70日目


長い梅雨が明けて、遅い時間まで空が明るくなってきた。もう夏なんだと思いながら、重たくて暑い打掛けの用意をする。夜はまだ気温が下がるが、昼間は汗が流れるほどに暑い。

他の陰間たちは「どうせすぐ落ちるんだし」と言って、手を抜いて化粧をしている。だが、俺はそうもいかない。毎日きちんと髪を結って、化粧をして、重苦しい打掛けを着ている。

そして、客には全くその辛さが伝わらないよう涼し気な顔をする。

はずなんだけど。

「暑いのなら、脱いでもいいよ」

「あのなぁ……」

どういうわけか、周には何もかもバレていた。汗も流れないよう気をつけていたのに。表情だって、変えないようにしていたのに。

なんでバレた。

「陰間に打掛けを脱げだなんて。誤解されるぞ?」

「誤解? どんな?」

「どんな、って……」

打掛けを脱がせるとは、つまり、床入りするということだ。蔭間茶屋では当たり前の会話だけど、まさか今になってこんなことを説明することになるなんて。

 これはこれで、恥ずかしい。

「せっかちだと思われるってことだ」

「せっかち」

「そう。会話もせず、がっついて床入りする男に思われるぞ」

そこまで言うと、ようやく理解したのか頬を真っ赤に染めていく。どこまで初心なんだ。本人にその気がないとしても、相手がどう受け取るかによっては大変なことになる。

陰間茶屋に通い始めて、もう七十日にもなるというのに。驚く程、周は純粋すぎる。

「そ、その、私は別に、そういう意味で言った訳じゃなくて……!」

「わかってる。本当に心配してくれたんだろう?」

笑いながら問うてみる。耳まで真っ赤にした周が、がくがくと首を縦に振っていた。どうして、こうも可愛らしいんだろう。ついからかいたくなる。

というか、周は本当に俺のことを抱くつもりでいるのだろうか。こんなことで慌てていたら本当に床入りした時に固まってしまいそうだ。そもそも、男同士の仕方は知っているのか? まさかそこから教えないといけないのだろうか。そんなの、一晩じゃ絶対に足りない。

「ああ……恥ずかしい……本当に慣れていないんだ」

「そんな感じがして安心する」

「安心だなんて……」

まだ熱が引かないのか、着物の衿元をパタパタ扇いでいる。そうじゃなくても今日は蒸し暑い。そういえば、話題はまさにこれについてだった。

床入りをする時、当然打掛けは脱ぐことになる。中には着たままの方が好きという客もいるが、全部脱がせてじっくり堪能する方が多いのだとか。つまり、陰間にとって打掛けを脱ぐことは、その客に体を委ねるということ。

まだ百夜も経っていないのに、そこまでしていいのだろうか。それとも、本当にのぼせないためという理由だけで脱いでもいいのだろうか。

周だったら、きっとおかしなことはしないだろうけど。

「えっと、確認したいことがあるんだが」

「うん。なに?」

貴方は本当に俺を抱きたいのか?

百夜目、俺は貴方に抱かれるのか?

そんなことを聞きたかった。そうして、安心したい自分もいた。どんな答えが返ってきても、周の本心が分かればこの落ち着かない気持ちも少しはマシになるだろう。

仮に抱くつもりがないというのであれば、それはそれで諦めもつく。その代わりと言ってはなんだが、むしろどうしてここまで通い続けたのか聞くことも出来るだろう。

でも、もし。

もし、本当に俺を抱くつもりでいるのであれば。

(少しは期待しても、いいんだろうか)

ずっと俺が望んでいたもの。欲しかったもの。それを、周に望んでもいいんだろうか。

でもそれを聞くにはまだ早い。あとひと月もあるんだ。今はまだ、そんなことを聞いてはいけない。

「確認したいこと、というのは……その、本当に打掛けを脱いでもいいのか、ということで」

「ああ。そういうこと」

結局、臆病な俺は当たり障りのない質問をするしかなかった。

「君の体調が最優先だからね。私のことは気にしないで」

「そういうことなら有難く脱がせてもらうが」

「あ、でも……一つだけ、お願いがあるんだ」

「お願い? 珍しいな、貴方がそんなこと言うなんて」

「うん……」

今まで様々なことをしてきてもらっているんだ。願い事の一つや二つ、俺に出来ることであればなんでもしよう。あまり難しいことじゃなければいいが。

そんなことを思いながら、またしてもソワソワし始めた周に視線をやる。今日はそういう姿をよく見る日だ。

「あの打掛けは、着て欲しいんだ」

「あの?」

「そう、あの、私が贈った打掛け……あれだけは、たまにでいいから着て欲しいんだけれど」

「別にいいが……それのどこがお願いなんだ」

「それは、ええと……すごく自分勝手だというのはわかっているから、笑わないで欲しい、けど」

「なんだ、回りくどいな」

「うう……」

頬どころか耳と首まで真っ赤にしている。なんなんだ。俺を取り残して勝手に恥ずかしがるな。なんだか俺も気恥ずかしくなってしまうだろ!

「私以外の人が贈った打掛けを、着て欲しくないんだ」

「えっ」

それは、今まで一度も見たことのない、周の執着心だった。独占欲だった。明確に、俺を求めている証だった。

そりゃ、確かに百夜までの間は周だけのものになる。それ相応の金を払っているのだから当たり前の話だ。

でも、これまでそんな素振りは見せてこなかった。ただ食事をして、話をして、それだけで満足していた。

なのに。なのに。

「本当に、いいのか」

「それは私の台詞です。こんなみっともないことをお願いしてしまって」

「そんなことない!」

みっともない、だなんて。そんなはずない。俺はずっとこれが欲しかった。周の生活に、人生に、少しでも色を残せたらいいと思っていた。百夜経ったら俺のことを忘れてしまうかもしれない。何もかも無かったことにして、別の人生を送るかもしれない。

だとしたら、いいや、だからこそ。

「俺も、同じだから……同じように、思ってたから」

身につけるもの、口にするもの、鼻をくすぐるもの、目に入るもの。それら全てが周から与えられるものならいいのに。

いつまでもこの優しくた温かい世界に包まれていられたらいいのに。俺だって、そんなことを願っていたから。

「嬉しい、本当に」

「よかった……」

へにゃりとみっともなく笑った周の顔は、普段から穏やかに笑っている彼とはまた違った印象を与えてきて。なぜだか胸の奥がぎゅっと締め付けられた。

あと三十日でこの日々も終わる。どうかその時まで、最後の瞬間まで、俺たちの間に幸福な時間が過ぎますように、と。

どこにいるかも分からない神にそう願っていた。

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