第32話

青月(8月)1日早朝、梓弓城柵




 梓弓城柵は設置されてわずか数ヶ月であるが、それまでのひっそりとしたたたずまいを捨て、かつて無い活況を呈していた。


 というのも、城柵を包囲していた夷族達が全員、それこそ1人残らず城柵の中へと移動して来たからである。


 彼らは乏しい家財や食料を城柵へ持ち込み、思い思いの場所に起居する。


 ある者は既にある小屋や宿舎を利用し、またある者は粗末な天幕を城柵内の街路に沿って建て、更にある者は行武の指示によって兵舎へと収容された。




 その兵舎の中では軍監の地位にある薬研和人やげんのにぎひとが、本来の生業である医事によって大忙しとなっている。


 軍監として武装を義務づけられている和人だが、今となってはその様な規定は脇に置く。


 和人は鎧や剣を外し、その代わりに今は薬湯の入った薬缶を右手に、粗末な土器を左手に持ち、濃い薬草の臭いを放つ薬湯を注いで回っていた。


 彼が治療しているのは、長い野宿生活ですっかり身体の弱ってしまった老人や子供、そして女性達である。




 気付けと精力増強、そして同時に鎮静効果を持つ薬草を煎じて冷まし、土器かわらけに1人分を注いでやり、それを飲ませているのだ。


 しかし、どう見ても老貴族然とした和人を警戒してか、夷族の者達はなかなか和人の言うことを聞かず、また薬湯を飲もうとしない。




「これは……困ったわい」




 今までも大王や朝廷の決定により、施しの一環として都人の治療に当ったこともある和人。


 医学知識を持たない庶民に対して、効果が分かり易いようにわざと臭いのきつい薬草を使ったり、体力を増進させるために五辛ごしんと称される薬味を使用するなど、工夫を凝らした治療を行ってきた。


 また、身体の悪いところを十分に申し出られるようにじっくりと話を聞くなど、和人は庶民に対する治療経験は十分に持っており、今まで特に不審感を持たれたり失敗したことは無い。


 しかしながら、都人や医術による施しを受ける者達は全員が身体の不調を自ら訴え、治療を進んで受けに来た者達ばかりだった。




 いま、ここにいる夷族はそれとは全く異なる。




 彼らは朝廷に属する和人を不審の目でしか見ておらず、また身体に不調を来しているものの、それを和人に診察して貰ったり、治療して貰おうという積極的な気持ちが全然無いのだ。


 治療どころか、明らかに朝廷の人間と分かる和人に敵愾心すら抱いている。


 それ故に、和人の作成した臭気のきつい薬は、余計に彼らに疑念を抱かせてしまう。




「失敗したかのう……なかなか難しきものじゃ」




 不審感一杯の目で自分を見つめてくる夷族の叛徒達を前に、流石の和人も戸惑う。


 狩衣を腕まくりしてたすきで纏め、布冠ぬのかんむりを被って薬缶を持つという気合いの入った姿が、また和人の空振りっぷりを際立たせてしまっていた。


 その横では、同じ理由から本楯弘光もとだてのひろみつや武鎗重光むやりのしげみつの補助を受けて炊き出しを行っている畦造少彦あぜつくりのすくなひこが、その柔和な顔を困り顔で曇らせている。


 行武は門を閉じさせ、警備の手配りをしてから城柵の広場へとやって来た。




「どうじゃ?」


「……見てのとおり、上手くいかぬ」




 行武の問いに、和人が処置無しといった風情でため息と共に答える。


 行武も方々から受ける視線が決して好意的な物で無いことを察していたが、困窮した彼ら夷族がここまで頑なな態度を取るとは思っておらず、少なからず驚きの感情を持つ。


 彼ら夷族は確かに誇り高いが、然りとて意固地な者達では無かったはずなのだ。


 柔軟性に富み、他文化や他人種を受け入れる素地を元から持っていたのに、一体これはどうしたことなのか。




 行武はここ数十年にわたって続けられた国司という名の苛烈な徴税人から受けた数々の仕打ちが、夷族から笑顔と人を信じる心を奪ってしまったことに思い至る。


 ツマグロとスジクロも同い年くらいの夷族の子供達の集団に向かったが、歯を剥きだしての威嚇に戸惑いを隠せないでいる。




「……むう、これは酷い事態じゃ」


「いくら言葉を掛けても返事すらせぬ。わしらを睨み付けるばかりじゃ……身体は弱り切っておるのは間違い無いのじゃがのう……」




 行武が難しい顔で唸ると、薬缶を持ったまま和人が言う。


 その隣で粥の入った椀と杓子を持って困り果てた様子の少彦が言葉を続ける。




「やはり警戒されてしまっております」


「皆さん相当おなかを減らしているようなのですが……グウグウここまで腹の虫の音が聞こえて来るというのに、全くこちらには近寄って来てくれません」




 脇にはその粥を作ったであろう雪麻呂が悲しそうな顔で佇んで言う。


 2人からそう言われ、行武はうんと一つ頷くと言った。




「しばらく待っておれ、わしが何とかしようぞ」
















「で、なぜ俺をわざわざここに連れてきた?」


「まあ、お主はいわゆる族長じゃからのう。ちと付き合え」


「理由になっておらん?まあ良いが……全く、人使いの荒いことだ」


「何をぶつくさ言うておるのじゃ、良いからそこへ座れ」




 しばらくして行武が連れてきたのは、髭もじゃの威丈夫。


 何を隠そう広浜夷族の長、軽部麻呂かるべまろであった。


 軽部麻呂はその厳つい髭面をしかめながらも、行武から言われたとおり、粥の入った鉄鍋を掛けた焚火の前にやって来た。




「ほれ、そこじゃ」


「分かった老少将……全く、うるさいことだな」




 そして文句を言いながらも割と素直に笑顔の行武の正面、焚火を囲むように敷かれた薄縁うすべりの上へどっかりと座る。


 やがてその前に少彦がよそった粥の木椀と和人が注いだ薬湯が置かれた。


 続いて同じ薬缶から薬湯が注がれ、同じ鉄鍋から粥が行武にもよそわれる。




「なんだ、これは?」


「見て分からぬか?粥と薬湯じゃ」


「……そうではない、何のつもりでこんな物を用意したと聞いている」


「さすがの首領といえども、長い野営で腹が減っておるだろうと思ったのと、体力回復のためじゃなあ」




 飄々と言う行武に、凄むように問いを重ね、釘を刺す軽部麻呂。




「違うだろう?分かっているはずだ、はぐらかすな老少将」




 その様子に、行武は顎髭を一扱きして間を置き、そしておもむろに答える。




「ふむ、まあお主の心配は尤もじゃ……じゃが、そう案じるでないわ、粥に毒物は入っておらぬし、もちろん薬湯は薬。毒薬などではない」




 そう言いつつ、行武は同じ薬缶から注がれた薬湯の入った土器かわらけを横によけ、やはり同じ鉄鍋からよそわれた粥の入った木椀と添えられている箸を取る。




「では頂くとするわい……頂きます」




そう礼を述べると、行武はずずっと音を立てて粥を掻き込んだ。




「むぐむぐ……うむ!塩味が良い塩梅じゃ」




次いで薬湯をずずっと音をさせてすすり、顔を思い切りしかめて言う。




「何じゃこの薬湯はっ?きっつい臭いじゃのう~鼻が曲がりそうじゃ」


「抜かせ、その方が効くのじゃ……つべこべ言わんと全部飲め」




 行武の言動に、薬缶を持った和人が言い返すと、ためらっている軽部麻呂に笑顔で振り返って言う。




「遠慮は要らん、お主も全部飲み干せ。身体の調子が戻るぞい」


「……本当に酷い臭いだな」




 行武の言葉に少しためらいを残しつつも、軽部麻呂はずるずると土器かわらけから薬湯をすすすり飲む。


 そして思いっきり顔をしかめて叫ぶように言った。




「不味い!臭いだけじゃねえ!まだ毒の方がましだぞ!?」


「あっはっはっはっは!まあそう言うな、しっかり飲めば身体は良くなるわい」




 文字通り毒突く軽部麻呂に、行武は木椀を持ったまま大笑して答える。


 そしてくっくっくっと肩を笑いの余韻で揺らしながら言葉を継いだ。




「粥は美味いぞ、ウチの雪麻呂が作った」


「ふん、これで不味かったら絞め殺す」




 行武を睨みつつ、薬湯の入っていた土器を放り投げるようにして薄縁の上に置き、木椀を掴む軽部麻呂。


 そして箸を使わずに椀を傾け、直接粥を口へと注ぎ込んだ。


 しばらく味わいながら咀嚼をしていた軽部麻呂は、これについては特に文句を言わないまま、残っていた粥を再度椀を傾けて自分の口へと注ぎ込む。


 慈養のある塩味と出汁がよく煮られた米の中に染み通っており、思わず息の漏れる美味さだ。


 長い間山中や原野をさまよい、獣肉や山菜のみの荒い、そしてアクの強い食べ物ばかりを食べてきていた軽部麻呂は、優しい味の粥に思わず心奪われる。




 思わず木椀を持ったまま天を仰ぐ軽部麻呂。


 その目に映るのは、青い空と白い入道雲、そして夏の厳しい陽光。


 今は城柵という朝廷の側にある建造物の中だが、それは原野にあった頃や、また反乱を起こす前に村や山頂から見たのと変わらない大きな空。




 これから夏を迎える。




 既に稲の播種や育成の時期は通り過ぎてしまっており、今から育てても秋までには間に合わない。


 たとえ無理に稲を植えても、実が実る前に枯れてしまうだろう。


 今はこの目の前に座る頑健そうな老人、得体の知れない朝廷の征討軍少将を名乗る梓弓行武に頼る他無いのだ。


 全てを飲み込み、黙り込む軽部麻呂に声が掛けられた。




「味は……どうでしょうか?」




 そう声を掛けられて目を下ろすと、1人の国兵が目の前に立っていた。


 女と見紛う秀麗な顔だが、色濃く夷族の血が見て取れる。


 黙ったままの軽部麻呂に、少し戸惑いながらもぎこちない笑みで再度問い掛ける国兵。




「いかがでしょう?」




 その言葉遣いは、どこか京府の都人を思わせる。


 行武もそうだが、朝廷は苛税を課し、一族を掠って塗炭の苦しみを味わわせられた難き敵であるが、それと同時に懐の深い一面もある。


 この国兵のように明らかに異相の者でも兵として採用し、行武のような老人を登用する。


 かつてはその深さに魅せられて、夷族の長達は朝廷に従うことにしたのだ。


 それがわずか40年から50年の間に覆るとは、誰が想像出来ただろうか。




 寛容で鷹揚であった朝廷は変貌し、苛烈で排他的になった。




 不思議そうな顔で自分を見てくる行武を余所に、軽部麻呂はその夷族の血を引くと一目見て分かる若く華奢な国兵、雪麻呂に対して素直な感想を述べる。




「……うまいな」




 その言葉を聞いた雪麻呂は、小さく微笑んでから言葉を継ぐ。




「お代わりは要りますか?」


「ああ、頼む」




 木椀を差し出す軽部麻呂。


 周囲の夷族はその一連の遣り取りを食い入るように見つめていた。


 そして、軽部麻呂がお代わりの椀を雪麻呂に差し出したのを見て、周囲に居た夷族の民達はゆっくりと、そして一斉に炊き出しの前に集まり始め、和人の持つ薬湯へ興味を示し始める。


 自分達の族長が、敵の将軍の誘いで率先して薬湯を口にし、粥を口にしたのだ。


 辛うじてやせ我慢を維持していた彼らの矜持は、それで取り払われる。


 こうなっては良い匂いを漂わせる粥に、空腹の彼らが耐えられるはずも無かった。




「……老少将よ、これが狙いか。なるほど、流石だな」


「はっはっは、気を悪くするでない。まあお主がわしを信じて動かねば、夷族の皆の者もわしらを信用はせぬでな、一役買って貰ったのじゃ」




 軽部麻呂が雪麻呂から新たによそわれた木椀を受け取りながら言うと、行武は笑って答える。


 そして再び薬湯を和人から土器に注いで貰い、すすり上げた。




「ううむ、とても臭いが……何やら身体が温まる心持ちがするのう」


「心持ちだけでは無いぞ?実際に身体が温まり調子が整う、疲労には最適の薬湯よ」




 そう言うと和人はその場を離れ、夷族の民達に薬湯を注いで回り始めた。


 それまでのどこか牽制するような、そして遠慮するような空気は彼らから無くなり、興味津々、おっかなびっくりといった様子で薬湯の入った土器を和人から受け取っている。




「ああ、焦るのではない、ゆっくり飲むのじゃ……おいおい、それはそういっぺんに口に含む物のではないぞ?」




 優しく子供にそう言いながら、むせる背中をさすってやっている和人。


 その傍らでは子供の母親と思しき若い夷族の女性が、和人と子供の様子を見守りつつ、自分も薬湯の土器と粥の木椀を貰っている。


 老人の口元に薬湯を宛がう戦士。


 幼い赤子ほどの子供の口に、匙ですくった粥を息で冷ましながら入れてやる母親。


 まるで飲むようにして粥を腹に収め、すぐにお代わりを求める戦士。




 是安や少彦が国兵を指揮して給仕に大わらわとなり、雪麻呂が呼び戻されて空になった鍋を使い、新たに粥を煮立て始める。


 弘光や重光が和人に呼び止められ、薬湯の配給と作成に駆り出された。


 ようやく落ち着き始めた城柵の広場。


 夷族の者達は、老いも若きも戦士も農民も、女男も区別なく皆が薬湯を飲み、粥を木椀で振る舞われて思い思いの場所で食べ始める。




 腹を満たしたツマグロ達と夷族の子供が追いかけっこや隠れん坊をして遊び始めた。


 子供同士、この分で行けばすぐに仲良くなることだろう。


 ようやく束の間の平和を享受する人々の姿が現れ始めた時、叫ぶような非難の声が甲高く響き渡った。




「何をしているのだ!?」

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