第19話
臘月31日・大晦日、広平国ひろだいらこく、山桐郡さんとうぐん
今年の終わる日、行武一行は近坂国ちかさかこくの大伊津から船団を組み、早くも広平国ひろだいらこくに入った。
広平国にある、十河津そごうつに到着した行武らの船団は、驚く漁師や船乗り達を余所に、征討軍旗を掲げて堂々と港の最奥部へ停泊する。
行武は山桐郡の郡司に使者を出した上で上陸し、港の近くに陣を張ることにした。
近くには小川が流れ、港から少し離れたその場所を、息を白く吐き出しながら鍬や鋤で均ならし、陣を張る準備をする納税人足達。
既に何度も訓練で行ってきた作業だけに、その手付きには淀みが無い。
地形に合わせて歪な円形に土地を均し、排水用の溝を掘り、簡単な外堀と柵を立てて野営陣とする。
征討軍は歩哨を立てて周囲を警戒すると共に、その中では木柱が建てられ、どんどん天幕が張られていく。
均した地面を更に掘って木柱を立て、そこに折りたたまれていた木綿製の天幕を三角形に張っていく。
そうしてしばらくすると、白い三角形の天幕が完成していった。
大晦日の今日と新しい年となる明日は休みを取る予定になっているので、兵士の姿をした納税人足達も少しゆったりとした様子で天幕を張っている。
行武も年末特有のせわしのない、それでいて何とも手持ち無沙汰な気持ちを持て余しつつも、納税人足達に声を掛けて回る。
「焦らずとも良いぞ。今日明日はここで逗留して身体を休めるのじゃ」
「ありがとうございます」
「来年は……故郷で良い年になると思いますから、これぐらいは軽いものです」
それに応じる納税人足達を笑顔で眺め、行武は付き従っていた元弾正台の兵士達に命じる。
「そろそろ餅を配ってやれ」
「はっ」
本楯弘光も笑顔で応じると、配下の兵士達に持たせていた絹袋を開かせた。
中には丸い、真っ白な餅がぎっしりと詰められていた。
征討軍の支給物資の中に餅は含まれていないが、年越しを野外で行わざるを得ないことを見越して、行武が是安に命じて私費で購入しておいた物だ。
「数はそう多くないので済まんが、まあわしからの年玉じゃ」
作業の終わった者たちに、兵士達から丸く成形した餅が2つずつ配られる。
兵士達は大きな布袋から、どんどん餅を取り出しては納税人足達に配っていく。
あちこちで歓声が上がり、早速火をおこして串に刺して炙る者や、準備し始めていた夕食の汁物へ放り込む者、また良く温めた鍋で鉄板焼きにする者など、納税人足達はそれぞれの楽しみ方で餅を調理し始めた。
香ばしい餅の焼ける臭いや、焦げの臭い、煮立てた鍋に投入された餅がぐらぐらと煮え立つ音が周囲に満ち始める。
やがて焼き上がり、煮えた餅を手に掴み、あるいは串に刺し、そして椀によそった納税人足達が餅を口にした。
「うまいなあ、本当に美味い餅だなあ」
「ああ、良いにおいだ、たまらねえ」
「おい、落ち着けって、もう少し煮た方が良いぜ」
「貴族様から施しを頂けるなんて……ううう」
「うまい、うまいよ……」
「うん、こんな美味い餅食ったの初めてだ~」
「早く帰って母ちゃんと餅くいてえなあ」
「ガキ共、何してるかな……」
餅を食べながら口々に言う納税人足達。
そこには故郷への愛着と、哀愁、そして帰郷途上である事の喜びがある。
中には涙をほろほろと落とし、家族を想う者もいる。
京府の隅に寓居ぐうきょし、悲惨な生活を強いられた日々。
故郷のためにと侠気を発揮して京府へと上ってきたのは良いものの、そこに待っていたのは、帰郷出来ないという冷たい現実。
縁故貴族には門前払いを喰い、寄る辺なくさまよう中で都人からは疎外される。
弾正台の訴追を逃れ、日々の食う物や着る物に困った末、小悪事を働く毎日にほとほと嫌気がさしていた。
さりとて帰郷出来るほどの費用や物資は無く、死ぬことも出来ないままただ生き存えていた納税人足達。
先発した納税人足達はそのほとんどが戻ってこなかったし、戻ってこれたとしても数年後であったことなどは特に珍しくなかった。
どれほど悲惨な務めであるかは理解していたが、やはり自らにそれが強いられると、ことさら凄まじく感じるものだ。
しかしそれは1人の老貴族によって終わることとなった。
その梓弓行武と言う奇特な老貴族に集められ、調練を受けた後の、帰郷。
このような望外の幸運があるだろうか。
彼らは全員がこの奇妙な集団を率いている老貴族に深く、深く感謝し、忠誠を誓うことにしたのである。
そんな光景を見ながら、本楯弘光は少し前にあった遣り取りを思い出していた。
「はあっ?」
行武が私費で用意した餅の入った袋を是安から示され、その費用の出所や使い道の説明を受けた山下麻呂は、思わず間抜けな声を上げる。
「ですから、殿様からの振る舞いです……お年玉と言った方が良いでしょうか?」
「そんなことを聞いてるんじゃねえんだが……おい、お前もちょっとは驚けよ」
「いや、いつも大晦日には行武様の私費で餅や酒が配られていたからな」
山下麻呂から話を振られた弘光だったが、いつも通りのことなので感謝こそすれ驚くことなくそう言葉を返す。
今まででも大晦日には弾正台の国兵達に対して、行武から必ず餅1個と濁酒1杯が振る舞われていたのだ。
半ば慣習となってはいたが、あくまでこれは行武が自主的に始めて継続していたもので、朝廷にかつてはともかく、今現在その様な振る舞いのしきたりは無い。
「殿様のお給料は並みの貴族より低うございますが、振る舞いを欠かしたことは1度たりともございません」
それを聞いた山下麻呂が頭を抱えて、ここに居ない行武をくさした。
「おいおい、爺さん……あんたどこまでお人好しなんだよ」
「お人好しではありません。殿様はとても慈悲深いのでございます。民を心から慈しんでおられるだけでございますよ」
「あの……賑給というものですか?」
雪麻呂が遠慮がちに問うと、是安はゆっくりと首を左右に振った。
「賑給とはどちらかと言えば貧民や暴民、夷狄に対する施しや救済ですが、殿様のなさっているのは殿様曰く“御礼”であり“褒美”だそうでございます」
「礼と褒美だってえ?どう言うこった?礼を受けるようなことはしちゃいねえし、褒美を貰うような功績だって上げてねえぜ」
山下麻呂の口ぶりは、まるでこちらが礼を言いたいんだと言わんばかりのもので、その態度でごまかしてはいるが、行武からこの様な形で物を貰うのに遠慮があるのだろう。
そんな山下麻呂に、弘光は諭すように言う。
「今まで無事自分に仕えてくれた“御礼”で、また1年間無事に職を全うした“褒美”なのだそうだ」
「そういう事でございます」
弘光の説明に、是安も頷く。
「……話に聞いては居ましたけれども、行武様は懐の広いお方ですね」
「広いなんてもんかよ……底が抜けちまってんじゃねえのか?」
感心したようにしきりに頷きながら言う少彦に、山下麻呂は処置無しといった風情で両手を広げて天を仰ぐ。
それを聞いていた是安は、弘光と笑みを交わしながら、山下麻呂に失敬ですよと注意してから説明を始めた。
「納税人足達にはそれぞれ2個ずつの餅、それから国兵の皆様には、それに加えて椀1杯ずつの濁酒が配られます」
「ふうん……まあ分かったが、その様な物をいつの間に用意していたんだ?」
「もちろん、最初からです。殿様は部下や兵士を大事にします、それは短いとはいえあなた方も仕えていてご存じでしょう?」
「それは……はい」
「もちろん承知していましたが……まさかこれ程民のことを想っているとは……」
雪麻呂が遠慮がちに応じ、少彦が素晴らしいものを見たという顔で頷く。
弘光は今更敢えて口にすることは無いといった様子で腕を組んでいる。
それを見た山下麻呂は、たじろぎつつも何とか反発の言葉を発した。
「そ、それにしたって、程度ってもんがあるだろう?こんな貴族、俺は知らねえぜ」
「それはようございました、幸い私も殿様以外に、庶民へこの様な振る舞いをする貴族は知りませんので」
山下麻呂の言葉に笑みを深くした是安が答えると、山下麻呂は顔を歪めて肩をすくめる他ないのだった。
同日夜半、行武はゆっくりと身を起こして起き出すと、自分の天幕から出る。
今は鎧兜を身につけず、長剣だけを帯びた狩衣姿だ。
「少将様、どちらへ?」
「おう、弘光か。いや何、周囲の状況を検分しておこうかと思うてな」
傍らに膝を付いて控えて声を掛けるのは、今日の宿直番の本楯弘光である。
「お伴致しましょう」
「うむ」
ゆっくり歩く行武の半歩後ろを弘光が従う。
しばらく野営陣を歩き、やがて行武と弘光はその外郭になっている柵を設けた場所までやって来た。
温暖な気候の瑞穂国とは言え、真冬でもある年の瀬は冷える。
行武は防寒用の裾の長い綿入を身につけてはいるが、それでも冷気が裾や首筋から忍び込んでくる。
「おう、なかなかの寒さじゃ」
「はは、さすがにその格好では寒さが堪えますでしょう……上着をお持ちさせますか?」
「いや、良い」
弘光の言葉を断り、行武は白い息を吐きつつ周囲を見る。
歩哨に立っている者達以外は、全員が寝入っているようだ。
空は雲1つなく、数多の星が瞬き、輝いている。
「京府の外へ出るのは久方ぶりよ……若い頃は好きに出歩いていたものじゃがのう」
「そうですか……」
「かつては南の海、北の大地、西や東の大陸、ほんに好きに出歩いたものじゃ」
「……それは、出歩き過ぎでは?」
「あっはっはっはっは」
行武は顔の向きは変えず、自分の言葉に渋面で言う弘光を笑う。
弘光は行武が政変後、京府から出ることをずっと禁じられていたのを知っている。
都落ちの上、地方へ下向して兵を集め、武力反乱を起こされることを恐れた文人貴族達によって、行武は令によって都に閉じ込められたのだ。
「最早都で朽ちるばかりと思うておったが、存外人の道とは分からぬものよ……今こうして都の外に立っておるのじゃからな」
感慨深そうに言う行武に、弘光は白い息を吐き、無言で応じる。
「……ふむ、変わりはなさそうじゃ。戻るとしようか」
「はい」
そう言う行武が踵を返し、弘光もその後に再び従うのだった。
そんな2人を、少し離れた陣地の外部からじっと見つめる黒い影があった。
草に浅く生えた平原に身を伏せ、身じろぎ1つせず陣地の様子を窺う影が、密やかにつぶやいた。
「……朝廷が軍を発した?しかし早いが少ないな、兵は500ぐらいだ」
「確かに……少ないな。援軍があるのか?」
右方から別の声が応じるかのように小さく届くと、その影はひゅっと短く口笛を吹く。
「戻るのか?」
「ああ、行き先は間違い無く広浜国だろう。しかも将が厄介だ」
「何?」
焦ったように尋ねる別の影に、その影はゆっくりと答えた。
「征討軍の将は、梓弓の少将だ……」
「そ、それはっ」
「朝廷が本気を出したのか?」
さざ波が広がるように、平原中から戸惑いと恐怖の混じった声が次々に届く。
しかしその言葉を発した影は、努めて冷静に仲間達の声が収まるのを待ってから言う。
「朝廷の意図は分からないが……今までのようには行かない。それに時間も無い」
一斉に踵を返す男達。
「そうじゃのう、時間は無いの」
男達の背後から、突如男とも女とも判断のつかない、甲高くそれでいて低い声が響く。
とっさに声の発せられた場所から距離置くべく飛び退る男達。
声を発した小さな影は、そんな男達の怯えとも取れる行動を見て嘲笑う。
「どこの者かは大体分かるが、お粗末じゃな」
「ぬぅ……」
小さな影、猫芝の言葉に男達が小さくうめき声を上げると同時に懐に手をそっと差し入れる。
男達の視線は、猫芝の背後、行武と弘光に注がれている。
僅かに男達が身じろぎしたその瞬間、暴風が吹き荒れた。
煽りを喰って男達が怯むと同時に、金色の風が男達の周囲を舞う。
次々と吹き飛ばされ、地面に叩き付けられて昏倒する男達を見て、小さな影は呆れた声を出した。
「西方の魔女は乱暴じゃのう……もそっと穏便には行かぬのか?」
「ユキタケの行く手を阻む者に容赦する余地はありません……そうではありませんか、ネコ殿」
風を身にまといながら猫芝の隣に現れるマリオンは、その碧眼に冷たい光を宿したままそう言い放つ。
「殺してはおらんじゃろうな?」
「不本意ですが、ユキタケの依頼です。加減は致しました」
「であれば良い、後はわしの出番じゃ」
這々の体で逃げ出す男達の後ろ姿を見て、猫芝は暗い笑いを浮かべるのだった。
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