第8話 敗戦という深手

 いっそのこと、己のような無能な君主はここで死んだが松平のためなのではないか。


 尾張の虎に哀れになぶられ続ける三河の若武者は、己の存在価値を、生きる意味を問い始めるほどに弱っていた。


「殿!お気を強くお持ちなされ!」


 白刃を振るって広忠の元へ一直線に駆け寄り、広忠の愛馬のくつわを取ったのは本多平八郎忠豊であった。彼のすぐ後ろでは長男の忠高が織田兵と斬り結んでいる。


 二人とも、出陣の前には新調したばかりだと言っていた槍を持っていなかった。乱戦の中で折れたりして、使い物にならなくなったのだろう。そのことは広忠にも、容易に推測できた。


「すまぬ、すまぬ……」


「何をおっしゃられます!ここは戦場にござりまする!ガキのような泣き言は岡崎に戻ってからにしてくださりませ!あなた様は松平の、我らの主にござりましょう!さぁ、お下知を!」


「じゃが、わしは――」


 悔し涙をこぼし、馬上で情けない表情をさらしている無防備な総大将。こんな当主、日ノ本中どこを探してもおるまいと忠豊は思った。


「まったく、最後まで世話の焼ける殿じゃ」


 そう言って倅を呼び寄せると、くつわを取る手を譲った。戸惑い気味にくつわを取らされ、ただただ困惑している様子の忠高。それを見て、忠豊は豪快に笑って見せた。


「よいか、とにかく川を目指して突っ走れ!川の方では五井松平外記殿が戦っておるであろうで、協力して殿を岡崎までお連れせよ!」


「お、親父!」


 忠高が呼び止めるのも聞かず、忠豊は西へと駆け出した。馬上で指揮を執る織田家の侍に近づき、大腿部に一太刀浴びせて落馬させると、その馬を奪っていく。


「やあやあ、我こそは松平広忠なるぞ!木っ端武者に用はない!織田弾正に見参ッ!」


 織田信秀の本陣めがけての単騎駆けなど気が狂っている。だが、彼の気を狂わせたのは、まだ若く未来のある、戦の負けを一人で背負い込んでしまっている責任感が強く、日ノ本優しい心を持つ当主への忠義と、愛であった。


 ますます遠くなっていく父の背を見送り、忠高は同い年の主のくつわを取って、川の方へ、岡崎城へと走り出す。忠高だけでは到底、手に負えぬ退却戦であったが、馬上の広忠を見つけ、大久保衆が集まり、五井松平の兵らが結集してくる。


「平八郎忠高!殿を頼むぞ!」


「おう!義兄者あにじゃの分まで拙者が殿を守る!守ってみせる!」


「よし、その言が聞ければ十分じゃ!ひたすら駆けよ!松平の未来を頼む!」


 新六郎らは目の前の織田兵を散らすことに専念する。何とかして、この安城縄手の地から広忠を逃がそうと必死なのだ。大久保新八郎、松平外記らも果敢に織田勢に立ち向かい、時を稼ぐ。


 その間に本多忠高は松平広忠を岡崎城へ無事に送り届けるべく、走り続ける。それを見て、散り散りになっていた松平の兵も少しずつ広忠の元へ集まり、自然と残って追手を防ぐ者、広忠を守って東へ下がろうとする者に分かれていった。


 広忠が本多忠高らの奮戦のおかげで矢作川を渡河した頃、松平広忠だと名乗る老将が織田信秀の本陣まであと一歩というところまで到達していた。


 ただ一騎、気でも狂ったのかと思うほどに我こそは松平広忠である、織田信秀に見参と繰り返して信秀の本陣目がけて突撃を敢行していく馬上の武者。


 その武者の言葉を鵜吞みにせず、最初こそは本当に広忠なのかと疑う者もいた。織田兵とて間抜けではない。


 しかし、集団の中での認識というものは面白いもので、あの馬上の武将が松平広忠であると思う人間の数が疑う人間の数を上回れば、嘘は真実としてまかり通ってしまうもの。


 今の織田信秀の本陣へ斬り込まんとする立派な武士こそが、岡崎の松平広忠である。そう信じ込まされてしまった織田兵は執拗に追いすがった。それでもなお、討ち取ることができず、かえって織田兵が追い立てられる場面すら見受けられる。


 死を覚悟した気迫、戦に臨まんとする覚悟。それを持ち、大暴れしている人間と、勝利に気が緩んだ者とでは勝負にならなかった。その光景を本陣から眺め、苛立っている男が一人。


 他でもない、織田信秀その人であった。


「あ、兄上。そうお怒りにならずとも」


「どいつもこいつも似て非なる松平広忠なんぞに構いおって!本物の松平広忠にここまで斬り込む度胸はない!仮に突撃を敢行しても誰も続いて来ぬ時点で本物ではないことくらい、なにゆえ分からぬのだ!」


「兄上。そうは申しまするが、放ってもおけますまい」


 馬上で何度も舌打ちし、落ち着かない様子の兄をなだめようとする、弟・孫三郎信光。だが、かえって信秀の怒りを煽ってしまう結果となり、普段以上に鋭い眼光が孫三郎へと向けられる。


 それでも、信光は平然としていた。十年前に松平清康が居城・守山城へ攻めてきた際も、最後まで守り抜いた勇将にとっては委縮するほどでもなかったのだ。


「然らば、あの馬上の武者を某が討ち取って参りましょう。あれほどの強者を見かけたとあっては、手合わせせぬ道理はございませぬゆえ」


「よし、そなたが行けば安心じゃ。弟よ、あの似非松平広忠を討ち取って参れ」


「お任せあれ!」


 強敵との手合わせに飢えていた小豆坂七本槍の一人にも数えられる織田孫三郎信光は愛用の長槍を引っ提げて、織田兵をかき分けて単騎で突っ込んできた老武者の元へ駆け寄った。


「織田孫三郎信光、松平広忠殿に見参!」


 そう名乗りかけた頃には馬上の武士は太刀を握りしめたまま地面へ転がり落ち、動かなくなっていた。


「これは……」


「孫三郎様、我らと戦う中で数え切れないほどの傷を負っておったらしく……」


「ここで力尽きたというのか」


 孫三郎が東の方へと視線をやると、ずっと向こうから転々と血がしたたり落ちた後ができている。たとえ致命傷ではなくとも、体のあちこちに槍で突かれ、刀で斬られた形跡が見られる。


「これほどの傷を負ってなお、退くことはおろか前進し続けたというのか……。まことあっぱれな!」


「これで松平広忠は――」


「否、この者は松平広忠ではない。この馬上の武者を見てみよ、二十そこらの若造に見えるか」


「た、確かに……」


 織田孫三郎は馬上でこと切れた、真に称賛に値する三河武士に、静かに手を合わせた。それからは遺体を丁重に下げさせた。


「信光、手合わせは叶わずであったか」


「はい」


「そうしょげるでない。せっかく勝ったというに、白けてしまうではないか」


「申し訳ござりませぬ」


 信秀は落ち込む弟の肩を軽く叩いた後、追撃を命じるつもりであった。しかし、先ほどまで戦っていた松平兵の姿が川向うに小さくなっていくのを見て、無理な追撃は止そうと判断。退却を命じるのであった。


 天文十四年九月二十日。この日に行われた安城縄手での合戦において、松平広忠は織田信秀率いる織田軍を相手に手痛い敗北を喫した。


 当初の目的であった安城城を含む安城領の回復に失敗したばかりか、織田信秀との決戦に敗れ、重臣・本多平八郎忠豊を失ったのである。


 昨年の加納口の戦いの敗戦に付け込むはずが、かえって失墜した織田信秀の威信を取り戻すことを手助けしてしまう、皮肉な敗戦となってしまった。


 ――頼りにしていた本多平八郎忠豊はもう、この世にいない。


 当主として変わらぬ日々を送る広忠の心に、深い――深すぎる傷を刻み込んだ。


 あの時、自分が織田に奪われた安城領を取り戻そうと言い出さなければ、織田信秀の来援を察知することができていれば、もっと撤退の判断が迅速に行なえていれば。


 何かを考える余力が生まれると、すぐにたらればを繰り返してしまう。大勢の者をみすみす死なせてしまったことは、於大の方との離別以上に彼の心を苛んでいた。


 安城へ出陣する前の出陣式において叩き割った土器のように、広忠の自尊心は敗戦によって粉々に打ち砕かれてしまったようで、時折、今にも泣き出しそうな、辛さを心のうちに押し殺している面持ちで岡崎城から安城城を眺めている様子なのである。


 そんな様子の主に阿部大蔵らはどう声をかければ良いのやら、皆目見当もつかなかった。


 ――落ち込んでいる場合ではございませんぞ!


 ――先般の安城攻めで敗戦したことを受け、松平蔵人らは勢いに乗っておりまする!何か手を打たねば、状況は悪化するばかりですぞ!


 ……などと声をかけたところで、広忠は元気を取り戻すどころか、余計に滅入ってしまう。とはいえ、安城での敗戦の話題を出さずに、周辺の敵情を報告し、対策を協議することは不可能。


 いかに長年松平家に仕えてきた老臣たちであっても、戦に大敗して引きこもりがちになった当主を励ましたことなどないのだ。まさしく、初めて遭遇した難題といえる。


 その日も当主不在の広間に阿部大蔵、石川安芸守、酒井雅楽助、鳥居伊賀守忠吉らが集まり、ああでもないこうでもないと悩みに悩んでいた。そんな広間へ立ち寄ったのは広忠の正室、田原御前。


「皆さま、お集まりで」


「これは奥方様!このようなむさくるしいところへお越しになるとは……!」


 田原御前の言葉が耳に入ると、畏まった様子で頭を下げる一同。まだ嫁いできてから一年も経っていないというのに、田原御前は松平広忠の妻としての立ち居振る舞いが板についている。


「奥方様、ぶしつけながら近ごろの殿のご様子は……?」


「ええ、塞ぎこんでおります。無理もございますまい。殿とて多くの家臣を失い、ご自身も手傷を負って岡崎城まで戻って来られたほどなのですから」


「それは重々承知しております。されど、当主として成すべきことも成していただかねばならぬのです」


 鳥居伊賀守忠吉はきっぱり言い切った。しかし、広忠の心の傷の深さ、本多平八郎忠豊をはじめ、大勢の松平兵が討たれたことを気に病む弱さが理解できないわけではないのだ。ゆえに、成すべきことと申しているのである。


「あの日以来、すっかり食も細くなり会うたびに痩せていっておられる。わたくしも心を痛めております」


「それでは年内に亡くなってしまわれるのでは――」


 途中で言いかけた言葉が漏れ出ないよう、自分で口を両手で覆う鳥居伊賀守。しかし、その場にいる誰もが「そのようなことはない!」と反論できなかった。


 何とか励ます手立てはないものか。そう悩む一同。田原御前は広忠に対する心配や愛情から悩んでいるが、重臣らはそれに一つ心配事が加わっている。それは広忠が亡くなった場合、数えで四歳の竹千代が家督を継承するという点にあった。


 他に男子がいないため、家督の相続で揉めることはないだろう。しかし、ただでさえ一枚岩ではない松平一族のさらなる分裂を招聘する事態になる。


 そうなった場合に、独立した国衆として領国を維持していけるのか。織田や今川に挟まれた情勢下で、幼君を擁立してのかじ取りを自分たちで担っていくことができるのか。


 不安が絶えることなく押し寄せてくるが、最悪の事態を回避するためにも、ここは広忠にもうひと踏ん張りしてもらわねばならないところなのだ。


「おや、むさくるしい広間に一輪の美しい花が添えられておるとは。珍しいこともあるものです」


「ず、随念院様!」


 田原御前に続き、随念院まで広間へやって来た。ただ、重臣らはてっきり竹千代もついてきているものだとばかり思っていたため、面を上げてみて面食らった様子。


「ほほほ、阿部殿。竹千代君がおられると思っておられたのでしょう。顔に書いてありますよ」


「随念院様に隠し事はできませぬな」


「なんのなんの。阿部殿が分かりやすいだけでしょう」


 上品に笑う姿に、傍らの田原御前はうっとり見惚れている。当の随念院は見惚れられているなど気づく様子もなく、重臣らに先ほどまで何の話をしていたのかと尋ねていっていた。


「それが、殿のことで話し合っておったのです。安城攻め以来、塞ぎこんでおられるご様子。何とかならぬものかと政務の傍ら、話し合っておりました」


「ほほう、広忠殿のことを話し合っておったのですか。でしたら、もう心配はいりませぬ。先刻、妾が妙薬を投じてまいったところ」


「妙薬……?」


 重臣らが目を見合わせ、妙薬の正体について考えている様子であった。田原御前とて、皆目見当もつかぬといった様子であったため、随念院はクスリと笑みをこぼし、答えを仄めかした。


「つい先ほどまで、皆様も妾とともに居ると認識しておられた方のことですよ。今の広忠殿には、いいえ、親にとっては一番の薬と言えましょうからなぁ」


 そう言われれば、広間に集まった者たちで分からない者は一人とていなかった。

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