100日目 1

その日はやけに早く目が覚めた。夏の盛りとはいえ、朝と夜は幾分か涼しい。だから暑くて目が覚めたわけではなく、むしろその逆で日が差し込む前に目覚めてしまった。

理由は簡単。今日、周が戻ってくるから。

「周……」

誰もいない部屋に自分の声だけが響く。昨夜は雲雀が俺の部屋にやってきて、思い出話をせがんできた。それに合わせて夜更けまで話し込んでいたし、寝こけてしまった雲雀を女将さんが連れて帰るまでこの部屋は賑やかだった。

そういえば、十日前までもそうだったな。店が開いたらすぐに周がやってきて、何かするわけでもなくただ話をする。騒がしくなく、かといって沈黙が不快なわけではない。

とても心地の良い時間だった。この静けさに、物寂しいと感じてしまうくらいには。俺は、周の存在を好ましいと思っていたのだ。

「責任取れ、ばか……」

雲雀は女将さんたちと暮らしていく。ヨネもきっと一緒だろう。そうなったら俺はまた一人になる。この静かな世界で生きていくことになる。別に、それくらい平気だけど。今までもずっと、この部屋に一人でいたわけだけど。

周の居る方が心地よくて、楽しくて、幸せに感じる。そんなことを知ってしまったら、もう出会う前のことなんが上手く思い出せなかった。

「とりあえず、水を浴びるか」

今日はきっと忙しい一日になるだろう。久しぶりに支度をしないといけないし。ほとんどの物を仕舞いこんだけど、これだけはいるだろうと思い用意していた打ち掛けと簪は、すぐ手に取れるところに片付けている。

どんな顔をして会おう。何を話そう。伝えたいことがたくさんある。変にソワソワした気持ちを抱えながら、ぐっと大きく伸びをした。


普段は、どうせ昼間に汗をかくからと思い開店の直前に体を拭いていた。俺を買う人も少なかったし、買ったところで体の匂いなど分からない距離でただ笑うだけ。だから他の陰間みたいに、念入りに手入れをしたことなんかほとんどなかった。

はずだけど。今日になってようやく、彼らの気持ちが分かってしまった。

「姉さん、どうしたんですか。こんな時間に」

「いや、その……香油を、塗ってもらいたくて」

「えぇ? 珍しいですね」

驚いた雲雀の反応はまさしくそうで、今までこんなこと一度もしたことがなかった。まだ肌が濡れている時に香油を塗り込むと、肌が柔らかくなり香りも良くなる。女のように柔らかい肉付きではない陰間たちはこぞって禿に頼んでいた。

言い換えると、そうすることで「今夜、自分は男に抱かれるのだ」と自覚するわけで。しかも俺は、この日のためにわざわざいい香りのする香油を購入したわけで。

つまり、これはあまり認めたくないけれど。

俺は、今日、周に抱かれることを望んでいるのだ。心から。

「い、いいだろ。久しぶりに会うんだ。たまにはな。たまには」

「はいはい、そうですね。たまには、ね」

「そうだ! ほら、頼む」

「分かりましたよ」

クスクス笑う様子は、以前と変わらない朗なものだった。どうやら雲雀も自分で新しい一歩を踏み出しているみたいだ。


「あれ、姉さん。お香変えました?」

「いや、変えてないけど」

「そうですか。あれ、ほんとだ。麝香だから、戻したんですね」

「戻したもなにも、他の香は使ってないけど」

いつも通り部屋には麝香を焚いている。これはもう昔からだ。だから自分では馴染みすぎて体に染み付いているような気さえするが。

雲雀は一体、何を嗅ぎ取ったんだろう。

「最近、というか周さんが通い始めてから、お香変えたのかと思っていました」

「変えない。変えてもいない」

「じゃあ、あの香りって周さんのだったんですね」

「あの……?」

そう言われて、思い当たるのは一つしかなかった。ずっと懐に入れていた香袋を取り出す。鼻先を近づけると、ほんのわずかしか香りがしない。

この香りが消える前に、必ず会いに来る。そう約束したのは今から十日前のことだ。

「あ、これ! この白檀の香り。ずっと姉さんから香っていたんですよ」

「そ、そうか」

「もしかして周さんのお香ですか?」

「まあ、そうだな」

最初は何とも思っていなかったけれど、今になればかなり恥ずかしいな。自分の香りを相手に渡して、染み付くほど持たせるなんて。

それってまるで。

(自分のものだと、言っているようなものじゃないか……!)

涼しげで落ち着いた顔の下で、どんなことを考えているんだろう。たまに見せた燃え盛るような劣情が、今は恋しい。

早く夜になればいいのに。

生まれて初めてそう願いながら、香袋を抱きしめた。


そうして、夜が来た。日が高いと言っても空はもう紺色に染まり、遠くで虫の声が響く。昨日まで蒸し暑かったのに、今日はどこか爽やかや風が吹いていた。

きっちりと着込んだ打掛けと、髪にさした簪に手を伸ばす。久しぶりに化粧をしたけれど、紅を乗せる必要もないほど血色がよかった。いつもだったら透けるように白いと言われるのに。

じっと座って開店の時間を待つ。これほどまでに、時が経つことを遅いと感じたことはあっただろうか。

「……落ち着け、俺」

自分ばかりソワソワしている気がした。周はきっと、普段と同じように訪れるだろう。もしかしたら十日振りだなんて微塵も感じさせず、今までと変わらない顔でやって来るかもしれない。

そうだとしたら、勝手に舞い上がって緊張している俺が馬鹿みたいだ。

「大丈夫、今日は雪じゃない。凍えるなんてこと、有り得ない」

百夜通いの話を、周は知っているだろうか。いつかこの話題になったけれど、詳しくは話さなかった気がする。

百夜通えと言われ、本当に通い続けた深草少将は最後、百日目に雪の中凍えて死んでしまう。どうせ叶わないからと、この話について初めの頃は何とも思っていなかったけれど。

どうしよう。本当にお話のとおりになってしまったら。遠い所に行っているそうだし、帰り道に何かあったら。便りが来る訳でもない。報せも来ない。

俺は、一人でずっと待ち続けることになる。

「……周」

小さく呟いた時、遠くで鐘の音がした。夜になった合図だ。そして、店が開く時間。

「っ……!」

居てもたっても居られなくて、俺は思わず立ち上がり部屋を出ていた。


杖も持たずに歩くなんて普段なら絶対にしなかった。足元はフラフラとおぼつかないし、裾の長い打掛けを着ている時は特に危なかっしい。誰にもそんなみっともない所を見せたくなくて、どんな時も杖は手放さなかった。

なのに、今。

周に会いたいという気持ちだけで前に進んでいる。長い廊下を必死に歩く。まだ半分も進んでいないのに右足は酷く痛み始めた。

どうしてこうも上手く動いてくれないんだ。今も、あの時も。どうして思い通りにいかない。俺はただ、目の前にある光に手を伸ばしているだけなのに。

「こんばんは、お久しぶりです」

「……っ、あまね……!」

遠くで周の声が聞こえた。間違えようがない。この十日間、ずっと夢見ていた声だ。それが今、現実として鼓膜に響いている。

ずるずる右足を引きずりながら、それでも前に進む。待っていたら、きっといつも通り部屋に来てくれただろう。でもその僅かな時間さえ惜しいのだ。こんなにも、誰かを切望するなんて。その切望は、人の理性を焼き切るなんて。

そんなの、今まで知らなかった。

「あと、ちょっと……」

ようやく下に降りる階段にたどり着いた。ぜぇぜぇ息を切らせ、汗を流す姿は決して高級陰間とは思えないだろう。

こんな俺でも、周は許してくれるだろうか。

ああ、会いたい。早く、会いたい。顔を見て、抱きしめて、あの白檀を胸いっぱいに吸い込みたい。

胸が張り裂けそうなほど鼓動している。頭にまで血が登り、喉の奥からは何か叫び出したい感情が込み上げてきた。

「あまね……っ!」

「えっ」

階段の上から、藍色の着流しが見えた。癖の強い髪が見えた。琥珀色の瞳が、俺を捉えて。驚いたように瞬いて。

まるで時間が止まったように、全てがゆっくりと、そして眩しく見えた。

「夜鷹、どうしてここに……」

「貴方が遅いから、っ、あっ……!」

身を乗り出した瞬間、体がぐらりと傾いた。もう右足にはほとんど力が入らず、体重を支えられなかったからだ。

手すりを掴もうにも汗で滑ってうまくいかない。

「しまった……!」

視界が揺れる。床と天井が逆さまになる。

落ちる、と思った瞬間。

「夜鷹!」

耳に届いたのは、この世で何よりも愛おしい声だった。


想像していた衝撃は、いつまで経っても訪れない。その代わり、鼻先には懐かしい白檀の香りがした。

これは、一体。

「驚いた……間に合ってよかった」

「あ、あまね!?」

ふと目を開けると、すぐ近くに周の顔があった。どこも痛くない。どうやら俺は、周に抱きとめられたらしい。引き寄せられた胸元からは激しく鳴り響く心臓の音が聞こえる。

その響きが、妙に現実味を与えていた。

「舞わずの太夫、だなんて。本当は嘘だったんだね」

「嘘? なんで」

「だって、舞っていただろう? 今」

確かに、無様に躓いて宙を舞ったのは事実だ。そして間一髪助けられ、起き上がろうにも足が痛くて身動きが取れない。

久しぶりに会えたのに。これじゃあ周から何と思われるか分かったものじゃない。

「君には地上が狭すぎたのかな。空じゃないと思い切り舞うことが出来ない。夜鷹の名前にぴったりだ」

「馬鹿にしているのか、それ」

「まさか。綺麗だったって言っているんだよ」

何を。そんな、都合のいいことばかり。そんなことを言っても、周はニコニコと笑っている。これは何を言っても意味が無い。それに、俺だって喧嘩をしたいわけじゃないんだ。

何とも形容し難い表情を隠したくて、こっそりと周の胸元に顔を埋める。それに気づいたのか、笑いながら揺れないようゆっくりと立ち上がった。

「ま、待て! このまま部屋に行くつもりか!?」

「足が痛むんだろう? それに、向かう先はお互い同じだ」

「だからって、見られたら、恥ずかしいだろ!」

「何を今更。ほら、腕を回して。落ちないように」

言われてみれば、今日で百夜目なんてことはここにいる誰もが知っている。そして、俺がこの日を待ちわびていたことも。たしかに今更だ。

それに、まあ、これは言わないけれど。

(安心する……周の腕)

不思議と、恥ずかしさよりも安堵の方が大きかった。周の腕に包まれていると胸の奥が暖かくなる。

これ以上何を言っても無駄だと悟り、言われた通り腕を伸ばして首に回した。周は俺を軽々と運んでいく。一人だと長く感じた廊下が、今は随分と短く思えた。


久しぶりに向かい合って見た周は、記憶よりも幾許か疲れて見えた。十日間、何をしていたか知らないがそれどまでに大変だったのだろうか。

とはいえ、今この時は誰も見ていない。いくらでも気を抜いていいし、甘えたことを言っていい。いつの間にか、この部屋は俺たちにとってそういう場所になっていた。

「さて、足はもう大丈夫かい?」

「少し休めばすぐに治る」

「それならよかった。いきなり空から降ってきたから驚いたよ」

「……その話は、もういいから」

 居た堪れなくなり、無理矢理話題を逸らそうとしてみる。周にもそれが伝わったのか、それ以上は何も言わないでいてくれた。

 そういうさりげない優しさは、十日経っても変わっていない。

「そうだ、食事は? ヨネに頼んでこようか」

「いいや。今日は大丈夫。時間が惜しいんだ」

「そんなに慌てなくても、朝まではまだ」

「まあ、うん。そうだけど。こっちの話だよ」

やっぱり、十日経っても周はどこか不思議なままだ。

「それで、単刀直入に聞くが……この十日間、どこに居たんだ」

今は何よりもこれが一番聞きたかった。あまりにも突然、俺の前から居なくなった。理由も言わず、どこに行くかも言わず。もしかしたら俺に飽きたんじゃないかと不安にさえなった。

正直に言うと、少しだけ腹が立っていたのだ。この俺を寂しがらせるなんて。

「寂しかったの?」

「違う! どうして貴方は、そう……! いや、なんでもない! 早く答えろ!」

「そうだね。じゃあ結論から言うと、小田原に居た」

「小田原?」

ここから小田原まで行くとなると、確かに時間はかかる。どんなに馬車を飛ばしても二日は必要だろう。

どうして、そんなところに。

「どうしてもお会いしたい方々が居たんだ。まあ、そこに居るというのも最近になってようやく分かったんだけど」

「誰だよ、それ」

「それはね」

そうして告げられたのは、想像もしていない名前だった。


「君の、ご両親だ」

「えっ……?」

周に告げられたのは、生きているかさえ分からなかった、俺の両親についてだった。どうして周が知っているんだろう。俺が何年かけても全く情報を得られなかったのに。

それに、どうしてわざわざ俺の両親を探しに行ったんだ。そんなこと、一言も言ったはずはないのに。

「さて、どこから話そうか……質問してくれるかい? その方が私も話しやすい」

「わかった。それじゃあ……どうやって、俺の両親について知ったんだ?」

俺の本名はおろか、名字だって知らないはずだ。家族がバラバラになったことは話したかもしれないが、どんな人達かも伝えていない。ヨネに聞いたとしても、おそらく詳しいことまでは知れないだろう。

だというのに、周は必要な情報を手に入れた。一体、どうやって。

「いくつか手がかりとなる情報はあったんだ。君が上野で家族と離れ離れになったこと。家紋が藤であること。それと、君には兄と姉がいること」

「それだけで、なんで」

「私の弟が、君のお兄さんと懇意だったようでね。色々と聞けたんだ」

「兄上が!? えっ、貴方の弟って、どういう」

「それは、今は置いておくとして。取引先の方々にそれとなく話を聞いてみて、小田原に上野から逃れた人達が何人かいると聞いたんだ」

まさか兄上が周の弟と仲良くなっていたなんて。自分の知らないところで様々なことが起きている。ずっと茶屋にいて、外に出ることもほとんどないのだから、疎くなるのもしょうがないかもしれないが。

自分の住んでいる世界があまりにも狭いのだと、突きつけられた気分だった。

「ご両親は、君のことをとても心配していた。元気に生きていると伝えると、喜んでいたよ」

「そうか……よかった」

「今は名前も変えて、素性を隠している。だからすぐには見つからなかったんだ。それに知らない土地での暮らしとあって苦労はしているようだった。でも、君を引き取ることは可能だと言っていた」

「俺を……!?」

まさか、そんな話になっていたなんて。両親が生きているだけでも嬉しいのに、まさか一緒に暮らそうと言っているなんて。もう二度と叶わないかと思っていた。あの日、上野で離れ離れになった時から、ずっと夢見ていた。

それが、叶うかもしれない。

そう思うと胸が湧き上がる気持ちになる。しかし、同時に疑問が生まれてきた。

「なあ……なんで、周は俺にここまでしてくれるんだ」

「二つ目の質問?」

「そう」

「……まあ、覚えていないとは思っていたけれどね」

「?」

困ったように笑う周の顔を見て、何故か一瞬だけ遠い昔の記憶が蘇ってきた。


そうだ。あれは確か、まだ俺たちが平凡に暮らしていた時のこと。世間は倒幕だの佐幕だのと揉めていたけれど、自分たちには無関係だと思えていた時のこと。

雪が降り積もり、吐く息が真っ白だったころ。

俺は、一人の少年に出会った。

「どうしたんだ? はぐれたのか」

「……っ」

兄と比べて背が低いと言われていた俺よりも、一回りほど小さな少年は、ぼろぼろの着物を引きずりながら路地裏にしゃがみこんでいた。

腰まである長い髪は癖が強くて、不安そうに揺れる瞳は。

(うわ、綺麗な琥珀色……)

紅白の着物は、この辺りでは一度も見たことがなかった。とても上質なものなんだろうけれど、煤や埃で黒くなっている。それに、燃えたかのように所々破れていた。

 こんな綺麗な子、今まで見たことがない。近くに住んでいるわけでもなさそうだ。迷子なら早く探してあげなければ。

「父や母は? 一緒に探してあげる」

「ちち、も、ははも、いない」

「いない? だから、探すと言っているだろう」

「そうじゃない。さがしても、いない」

「……?」

小さくて消え入りそうな声は、ひどく掠れて震えていた。大きな目がふるりと震える。でも、想像していたような涙は溢れてこなかった。

少年は黙ったまま、じっとこちらを見つめている。子供一人で、しかも見知らぬ地なんて不安でしかないだろう。本当は泣きたいだろうに。じっと、必死に我慢している。

そんな姿が、どうにもいじらしくて。

その場に膝を着いて、ゆっくりと髪を撫でた。

「泣きたい時は、泣いていいんだぞ」

「え?」

ゆっくりと、言い聞かせるように呟いた。

「辛い時は泣いてもいいんだ。たくさん泣いたら、寂しさも辛さも全部流れ出していく。そうしたらきっと、いつか、また笑えるようになる」

「……」

お前は武士の子だからと、父には厳しく育てられた。叱られて家の裏で泣いていると、いつも兄が来てそう言ってくれた言葉だ。

また笑えれば、それでいいだろう、と。

この子にどれほどの意味があるかは分からないが、その時の俺にはそれくらいしか思い浮かばなかったのだ。

「ないて、いいの」

「ああ。ずっと我慢していたらいつか本当に泣けなくなる。それならいっそ、思い切り泣いた方がいい」

「そう、か」

「うん。あ、ほら。俺のおやつをあげる。金平糖が入っているんだ」

辛い時は甘いものに限る。そう思って、大切にしていた袋を少年に渡した。藤色の、手のひらに収まるくらいの袋。

これで少しは元気になってくれるといいんだけれど。

「これ、もらっていいの?」

「いいよ。甘くて美味しいんだ。食べたことない?」

「ない」

「じゃあ食べて。探している人が見つかったら、一緒に」

こくり、と少年が頷いた時。

「りん! おい、琳! ここにいたのか!」

「兄上!」

遠くから、兄の声がした。隣には目の前の少年に良く似た小さな子供がいる。子供は、少年の姿を見た途端に走りより、思い切り抱きついた。

全く同じ、紅白の着物。兄弟なんだろう、子供は小さく「にいさま」と呟いた。

その瞬間、それまで何も言わなかった少年の瞳からぽろりと大粒の涙が流れてきた。ぽろぽろ、流れては雪の上に溶けていく。

「にいさま、ごめんなさい」

「うん……いや、もう、とおくにいってはいけないよ」

「はい」

二人で静かに涙を流す姿を、じっと見つめる。隣にいた兄が俺の手をぎゅっと握ってくれたことを思い出した。


「もしかして、あの時の……!?」

「そう。もう随分と昔のことだけど」

それまで不思議に思っていたことが全て繋がっていく。雲雀に言っていた励ましの言葉、少し大きめな香袋、そして、「りん」という名前。

まさか、周があの時の少年だったなんて。

「あの後、君のお父様に紹介してもらった孤児院に弟と一緒に引き取られたんだ。フランスの修道院が母体になっていて、そこで様々な言葉を学んだ」

「ああ、だから」

「有難いことにね。たくさんのことを教えてもらったよ。そのあと私が十五になって、二人で孤児院を出た。幸いにも伝手はたくさんあったから、貿易の真似事を始めるのは簡単だったんだ」

今から五年前、ということは、俺が禿から陰間になった頃か。同じような時に、知らないところでお互い新しい道をあゆみ始めたのか。

俺は「御百度姫」の夜鷹として。周は、弟さんと二人で生きていこうとして。方法も場所も違うけれど、何かを背負って歩み始めた。

「孤児院を出て、真っ先に思い浮かんだのが君だった。あの日、孤独に潰されそうだった私を救ってくれた君のことを」

「そんな、俺は救ってなんか」

「救ってくれたんだよ。どんなに辛い時と君の言葉を思い出したら立ち上がることが出来た。君は、私の光だったんだ」

俺は、そんな立派な存在じゃない。周が言うようなことは、何もしていない。それなのに。

「周……」

どうして、そんなにも、眩しそうな目で俺を見つめてくるんだ。

「本当はね。君にご両親のことを伝えて、小田原まで送り届けようと思っていたんだ。きっと君はそれを望んでいると思ったから」

確かに、俺はずっとそれを望んでいた。叶うのであればまた皆と一緒に暮らしたい。昔と同じようには生きていけないけれど、陰間ではなく、一人の人間として生きていきたい。

でもそれは、三ヶ月前までの話だ。今は、それとは違う願いが出来た。

「でも……ごめん。私は自分で思っているよりも、自分勝手な人間のようだ」

周の目が、熱で潤んでいた。琥珀色の瞳が、ふるりと揺れる。ああ、俺は、今何よりもそれを求めているんだ。

「言えよ、貴方の願いを」

「君と、生きていきたい。私のところに来て欲しい。ご両親じゃなくて、お兄さんやお姉さんのところじゃなくて。……私を、選んで欲しい」

「……っ」

それまで一度も自分の勝手な願いを見せなかった周が。今、何をすべきか理解していた周が。

初めて真っ直ぐな願いを吐き出した。

それこそが、今の俺が望む全てだった。


「それは、身請けってことか」

「どんな名前でもいい。ただ君と生きていきたい。それだけなんだ」

「……周」

ここに来てからずっと、家族のことばかり考えていた。どうすれば再会できるのか。情報を手に入れるためには、陰間という立場は非常に便利だった。

それでも胸の奥ではずっと考えていたんだ。

陰間の「夜鷹」ではない、ただ一人の人間として、俺を見てくれる人は居ないだろうか、と。だから誰にも抱かれなかった。陰間の俺は、孤高でよかった。誰彼構わず愛されたいわけではなかったし、目的があったから。

でも今。その目的は達成された。俺を縛るものは何も無い。もう自由に空を飛べる。背中がふ、と軽くなった気がした。

「夜鷹は、誰にも抱かれない。どんな大金を払っても、百夜通わなければ床には入れない」

「そう、だね」

「でも……」

そろりと腕を伸ばす。握りしめられていた周の手を、そっと握った。

「ただの人間である俺は、愛おしい人に抱かれたいと願っている。もう、ずっと」

「それは、つまり」

「うん……俺も、貴方と生きていきたい。これからずっと」

やっと言えた。期待してはいけないと言い聞かせていたことが、形になった。周、あまね、俺の愛しい人。

何も持たないただの人間である俺を、どうか愛してくれ。

「夜鷹……っ!」

「うわっ! 急に抱きつくな!」

「だって、嬉しくて……」

「あのなぁ、それだけで満足なら別にいいけど……俺は、その、期待してたんだぞ?」

「うん。分かってるよ」

そんなことを言いながらも、周は何時までも俺を抱きしめたまま動かない。腕に触れるとかすかに震えていた。擦り付けられた鼻先からは、少しだけ湿った音がして。

ああ、泣いているのかと思った途端、なぜだか俺も目の奥が熱くなってくる。二人分の涙が溶け合って、混ざり合う頃にようやく視線が絡まり、濡れた睫毛が触れるような距離で小さく笑い合う。

それが合図だったかのように、ゆっくりと俺たちの唇は重なり合っていった。

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