夢現

見咲影弥

第1話 幻想

 何かが頬を弾いた。指でなぞると、それは真紅の血だった。空を見上げると見飽きた曇天が広がっている。梅雨の季節、雨は仕方のないことだ。しかし、だ。今日の天気は束の間の晴れだった筈なのだ。はぁ、と深い溜息をつく。鞄には折り畳み傘が入っているが、それを出すのは面倒くさかった。もういっそ濡れてしまえ。それはそれでいいじゃないか。また肩に一滴。真っ白なシャツに緋が滲み出す。浸透し、侵食し、やがて僕も染めゆくのだろうか。そんなことを考えながら、ぼんやりと奇っ怪な形をした雲を見つめる。何か現象が起こりはしまいかと目を泳がせる。その雲は僕の真上にあった。それは……人の形をしていた。あれが頭で、手で、脚で——。いつの間にか、それはくっきりと型取られる。大の字に寝転がっているようだ。ある時、ぼこり、と人形の丁度肩の辺りに瘤ができた。


ぼこ、ぼこぼこ。ぼこぼこ。


瘤は頭部、手脚、胴と次々出来始め、やがてそれは醜い塊と化す。人形の原型はもう留めていない。さらに瘤一つ一つが風船のごとく膨らみ、はち切れんばかりの大きさになり、

嗚呼あと少し——

 

 

爆ぜた。


 

勢いよく弾け、銃声が何発も鳴り響く。瘤が包んでいたものが一斉に降り注ぐ。雨だ。それは僕を貫くかのように真っ直ぐ落ちてくる。バケツで水を被ったかのように、僕はまともにその攻撃を受けた。六月の雨はまだ冷たかった。シャツは緋く染め上げられる。まるで派手に返り血を浴びたようだった。先程までの憂鬱な気分はどこかへ行ってしまい、僕の心だけが晴れ上がった。たまには雨に打たれるのも悪くない。

 

 とは言え、さすがに行く先々で血の滝行をするというのは、あまり気持ちの良いものではない。結局傘を差す羽目になった。半透明の傘の上で赤黒い液が踊る。視線を下ろすと、地に落ちた雨粒が最後の力を振り絞って跳ねている。何て健気な自然。酷く滑稽だ。それがまた良い。徹底的に壊してしまいたい、そんな衝動に駆られる。その衝動は多くが持つ性欲と同じ類のものである。きっと誰もが持っているに違いない。気づかないだけなのだ。勘づいてしまった奴は、その本性を隠そうと性交に走るらしい。その例外が僕だ。僕は人が生まれながらに持つ、この残虐な思考、快楽にいち早く気づいてしまった。しかし僕は性欲なんかで誤魔化さない、誤魔化せなくなってしまった。この衝動は、抑えられない。大袈裟に地を踏みつけながら歩く。生きる粒子を踏み潰してゆくのだ。ゼリー状の粒に内包された液体が飛び出る。愉快でたまらない。スラックスの裾が濡れるが気にしない。まるで小学生のように品のないことを堂々と行っていた、その時だ、足が思ったより深く沈んだ気がした。右足が見えなくなった。足元をよく見ると、深い紅の水面が揺らいでいる。やってしまった。血溜まりがそこにあった。薄暗くて見え難くなっていたため、窪みに気付かなかったのだ。靴の中にじわりと染み込んでゆくのが分かった。水分を含んで重くなった足をゆっくりと上げる。吐息が溢れる。ふつ、と糸が切れた。何もかも、どうでもよくなってしまった。どうせこうなったのなら、そうだ、とことんやってしまおうか。

 

 傘から手を離す。風に流され、空を舞って、それは何処かに飛んでいった。途端に横殴りの血の雨が僕を襲う。血に濡れる僕と、静か過ぎる都会の大通り。誰も僕を見やしない、構いやしない。雨は顔面に刺さるほどの勢いでぶつかり、散る。瞼に落ちた水滴がまつ毛を伝って滴り、景色まで緋くなる。惨劇の舞台に立った心地だった。全身に鮮明な赤を浴びながら、絶叫。己の声だけが、緋色の世界に響く。一匹狼の遠吠え。何処かでこの叫びが共鳴している、そう願う。雨は音を乗せ、無惨にも叩き落とす。意図せず左の口角が上がった。雨降りもなかなか悪くない。

 

 *

 ビルの軒下で多少の雨水を拭い取る。髪も随分時間をかけてセットしたのが台無しで、ワックスが落ちてしまっていた。しかし払った対価相応の快楽をさせてもらったので、満足だった。反射するショーウィンドウに顔を引っ付けて、何とかそれっぽくしてオフィスに入った。僕が入るなり周囲がどっと湧いた。一体何があったのだ、口々にそう言う。水遊びをしていたなんてとても言えないので、風に煽られて傘が飛んでいった、と適当な嘘を吐いて席に着いた。パソコンを起動すると、突然意味不明な文字の羅列が並び始めた。見たこともないミミズみたいな文字が這うように並んでゆくのを、ぼんやりと見つめる。ハッキングでもされたのかと思ったが、どうやら違うようだ。嗚呼これは現象だ。最下段まで文字で埋まると、その字は変形し始めた。字を構成する点と線が動く。上部から歪み始め、小さく縮こまってゆく。やがて総てが中心に寄せ集められる。それはまた異様な形に変わり、ドット絵のように——嗚呼、それは……奇妙な絵だった。人の顔だ、これは。目を閉じていて、口が半開きの生首。男か女かは判別し難かった。しかし、そんなことは特段考えるべきことではない。ここからなのだ。かっと画面の生首が目を見開いた。鬼でも見たかのような形相、というより、奴自体が鬼のようだ。ぎょろりとこちらを睨んでいる。その顔面が一瞬歪んだのが判った。画質が急に荒くなったようだった。そして——それは崩れていった。そう、文字通り。砂の城のように、頭部からさらりと——現れたのは真っ白な脳味噌。これはドット絵ではなかったか、いつの間にかその姿は鮮明になっていて、キーボードの上にでも置いてあるかのよう。生々しくて、艶やかで、しかしそれは段々と炭化する。漆黒の闇に冒されてゆく。これはまるで僕の脳味噌みたいだ。真っ新な脳に蓄積する悪知恵と汚らしい知識。消化し切れない欲求不満の塊は燻り、離れまいと壁にしがみつく。それは黒い染みとなり、次第に黒は白を駆逐する。真っ黒になった脳味噌は最期どうなるか。答えは、果てるのみだ。僕の脳味噌はあとどれくらい保つのだろうか。早くこの苦しみが終わってしまえばいいのに、蕩ける脳でそんなことを思う。


 何とも言えぬ、混沌とした現象だった。あの生々しい脳味噌はいつの間にか消えていて、叩き壊す間も与えられなかった。しかしこの遊びは退屈凌ぎに丁度良い。欲を言えば……もう少し過激なものも見てみたい。

 

 *

 仕事の合間。席を立ち、給湯室に行った。コーヒーを作るためだ。上の棚には近所のスーパーに売ってあるインスタントの粉があった。薬缶で湯を沸かし、流し場にあったカップに注ぐ。粉を流し入れ割り箸で混ぜて一口。不味い。まぁインスタントというのは、こういうものだ。そう自分に言い聞かせ、むせながら飲んだ。そこに人が入ってきた。同じ部署の、今年入ってきたばかりの新入社員だった。美人美人と評判の子で、別の部署から何人か見に来ていたこともあった。しかし、僕はそんな彼女の媚び諂うような態度がどうにも気に食わなかった。男を誑かすことには慣れているタイプの女で、同時に他の女や自分に惚れない男には厳しく当たるという、人格的に大きな欠落がある。僕が部屋を出ようとした時、彼女が僕の名を呼んだ。慌てて何だい、と振り返って愛想笑いをする。必要以上に塗りたくった真っ赤なリップが動く。


「私、見てましたのよ」


彼女は不敵な笑みを浮かべた。雨で濡れたシャツが冷や汗でまた湿る。


「私、見てましたのよ」


彼女は繰り返す。何を、だ?


「貴方が、発狂なさっているところ」


あぁ、今朝のことか。誰も居ないと思っていたが、まさか見られていたとは——。


「貴方は、異常者ですのね。破壊することに快楽を覚えていらっしゃる」


そうだ、僕は異常だ。この衝動を抑えることができない。無惨に壊れたその姿に愛着を感じる。それは、どうしてなのだろう——。


「貴方は自分と同じものを探していらっしゃるのでしょう。貴方が嫌悪の感情を抱き続けていた、不完全な貴方自身を探している。よくあることです。孤独な人が仲間を欲しがるのは」


「やめろ‼︎やめてくれッ」


必死に彼女を制す。そうでもしなければ、僕が、僕を創るものが、露わになってしまう。彼女を止めなければ——。インスタントの袋を開封した鋏を手に取る。切っ先は鋭利で、それは刃物であった。彼女が次の言葉を発する前に、彼女が僕を殺す前に——

 


鋏を振り下ろした。



衣服が引き裂かれ肌が露わになる。白過ぎて、血が通っていないようであった。皮膚が裂け、彼女の五臓六腑がいとも簡単に曝け出される。彼女はこちらをただじっとりと見つめ、叫び声ひとつもあげず、立ち尽くしていた。僕は理解した。これは現象だったのだ、と。多分これは彼女の幻影だ。生身の彼女ではない。おかしいと思ったのだ。彼女があまりにも一人語りをするものだから。僕が簡単に人を殺そうと考えてしまうものだから。そうだ、これは現象だ。そうに違いないのだ。酷く現実味を帯びていて、恐ろしい現象だ。彼女は割れた腹からひとつひとつ臓物を出してゆく。ゲテモノが床に並んでゆき、彼女はそれを淡々と行う。一体何を見せられているのか分からなかった。分かりたくもなかった。兎に角彼女が言ったことを早く忘れたかった。僕はその臓器を乱暴に踏み付け、給湯室を走って出た。自分の本性が曝露されそうで、自分を認めなければならなくなりそうで、怖かったのだ。洗面所に小走りで向かう。今は外してしまおう。仕事に支障が出るようではよろしくない。悪夢酔いしてしまいそうだ。コンタクトレンズを外してしまった。これでもう現象は起こらない。



【続】

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