僕らが、いつかキスをしたくなったのなら

百門一新

第1話

 玉城(たまぐすく)の国道を自転車で走らせると、日差しに照らし出された土と緑の匂いがする。


 それにまじって微かに匂うのは、佐敷(さしき)の高台から一望出来る海からの潮風だ。家から出る時、港に引き上げられた船にもその匂いを思い出した。


 年に一度のついていない日は、必ずといっていいほど爽快な夏の青空が広がった。


 高校二年生のマコトは、年の中で一番その日を警戒した。めでたい日なのに、嬉しいだとか特別な日だとかいう思いは、もう彼の中にはなかった。


 迎えた朝も、色々とついていなかった。目覚ましを止めようと伸ばした手が届かず、力を入れた拍子にベッドから滑り落ちてしたたかに鼻を打った。窓を開けると部屋に蝉(せみ)が飛び込んで来て、それを目敏く察知したトラ猫のマーシャが部屋で大暴れしたので、嵐が去ったあとのような部屋を片付けるのにも一苦労した。


「あっはっはっは! なんだそりゃ!」

「父さん……笑いごとじゃないよ」


 リビングで鼻に絆創膏を貼り付けている間、父は食卓でマコトを笑った。港で漁業に就いており、褐色に焼けた肌、盛り上がった筋肉も眩しい。


 それに対して、自分はどうだ。


 マコトは、貧弱な身体を見下ろして「ぐう」と声を上げる。


 十七歳を迎えても真っ白で細いままだ。自然と運動系から遠ざかってしまった結果、体格に自信のある少年達といよいよ差が付いてきた気がする。


「おう、そういえば誕生日おめでとう」


 出掛けようとした父が、思い出したように言ってきた。


 普通、それを顔を見て一番に言わないだろうか。マコトは鼻白んだ。息子の誕生日を忘れていただろうと睨み付けると、父は余裕な笑みで続けてくる。


「そうそう、刺し身の盛り合わせだって頼んであるんだよ。握り寿司もたんまりさ」

「ふうん。――それで?」

「ははは、やだなぁ。俺は、年で一番この日が楽しいんだぜ。賑やかでいいじゃないか。それじゃっ、ケーキは母さんに任せたから!」


 父は、煙草で黄色くなった歯を見せて笑うと、家を飛び出していった。


 逃げたな。そう思って苦々しい顔をしているマコトも気にせず、母は楽しそうに笑う。


「大丈夫よ、お母さんがちゃんとケーキを買ってくるから。今日は定休日じゃないから、たぶん開いていると思うわ。夕方まで残っているかしら?」


 マコトは二年前の、刺し身で盛りつけられた誕生日ケーキを忘れてはいなかった。思い出してゾッとし、朝食にありつきながら慎重に釘を刺す。


「母さん、残っていなかったらケーキとか要らないから」


 だから、魚をケーキの形に見立てようとはしないでくれ。


 どこかちょっとのんびりとした母。そして、刺身を大量に使い込んでケーキ形に固めるのも平気でやってのける父。


 マコトの家は、そんな三人暮らしの家庭だった。


 ◇◇◇◇◇


 休日にお婆ちゃんに会い行くのは、マコトの習慣になっていた。


 玉城の国道を、自転車で真っ直ぐ走り続けた先に家があった。通い慣れた道は、マコトが幼心ついた頃から変わっていない。国道の別れ道の交差点はずいぶん綺麗になったが、そこから進んだ小道はなんら変わらなかった。


 南側には、どこまでも広がっている畑。北側には、山のような緑の傾斜があって、ぽつりぽつりと家や建物があった。


 ――マコトが、マチ子と出会ったのは、もうずいぶん前のことになる。


 地元の学校は一つしかないため、幼稚園からずっと一緒だった。高校も他の多くの子達と同じく、ここから自転車で通える一番近いところを受験した。


 けれどマコトは、彼女と出会ったことは、偶然と奇跡の間に起こったような不思議な気持ちを覚えてもいた。


 中学二年生のヴァレンタインの日、マチ子からもらった本命チョコは、マコトを驚かせると同時に恋をさせた。


 その日からマチ子は、マコトの初恋の子になった。


 中学を卒業する年のクリスマスにもらった緑色のマフラーは、今でもマコトの宝物だ。


 玉城に住むお婆ちゃんの家へと続くこの道も、彼は、マチ子と何度も自転車で駆けたことがあった。


 マコトのお婆ちゃんは独り暮らしだ。平日は父か母が顔を出すが、マコトが休みの日は彼が食糧を持ってお婆ちゃんに会いに行った。


 お婆ちゃんは、ふっくらとしていて庭で菜園をするぐらい元気だ。マコトが行く日は、決まって冷たい麦茶とお菓子を用意して待ってくれていた。


「今日、マチ子ちゃんは来ないのかい?」


 汗まみれのシャツに扇風機の風を送っていると、お婆ちゃんはマコトにそう尋ねてきた。


 お婆ちゃんの家は、風の通り抜けがあるのでひどく涼しい。夏は、お婆ちゃんの家の玄関先に自転車を立て掛けると、扇風機の前にすっ飛んで行って麦茶を喉に流し込む。


 とはいえ今日は、年に一度の誕生日だ。


 年に一回ある厄日は効力を発揮していて、自転車は一度倒れてしまったし、家に上がる際には段差のある玄関で派手に転倒した。無事に扇風機まで辿り着いた時は、汗まみれでぐったりとしていた。


 お婆ちゃんは、マチ子が好きだ。連れて来ると会話も弾むので、とても楽しいらしいことはマコトも知っていた。


「うん、今日は用事があるから来られないって。女の子同士で、映画を見に行くらしいよ」

「あら、マコトちゃんも行けば良かったのに」

「アクション映画ならいいけど、姫様と王子のやつだし」


 お婆ちゃんは、残念そうにマコトを見た。それって宣伝でやっているやつでしょうと言われても、マコトにはいまいちピンとこない。


 ものすごく人気の集まっている映画らしい。お婆ちゃんの声は優しくて小さいのだけれど、話にはいつも説得力がある。


「やっぱり男の子ねえ」


 お婆ちゃんに言われると、なんとなくそうなのかもしれないとも思ってしまう。確かにマコトの男友達も、その映画には興味がないと言っていた。


「お誕生日、おめでとう」


 マコトの汗が落ち着いた頃、お婆ちゃんはマコトに言って微笑んだ。マコトも思わず笑い返して「ありがとう」と素直に答えた。


 誕生日は、なぜかついていないことばかり起こる日ではある。でも、お婆ちゃんは心から言ってくれている。おめでとうと言われて、悪い気はしない。


「もう十七歳になったのねえ」

「うーん。とくに実感はないかなあ」


 マコトは、二杯目の麦茶を喉に流し込んだ。茶の香りが鼻腔に広がって、熱を持った身体が内側から冷やされるのを感じた。


 汗に濡れた髪の間に、吹き抜ける扇風機の風が心地いい。縁側からは、夏の沖縄の生温さと涼しさの混じり合った、畑の匂いが吹き込んでいた。


「今年も、みんなでお祝いしなくちゃね」


 楽な姿勢で座布団に座ったお婆ちゃんは、ふと「どうしたの」と声を掛けた。苦いお茶を飲んだような顔をしたマコトに気付いたのだ。


 少し躊躇った彼は、諦めたように短い息を吐き出して言った。


「もう子供じゃないんだからさ。誕生日会とか、もう、別にやらなくてもいいよ」

「いくつになっても、誕生日は特別なものよ。あなたが生まれてきて十七年目で、お婆ちゃん達と出会えて十七回目の日、ということなのだから」

「ふうん、そんなものかな」


 マコトは実感がなかった。生まれてきてから十七年目かと呟くが、言葉ばかりが唇の上を滑るだけだった。


 同性の友人の中の大半は、すでに家で誕生日を祝うことをしていなかった。儀式的にケーキを食べて、プレゼントをいただくばかりである。


 大袈裟に祝われることに恥ずかしさを覚え、次第にそうなっていくらしい。


 そこは、マコトもよく分からないでいる。年には、シーミーといった盆行事や、他にも大きな行事がいくつもあるのに、誕生日会までやるのはどうだろうかと最近は思うのだ。


 マコトの家では、母がケーキを用意して父が刺し身の盛り合わせを準備する。叔父さん達はオードブルを持参してやってくるし、那覇市に住んでいる従兄弟はわざわざバイクを飛ばしてプレゼントとお菓子を持ってきた。


 お爺ちゃんが亡くなってからは、お婆ちゃんが大人達の宴会用に酒屋に注文を入れた。夕方遅くに叔母さんが酒を引き取って、お婆ちゃんを迎えに来るのが毎年のことだった。


「嬉しいことだから、騒ぎたくなっちゃうのね」


 お婆ちゃんは楽しそうだった。マコトは「確かになあ」と呟きの声を上げた。


 誕生日ケーキの火を吹き消した後は、大人達の大宴会になる。そんな時、マコトは従兄弟や甥っ子らと過ごし、とにかく家は人騒がしさと賑やかさに溢れた。


 マコトの厄日は、いつもその賑やかさに救われてもいた。


 ドジを踏んでも笑いに取って変わり、不満をもらしても優しい従兄弟が穏やかな声で丸く収めてしまう。そう考えると、まあ誕生日会があっても構わないかと毎年思うのだ。


「今年も、マチ子ちゃんは来るんでしょう?」

「うん、間に合わせて戻って来るって」


 マコトがそう答えると、お婆ちゃんはちょっと不満そうな顔をした。


「ん? 何?」

「マコトちゃん、マチ子ちゃんと付き合っているのよね?」

「うん、そうだけど」

「今日は誕生日なのよ? どうして、デートに誘わなかったの」


 マコトは、困ったような笑みを浮かべた。言葉も返せずに頭をかくと、お婆ちゃんも困った顔を作って小首を傾げた。


 最近、そんなことを言われることが多いのだ。


 マコトは、何が違っているのだろうと頭を悩ませている。

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