第2話 衝動

 いつも通り、定時を十分ほど遅れてタイムカードを切る。オフィスを出ると、とうに雨は止んでいた。夕焼け空が広がっている。何か現象が起こるのではないかと期待して、路上で手探りでコンタクトレンズに付け替えた。茜色の夕焼けはみるみるうちに赤黒くなってどろりとした禍々しい色になる。夕日は空に溶け込んでしまい、どこにもなかった。あぁまるでゴッホの絵のようだ。幾多の原色同士の殴り合いの末生まれた、形容しようもないあの酷く厚みを帯びた空。主張の強い色もあっという間に呑み込まれ、その色の一部となる。あれは血肉だ。人間が養分を取り、人間たり得ているのと同じだ。空も本来こうあらねばならなかった。精神疾患の患者の妄言じゃない。確実にこれは僕のみならず、僕たちの共有する意識なのだ。誰もがこの本来見えるべき世界を望んでいるに違いない。それを直視するのを恐れた人間どもが殻に籠っているだけじゃないか。この高揚する気分は到底抑えられるものではなかった。仮にその衝動を抑えられたとして、結局僕はその行動をしてしまうのだろう。気づけば僕の手には小振りなナイフが秘められていた。嗚呼これは現象の誘発だ。僕に現象を起こさせようとしているのだ。息が荒くなる。三歩離れた客観的な自分から見て、自分自身が最高潮の興奮状態にあることが分かった。もう制御などできない。これは幻なのだから。楽しむより他ないじゃないか。現象に従って、僕の身体は颯爽と動き始めた。

 

 初めは子供だった。まだ小学校低学年くらいの女の子二人。ぺちゃくちゃお喋りをしながら歩道を歩いている。途端に会話が途切れる。少女は不思議そうに隣の彼女の顔を覗き込む。彼女の顔は先程までの笑みを浮かべたまま固まっていた。そして、そのままゆっくり身体が地に沈んでいった。少女は彼女に近寄り、抱き上げる。


——ちゃん、——ちゃぁあん‼︎


必死に名前を呼ぶ。彼女は次の瞬間気付いたに違いない。友達の異様さに。彼女のこめかみには本来あるはずのない、銀色の柄。そこから夥しいほどの真っ黒な血がとめどなく溢れ出している。彼女は依然、笑みを浮かべたままであった。少女は戦慄する。彼女は死んでいる、笑ったまま事切れているのだと。少女の絶叫。それは混乱と絶望だ。たった一瞬で彼女を取り巻くそのひとつが終わってしまった。その意味不明な出来事。彼女の脳味噌では到底考えに及ばないこと。だから、彼女は叫ぶより他なかったのだ。生をたった今失った人形と壊れたオートマタ。人形の腹が裂け、中から得体の知れない触手が現れた。数十数百のそれはまだ生きている彼女を捕える。叫び狂う少女。触手はその身体を圧迫する。彼女は抵抗を見せるが、それも虚しく彼女は生命を奪われる。捩じ切られた首が地を跳ねた。それは車道に繰り出し、何も知らない車が跳ね飛ばす。


ぐしゃ。


ゲテモノどもが平べったく流れ出す。顔はもはや原型を留めていない。車は人間の頭部を轢き潰したことなどつゆほども知らず去っていった。残る身体は触手の中でぐずぐずの肉塊と化している。こちらももはや人間のものではなかった。肉塊と液体に早変わりした彼女は人形に取り込まれてゆく。やがて彼女らは一つに融合してゆく。何て哀れで何て美しい。

 

 僕は少し離れて事の顛末を鑑賞していた。嗚呼素晴らしい現象だ。これだから飽きが来ないのだ。僕の手にはまた新たなる刃物が握られている。身体は現象に従って自然にふらりと動き始める。


 *

 彼の隠れ家に着いたのは、それから一時間ほど現象を堪能してからだった。彼は驚いた表情で僕を迎え入れた。


「今日はやけに遅かったじゃないか」


低音が部屋の中を木霊する。ここの空間は音が反響しやすいのだ。


「まぁね」


僕は左目のコンタクトレンズをその場で外し、彼に近づいた。彼も、僕がいつものそれをやりたがっていると察したみたいで、不敵な笑みを浮かべた。僕たちは接吻を交わす。そこからまた奥まった彼の私室に縺れ込んだ。


 彼は妖艶に體を動かし、肌色を見せた。僕は洗い立ての純白のシーツにその身を委ねる。彼の頬に手をやる。嗚呼何て醜い、不完全な顔だ。僕の好奇心を唆る、その容貌。美しい、何度だってそう言おう。僕はこの顔を、あの日彼と会って以来ずっと愛し続けたのだ。単に性欲という言葉なんかで片付けてはならない。僕は彼と繋がりたいのだ。いっそ彼と一つになってしまいたい。彼のその不完全な體を求めていた。それほどまで僕は彼に、彼という存在に心酔している。今、僕の目は現実と同じ、ありのままの世界を映している。歪んだ世界が見えるわけでもない。それだのに彼を美しいと感じる。そう、彼に現象の力は必要ない。



僕の求める最高最悪な形。完全でいて不完全なもう一人の僕。それは彼だ。僕はあの時、彼に出会ったあの日を永久に忘れることができないだろう。彼の温かい無慈悲な体温と我が身を重ねながら、僕は懐古する。懐かしき記憶をゆるゆると思い起こす。

 あの日、僕は死んでしまおうと思った。何をやっても満たされないことに苛立ちと半ば諦めを覚えていたのだ。この心の空っぽさを嘆いた。今やっている仕事も単にレールに乗って誰かの跡をつけた先の終点だったみたいだ。いっそ何も考えないでいい、働かない脳味噌が良かった。だのに残酷だ。中途半端に考え事をしてしまう、ちょっとばかり優れた脳を押し付けられた。そこで生み出される総てが僕を否定した。完璧に生み出されたくせして、それを上手に扱えなかった不完全な僕。僕は半分しかないのだ。酷く歪で、痛々しくて、嗚呼——自己嫌悪だけが膨張し、他を潰す。気づけばいつもカバンに折り畳み式のナイフを忍ばせるようになっていた。どうせなら最高なタイミングで死にたい。不完全な自分に相応しい、華々しい死を迎えたい。それが僕の唯一の願望になっていた。

 

 帰路、夜空は月明かりもなく星一つない。ひたすらに真っ黒であった。近くの自販機で缶ビールを買い、そこでプルトップを開けた。肌寒い風が頬を撫で、哀愁を誘う。気を紛らわせようと勢いよく流し込む。アルコールが鼻を抜け、かっかと身体が熱くなった。心地良くなり、このまま自決してしまいたくなる。嗚呼もうどうせ何を考えたって意味のないことなんだから。死に際なんてどれも同じだろうが。ビールを余すことなく口に含み、そのままアスファルトに吐き捨てた。その時、煙草の匂いが鼻を掠めた。自販機の隣の喫煙所に人が座っていた。燻る煙の奥に、そいつの顔を見た時、慄然とした。肌が粟立つのを感じた。畏怖、と言った方が正しいかもしれない。彼を恐れ、同時に彼を酷く美しいと思った。彼の右半分は端正な顔立ちで、恐らく多くの者が好む顔つきである。しかし、極め付けは彼の左部分なのである。ある点において僕は彼を完璧だと思った。まさに自分が欲していた像だ、と。


顔の左半分は世にも悍ましく爛れていた。


嗚呼何ということ、総てが溶け出していったようであった。本来あるべき目はそこになかった。鼻も半分削がれ落ちてしまっている。全体的にその左だけ、ちょうどその夜のように黒かった。焼け焦げてしまっているようだった。彼はこちらを見て右口角だけで笑って見せた。酷く歪な微笑み。その歪みに僕は心奪われた。美しい。あるべき姿から半分が欠落したその顔。何という完璧な不完全さ。これぞグロテスク。僕の欠落と同種のものが彼には備わっていた。この瞬間、僕は理解した。


彼こそ、なのだと。


嗚呼そういうことなんだと。彼の方はとっくに分かっていたみたいだった。そして互いにこちら側の人間ということも察していた。僕らはたった今出会ったばかりだというのに、名前も知らないままホテルで一夜を共にした。彼のケロイドは頸部から大腿部まで、左半身に集中して見られた。彼曰く若い時に火事で負傷したらしい。顔の欠損もその当時の怪我だという。誰もが醜いと怖がり、蔑んできたその容貌。もしや彼の周りの連中は盲なのか、疑うほどである。僕はその不完全な體に強く惹かれた。その夜一夜かけて彼と戯れた。決して傷の舐め合いなんかじゃない。言うなれば、これは不完全な僕らを恒久的な未完成にするための過程だったのだ。


 情事を終えた後、彼は僕に言った。


「君は今にも死にそうな顔をしてるね」


僕は彼に自分の破滅願望を打ち明けた。彼は興味深そうに首を時折動かしながら聞いていた。一通り話し終えると、彼はくつくつと笑った。


「待っていたんだよ」


彼は言った。


「君という奴が来るのを、僕は心待ちにしていたのさ」


嗚呼何ということ。もしやこれは偶然ではなく必然。僕らは会うべくして会った。運命たるものなのか。彼はどうやら既にそのことを察知していたようであった。そして、彼は僕にその世にも奇妙で恐ろしく、心惹かれる提案を持ち掛けたのである。


「僕の実験の被験者になってくれやしないか」


君という奴にこの実験はピッタリなのだよ、彼はまたニヤリと顔を歪めた。彼のことは半信半疑であったが、悪くない提案だと思った。僕に合っているというなら、余程異様な実験なのだろう。暇潰しには丁度いい。僕はそれを承諾したのである。



【続】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る