がいないッ。いないのだ!
季利子は、無理を承知で、公示の車の前に回ろうとして、追い越しをかけた。道幅4メートルに満たない狭さを忘れていた。
「ギガッ、ガガッー!」
いやな音が鳴ったが季利子は、構わずアクセルを踏み続ける。
車体が右のブロック塀をこすり続けていることは、承知のうえだ。
公示の車は停止している。
季利子の車が、公示の車の前をふさぐように停止。
季利子は、鬼の形相で車から降りると、公示の車の運転席に近寄り、ドアの取っ手を強く引いた。
「あんた、だれよ! 公示は!」
季利子が、開いたドアの中に向かって叫ぶ。
すると風子が助手席から哀れみの顔を覗かせて、
「このひともやられたンだって。60万円」
「60万も……」
季利子は、髪をお下げにした女子大生が途端に、かわいくなった。
風子が車内で聞いたところによると、女性は美大の4年生で、名前は三隅咲依(みすみさきえ)。
公示は、尾行している季利子の車に気がつき、咲依にこう言った。
「後ろから来る車は、借金取りだ。認知症の母の治療代に、危ないとわかっていたが暴力団がらみのお金を借りて、きょうがその返済期限であることをうっかり忘れていた。すぐに振り込まないと、何をされるかわからない。後ろの車は、おれが遠くへ逃げないように、一日監視するつもりなンだ」
幸か不幸か、咲依は60万円を持ち合わせていた。学校に支払う授業料だ。
明日が納期限で、これまでずいぶん滞納していたため、明日納めないと退学させられる。公示はきょう中に返すからと言った。
しかし、公示は途中ATMに立ちより送金すると、急用を思い出したと言って、咲依を残したまま、どこかに消えた。
こんなバカなことがあっていいのだろうか。
公示は「お金は今夜、咲依のマンションに持っていく」と言ったが、ウソに決まっている。
咲依は、風子から公示を追っていた理由を知らされると、大きなショックを受けた。授業料の60万円は、老いた母がやっとの思いで送ってくれたものだ。
風子は、季利子に、「あなた、授業料を立て替えてあげたら。わたしは金欠で、ダメだけれど……」と言う。
季利子は、咲依の話が本当なら、出来なくはないと考える。
「これから、どこに行くつもり。ラブオン?」
風子が咲依に代わって答える。
「まさか。この車、『わ』ナンバーだから、返しに行くそうよ」
「だったら、風子はわたしの車に乗りなさいよ。いつまでもそこにいたら、咲依さんに迷惑でしょ」
そのとき咲依は、わずかに、ホッとしたような表情を見せた。
季利子の頭のなかで、ピッと何かが弾けた。しかし、それが何かはわからない。
風子は季利子の車に戻った。そのとき、季利子は咲依の車のタイヤから、昔見た、アメリカの刑事ドラマを思い出していた。
季利子はUターンしたいが、その場所がないため、しばらくその場所を求めて走ることにした。
咲依の車が後に続く。
50メートルほど先に、予想通り踏み切りが現れた。
季利子は左に広めの駐車場を見つけるとそこでUターンするため目いっぱい車を左に寄せて停めた。
そして、咲依にも車を停めさせてから、
「あなたの授業料を立て替えてあげる。口座番号教えて。明日の午前中に、60万円振り込むから」
咲依は車から降り、季利子の車まで駆けてきた。
そのとき、咲依の車から、聞きなれない音がした。「ゴトンッ」
何かが跳ねる音のような。
「ありがとうございます」
咲依はそう言って季利子に向かって深々とお辞儀をする。
しかし、そのとき季利子は不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりと車から降りた。
手には、緊急脱出用に窓ガラスを割るため、シートの下に常備している強力ハンマーを握っている。
「季利子、どうしたの?」
風子がいぶかる。
咲依は豹変した季利子を見て、後ずさりを始めた。
「わたし、むかしテレビドラマで見たの。あなたの車、タイヤの沈み具合が前と後ろで極端に違うわね」
そういえば後ろのタイヤが、前に比べると、かなり凹んでいる。
そのとき、30メートルほど先で踏み切りの警報音が鳴り始めた。
「咲依、トランクを開けなさいッ。あいつが出てきたら、これで殺してやる!」
季利子が叫ぶ。
風子は、まだ事態がよく飲み込めない。
「出てくるって、だれが……エッ!」
しかし、風子にもようやく、季利子の推理が伝わったか。
「まさかッ……」
季利子は、咲依を見つめたまま話す。
「オカシイでしよ。わたしたち、公示が運転する車の後を追っていたのよ。踏み切りで遅れたといっても、ATMでわたしたちに気付かれないで、お金をおろすだけの時間があったと思う?」
「そういえば、そうね」
風子も車から降りて、咲依の車に近寄る。
「この女も、公示の仲間なの?」
「仲間だから、あなたが喫茶店に入る前に、打ち合わせが出来たのよ。あなたの前で、お芝居していたわけ」
「わたし、バカみたい」
咲依は、そォーッと車内に手を伸ばし、トランクのロックを解除した。カチッと音がしてトランクの蓋が数センチ持ちあがる。
と、中から、
「オイ、早まるな! 金は返すッ」
公示の声だ。
すると、咲依が、
「ホント、ドジなンだから。あんたの計画はロクなことがない。あと60万、手に入るなんて、調子のいいこと言うから、ノッたのよ」
「公示は、踏み切りで、わたしが鳴らしたクラクションに気付いていたのよ。それでも知らんぷりして、わたしに後をつけさせた」
季利子は公示の抜け目なさに感心する。
しかし、咲依はすでに公示を見限るつもりでいる。
「公示、この車は1週間も延長しているンだから、あなたが返してきて。わたしはここで失礼するわ」
「待て。おれは免停だ」
公示は顔を出すのが怖いのか、声だけが聞こえる。
「そんなこと、知らないわよ!」
咲依は走り出す。その後ろ姿は見る見る小さくなった。
季利子は、ハンマーを振りかざすと、
「そのままトランクの中にいなさい。そのほうがやりやすいから……」
そう言い、レンタカーのトランクに近寄る。
「待て、待ってくれ。これには深~いわけがあるンだ」
「わけはあるでしょうよ。わけもなく、詐欺なンか、出来るものですか」
風子も、季利子に負けていない。
「免停だけは本当だったのね。いいから、そのレンタカー、運転してみなさいよ。110番するから」
すると踏み切りの警報音が、
「タイホッ、タイホッ、タイホッ、タイホッ……」
(了)
踏み切り あべせい @abesei
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