81日目

「それじゃあ、また」

「うん……また」

きっちりと着物を着込んだ周が、どこか気恥しそうに言う。それに対して俺もまた、ふわふわした気持ちで見送りの言葉をかけた。なんだか、まだ夢みたいだ。ふすまの向こうに姿は消えたけれど、白檀の香りはまた優しく傍に寄り添ってくれている。

酒を飲んだ日と違って、周は昨夜のことを全て覚えていた。そして、謝ったり困惑するのではなく、今にも泣き出しそうな顔で俺を抱きしめてきた。そうして、別れを惜しむかのように髪を撫で続け、ついに最後の線香が消えたと告げられるまで片時も俺を離さなかった。

その熱は、今でも体に残っている。

「夢、じゃ、ないのか」

地に足が着いていないような気持ちで一人呟く。目の前には乱れたら布団や汚れた着物が散らばっており、早くそれらを片付けないといけない。わかってはいるが、体が動かなかった。

あの口付けは本物だった。俺を求めたことも、間違いじゃなかった。それってつまり、周は俺のことを。

「い、いやいや! まだ何も言われていないし! 気が早い!」

また激しく動き出した心臓を叱咤して、片付けのためにのろのろ立ち上がる。昨日から俺の心臓は酷使されすぎているな。

だってあんな顔を見せられたら、期待してしまうだろ。遊び慣れた色男ではなく、純粋で真っ直ぐな周なんだから。勘違いするなという方が難しい。

「あー……」

「夜鷹、ちょっといいかい」

「うわぁっ!?」

一人でゴロゴロ転がっていると、急に部屋の襖が開けられた。驚いた拍子に右足を畳にぶつけてしまい涙が滲む。

なんて日だ。

「こ、声をかけてくださいよ! 女将さん!」

「かけただろう? それに、アンタは別に見られて困るものなんかないだろうに」

それもそうだけど。今まさに、女将が見おくって来たのだ。この部屋には俺しか居ないのは事実ではあるが。

この、散らかった様をどう受け取るだろう。

「こんな朝早くにどうしたんですか」

「客がいない時じゃないと話せないことでね」

「ふぅん?」

それこそ本当に珍しい。わざわざ俺の部屋に来て話すことだなんて。一体なんなんだろう。

「夜鷹、驚かずに聞いておくれよ?」

「う、うん」

改まって正座をした女将に、俺もつられて姿勢を正す。

「いいかい、昨日、通達が来て」

静かに伝えられた話に、俺は頭が真っ白になった。何も考えられないまま、時だけが過ぎていく。

外では呑気な雀たちの声が響いていた。


「退去……、って、どういうこと……?」

「言葉通りさ。いつかは、とは思ってたけど潮時だったみたいだね」

「そんな……」

女将が伝えてきたのは、政府によりこの陰間茶屋が摘発されたことだった。今までも何度かそういうことはあったけれど、なんとか言い訳をして見逃してもらったらしい。

ただ、今回はもう逃げようが無い。これ以上は庇いきれないと、馴染みの役人に頭を下げられてしまったそうだ。

「元々は、徳川様の時代から危なかったんだ。それをずっと庇ってくれててね。そこまで言われたら諦めるしかないだろ」

「でも、じゃあ、俺たちは」

「身寄りがある子たちは里に返すよ。ただねぇ……」

身寄りのある子が、陰間茶屋にいることは少ない。昔はどうか知らないが、少なくとも今はほとんどが孤児だと聞いている。里に帰ったところで居場所なんかない。

それに、俺には。まだ周との約束が終わっていない。

「周は、知っているんですか」

「お客様には話したよ。周様にも先程伝えておいた」

「それで、なんて」

「あんたの事を心配してたよ。それと、約束は守らせて欲しい、ともね」

よかった。周もちゃんと分かってくれていたんだ。あと二十日したら、正式に床入りするって。俺だけが期待していたわけじゃない。

それだけで、懸念事項が一つ消えた。

「詳しいことはまた昼に話すよ。すまないね、疲れている時に」

「いや、別に疲れたなんか」

「嘘をお言い。そんな色気だだ漏れで何を言ってんだか」

「い、色気!?」

慌てて襟元を正しているうちに、女将はさっさと立ち上がってふすまへと向かっていく。本当は、もっと困惑しているはずなのに。

いつだって俺たちのことを一番に考えてくれる。俺たちが不安にならないよう、わざと平静なふりをしてくれる。目元に残る微かな疲れの色がその証拠だ。

「さっさと寝ておしまい。また夜には周様が来られるんだから」

「は、はい」

「その前に、布団を新しくしておくこと。いいね?」

隠せたと思ったのに、全くそんなことなかった。あっさり見破られたことと、それで察されてしまった内容に頬がまた熱くなった。

普段より随分と時間がかかったけれど、ようやく部屋の片付けも終わり、寝ようと思ったものの、頭の整理ができなかった。この茶屋は、政府の目から逃れるためにただの「茶屋」だと言っている。表向きは酒と食事を提供する場であり、その時に「偶然」出会った少年の部屋に行くため、元禄以前のような正式な陰間茶屋ではない。

そして、ここで働く陰間たちのほとんどは孤児ばかりだ。戦乱の中で家族を失い、帰る場所のない子供たちを女将さんとその旦那さんが育ててくれた。俺もまたそのうちの一人で、雲雀も同じだ。

この店がなくなったら、みんなはどうするんだろう。馴染みの旦那に引き取られるとしたら、店子にしてもらえるかもしれない。男妾の可能性もある。しかしそれでは先がない。変なところに託すようなことは、女将が決してしないだろう。でもそう簡単に見つかるだろうか。

「俺も……どうなるんだろう……」

考えることが多すぎる。昨日から本当に色々あった。やっぱり今は少し眠ろう。悩むのは起きてからでも遅くはない。

重たくなってきた瞼はそのままに、ゆっくりと夢の中に落ちていった。


その日の夜、いつも通りの時間に周がやってきた。普段はほとんど手ぶらなのに、今日は大きな風呂敷包を抱えていた。表情もどこか固い。きっと、昨日女将から聞かされた話のせいだろう。

それても、視線があった途端に嬉しそうな顔で笑ったから、それだけでどこか救われるような気になれた。

「夜鷹、あの、体調は……」

「なんともない。というか、貴方の方こそクマが酷いぞ」

昨夜見た時以上にくっきりとしたクマが目の下にある。肌が白いせいで酷く目立つし、痛々しくさえ見えてしまう。

もっと寝かせてやればよかったと思う反面、あの悦びを無下にはできなかった。それもまた事実だ。

「私は大丈夫。君に会えたら元気が出たよ」

「またそんなことを……」

「本当だ。出来ることなら毎日、今朝のように抱きしめていたいけど……そうも、いかなくてね」

そんな恥ずかしいことを、何事もなく言った後に大量の書類を取り出した。よく見ると一度は聞いた事のある商家や資産家の名前が載っていた。

それが一つ二つではなく、何十枚も。どれも丁寧に赤で走り書きがされていた。

「女将さんに頼まれたんだ。ここで働いている人達の行き場がないか、と」

「それで、こんなに?」

「仕事で取引のあるところで、信頼に足る家を見繕ってきた。選択肢は多い方がいいと思って」

たった一日で、しかも自分の仕事をしながらここまで出来るなんて。一体どれほど有能なんだ。

「ただ、私には誰がどこの家に相応しいか分からない。だから君に選んで欲しいんだ」

「なるほど。それは有難い。俺もどうにかしたいと思っていたんだ。でも、その方法が分からなくて」

周が寝る間も惜しんで走り回っている間、俺はただ頭の中で考えることしかできなかった。なにも力になれなかった。

でも、周は違う。自分の持っている全てを使って俺たちを助けようとしてくれている。その優しさは、やはり誰に対しても向けられるものなんだろうか。

そう考えると昨夜のことが途端に切なくなる。もし、隣に居たのが違う陰間だったら。もしかしたら、同じことをしたんだろうか。俺じゃなくても百夜通うのだろうか。

「夜鷹……どうかしたかい?」

「いや、別に」

「質問に嘘をついてはいけないと約束したはずだよ?」

「ずるいぞ……!」

こんな時にそれを持ち出してくるなんて。これじゃあまるで、俺が意地を張っているみたいじゃあないか。自分だけが特別であって欲しい、一番であって欲しい、この世の誰よりも愛おしいと思って欲しい。

そんな、分不相応な願いを抱いていると、気づかれてしまうじゃあないか。

「私は君が思っているほど、優しくないよ」

「なにを、急に」

「君の顔がそう言っていた。誰にでも優しいのか、って」

「……」

なんでもお見通しってわけか。それなら強がっても意味が無い。渋々、小さく頷く。周はそれを見てなぜか困ったように笑った。

「優しいとは言われる。確かにね。でもそれは、言い換えれば誰にも執着しないということだ。表面的な付き合いで満足しているだけ。でも」

琥珀色の瞳が、切れ長で美しい眼差しが、じっと俺を捕らえた。

「こんなにも深く知りたいと思ったのは、君だけだ」

「わかった、わかったから……!」

「本当に?」

「本当! なんだってそう、恥ずかしいことを真正面から言うんだ!」

「思ったことを言っただけなのに」

「それが恥ずかしいんだ! ほら、書類! 早く見せろ! 時間がいくらあっても足りないんだぞ!」

自分でも分かるくらい、耳が熱を持っていた。これはきっと顔も赤いんだろう。今更こんなことで恥ずかしがっているのもおかしな話だけれど、やっぱりどこかくすぐったい。

今までとは違う、どこか艶っぽい雰囲気が漂っている。その擽ったさが心地よくて、いつもよりほんの少しだけ周の近くに腰を下ろした。


周の言う通り、集められた家は今すぐにでも孤児を引き取れるくらい大きく、そして家主もみな誠実そうな人ばかりだった。

「女将さんに頼んで、行先のない子達についてまとめてもらったんだ。これを見ながら、どこの家が相応しいか決めていきたいんだけど」

「それなら、俺がしよう。貴方は疲れているだろうから、適当に休んでくれ」

文机を引き寄せ、周には布団を敷いてやる。昨夜のあれはなんだったのかというくらいに色気はないか、状況が状況なだけにしょうがない。

女将さんとこの店にはとてもお世話になってきた。ここで働く陰間たちも、ただの他人とは思えない。俺が、彼らを少しでも助けることができるのであれば。そうしたら。

(あの日みたいに、後悔することはないのかもしれない)

これで、過去が許されるわけではない。ただの自己満足で、恩着せがましいのなもしれない。それでも、今度こそ守りたい。どんな形であっても。

「夜鷹、あまり無理をしないで」

「貴方が言えることではないだろう。早く寝ろ」

「君一人に任せて、呑気に眠れるわけないだろう。私も手伝うから」

「全く、頑固だな、貴方は!」

このままだといつまで経っても同じことの繰り返しだ。俺としては、

周に休んでもらいたい。周は、一人で寝るのは忍びない。

それなら、妥協案はこれだろうか。

「……ん」

「え?」

「ん!」

足を伸ばして、膝を叩く。言葉にするのは流石に恥ずかしかった。だから、わかりやすく伝えたはずなのに。

こういう時に限って察しが悪すぎる!

「ひ、膝がどうしたの?」

「寝るなら使えって言っているんだ!」

「あ、え、枕ってこと?」

「そうだよ! なんで急に恥ずかしがるんだ!」

昨日あんなことしたなのに! たかが膝枕くらいで恥ずかしがるな! いや、それは俺もだけど!

「これなら、貴方も眠れるし、俺も仕事が捗る」

「私が君の膝で寝たら、どうして仕事が捗るんだい?」

「聞くな! 恥ずかしいなぁ……!」

膝に頭を乗せた周は、最初のうちは落ち着かない様子だったが、慣れてくると睡魔に負けたのか穏やかな寝息を立て始めた。

こんな、男の膝でよく眠れるものだ。それほどまでに疲れていたのか。

「……さっさと終わらせるか」

そうしたら少しは周とゆっくりできるかもしれない。そう思い、書類の山に手を伸ばした。

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