96日目

何も無い日は、驚くほど時間が経つのがゆっくりである。朝起きて、ヨネの手伝いをし、荷物の整理をしてようやく夜になった。

ようやく二本目まで受け入れた後孔は、少しずつ解れている気がする。毎晩、周の名前を呼びながら自慰に耽るのは気が引けるが、今はそれくらいしかすることがない。

いや、それもどうなんだと思うけれど。事実だからしょうがない。

枕元に置いていたいちぶのりに手を伸ばした時、襖が急に開いた。

「姉さん、あの」

「ひ、雲雀!?  なんだ急に!」

まさか突然雲雀がやって来るとは思わず、ひっくり返った声が出る。慌てていちぶのりを隠したけれど、さすがは禿。すぐに気づいたらしく「あ、ごめんね」と言ってくる。

謝られる方が気まずいんだが。

「どうしたんだ。こんな時間に」

「うーん……ちょっと傍に居たくて」

「また寂しくなったのか?」

「それもある、と思います。もう僕達以外誰もいないし」

しんと静まり帰った茶屋は、どこの部屋も空っぽだ。物音がほとんどしない。こんなこと、今まで一度もなかった。いろんな座敷に入っては三味線を弾いていた雲雀にとって、静かな茶屋は違和感でしかないんだろう。

座布団を引き寄せ座るように促し、俺も隣に腰を下ろした。今夜の相手は雲雀のようだ。

「荷物はまとめたのか?」

「はい。と言っても、姉さんと違って着物も少なかったからすぐに終わりました」

「まあ、そうだよな」

仕事の時は綺麗な着物を身につけていた雲雀も、今は麻の着流しという楽な格好をしている。髪は長いし目も大きいから少女のように見えるが、こうしていると紛れもなく少年だった。

俺も同じようなものだ。紺色の寝間着に、横に流して緩く結んでいる髪を見たらまさか陰間とは思われないだろう。

「そういえば引き取り手が見つかったって聞いたぞ。どこになったんだ」

「その話、なんですけど」

そこまで言って、大きな目が潤んでいく。この前もそうだったが、俺はどうにも雲雀の涙にめっぽう弱い。

滅多なことでは涙ひとつ零さなかったから、尚のこと。

「ど、どうしたんだ、急に」

「さっき、女将さんに聞かされて……まだ、気持ちが落ち着かないんです」

そう言いながらしゃくりあげる雲雀の背中を、この前周がしていたように優しく撫でてやる。

女将さんのことだ。悪いところは紹介しないだろう。でも気持ちが落ち着かないとは。一体、何を言われたんだろうか。

「落ち着くまでここにいればいい。周も来ないんだし」

「ありがとうございます……」

ぐしゅぐじゅ鼻を鳴らしながら大粒の涙を流す姿は、やはり見慣れない。しかし、随分と昔にこういうことがあった気がする。

あれはたしか、俺がここに来て間もない頃のこと。雲雀はたしかまだ赤ん坊だった。ようやく二歳になったくらいで、小さな手はふくふくとして柔らかかった。

その時の姿にどことなく似ている。どうしてだろう。

「夜鷹、悪いけど雲雀は来ているかい?」

「女将さん」

襖の向こうから、女将さんの声がした。その口ぶりから、ここに雲雀が居ることはわかった上で聞いているんだろう。そうなると変に嘘をついても意味が無い。

むしろこれは、雲雀の引き取り手について聞ける好機だろう。居心地の悪そうな雲雀には悪いが、女将さんには中に入ってもらおう。

「雲雀、ほら、迎えに来てくれたぞ」

「……まだここに居る」

「居ていいから。話をするだけ。いいか?」

「それなら……」

もそもそと俺の後ろに隠れたのを見て、女将さんに声をかけた。表情を見るとそこまで怒っているわけではない。むしろ、どこか心配そうな顔つきだった。


「夜鷹、悪かったね。雲雀の世話を焼いてくれて」

「いや、世話だなんて」

「……まあ、いいか。雲雀、アンタ、そこに居るんだろう? そのままでいいから静かに聞いてな」

寝間着を掴んでいた手がびくりと震える。そこまで酷い話ではない、だろうけれど。この様子はどこか不思議だ。

「雲雀はね、アタシと旦那が引き取ることになったんだ」

「そうなんですね! よかった、それじゃあ安心だ」

きっとどこよりも安心できる場所だ。最後まで決まらなかったから心配していたが、これが理由だったのか。

でも、だったら。どうして雲雀はここまで動揺しているんだろう。女将さんにはすごく懐いていたし、嫌がる理由なんて無いはずだ。

それなのに。なんで。

「……女将さんたちと暮らせるのは、嬉しいんです。でも、その……」

「雲雀。だから、何度も言ってるだろ」

「……っ」

背中越しで、また鼻を鳴らす音がした。

「実は、雲雀はね。アタシの甥なんだ」

「甥? え、雲雀が?」

「そう。本人もさっきまで知らなかったけどね」

そんな話、今まで一度も聞いたことがなかった。女将さんはぱっと見れば冷静で気風のいい人だが、とても情に厚い一面もある。床入りしたくないと言えば陰間以外の仕事を任せてくれると聞いている。それくらい、俺たちを大切に扱ってくれていた。

雲雀も当然同じだった。彼の望むようにさせていたし、必要があれば助言もしていた。ただ、それらは他の人たちと何も変わらないことだった。甥だからとか、そんな理由で甘やかすことも、逆に厳しくすることもなかったのだ。

「アタシには姉が居てね。それの、一人息子だ」

「お姉さんは、今どこに」

「……死んだよ。会津で嫁入りして、そのまま先の戦に巻き込まれたんだ」

「それって、俺の」

「そう。アンタと似てる。まァ、うちのはちょっとばかり北の方だけど」

会津と言えば激しい戦が行われた場所だ。多くの人が巻き込まれたとも聞いている。でもまさか、雲雀が関係していただなんて。

背中越しで体を震わせている小さな体を、思い切り抱きしめたくなった。

「それもあってさ。身寄りがないんだ、雲雀には。だからアタシと旦那が引き取ろうってなったんだけど」

「それが最善だとは思います。俺も」

「うん。でもねェ……」

どうやら雲雀にとっては、そうでもなかったらしい。いや。頭では分かっているんだろう。最も安全で、最も安心で、最も適した場所。女将さんたちと一緒に暮らすことは、すなわち雲雀にとって安息を意味する。

それでも泣いている理由。

俺には、なんとなくだけど理解できた。


「甥だから、負い目があるから、雲雀を引き取るんですか?」

「え?」

予想外の質問だったからなのか、女将さんは驚いた声をだした。きっとそんなこと考えたこともなかったんだろう。当たり前だ。そんなこと、考える必要なんかないんだ。

でも雲雀は、いや、俺も。

自分がどうしてそこまで大切にされるのかを知らないと、不安で前に進めない。愛されることに慣れていない。誰かから大切にされると、その裏に何かあるんじゃないかと疑ってしまう。

雲雀もきっと同じだ。禿として、この茶屋で大切にされてきたことは分かっているだろう。

しかしそうではない、禿ではなく、ただ一人の自分は果たしてどうなんだろうか。

女将さんが引き取ってくれると言うのは、自分のことを愛しているからではなく、血縁だから、先に亡くなった姉君への罪悪感からなのか。もしもそうだとしたら、おそらく雲雀は一人で生きていくというだろう。本当に自分が愛せる人、自分を愛してくれる人を見つけるまで一人で生きていくに違いない。

「答えてください。女将さん」

「全く……雲雀はともかく、アンタは分かってると思ったんだけどねェ」

「言葉にしないと分からないこともありますよ。恥ずかしいと思うことは尚更」

「やれやれ」

困ったような、恥ずかしそうな、不思議な顔で女将さんは俺の後ろのいる雲雀へと声をかけた。

「アンタは私の、希望なんだよ。雲雀」

「……きぼう?」

「そう。アンタここに来た時、まだほんの赤ん坊だった。でもアタシの手を握る力は強くてね。あァ、この子は何があっても守らないとと思ったんだ」

「それは、僕が甥だから」

「最初はそうだった。でも一緒に生きていくうちに、そんなこと忘れていったよ」

雲雀がここに来た時のことは、俺もよく覚えている。着ている服も、肌も、汚く汚れていたけれど。女将さんに抱かれた赤ん坊は力強く泣いていた。今を精一杯生きているんだと言わんばかりに。

小さな手でしがみつかれ、動けなくなっているのに女将さんは嬉しそうに笑っていたことを覚えている。

「アタシと旦那には赤子は出来ない。姉も死んで、社会は荒れ果てて……なんだィこの世界はと思っていた時に、アンタが来たんだ。薄汚れていても、ちっさくても、ちゃんと生きているアンタに」

「……っ」

それから赤ん坊はたくさん食べ、寝て、泣き、スクスクと育っていった。最初はどこか他の家に引き取ってもらおうかという話も出たのだ。陰間茶屋で育てるなんて、と言う人が少なからずいたのだ。

でも、女将さんは絶対に譲らなかった。親がいないのなら自分が親代わりになる。欲を金で買う場所がよくないというのなら、無条件の愛を注いでみせる。この世で誰よりも幸福な子供にしてみせると啖呵を切った時は、俺も思わず拍手をしてしまった。

「アンタの名前は、アンタの人生が晴れた日のように輝かしいものであるように、って旦那が決めたんだ。アタシたちは本当の親にはなれない。でも、せめて名前だけでも贈りたかったんだ」

「そんなの、そんなの聞いたことない……! 僕、知らない!」

「当たり前だろう。恥ずかしいじゃないか、こんなの」

口ではそう言うけれど、本当は女将さんが口止めしたのだ。もしも事実を知ったら雲雀は様々なことを気にしてしまう。他の禿や陰間に引け目を感じてしまうかもしれない。

だから、他の人と同じように接するのだと。むしろ他の人よりも厳しくするからやりすぎていたら止めて欲しい、とも。

なんて不器用な人なんだろう。そして、なんて愛情深い人なんだろう。と、その時に実感した。

「ああ、もう。恥ずかしすぎて死んじまいそうだ」

「女将さんがちゃんと説明しないからですよ」

「わかったよ。それで、雲雀」

背中越しで身じろいだ雲雀が、そろりと這い出てきた。目元は真っ赤に染まっている。頬を伝う涙は拭われることなく、畳に落ちていった。

それでも、もう目の奥には不安の色は存在していなかった。

「女将さん……僕、多分母さんって呼べない、と思います」

「構わないよ。本当に母さんじゃないんだから」

「僕にとって女将さんは、女将さんなんです。だからすぐに、その、息子? みたいには出来ないけど」

「しなくていい。アンタはアンタだ。アタシはアタシ。今まで通りさ」

「でも、その。一つだけ、してもらいたいことがあって」

「なんだい?」

膝でずるずる歩いて、女将さんの前まで進む。それから少し悩み、意を決したのかそろりと腕を伸ばした。ぎこちない手つきで女将さんに抱きつく。きょとんとしていた女将さんの表情が、ぐしゃりと歪んだのが見えた。

「たまに、たまにでいいから、こうやって抱きついてもいいですか」

「雲雀……」

「たまにでいいんです、忙しい時とか、嫌な時はしなくていいから! だから」

「……バカだねェ、アンタ」

ゆっくりと、雲雀の髪が撫でられる。不器用で下手くそだけど、雲雀は嬉しそうに笑った。その声にまた女将さんは強く抱きしめていた。

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