第三章 霞ヶ丘小女子児童自殺騒動5
チャプター10 大友さえ
大友さえは尊師のありがたいお言葉を拝聴していた。
道場のような畳敷きの広い部屋に三十人近くの人間が集まっている。前に立つ人間以外は全て女で、だいたいがさえと同じような年齢の者だ。中には若い女もいるが極一部だ。
椅子はない。皆、それぞれ思い思いの場所に腰を落ち着け、前方を注視している。一言も聞き漏らすまいとして。
ベテラン――つまりさえは座布団を持ち込みそこに座っていた。
一段高いステージ上には十人の男女が立っている。男六人に女四人。
真ん中――ステージの中央に教壇が置かれており、そこに立っている人物こそがさえが尊敬してやまない人物、後藤尊師である。
後藤尊師はつるりと禿げ上がった額を撫でると口を開いた。
「主婦っちゅうのはこの世で一番忙しい生き物やろな」
尊師の言葉。
それは先月も先々月も聞いた言葉だった。
さえはこの話を聞く度自分が認められるような気分になる。社会に認識されているような、そんな気分に。だから何度聞こうがどうということはない。
「こうしてここから見渡すと、あんたらの中にも見知った顔が増えてきた。人によっちゃあ退屈な話かもしれんが、勘弁してくれや。初めての人もたくさんおるでな。こうして見てみてもそうやし、実際、そう聞いとる。な? 許す、ゆとりを持つっちゅうのは大事なことや」
こくこく、と。会場の何人かが頷いた。
さえは、何気なく尊師の脇に立つ男女幾人かを眺めていた。中にはさえと近くに入会した者もいる。ほんの少しの嫉妬と、よくもまああそこまで、という呆れの気持ちが同時に湧く。さえにはあそこまで出来ない。
――あれ? どこかで……。
さえから向かって右側、一番端に立つ男が目が留まった。
「人間っちゅうんは助け合いの生き物や。人を支えて人と成る。耳にしたことは山とあるやろ」
尊師の言葉が続く中、さえはどこだっけ、と想いを馳せた。確か、そう、少し前――。
「あ!」
さえの声に周囲にいる何人かがさえを訝しみ睨んだ。
さえはハッと口を噤む。興味を失ったのか皆前を向く。
――椿の、先生。
そうだ。どこかで見た顔だと思った。くるくる天然パーマに野暮ったい眼鏡。高身長。細い体型。見た目に気を使えばもっとマシになるのに、と、何度か思ったことがあった。
授業参観、直近だと十月の運動会。度々見かけてはいたはずだ。いつものくたっとしたジャージ姿と違い、パリッとしたスーツ姿だからかパッと見で分からなかった。
尊師の言葉は続いている。
「これがいかん。人を支えて人と成る。この言葉に潜む過ちに、多くの人は気付いてない。例えば、あんたらの旦那さん。たぶん、務めている人が大半やろ。彼らサラリーマンは頼まれたらなかなか嫌とは言えんよな。嫌、なんて一度でも言ってみい。今後仕事を任されんことだってあり得るわ。組織の中で生きる以上は柔軟に対応していかなければならん。それが例えどんな無茶振りであろうともや。柔軟に見せなければならんと考えるわけや。傍から見てみれば滑稽やな。柔軟どころか凝り固まっておる。もっと幾らでもやりようはあるのにな。傍で見ていると分かるんや。当事者だとなかなか気付けん。なに、何もサラリーマンに限ったことじゃないわ。中には社長さんだっておるやろう。大きい小さいとに関わらず。彼らだって同じや。頼まれた以上はなかなかノーとは言えんやろう」
先生みたいな立場の人がこういう場所にいるのは良いんだろうか、とさえは不安になった。
公務員は副業が禁止なんであって、何を信ずるかは自由だろうか?
「一度助けたら――一度人を支えたら網に掛かったようになってしまう。自由が利かんくなる。人間関係ちゅうのはそういうもんや。蜘蛛の糸なんや。
そして、これはあんたら主婦も同じ。いや、いやいや。主婦の方がもっと大変やな。主婦にはありとあらゆる人間関係の輪、鎖、包囲網が広がっとるからなあ」
何人かがきょとんとし、何人かが難しい顔をする。
その中の一人、尊師の視線が若い女の方へと向いた。派手な外見。あまりこういう場には似つかわしくない子だったが、彼女だって悩んでいるのだろう。
さえには分かるのだ。
「務めてる人だっておるやろ? な? まず、そこに細かな、些細な社会がもう出来上がっとる。思い当たる人も多いやろ。次に家庭。家庭には様々な問題が入り込む。一見してそれと気付かなくても、放置してるとどんどん膿んでいき、後々に大きく影響を及ぼす。目を見張っていなければならない。――な? どうや? 何か思い浮かべるもんあると違うか? それからご近所、親戚付き合い。これがまた面倒でなあ。近くもない。遠くもないが故に対処に悩む。持ちつ持たれつが良いのは理解出来るが、そこは人間や。面倒臭いのもいる。割とおる。子供がいる家は学校での事もあるわな。これは相当厄介やなあ。会社や家庭なんて非じゃないくらいの捻じっくれた社会が形成されとるから。そこに自分の子供を預ける。数年、或いは十数年。不安にならないわけがないわ。また自分もそこに参加はせねばならんくなる。行事に参観、親同士のアレコレ。……ま、色々あるわな。
な? そこにそれぞれ、それぞれにそれぞれ。小さな社会がもう出来上がっとるんや。人間関係の輪、鎖、包囲網やな」
さえも始めのうちは何を当たり前のことを、と思ったものだ。
しかし、違う。当たり前に気付けるかどうかなのだ。それで人間は大きく違ってくる。現にさえは違う。二ヶ月前と意識が違う。なんとなく。前向きになった。
「人を支えて人と成り、何れは潰れる」
尊師は言った。
会場に染み渡る尊師のお言葉。
さえは思う。
先生みたいな立場の人は――それこそがんじがらめだろうな、と。
「だから、捨てねばならん」
だからこそか。
がんじがらめな人。そこに居る人。それが遂に尊師の隣にまで辿り着いた。自分事のように感じ入ってしまう。さえは自分が勇気付けられていくのを感じた。
自分もあそこに立てるかもしれない。
「しかし、何もいきなり人間関係を断ち切れとわしは言ってるんやない。それが出来れば苦労せんでな」
先程の若い子にチラリと目をやると、やや姿勢が前のめりになっていた。感じるところがあるのだろう。さえは嬉しくなった。
ふう、と、尊師が溜息をついた。コップに注がれた水を一口含む。
「物を捨てえ」
尊師は言い、
「――いや、いきなり捨てるのは少し勇気がいるやろ。だから、一端我々に預けてみい」
また何人かがきょとんとし、何人かが難しい顔をした。
「人間はそれが好むと好まざるとに関わらず所有、所属したがる生き物や。よく坊さんが煩悩を捨てよとか言うやろ? 怒り、束縛、形あるもの無いもの、それら全てを捨て去ればそれから逃れることが出来、何れは悟りに達するとかいうあれや。今言ったがそれが出来たら苦労せんわ。それが出来るのは偉い坊さんだけ。生きる上で必要な物、いきなりは捨てられないということだってあるやろ。だから、出来るとこから始めよ。自分の気に入っている物。何か一つ思い浮かべてみ。何でも良いで。服、鞄、宝石、お酒――金だって何だっていい。それを、今から自分が手放すところを想像してみ。……どや? 苦しいやろ。自分の一部が失くなったような、そんな気持ちになった人だっているかもしれん。でもな。それが必要なんや。人間っちゅうのはな。物を手放す。一端距離を置いてみる。それが出来たら半人前。捨てることが出来たら一人前。なに。我々だって、真逆あんたらから預かったもん捨てるわけやない。希望があれば返す。が、耐え抜けば今よりもっと楽になるってことは今から言っとかなければならん。何れは、煩わしいと感じていた人間関係だって自分から整理出来るようになるんやから。例えば、そこの」
と、脇に立つ元町を指差した。元町が一歩前へ出る。事前に段取りしていたのかもしれない。
「元町なんかはな。先生をやっておる。どこの何の先生かは言えんがな。彼はそれこそがんじがらめやった。ありとあらゆるものに束縛されていたと言っていいやろ。だが、だんだんと身の周りにあるものを処分していき、遂にはわしに近いところまで至った人間や。見てみ。彼の晴れやかな顔。先生っちゅうのはもっともっと疲れた顔しとるもんやで」
会場の何人かがくすくすと笑った。さえもつられて笑う。罪悪感はあった。椿はけっこうやんちゃな方だから。
「鳥雲会」
次に尊師はステージ上に飾られている横書きの書を指差した。
「気になっていた人もいるやろ。これはな。わしが名付けたんやで。この会の名はな。わしの宝物や。いずれ、わしも含め、あんたたちにも鳥のように雲のようになって欲しいと願っての名前やな。束縛を断ち切り、必要なものは自分で取捨選択し、鳥のように雲のように自由になって欲しいという意味を込めての名や」
尊師の言葉が熱を帯びた。名前には思い入れがあるのかもしれない。
「ここにいるみんなもあるやろ? 子供の頃、一度でも思ったことないか? 鳥になりたい。雲になってみたいと。自由になりたいと」
あるかもしれない。最も、さえは植物だった。理由は確か、何も考えたくないだとかそんなだったような。
「何時しか思わんくなったやろ。皆図星っちゅう顔しとるで。でもそれが大人になることだと割り切っとる、そんな顔や。あんな。言わせてもらうけどな。それは違う。違うぞ。諦めてんのとも違う。諦めてんならまだいい。それをきちんと認識しとるっちゅうことやからな。いいか。今のあんたらは、ただ、そこに割けるだけの思考の余裕がないんや」
尊師は言う。
「いいな。物を捨て。まずはそこから始めよ」
尊師が降壇する。
その後、会の係の者に、さえは持っていたぺしゃんこの座布団を差し出した。係の者は一瞬顔を顰(しかめ)たが、すぐに笑顔に戻った。
「それでは大切にお預かりします」
そうして、会費の一万円五千円を同時に差し出した。一回の会費で五千円、保管費用で一万円だそうだ。
保管するにも維持費が要る。ありとあらゆる物が持ち込まれている為、その管理費はどうしても増してしまうのだという。さもありなん、とさえは思う。
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