第9話 アリバイ

白い壁にオレンジ色の炎が踊っていた。

壁紙やプラスチックの焼ける刺激臭が鼻を突く。熱でガラスの割れる音。

煙は広く天井の高い寝室をも覆いつつあった。

「火事よ、家が燃えている」

「黄瀬さん!赤城さん!誰か、誰かいないの!?助けて!」

白く細い腕が眠っていた風人を抱き起し、抱えるようにドアの方へ向かう。

煙を吸ったのか、風人の脚はうまく動かない。風人を抱える華奢な女性が、倒れてきた家具の下敷きになる刹那、風人の背中を押した。女性が叫ぶ。風人と良く似た顔をしていた。

「───逃げて!」

燃える家具の下敷きになりながら女性が叫ぶ。

「姉さんを置いて行けない」

風人はそう言おうとしたが、煙を吸ったのか喉が焼けて声が出ない。

へたり込む風人。助けなきゃ、姉さんを。姉さん──。

手を伸ばす風人。


しかし、手を伸ばした先にあったのは、軽キャンパーの天井だった。

全身にひどい汗をかいていた。

横を見ると、リョーコが丸くなり、スースーと寝息をたてている。

ゆっくり起き上がったが、リョーコも目を覚ました。

「どうしたの」

「火事の夢をみました」

「風人は疲れると必ず火事の夢をみるわよね」

風人はその夜、少し標高のある丘の上に建つ、県営オートキャンプ場で一泊していた。

リョーコを胸に抱いて車の外に出る。

遠くに広がる街の灯り。汗をたくさんかいた体にあたる夜風が気持ちよかった。


翌日、風人は次の公演が行われる福山へ向かった。

高速を使わず一般道を走っていると、道路沿いの大きな建物が目に入った。それは工場と事務所が併設したような建物であり、事務所の横には「XXウォーター」と白いゴシック文字で縦書きに書かれた青い大きな看板があった。

道路の左側にあったので、風人はウインカーを出し、敷地に車を入れた。

建物は平屋建てだが、築面積はかなり広かった。少しブロンズ色が入った大きな自動ドアがあり、その左右には青い自動販売機が据えてある。自動販売機の横にはベンチがあった。

風人はリョーコを抱いて建物の入り口に近づいた。自動ドアの中はロビーになっており、来客者が見学できるようになっている。

風人はリョーコを抱いたまま中へ入った。自動ドアを通り過ぎると右側に受付があり、立っている女性に「犬を連れたまま入って大丈夫ですか?」と聞いた。

女性は黙って頷いた。

ロビーにはXXウォーターの効用が如何に凄いかが壁に打ち付けられた厚いアクリルのパネルにイラストで描いてあった。どれもこれもが胡散臭いものであったが、信じている人にはありがたいものなのだろう。風人はその説明文を少し読んだが、文章の中に潜む悪意をもった嘲笑のようなノイズに耐え切れず、ロビーを出た。

そこで、自動販売機を覗いてみたが、500mのペットボトルに入ったXXウォーターに1本2000円の値段がついていた。

「ペットボトルの水が2000円!」

価格に怒りをあらわにした風人が、震える手で財布から2000円取り出し自動販売機に入れる。

「え?買うの?自販機で150円以上の飲み物決して買わない風人が」

リョーコが驚きの声を上げた。

「ここまで高いと逆にどんなものか買ってみたくなります」

ガコン、と自動販売機の下の受け取り口にペットボトルが落ちてきた。

「ペットボトルの単価は高いのに、自動販売機自体にはお金がかかってないですね」

とことんケチをつけたいようだ。

「あんたって、値段が高いもの見ると怒るわよね」

キャップを開けて飲む風人。

「どう?体によさそう?」

リョーコの皮肉ともとれる言い方だ。

「ふん、マグネシウムとミョウバンを微量に含む温泉水です。お風呂の水にすればお肌すべすべになるかも。でも内服しての効用は疑問ですね。それに高い。なんと言っても高い。20リットルで800円だったら買ってやってもいいぞってレベルです」

「風人水質分析機みたい。伊達に全国の温泉地を巡ってないわね」


販売所の駐車場に黒塗りのベンツが入って来て停車した。後席から中年の女性が降りる。いかにも高価そうなスーツを着た、ウエーブのかかった黒髪が背中まで垂れている少し小柄な女性だ。

販売所の自動度が開くと、背広を着た男性が走って出迎えに来て、女性に何か言っているが、その声がこちらまで聞こえてきた。

「消費者団体から抗議の電話が数件来ています。効能を少し書き換えた方がいいのではないでしょうか」

「血圧が下がったとか、視力が上がったとか、買った人たちが言ってることじゃない。消費者の声としてそれを書くことが何故いけないの」

「ここ2年ほどで規定が厳しくなってきていまして、このままでは販売差し止めになってしまうかもしれません」

ほとんど言い合いになりながら、背広を着た男性とベンツから降りてきた女性が風人とリョーコの横を通る。そのとき、女性が風人を見て足を止めた。つけまつげとアイシャドウに囲まれた両方の目がほぼ円形に見開かれ、驚いた信楽焼の狸のような顔である。

 自分が見られていることに気が付いた風人が女性を見返した。初対面かな?人形劇を見に来た子どもの保護者というにはちょっとケバイなと、考えを巡らせた。しかし記憶にない。

その女性が風人を指さした。目も口も丸く開かれ、舌の上の泡立った唾液が飛ぶ。そして理解不能な発音をした。

「りりりりりり、りりりりり、りりりり」

女性は風人を指さして、顔を引きつらせている。

「バグったSiriみたいね」

 リョーコが女性を見て言った。

「この方、ひょっとして、やヴぁい人ですか?」

風人は女性を小さく指さし、肩越しに一緒に一緒にいた男性に問いかけたが、男性は小さく首を傾げた。

「りりりりり、りょうすけさま、何故あなたがここここ、ここに」

どうやら風人に言っているらしい。

「りょうすけ?」

「そのお顔、そのお声、りりりりり、涼介さま」

「誰だかしりませんが人違いですよ。僕は日花風人。劇団員です」

 風人は自己紹介のつもりで女性に近づこうと、一歩踏み出した。

 しかし、風人が近づく数倍の速度で女性は後方へ跳ね飛ぶように逃げた。

「ひいいいいいいいい」

女性は、引き声の悲鳴をあげつつ、あれほどひどく叱り付けていた田中という男性にしがみつき、しがみつかれた男性も迷惑そうな顔で二人して店の中に消えて行った。

「姉さん、あのひと知ってる?僕の事を知っているみたいな話し方だった」

「風人は憶えていないの?」

 風人を見上げるリョーコ。

「まったく」

「そう。だったら私も知らない。きっとこの会社の役員のひとりでしょ。悪どいことばっかりやってるから、だまして恨みをかった人にあなたが似てたりしたんじゃないの?」

「うーん、そうかもしれないですね」

「まあ、まともな商売をやってないのは、雰囲気からダダ洩れてるけど」

「じゃあ、福山に向かいますか」

「体育会系女が夏彦さんの冤罪を晴らして、事件を解決してくれることを祈らなくちゃね」

 風人に抱きかかえられ、車に乗ったリョーコが駐車場を出る寸前に、小さく

「黄瀬祥子。ここにいたのね」

と呟いた。

「姉さん、何か言った?」

「何にも」

 風人達を乗せた軽キャンパーは福山に向けて走り出した。


福山での公演がちょうど終わった時間に、真木から電話がかかってきた。

「単刀直入に言うわよ。佐藤の奥さんは、XXウォーターに4000万円近く突っ込んでるわ。佐藤の貯蓄は殆ど取り崩して無いみたい。これは会社と取引のある地銀の証言ね。その取り崩した貯金の額が1000万円。4000万円から1000万円引くと3000万円でしょう?会社の横領の額と合致するわ。佐藤がやった可能性かなり高まったわよ」

「それだけ証拠があれば、佐藤を任意同行させて問い詰めればいいじゃないですか」

「やったわよ。だけどね、佐藤には確固たるアリバイがあるの。任意同行だと長期拘留は出来ないのよ」

「まさか、そのアリバイを僕に崩せって言うんじゃないですよね」

「察しがいいじゃない」

「それって警察というか、真木さんの仕事でしょう?」

「あらま。正論で来たわね。でも、まともに行ってもどうにもならなかった。佐藤ってあれで結構な曲者でね。だったら曲者には曲者を当てるのがいいかなって思って」

「今二回言った後の方の曲者って、僕のことですか?君の名推理を期待する、ぐらいは言ったらどうです?」

「君の名推理を期待する!ねえ、やる気になった?」

「ぜんぜん」

「何それ?」

「僕は劇団員です。そういう仕事は警察屋さんの仕事じゃないですか」

「実はね、大原さん――響子さんがね、目をうるうるさせて、君に頼めば夫の無実を晴らしてくれるかもって言うんだよ。ってちょっとわざとらしいかしら?」

「行きます」

「食いついたわね。しかも被せ気味に」

 真木はスマホの通話を切って、「わたしそんなこと言ってません」と手をぶんぶん左右に振る響子の方を振り返り、小さく舌を出した。

心なしか、響子の頬が少し赤くなっているように見えた。

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