第42話


「ハデスは、果たして魔法の神だったのだろうか。私は、ずっと彼を探していたんだ」

「神?ただの魔物だったぞ。俺が倒した」

「…あり得ない、と言いたいところだが、生き証人が眼前にいるのでは否定できないな。どうやって倒したんだい?」

「ウィッチ系の魔物だったから、魔喰増倍廻華に食われて勝手に死んだ」


 ウィッチ系の魔物は、生命体と言うよりは、亡霊や妖精に近く、身体を魔素により形成している種が多い。イコの細菌魔導が、身体にまで影響を及ぼしてしまい、魔導を吸収するのと同じく、食い尽くしてしまうこともある。


「仮にイコの言っていることが真実だとして、場所は?」

「父さんの家の裏山の奥だった。あの周辺に魔物がいないのは、父さんとハデスのせいだったってことだな」


 あえて人気のない場所を選び、家を構えてはいたが、周辺の安全確認などは、魔物の有無程度しか評価基準にしていなかった。その為、イコの証言を否定することもできず、アデルにできたことは、笑みを浮かべ首を左右に振ることだけだった。


「我が弟子ながら、その成長速度に眩暈がするよ。いつの間に、伝説の一角を討伐しているとはね。敵対するしかないのが、心から残念だよ」


 それでも、アデルは手を止めることなく、イコに右手を向けた。背後に従う女神もまた盃を構える。それはイコも同じで、静かに魔喰増倍廻華を起動した。アデルの脳裏では、既にイコの呪いに対する推測が始まっていた。


「どういう原理か解らないが、再生できぬほど肉体を破壊すればいいだろう」


 女神の背中から生えるそれぞれの腕が、まるで別の生き物のように蠢ている。

既に競技場内を満たしていた細菌魔導たちは、未だに消えておらず、イコの魔導の起動に伴って、彼の支配下に置かれた。その分解速度は、第零部隊全員での時間稼ぎの甲斐あって、女神の黄金の鎧すらも破壊し始めていた。


「ふむ、時間が経過すればするほどに、私が不利になってしまうね。本当に、その魔導は厄介極まりないよ。でも、それだけだ。攻撃手段を担っていた二人は、既に床で眠りについている。風圧を防いでいた彼女も、もう動かない」


 同時に数十の腕が、イコを追いかけ始めた。もはや、細菌魔導は高速分解と呼べるほどの速度に達しているが、全てを破壊できるはずもなく、残りの腕を駆け回りながら避けるしかなかった。そうしてイコを追いかける腕は、時間経過とともに数を減らしていった。


「このままでは腕が足りない…か。…まずは、君を捕える!」


 アデルの目から、血の涙が流れ始めていた。イコは、そんなアデルの姿を見て、無数の腕に追われながらも口を開いた。


「許容量以上の魔素出力は、人体に重大な損害をもたらす。父さんだって知っているはずだ!無理をすれば、命を落とすぞ!」

「私は目的を達するまで死なない!」


 話を聞かず、アデルはどんどん魔素出力を上げ、体中の穴から血を流しめた。すると、遂にイコは足を止めてしまった。その瞬間、イコの体を背後から複数の腕が貫いた。ぴしゃりと血が床に零れる。


「何故足を止めたんだい?」


 アデルは、イコの答えを待たずに言葉を続けた。


「私が同情するとでも?家族の愛で、手を止めるとでも?」


 イコの腹部を貫いていた腕が、細菌魔導により分解される。体を貫く杭がなくなり、イコはアデルへと振り返った。


「もしそうなら、それは甘い考えだ。私は、必ず目的を完遂する」


 その場に立ったままのイコを、真正面から女神の腕が貫いた。心臓を一突き、通常なら絶命する位置だった。それでも、イコはアデルから視線を逸らさなかった。磔にした時のように、虫に食われた葉を思わせるほど、イコの体にはいくつも穴が空いていた。姿かたちが見えずとも、女神から伝わる感覚が、アデルにその事実を伝えていた。


「なぜ、何も言わない?なぜ、反撃しようとしない」

「俺が伝えたいことは、言葉でも、ましてや痛みでもないんだ、父さん」


 まったく視線をそらさずに、イコはアデルだけを見つめていた。アデルの頬から津たる血の中に、別の透明な液体が混ざり始めていた。いくつもの腕がイコの体を貫く度に、アデルの頬を辿る液体から赤が薄まっていく。分解と貫通と再生が繰り返される奇妙な光景は、アデルに状況以上の感情を齎し始めていた。それでも続く猛攻の中で、イコは自分を貫く腕の一本に触れた。触れられるのと同時に、魔素を散らしながら分解されていく。


「相変わらず、凄い魔術だなぁ…」


 美術館の絵を褒めるように、まるで自分の体が貫かれることを気にせず、ただアデルの魔術を賞賛していた。自分では到底出力できない魔素量に、イコは感心を越え感動すら抱いている。そんな感動と猛攻のなかで、イコは歩み始めていた。真っ直ぐに前へ、視線の向く方へと。苦痛から逃げず、眉を歪めて歯を食いしばりながら、ゆっくりと着実に前進し続ける。そうして、二人の距離は、互いに手を伸ばせば届くほどに縮まった。アデルは目を見開き、脈動する小さな魔素を見た。とても小さな光は、アデルへと何かを訴えかけているかのようだった。それでもアデルは右手を振り上げ、女神へ追撃の指示を出した。女神の構える盃から魔素の奔流が放たれ、それが剣のような形を整形した。これだけの至近距離で振り下ろせば、確実にイコは消滅する。再生する余地のないほどに、破壊することができる。しかし、アデルは手を振り下ろせなかった。使命という器から感情が溢れ出し、アデルの手を止めていた。目から滴る血は、最初よりもずっと薄まっている。そのまま数秒間、音のない時間が空間を支配していた。お互いに見つめ合うも、何も言葉を発することなく、視線そのものに意味があるかのように、無音だけが何かを伝えていた。ピクリとアデルの指先が動くと、数舜の間を設けた後、遂に決意が振り下ろされた。女神の腕も、それと連動して振り下ろされる。イコの頭上に大きな魔素の剣が迫るも、彼が躱そうと動くことはなかった。しかし、顔面の寸前、触れるかどうかの距離に達すると、魔素の剣は現れては隠れる稲穂に潜むバッタのように、消えて見えなくなってしまった。細菌魔導による作用と言うよりは、自然に消えてしまったかのようだった。


「これは…そうか、ダンジョンコアを」


 アデルは、イコが協力者の力を借りて、ダンジョンコアを無力化したことに気付いた。それと同時に、背後に佇む女神の分解が進んでいく。まばらに散りゆく白い光の粒が、粉雪のように二人の頭上に舞い落ちていた。


「…イコが嘘をついていると思ったんだ」


 床に溜まる自分から滴る血を眺めながら、まるでリビングでする会話のように、淡々としたトーンでアデルがイコに話しかけた。


「嘘?」

「イコは、魔導が嫌いで…だから魔導を壊す魔導を生み出したのかと思ったんだよ」

「…え?この魔導はそもそも…いや、見せた方が速いか」


 イコは、静かに左手を動かすと、立体駆動魔導陣を操作した。イコの支配から解き放たれ、大気中に滞留していた大量の魔導細菌達は、動きを止めて落ち始めた。すると、丹念に描かれた点描のように、魔素のインクによって、イコの姿が鮮明になぞられていた。


「…そんな顔をしていたのか」


 魔素がイコの頬をなぞると、滴る涙に添って床へ向かって落ちていく。アデルは、イコの涙をようやく知った。盲目であるがゆえに、人の表情を観察したことのないアデルは、他人の感情の機微に疎かった。曖昧な他人の感情は、彼を人間関係から迫害した。写真のような点描によりもたらされた感情との鮮明な対話は、彼の心の中にあった他人との国境すらも分解し始めていた。


「私は…間違っていたかな?」

「…少なくとも俺は、劣等感よりも愛を父さんから学んだよ」


 その回答には、氷を解かすだけの熱量があった。

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