第17話

臘月15日夕、近坂国ちかさかのくに、峨峨峠ががとうげ




 既に、梓弓行武の編制した討伐軍は北の地に向かって進発している。


 予定では来年春には討伐軍が広浜国に到着するのだが、その行き足は鈍く、未だ京府を出て1日ばかりのこの場所において行武は野営陣を敷いていた。




 この付近一帯は照葉樹が冬にも関わらず青々とした葉を付けており、寒風がその葉をざわざわと鳴らして通り過ぎていく。


 輜重担当の兵達は峠の平場へ荷馬車を集め、馬の装具を解いて近くの小川へと連れ出して馬体を洗ってやっている。




 また、他の兵達は天幕を張り、山石を集めてかまどを作り、炊事の準備のために火を熾していた。


 気の早い者は、持参している鉄鍋に小川から汲んできた水を入れて煮立て始めている。




「このような場所で敵が現れるとは思わぬが、警戒は怠るでないぞ」


「承知しております。既に周囲には斥候を放ち、歩哨を立てました」




 行武の言葉に、副将格の弘光が応じる。


 武装を解くこと無く滞在している行武であったが、弘光の言葉に頷くと、憤懣やるかたない様子で京府の町並みを遠望しながら不満を口にする。




「全く……先に出よと言うから出たらこの有様じゃ。糧秣とてきっちり計算の上で持ち出しておるというのに、何を考えておるのか」


「遅延で余計に必要となった分は兵部省を通じて補填を受けることになっています」


「うむ、済まぬな少彦。相変わらず仕事が早くて助かるわい」




 少彦からの報告を受け、満足そうに頷く行武。


 その仕草を見て、少彦はにっこりと笑みを浮かべて下がる。


 行武は少彦が下がるのを目で追ってから、再び京府に目を戻して言った。




「今更わしに軍監など必要とも思わぬがのう」




 何を隠そう、行武がこの場所に引き留められているのは、朝廷からの監視役である軍監が未だ到着していないからなのである。


 行武の言うとおり、軍監を付けずに発せられた軍も過去には存在する。


 しかしそれは大王自ら軍を率いた場合や対外戦に多く、国内の反乱鎮圧や討伐戦ではやり過ぎを防ぐためにも軍監を付けるのが習わしだ。




 行武の見立てでは、軍監に相応しい人物は今の朝廷にはいない。




 ある程度以上の軍事知識を持ちながら、高位にあり、行武や討伐軍の行動を制止し得るような人物はいないからである。


 高位の人物であれば、ただ位の高いだけの貴族はそれこそ掃いて捨てる程居るが、軍事知識を持つ者がまずいない。




 そして、行武を制止できる人物となると、それは最早無理難題であろう。




 恐らく軍監とは名ばかりで、ただただ文人貴族に行武の悪行を書いて送るだけ、あるいは足を引っ張るだけの輩が来るはずだ。


 行武もそれぐらいは予想している。




「たとえ左大臣自らが来ても、わしは納得できなければ従わぬぞ」


「……それを平気で言ってしまう殿の正気を疑います」




 是安が木椀を持った雪麻呂を従えて現れ、呆れたように言う。




「ふん、世話の焼ける生半な者に来られても困るし、わしらの意図を見抜くような切れ者に来られても困る……まあ、あきらめて軍監を無しにしてくれるのが一番良いのじゃがな」


「それはそうですが……」




 行武の言葉に、呆れつつも納得する是安。


 行武の本当の目的は納税人足達の救済で、討伐はどちらかと言えばそのついで。


 北伐については行武に何らかの勝算はあるようだが、途中で兵の大半がいなくなることになるので、確かに軍監が付いてしまうのは厄介極まりない。


 兵の逃散を報告されては困るのだ。


 故に、行武はわざわざ朝廷に出向いた際に無理難題をふっかけたのである。




「それはさておき、夕餉をお持ちしました」


「殿様」


「おう、済まぬな」




 行武は是安の言葉を受け、雪麻呂が恐る恐る差し出した木椀を受け取る。


 近くの大石にどっかりと腰を据え、是安から箸を受け取ってからその中を見る。


 麦と米に、玉菜や大根、ワラビや蕗などの乾燥野菜を戻して煮た粥が、暖かそうな湯気を立てて入っているのを確認し、ずっと音を立ててすする。


 その温かさと絶妙な塩加減に、行武の頬がほころぶ。




「うまいのう」


「雪麻呂の味付けです」




 行武の感想に、すかさず是安が答えた。


 その回答を聞いた行武は、是安の少し後ろで縮こまっている雪麻呂に視線を向け、目を細めて優しく声を掛ける。




「ほう、良い腕前じゃの……此度は長い軍陣じゃ、お主のような腕を持った者は重宝される事じゃろう。励むが良いぞ」


「あ、ありがとうございます」




 すぐに木椀の中を空にすると、行武は真っ赤になって頭を下げる雪麻呂に笑みを向けてから周囲の兵達に声を掛ける。




「是安よ、ここは眺めも良いからお主らもここで食え。回りの者共もこちらへ来い、遠慮は要らん」




 弘光が置き盾を地面に置いて卓と為し、是安が兵士に持たせていた雪麻呂の作った粥が入った鍋をその中心に平石を据えさせてから置いた。


 少彦や山下麻呂が自分の椀を持って集まり、周囲に居た兵達も自分達の鍋や椀を持ち寄って行武の回りに集まり始める。




「酒はあらぬし、メシもこのような粥だけじゃが、皆で集まって食えば美味くなろうというものよ……ほれ、遠慮は要らん、こっちの奴を食え、美味いぞ……代わりにお前の鍋の中の物を少し寄越せ。ほう、芹が入っておるな?涼やかな薫りじゃ」




 行武は周囲の者達と粥を分け合い、言葉を交わし、笑顔を見せる。


 そこには貴族としての姿よりも、民と交わる為政者、そして民を慈しむ武人としての姿があった。


 最初はおずおずと言った感じで近寄ってきた、元納税人足の国兵達だったが、かつて行武の部下だった弘光や、その部下の兵士達が行武とごく自然に言葉を交わすのを見て、次第に打ち解け始める。




「全く、この寒い時期に北へ行くのは骨が折れるわい、老骨だけにのう……」


「殿様の骨など、硬すぎて折れやしません」




 行武の台詞を聞いた是安がしれっと言うと、どっと笑いが起きる。


 貴族の派閥争いなど庶民には与り知らぬことだが、行武の過去の武名や文人貴族との因縁は誰もが知るところだ。


 ただ、それも大昔の出来事と言った感じであり、まさか昔話の本人と直接関わるようなことになるとは、誰も考えていなかったところへ、この人柄である。




 貴族と言えば、田舎の下級貴族でさえ威張り散らしているこのご時世で、行武は実に自然体であり、また気さくで朗らかだ。




 過去の出来事やその後の処遇を考えればもう少しひねくれていても良さそうなものなのだが、ここにいるのは老貴族では無く、元気で明るい爺さんである。


 家令から時勢におもねらない頑固な態度と気質を揶揄された言葉を返されても、怒るどころか自分が一番笑っている有様だ。




「わははははは!違いない。上手いことを言うものじゃ」


「……笑い事ではありません」




 かえって言った家令の方が憮然としている。


 それがまた皆の笑いを誘った。


 時勢には逆らい続けてきたようだが、決して頭が固いわけでも理解の範囲が狭いわけでもない行武。


 それは自分達のような貴族ではない者達、特に北の夷族に連なる者達への態度を見ていれば分かる。


 行武が集めた納税人足達は、その大半が北の地から来た者達だ。


 最終目的地が、北方辺境の広浜国であることから、行武がその周辺に生国のある者達を中心に集めたからである。




 現在はその国々は朝廷の威令に服し、支配を受け入れてはいるが、ほんの100年ほど前まではその土地に住み暮らしていたのは、夷族と同系統の民。


 故に言葉や衣服、食物などは朝廷の支配を受けて大きく変ったが、民の血はそれ程大きく変っていない為、顔立ちや体格は夷族に近い者達がほとんどである。


 京府やその周辺に古くから住み今の朝廷を作った民族とは別の系統であるのは、いくら同じ服装で同じ言葉を話していても、一目で分かってしまう。




 東夷として蔑まれてきた彼らに対する行武の自然な態度は、戸惑いとともに少しずつではあるものの、信頼感と親近感を醸成し始めていた。




「お主、手が止まっておるぞ?まあ、食え食え。人生笑って過ごすためには力が要る。暖かい食い物はその力の源じゃ、笑顔と元気は腹が減っていては出ぬからのう」




 そう言いつつ自分も椀に粥のおかわりを手ずから注ぐ行武。


 彼の自分達に対する態度に隔たりはなく、貴族特有の気位の高さも感じられない。


 時折は自分で粥をよそって兵達に差し出す行武の行動に、納税人足達は互いの顔を見合わせつつも笑顔を交わしあうのだった。






 










 いつしか周囲には夜のとばりが降り始め、天には星が瞬き始めていた。




 行武の周囲にも、松明が用意され始めたが、行武は点火を待たせる。




「ふむ、見よ皆の者、あれが京府よ……」




 食事を終えた行武が手で指し示す先には、闇が包み始めた京府の姿があった。


 内裏とその周辺の貴族の邸宅と思われる場所には明々と燈火の光が溢れているが、それ以外の場所における灯はまばらで、しかも酷く小さい。


 辛うじて商業区や羅城や門に篝火が焚かれているくらいだ。




「あれこそが都……夜こそ都の姿がよく分かる」




 その光景と行武の台詞に、それまで談笑していた者達が言葉なく立ち上がる。




「ああはならぬよう、故郷に帰ったらよく働き、人々に尽くせ」




 そう言うと、行武は腰の剣が鳴らないように押さえて立ち上がり、用意された天幕へと向かう。


 残された者達、つい先頃まであの暗い部分において住み暮らすことを余儀なくされていた者達は、立ち尽くすのだった。






 










 臘月17日昼、近坂国ちかさかのくに、峨峨峠ががとうげ




「ぬしゃ何やっとんじゃ?」


「……言うな、わしとてこのような場所に来たくは無かった」




 完全武装で出迎えた行武の前に現れたのは、第1軍団の騎馬兵士の後ろにしがみつくようにして乗っていた引退貴族の薬研和人やげんのにぎひとは、まるで落馬するかのような体で馬から下りると、行武にそう言い返す。


 ただその姿はとっくに引退した者とは思えない代物で、以前行武の屋敷に朝廷からの使者として出向いた時とは大きく異なっている。




 和人の格好は、簡素ながらも動きやすそうな狩衣かりぎぬと呼ばれる、貴族が野外活動をする際に着用することの多い物になっており、腰には直刀を帯びている。


 おまけに胸甲や手甲、臑当てを付けた結構な重装だ。


 兜はかぶらず頭には布冠ふかんを着け、狩衣の左肩には軍監ぐんかんを示す紫の下げ布が付けられている。




 そしてその後ろから、自ら騎乗してきた玄墨久秀が和人と同じような格好で現れた。




「軍監、左近衛大尉さこのえだいじょうの玄墨久秀くろすみのひさひでである」


「……である、では無いわ。せめて口上を述べる時は馬から下りよ、慮外者め」




 馬上から口上を放った久秀に、遠慮無く言い放つ行武。


 しかし久秀はその言葉に小首を傾げると、一つ頷いて馬から下りた。




「軍監、左近衛大尉さこのえだいじょうの玄墨久秀くろすみのひさひでである」


「左様か」




 無表情で再度口上を述べた久秀は、行武の素っ気ない変事を聞くと、再び無言で頷いて天幕へと向かう。




「何じゃあいつは?」




 憮然とする行武の姿を呆れ顔で眺めつつ、和人は黙礼を残して立ち去る第1軍団の騎馬隊に手を上げて応じると、行武に向き直った。




「わしも口上が必要か?」




 そう言って苦笑を浮かべる和人に、行武は腕を組んで言葉を発した。




「もしや前典薬長官殿さきのてんやくちょうかんどのが軍監ぐんかんなどと言うのではあるまいな?」


「わしもそう言いたくは無いが、左大臣殿の提案で大兄王子殿下おおえのおうじでんかが承認なされた……」




 憮然として答える和人に、行武は組んでいた腕を解いて沈痛な表情で言う。




「何と不幸な」


「お主が言うなっ」




 心底気の毒そうに言う行武に、かえっていたたまれなくなった和人は、疲れたように答えるのだった。


 その一方で、玄墨久秀は物怖じすること無く、行武の脇を通り過ぎ、弘光が制止する間もなく陣中に分け入る。


 そして周囲に天幕を張ったり、敷物を敷いたりして休んでいる兵達をしばらく眺め回した後、おもむろに荷馬車や荷車を見つめ、更にはそれらに近寄って、警固の兵達が呆気にとられている隙に戸を開いて中を検める。




「ふむ、なるほど……」


「……お主もなかなかに肝がすわっとるの、いきなり何をやっておるのじゃ」




 呆れ顔の弘光と疲れ顔の和人を連れた行武がようやく声を掛けると、久秀はにんまりと薄気味悪い笑みを浮かべて振り返った。


 その手には何時どこから取りだしたのか、分厚い帳簿が開かれている。




「何じゃ?」




 自分の姿を認めて面倒くさそうに行武が応じると、久秀は更に笑みを深くして口を開いた。




「兵が少ないように見受けられまするが、征討軍少将にあられましては如何に?」


「広浜国で周辺諸国の軍団兵を招集する手筈になっておるわ、最初に朝廷から来た指示でもそうなっておるじゃろうが」


「そうですか……それにしても武具や糧秣が少ないように見受けられまするが、征討軍少将にあられましては如何に?」


「文句は兵部省と大蔵省に言え。まともな武具も保管しておらぬ上に、糧秣も出し渋りおったのじゃ。代わりにわしが銭を用意しておる」


「ふむ、なるほど、武具と一緒に保管しておられた皮袋の中の丸銭はそれでしたか。なるほど……しかし、行程が遅れているのではありませぬか?私どもが遅参したとは言え、もう少し予定では進んでいるはずでは?征討軍少将にあられましては如何に?」


「……兵の練度も十分でないのに、行軍が予定通り行くと思っておるのであれば、おめでたいのう。軍の移動というものはなかなかに難しい。数日の誤差は、今の段階では仕方ないわい、その様なことは常識ぞ」




 矢継ぎ早に質問を浴びせかけたと思う間もなく、行武が難無く応じ切るのを、久秀は若干面白く無さそうでありながらも感心した様子で見届け、手にして繰り込んでいた帳簿を両手で閉じた。


 そして一つ頷き、再び最初の笑みを浮かべると言葉を継ぐ。




「成程……武の有職故実とは、実に便利。屁理屈や言い訳にも使えるものなのですな」


「フン。やかましいのう、いちいち……。有職故実は屁理屈では無いわ、全て道理あってのことじゃ。それが分からぬようでは先が思いやられるの」




 皮肉に応ぜず、行武が面倒そうな態度のままひらひらと手を振り鼻を鳴らしつつ言うと、久秀は若干顔を引き締めてから一礼を行武におくる。




「私めは軍監にありますれば、質問指摘は職務の内でございましょう。まず、鬱陶しく思われるのも当然至極かと……では、完全とはいえませぬが、まあ疑問も解けました。私は周囲を見て回ります」


「好きにすれば良い」




 行武の承諾を得ると、久秀は再び令を残してくるりと踵を返し、軍陣の中へと歩み去る。




「やれやれ、お主もほどほど難儀を背負うのう。ご愁傷様じゃ」




 久秀の後姿を見送り、行武は呆れ顔で傍らへ言葉を掛けると、いつの間にかやって来ていた和人は、極めて苦く、そして憮然とした表情で言った。




「……お主には言われとうないわ」














 行武が張らせた天幕の中で、長い説明を終えた和人が溜息を吐きながら締めの言葉を発した。




 未だ久秀は見回りの最中で、この天幕にはやって来ていない。


 時折兵達から苦情めいた報告が入るので、相変わらずの態度と方法を使って、軍陣のあちこちにいる者達を質問攻めにしているのだろう。


 先程も報告にやって来た兵を送り出した行武が、久秀に見せていたのとは全く違う神妙な面持ちで口を開く。




「……なるほどのう、事情は承知したわい」


「わしとて今更このようなお役目を負わされるとは思っておらなんだし、断りたかったのじゃが、はっきり言う。息子や一族のために受けざるを得んかった」




 そして和人は厳しい目付きで言葉を継ぐ。




「……行武よ。お主には悪いが、わしは軍監としての役目を全うするぞ」




 かつては大王の下で共に戦場を駆けた古い友人の血を吐くような言葉。


 そこには行武とはまた違った労苦を負って世を渡ってきた友人の人生が掛かっている。




「分かっておる、知らせるべき事は知らせるわい」




 行武が何もかも承知したという風に笑顔で頷きながら返答すると、和人は恥じ入るように顔を下に向けた。


 和人の立場はとても微妙だ。


 既に散位さんいという立場で官職についてはいないものの、前典薬長官さきのてんやくちょうかんとして朝廷に関わりを持ち、一族は多くが下級とは言え、医術で朝廷に使える官人だ。


 ましてや長子である薬研真名人やげんのしんなひとは、現職の典薬長官てんやくちょうかんとして朝廷随一の実力者、左大臣硯石基家の傘下、いや監視下にある。




 今ここで軍監の役目とは本来のものでは無い。




 基家の間諜として、行武の行状を逐一基家に対して報告する役目を負っているのは、言うまでも無い。


 むしろ久秀の態度が清々しいくらいである。


 本来は非違行為ひいこういの有無や軍規の監視に始まり、軍功の有無や優劣を決定し、公平な監察官としての役目を負うはずの軍監であるが、いまここに和人が負わされている役目は、限りなく間諜に近い物なのだ。




 ましてや、その間諜のまねごとをする相手は、旧知の行武である。




 和人は悩みに悩み抜き、その結果友を裏切って一族を取ることにしたのである。


 和人はそれを昔の誼よしみではっきり伝えたわけだが、行武は全て承知しているから気にするなと応じたのだ。


 その上で隠し事をするから、何かあれば自分のせいにしろと言っているのである。




 長年の付合いである、それぐらいの腹は読める。




 ましてや相手は行武である。




 戦場の駆け引きや謀略に駆けては手加減というものを知らないほどの凄みを見せるが、事政略や裏工作については、気付いていても無視する癖がある。


 それが生来のものなのか、それとも敢えてそう振る舞っているのかは和人にも分からないが、その気になれば基家とも渡り合える程の能力はあるはずなのに、それを敢えてしないのが行武だ。




 友の思いやりに救われつつある事に気付いた和人は、深い深い溜息を吐く。


 そして、ゆっくりと行武にその心情を吐露した。




「……わしには守るべき一族がある、子や孫は言うに及ばず、朝廷に使えているのは甥姪に留まらぬ」


「はっはっは、全て承知しておるわい!心配は要らん、万事わしに任せよ。何かあっても全てわしの責任じゃ」




 ばんと衝撃で飛び上がるほどの平手打ちを背中に受け、思わずむせる和人。


 しかし、力ない笑みを浮かべると、それに反してにっと男臭い笑みを浮かべた行武の顔を一瞥してから、逃げるように天幕から出て行く。








「はっはっは……おのれ基家め、和人まで巻き込みおってっ」




 朗らかに笑いながらも、行武は強い怒りを覚える。


 他ならぬ数少ない自分の友にこのような葛藤を強いた、基家や朝廷に参与している面々に、である。


 和人と久秀は恐らく知り得たことは全て朝廷、もっと言えばその前にいる基家に報告するつもりであろう。




 また、そうしなければ人質同然の状態にある和人の一族の行く末が危なくなる。




 久秀の理由はもっと単純だ。




 文人貴族でも下級である彼の家の家格を上げるためか、何らかの報酬が約束されているからに他ならない。


 行武としては、和人と久秀の区別無く軍監を欺く体で事を進めれば良いのだ。


 そうすれば和人は、知り得ないことについては報告しないだろうし、敢えて行武の行状を積極的に探って報告するようなマネもするまい。


 久秀は先程の遣り取りから類推するに積極的にこちらの情報をとりたがっており、また無用のことにも首を突っ込んでくるだろうが、若いせいもあって、いかんせん軍事知識に欠けているだけでなく、人生経験や社会経験も薄い。




 それに、何も報告されても最終的には行武にしか責任が来ないのだから、それまで致命的な痛手を負うような報告をされないようにすれば良いだけだ。




「それに、間諜は何も和人だけでは無い。まあ仕方あるまいて」




 基家は和人だけでは、危ういとみたに違いない。


 行武に懐柔される心配をしたのだろう




「ふん、玄墨の馬鹿息子と評判のお主が、わざわざ征討軍の軍監に志願か?何ぞ裏があるのじゃろう?」




 行武の言葉と視線は、今し方天幕へと静かに入ってきた久秀に注がれる。




「勿論だ、梓弓少将殿。理由は察してくれれば良い、貴殿の想像力豊かなことは聞き及んでいる、たとえば、夷族や庶民が我らと同じということとかな」




 行武の率直な質問に、久秀ははぐらかすどころか、かつて行武が失脚した一因とも言うべき事柄を揶揄する台詞を吐いた。


 瞬間、殺気に似た怒気を放つ行武のこめかみには幾条もの血管が浮き上がり、きつく拳が握りしめられる。


 ぎりぎりと音がしそうな程歯を食い縛った行武だったが、そこで深い息を吐いて久秀を睨み付ける。


 しかし、久秀の表情は変わらない。




「ふん、わしを挑発して手を出させようとは、歳に似合わぬ陰険な策じゃ」


「何のことか分かりかねる」




 空とぼける久秀をもう一度睨み付け、行武はようやく落ち着いてきた頭を巡らせる。


 行武は基家の意図が、何となく読めた。


 どちらかと言えば和人は表向きの間諜で、当人は知らないだろうが、行武の耳目を引きつける役目を負わされている。


 その影で暗躍する者がいるはずだ、それが久秀なのか、それとも名も無き間諜なのか分からないが、和人に加えて久秀が表に出て注意と怒りを引き受ける役柄なのかも知れない。


 あるいは、全く久秀は情勢を知らないまま基家に利用されているかであろう。


 間諜がいるとすれば、既に征討軍の中に入り込んでいるのか、それともこれから入り込んでくるのか、それは分からない。




「ふん、わしを馬鹿にするのも大概にせい、基家よ……」




 たかだか落ちぶれた武人貴族の老人と自分を侮っているであろう最大の政敵の顔を思い浮かべ、行武は鼻を鳴らす。




 一泡も二泡も吹かせてやらねばなるまい。




 それだけ自分以外の者を巻き込んだ罪は重いのだ。

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