第四章 マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン 2
日曜日開け、登校すると教室内の雰囲気がざわついているのが分かった。小学生だからそれが普通だろうとかそういうんじゃなしに、いつもと雰囲気が違う。そこに漂うのは、
好奇心、
だろうか。
聞こえてきた「誰が」「えー?」「まさか」という単語からの連想だ。
教室後方のロッカーにランドセルを詰め込んだ。プリントが束になって入っていてぐしゃっと音が鳴る。室内を見渡し、男子たちが残らず校庭で遊んでいるのを察した俺はふと目に止まった女子に話し掛けることにした。
「どうしたんだ、これ」
夏希が振り返り悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「よっしーおはー」
「? よっしー? 良夫じゃなかったのか」
「あはっ。昨日思ったんだけどさ。良夫って少し野暮ったいかなって。だからよっしー。そっちの方が可愛くっていいでしょ」
野暮て。人の名前をまあ。ダサいなら割と言われ慣れてるのが悲しいところ。それより。
「で?」
俺は先を促した。
「えっとねえ」
夏希はチラと騒ぎの中心に目をやってから改めて俺を見、口をつく。
「拓真くんの机にチョコ入ってたんだって」
「チョコ?」
チョコと言えば日曜日開けて本日は二月十四日バレンタインデー。そのことを意識してなかったと言えば嘘になる。が、残念なことに俺は未来を知ってる身。この先の人生において後にも先にもチョコレートを貰うのはあの時の一度だけ。この時点じゃ特に何もなかったのだ。
日曜日。特に夏希からの連絡はなかった。……知ってた。
女子連中の囲いの中心に突っ立つ拓真は、チョコレート(?)と思しき箱をただ手に持ってじっと見ている。
それはよくあるビニール袋に入れて、リボンを付けたような簡素なラッピングではなくて、お店で包装されたような淡いピンク色の綺麗なラッピングだ。印象としては、気合が入っている、高そう、だな。小学三年生が送るにしてはちとやりすぎにも思えるくらい。
――そういえば。
そう、こんなこと、あったな。
何故か拓真にチョコレートが送られてきた事件。……事件じゃねえな。軽い騒ぎが。
「拓真くん! 名前って書いてある!?」
「ねえ、見せて見せて」
「あー。私も私も」
拓真にとってはかなり失礼な回想を繰り広げている中、女子連中の囲いがぐっと縮まった。興味があったのだろう。「あたしもー」と夏希が近づいた。俺も隣で囲いに入っていく。
「何も書いてないね」
「紙破いちゃえ」
「だめだよ。拓真くんがもらったんだから」
「でもどうせ開けるし」
「あ」
言い合う女子の前で何も言わずに拓真が包装を破いた。手付きは乱暴だった。女子たちに囲まれて恥ずかしかったのか。それを誤魔化したように俺には思えた。
中から現れたのはクリーム色のこれまたちゃんとした箱。『Valentine day』と真ん中に書いてある。この日の為だけの特別な箱なんだろう。ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。その場の皆が緊張しているのが分かる。拓真がパカッと蓋を開けた。中から現れたのはハートマークの、見るからに《本命》とでも言うようなチョコレートがひとつ。
「きゃあああああああ!」
と、姦しく騒ぐ女子たちに続いて、
「なんだなんだどうした」
と、騒がしい男子たちが帰ってくる。
「おい、良夫」
声を掛けられ振り返ると、頭の高さに相手の胸があり、視線を少し下げればまた違った相手の頭があった。松司とレンだ。息が上下している。急いで来たのだろう。が、まだ先生の来る様子はない。胸と頭の合間から見える時計は八時十分を示している。今日は持永先生だったかな。二組で朝礼を終え、それから四組に来るはずだから少し時間は掛かるだろう。皆もそれを知ってか席へ戻ろうとしない。極一部の真面目ちゃんのみ。
むしろ拓真の机の周りにはどんどんと人が集まってきていた。外で遊んでいた男子たちと俺のような遅刻すれすれで登校して来る奴らが。
「拓真の机にチョコが入ってたんだってよ」
「マジで!? なんで拓真!?」
松司が馬鹿にするように、面白がるように言った。ぐしゃっと音がしてそちらを見ると、拓真が包装紙を握りつぶすところだった。
「ちょっと、松司くん」
「それはないんじゃない。相手の子にも失礼だよ」
咎めるような声は菊と椿だ。
「ああ。わりい。でも」
珍しいものを見た。あの松司が素直に自分が悪いと認めている。レンと視線を交わせば、やはりレンも同様に驚いていた。絵里があんなことになり松司にも想うところがあったのだろうか。良い変化なのだろうが、素直には喜べないな。
咎める菊と椿の姿には安心感を覚えた。こちらのした発言にいちいち突っ掛かるその感じ。絵里が死ぬ前となんら変わらぬ姿だった。この二人のこんな様子は久しぶりに見る。
「でも確かに何で拓真? 相手は?」
松司の言葉を引き継ぐようにレンが訊いてくる。俺は首を横に振った。
「そうそう。名前は?」「手紙とか入ってないの?」
女子たちの声に拓真は何も言わずに箱の中身を見せるようにする。何も入っていない。チョコ以外には何も。蓋の裏にもチョコの裏にもチョコの表面にも文字はない。
――そう。何も無かったんだよなあ。だから特にどうということもなく終わったんだ。なんだったんだろう、あれ。くらいの出来事で……。
ほんの暫くは話題になっていた。ただそれ以上進展も望めない上、拓真に聞いても口を閉ざすばかりで面白味もない。年齢故、移り気な俺たちはすぐに他に興味が移っていった。
拓真? 何で拓真にチョコあげるんだろう? 一体誰が? 気にはなったものの、世の中には色んな好み持ってる奴がいるんだろう。そんなことより、夏希ちゃんからチョコ貰えなかったな。はあ。来年は貰えるかな。そんなことを俺は当時思っていた。はずだ。
「ねえ。食べてみなよ」
夏希が言った。いつの間にか俺の隣から人垣の前に移動している。拓真がチョコレートに張り付けていた視線を剥がし夏希を見た。食べてどうなるものでもないだろうにな。が、そこは小学三年生。意味のなさそうなことでも面白そうなら囃し立てる。のっかる。
「そうだ拓真。食べてみようぜ。クソ不味かったりして」
「溶かすだけのチョコでどうして不味くなんだよ。これ店で買ったやつだろ」
「髪の毛とか入ってたりして。あなたを想っていれたのー」
「おえー!」
「ちょっと男子ー」
「ねえ。一口。一口だけだから」
さて。先生はまだ来ないのかね。チラリと扉を見やればガラリと扉が開く。皆が一斉に扉へと向いた。ランドセルを背負ったばっちばち遅刻の愛が入ってきたところだった。「え。う。あ。ええっと」愛が喘ぎ、何事かと怯える。こういうのはダメだろうな、あいつは。先生じゃないと安心したのか皆の視線が再び拓真へと戻った。
愛が切っ掛けになったのか知らんが、拓真が箱の中のチョコを掴んだ。そんなに力入れて掴んだら溶けてベタベタになるだろうというくらいに力が込もっている。チョコは片手じゃ収まりきらないくらいに大きく、そして想像していたよりずっと分厚い。これが愛の大きさか。羨ましい限りだな。
拓真がハートの端に小さく歯を立てチョコレートを齧り取った。ごくりと喉が鳴った。咀嚼などせず一気に飲み込みでもしたのか、少しむせる。
数分後、拓真が駆け付けた救急車に運ばれていった。
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