第7話 安城領回復を目指して
こうして訪れた天文十四年、九月の二十日。於大の方との離縁から一年の月日が流れたこの日。東雲の岡崎城では決戦の機運が高まっていた。いや、高まっていたというよりも、昂っていたという方が正しいかもしれない。
戦場に出る大将とは思えぬ色白な額に付けられた
「ととさま」
「おお、竹千代。朝早くに済まぬ」
「広忠殿、お抱きになられますか?」
「いや、凱旋した折に抱くことといたす。伯母上、それまで竹千代のことをお頼み申します」
「承りました。ささっ、竹千代君。あちらへ参りましょう」
「では、殿。ご無事のお戻りを」
「うむ。必ずや勝って戻るゆえ、くれぐれも竹千代を頼むぞ、御前」
随念院に連れられて広間を去っていく竹千代。その去り際の哀しいを帯びた目が、広忠の胸に刻みつけられる。田原御前もまた、不安と哀しみを振り払うように笑みを作って退出していった。
妻子らとのあいさつも済んだところを見計らって、酒井左衛門尉忠次が早足で寄ってくる。
「殿。松平
「うむ、大叔父上が出陣したとあらば、上和田の松平三左衛門なぞ蛇に睨まれた蛙であろう」
酒井左衛門尉の口から出た、松平右京亮
しかし、睨みつけるといっても、長期戦となれば話は別。是が非でも数日中に安城城を奪取する必要がある。
「広忠殿、我が祖父より長沢松平とともに手筈通り、牧野への備えを固めておるゆえ、背後はご案じなされますな、と言伝を預かっております!」
「左様か。五井松平の
「はっ、帰陣いたしましたら、その旨ただちに祖父へお伝えいたしまする」
広忠を見て、歯を見せてにっかりと笑う青年。この青年は松平
「そうじゃ、水野と去就を共にする形原松平は深溝松平でしかと見張っておりますゆえ、何かあればすぐにお伝えいたしまする!」
広忠が水野と同盟を破棄した際、同じく同盟を破棄するかと思われた形原松平であるが、当主・家広が信元の同母妹を娶っている縁もあり水野との関係は今なお続いている。
そんな形原松平が南より押し寄せないとも限らず、そちらには
「安芸、留守はそちに任せたい。雅楽助とともにしかと岡崎を守ってくれよ」
「ハッ、お任せくだされ!」
「殿の留守、しかとお預かりいたしまする!」
岡崎の留守居役として、石川安芸守忠成、酒井雅楽助政家らを残す。
そして、広忠と共に
「戦に本多衆と大久保衆は欠かせぬ。頼むぞ皆の衆!」
広忠からの呼びかけに、力強く「おう!」と応える頼もしき強者たち。いかめしい面も、合戦の折には実に頼もしく映る。
そこへ、小姓たちが酒と勝ち栗を運んでくる。出陣式においては見慣れた光景であるが、
しかし、緊張や恐怖といった感情による張り詰めた空気などなく、皆が気合十分といった表情で酒を呑んでいく。
「皆の者、よいか!」
そう言って床机から勢いよく立ち上がった広忠は、杯を頭上に振りかぶった。次の瞬間には、地面に叩きつけられて割れた土器の杯が転がっていた。
「必ずや勝利し、安城城を我らが手に、松平の手に取り戻す!エイエイ!」
「「オー!!」」
広忠の声に合わせ、鬨の声を上げる三河武士たち。こうして、出陣式を終えた広忠ら岡崎の松平勢の動きは迅速であった。
松平外記率いる五井松平に加え、城外で松平
その様子を山崎城から確認したのは松平蔵人信孝であった。
「広忠め、ここで動いてきたか。よし、ただちに安城城へ使者を出せ。およそ二千の松平勢が矢作川を渡河し、安城城へ向かってきている。松平広忠の馬印と五井松平の
「ははっ!」
能見と大草の両松平家が包囲するより早く、山崎城から安城城へと早馬が走った。その知らせを受け、安城城に籠る六百ほどの織田勢は籠城を選択。一兵とも打って出ることはなく、広忠率いる松平勢の思うように城を包囲させた。
「殿、総攻めの下知を!」
「平八郎、分かっておる。よしっ、今日中に陥落させる危害で臨め!全軍、かか――」
敗戦の影響で士気も低く、そのうえ援軍も間に合わぬ急襲。もはや勝利は疑うべくもない。そんな気概をもって号令一下、因縁の城を陥落せしめんとした、その刹那。
「と、と、殿!」
血相を変えて、此度の戦で初陣を迎えた十四歳の大久保四郎五郎が血相を変えて広忠の元へ駆け寄ってきた。
「いかがした、四郎五郎!」
「一大事にござりまする!織田木瓜の旗、織田の援軍が参りました!」
「援軍じゃと?周辺の城や砦から集まってきたのであろう。数は数百ほどであろうで適当にあしらって……」
「いえ!こちらと同数かそれ以上の数!このままでは城攻めはおろか、岡崎への退路すらも危うくなる――と伯父が申しておりました!」
広忠もまた四郎五郎の表情が乗り移ったような面持ちで馬上から小手をかざした刹那、西や北より貝の音が響いてくる。松平勢に接近した織田勢から数条の矢が放たれ、それは広忠の身にも迫ってくる。
広忠が太刀を抜き、我が身に降り注ぐ矢を払い落しながら陣頭指揮を執る様を見て、馬上より笑うは織田信秀。傍らに控える弟の織田孫三郎
「信光、見よ。岡崎の小童めが、死地を彷徨うておるわ」
「真ですな。見事な奇襲にござりましたが、惜しむならくは城内の間者を見抜けなかったことにござりましょう」
「ふふふ、広忠めも急襲とはいかなるものか、これにて理解したであろう。あの憎たらしい清康のもとへ旅立つ前に、良き冥途の土産となったであろうぞ。よし、よいか!手筈通り、貝と鬨の声で見事に安城での狩りを成功させよ」
傍らに一通りの指図を終えると、織田軍は信秀の手足の如く、命令通りの動きを成していく。そうとも知らず、広忠は勢子に追い立てられた鹿の如く
「兄上、もしかせずともあれをお使いになられまするので?」
「いかにも。実戦で用いるに値するか、確認しておく必要もある。美濃勢が相手では使用する機会に恵まれぬが、三河の弱小国衆相手ならば手ごろであろう」
「種子島……はたして実戦で用いるに値する代物にござりましょうか」
「知らぬ。それを確かめるため、広忠が仕掛けてくるのを朝な夕なと待っておったのよ」
織田軍が安城まで運んできたものについて語る兄弟。兄・信秀は今年で三十五歳、弟・信光は五つ下の三十歳。若さと経験のつり合いが取れている年頃である。
程よく経験を積んできた兄弟から見れば、広忠の血気にはやる戦い方は実に若く見えた。大将自ら刀を振るって、指揮を執るのも間に合っていない。これでは、軍勢は統率が取れず、支離滅裂となるは必定。
事実、松平勢は不意に現れた織田の大軍を前に陣形も崩れ、逃げる者と戦い続ける者が入り混じり、戦うどころの騒ぎではなかった。そこへ、安城城の城兵らも武功を稼ぐ好機と捉えて城門を開き、打って出てくる。
「松平広忠殿とお見受けいたす!我こそは織田信秀が侍大将――」
『松平の総大将を討ち取る好機!』と槍を引っ提げ駆け寄ってきた織田の侍大将であったが、横から風をきって飛んできた矢が眉間に突き立ち、どうっと地面の上に倒れ込み、そのまま動くことはなかった。
「殿!ご無事で!」
「四郎五郎か、助かったぞ。じゃが、名乗っておる最中に討ったのでは、誰の首か分からぬぞ」
「い、今はそれどころではござりませぬ!ともかく今は撤退を!」
駆けつけてきたのは大久保四郎五郎忠政だけではなかった。大久保新八郎と甚四郎の兄弟も馳せつけて来たのだ。
「殿、お味方は総崩れ、退くより他はござりませぬ」
「黙れ!このままおめおめと岡崎城へ逃げ帰れと申すか!見よ、あの丘の上に信秀めの馬印も翻っておるではないか!これこそ、神仏が信秀を討つ好機をお与えくださった証!断じて退くことは許さぬ!」
新八郎が分からずやの若殿を説得しようと試みる間にも、「広忠の首を取れ!」と織田兵が斬り込んでくる。もはや、押し問答している暇すらなかった。
そんな折であった。勢子に追い立てられた三河の哀れな小鹿に向けて、ダーンと大地を振るわせる轟音が響いたのは。
「ぎゃっ!」
轟音が広忠の鼓膜にも届くと同時に、彼の側にいた松平兵が悲鳴を上げて倒れていく。矢を受けたわけでもなく、ましてや槍で刺されたのでも、刀で斬られたのでもない。
「の、信秀め、このような妖術まで用いるとは……!」
当時、最新兵器であった種子島こと火縄銃。火縄銃を知っていれば、織田信秀は貴重な鉄砲を持っていることで、動揺させることもできた。
しかし、火縄銃という兵器を知らない松平兵にとっては、妖術の類としか思えず、信秀が想定していた反応とはまったく異なっている。
それでも人間の生物としての本能であろう。これより進んではならぬと、本能が警鐘を鳴らしていたのだ。
ゆえ、刀を抜き、馬に一鞭くれて敵中へ斬り込まんとする広忠も、轟音の直後、側にいた者が倒れたのを見てすくんでしまい、前に進めなくなってしまっていた。
広忠が辺りを見渡せば、織田勢の突撃により大混乱に陥る松平勢が視界に映る。城内から織田兵が打って出て、援軍の突撃に勢いを添え、防戦に努める味方が討ち死にしていく、さながら地獄絵図。
こうなっては崩れた陣形を立て直すことも、ましてや織田信秀との決戦など思い浮かばなかった。
「ええい!退くな!尾張の奴ばら、我ら三河武士の敵ではない!あやつらは妖術などという搦め手を用いなければ、まともに我らに立ち向かえぬ腰抜け共ぞ!」
松平の当主として、織田の当主を前にして退くことなどできなかった。広忠にも、広忠の、松平の当主としての意地があるのだから。
だが、一つ広忠にも予想できなかったのは、己の声が誰にも届いていないことであった。太刀打ちの音や鬨の声にかき消されてしまっている。
そもそも、命のやり取りをしている時に、他人の声など耳にも入らない。自分が死ぬかもしれないという緊迫した状況下では、やむを得ない事由ではあるのだが。
「くそっ!」
誰にも己の声が届かない、思うように戦が運ばず、大勢の味方が討たれ、逃げ出していく。この
そんな折であった。突如、広忠の愛馬が叫び、暴れ出した。何とか落ち着かせようとする広忠であったが、愛馬の臀部に一筋の矢が突き立っているのが視界に入る。
「すまぬ、そなたにまで耐えがたい苦痛を強いてしまった――」
ここへ来て、己の無力さにとことんまで嫌気が指した広忠。己の意地を貫き、過去の敗戦を償おうと思い立った戦で、手ひどい敗戦を被った。多くの兵が討たれ、長らく辛苦を共にしてきた愛馬にまで苦痛を与えてしまっている。
――いっそ、このまま討ち取られてしまった方が良いのではないか。
不意に、己の心のうちに潜む
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