ただいま

シジョウケイ

ただいま

シャコシャコシャコ…


歯ブラシで歯を磨く。

洗面台の鏡を見つめながら。


「もうやだ!!私は一生治らないんだーー!!!あああーーー!!」


リビングでは姉が泣き叫んでいるのが聞こえる。

隣で母がなだめているのが容易に想像できた。



――僕は精神的な病について理解がない。

それゆえに適切な対処がわからず、初めて苦しみ悶える姉を見たとき、当たり障りのない言葉をかけることしかできなかった。


大丈夫だよ、って。


一体なにが大丈夫なのだろうか。

僕にもわからなかったし、姉にも直接言われた。

全然大丈夫じゃないんだけど、と――。


だから僕ができることは、関わらないことだった。

鼓膜を揺らす慟哭を日常に置き換え、何事もないかのように歯磨きをする。



それが、僕が実家に帰省するときに心がけていることだ。


***


「私、うつ病のニートだから」


初めてそう告げられたのは社会人1年目の年末に実家に帰省したときだった。

姉は自虐のつもりなのか、少し笑って言ってきた。

それまで姉との関わりが少なかった僕にとって、正直その言葉は少しの驚きはあれど、特になにも響かなかった。

別に仲が悪かったわけではない。

姉とは6つもの年が離れていたことや、絵に勤しみ、絵に心血を注いでいた姉があまり家にいなかったこともあって、ほとんど話すことはなく、登校前の朝に少し見る程度だったのだ。


そう聞かされたときは「そうなんだ」と軽く返事をし、心の中で「まあ、色々あったんだろ」と無理矢理に整理をつけた。

正直、思うところはあった。30歳手前でニートという身分。裕福でない実家に支えられるのかと。だが、うつ病を初めとする精神病に対する理解が高まっている昨今では、あまり表面だけで判断してはいけないと自身に言い聞かせた。



その帰省中、初めて姉が発作を起こしているのを見た。

あの日の衝撃は忘れられない。

姉はキッチンに置いてあるやかんや調味料の瓶などを投げ飛ばし、荒れ狂う。

ただひたすらに泣き叫んだ後、折りたたみ式の椅子を開き、換気扇を回し、タバコに火をつけ、「生まれてきてごめんなさい」と繰り返す。


両親はこの光景に見慣れているのか、哀れむような目で遠くから見守っているだけだった。


僕はこの日、初めて精神病の実態を知ることになる。


***


この日の夜、両親に聞いた。

いつからこんなことになったのかを。


すると母親から、こうなった経緯が明かされた。


――姉は今にこうなったわけではない。昔から精神的に不安定な人だったという。

どこか人と違う感性を持っていたためか、上手く人付き合いができず、そのストレスを絵にぶつけていたのだと。

姉は絵が上手かった。というより、芸術全般において秀でたものを持っていた。絵、音楽、芝居。本人もそれを自覚していたからこそ、本気で絵を勉強したいと芸術系の大学に一浪の末に進学し、19歳で一人暮らしを始めた。


上京した姉だが、長期休みには帰省していた。

学校の話、バイトの話。日頃を明るく話す姉。

家族全員、姉は楽しんでいるのだと思った。



しかし、それは姉の生活のほんの一部だった。姉は隠していたのだ。

姉の生活の実状は9割が苦悩に満ちていた。

芸術系の大学という多様な感性を持った学生が集まる場でも対人関係に悩んだ姉は、今までのように日頃のストレスを絵にぶつけていた。それは確かにエネルギーを持った作品になるだろうが、そんな精神をすり減らす所業を繰り返せば、結末はおのずとわかる。

姉の不安定に拍車がかかった。


22歳頃から徐々に姉の心の乱れが増えた。

タバコ依存、自傷行為、過呼吸、幼児退行、ひどいときには飛び降りまで。幸い2階のアパートからだったために軽傷で済んだらしいが。


精神病院では、もちろんうつ病と診断された。それどころか二次障害として、パニック障害まで併発していると言われた。


そんな状態では仕事ができないと親は「落ち着くまで、うちにいなさい」と言い、今に至った――。



話し終えた母は心底疲れた表情をしていた。父は隣りで苦い顔をしている。

僕は疑問を問いかけた。なぜ言ってくれなかったのかと。


僕が大学に進学したのが18歳。その入れ替わりで姉が24歳で卒業し東京から戻ってきた。

それからの4年間、僕はちょくちょく実家に帰省していたが、姉のことは全く聞かされなかったし、姉の発作も見なかった。

だから僕は、姉がこっちでなにか働いているのだとばかり思っていたのだ。


すると母は言った。


「あんたは良い子だから、姉ちゃんのこと知ったら、色々気にしちゃうでしょ。就職もなるべく良いところにして金銭面で支えようとか、実家から通勤できるところにしようとか…。そんなことであんたの人生を縛りたくなかったのよ」


その言葉を聞いて、僕は絶望した。

今自分は試されているのだと。

お前は自由にさせてやるのだから、幸せになれ。お前の幸せは果たすべき義務だと。母の親切な親心はそう感じられるものだった。

社会人になるまで事実を隠し、なってから現実を突きつける。なんたる策士であろうか。


その日から、僕は家族を信頼できなくなった。


***


3年後、父が亡くなった。

死因はストレス性の心不全。61歳だった。

数年前から症状は出ていたらしいが、仕事は辞められないと家族にも隠しながら働いたあげく、このような結果となってしまった。


僕は葬儀のために会社にはしばらくの休みを取り、実家に帰省した。

葬儀では母は号泣し、姉は参列しなかった。

葬儀の雰囲気が姉の精神に障ると、母が連れてこなかった。


参列者には親戚、父の同僚や友人がいた。

そこで僕はひそひそ話を耳にする。



「部長って、引きこもりの娘さんがいるですよね。部長亡くなったら、母親一人で支えていかなきゃいけないでしょ。大変っすね…。」

「でも社会人の息子さんいるでしょ。ほら、挨拶してた。あの人が一家の柱として支えるんでしょ。」

「うわ…。正直、俺だったらこんな家族に振り回される人生、恨んじゃうわ…。」



この話を聞いて、僕が抱いた感想は一つ。


その通りだよ。


僕の人生はこの父の死によって、崩壊を免れなくなった。

姉は復調の兆しが見えず、母もこの件で一気にやつれた。これから収入を増やすために仕事を増やすなんて無理だ。

結局、僕にたらいが回ってくる。



僕の自由は、25年で幕を閉じることとなる。


***


カリカリ…


ペン先を紙の上に走らせる。

僕は今、辞表を書いていた。

今の職場を辞め、地元に戻る。そこで実家暮らしをすることを決めた。


鉛筆の薄い下書きを黒のペンでなぞりながら考える。


誰が悪かったのだろうか、と。


そんな不毛な犯人捜しをせずにはいられないほど僕の精神はまいっていた。


精神を壊した姉。

幸せを強制した母。

病気を隠して死んだ父。


誰が僕の人生を壊したのか。



結論は出ている。


言っただろう、これは不毛な犯人捜しだと。


答えは、誰も壊していない、だ。



僕の人生は最初から壊れていた。



先天的に精神が不安定だった姉。

親心で息子の幸せを願った母。

家族のために身を賭した父。


誰も責められない。不幸だったと片付けるしかないのだ。


これから僕の人生は、皆に同情される悲劇の男として生きる。

案外、仮初めの自由を与えられていた頃よりも気楽かもしれない。


「ふっ」



僕は部屋の中で一人、呆れ笑い、辞表を書き終えると、スマホを手に取り、慣れた手つきで新幹線の予約を取った。

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ただいま シジョウケイ @bug-u

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