水竜祭残景

@tetsu_warhol

第1話(完結)

 列車は軋みながら、山奥を分け入るように進んだ。真夏の日差しは深い緑に吸い取られ、さらに窓から入り込む山の香りが車内に染み渡って涼やかであった。目的の駅に止まると、唯一人の乗客である私は帽子を目深に被った運転士に切符を渡して列車を降りた。

 電車のディーゼル音が遠ざかると、木々の間からヒグラシの声が静かに流れ出した。ふと線路越しに見える木々の間で何かが動いたような気がした。鹿でもいるのだろうか。好奇心に駆られて、木々の間にじいっと目を凝らした。すると緑の隙間、小さな闇の中に顔のようなものが浮かび上がっていた。誰かいるのか? とも思ったが、どうも様子がおかしい。こちらをじっと見つめるその顔は景色の中であからさまに異質で、何の表情もなかった。瞳は黒い穴のように虚ろで、一切の生気を感じさせなかった。お面……、か? 縁日などで見かけるようなものとは違っているが……。何故あんなところに面を着けた人がいるのだろうか。そもそも本当に人だろうか。不自然なほどに背が低くて……、胴が殆どない……。そのとき、面がゆっくりと後ろに下がり、木々の合間に消えた。遠目ではあったが、四本脚で歩いているらしかった。そうか、やはりあれは鹿だ。それにしても面を着けた鹿は相当に珍しい。地域の風習なり何らかの理由があるのだろう。秘境巡りをライフワークとする私は言い知れない期待感を覚えつつ、古代遺跡のような風格のホームから降りた。

 草いきれが鼻を突いたが、次の瞬間には山の風が洗い流してしまった。山奥に開けた集落は稲作が盛んに行われているとみえ、小さな農道の他は水田ばかりであった。畦道を歩き、集落を貫くいわばメインストリートというべき農道を歩き始めた。そんなに広い道ではなく、トラクター同士がギリギリすれ違えるかどうかという程度のものである。

 美しい田園風景の中に、どことなく陰鬱な雰囲気が漂っていた。おそらくその理由の一つは、農道の両脇を縁取って現れた。両脇を古風な築地塀で挟まれた小径は、集落の中でも一際異様であった。門のように並ぶ墓をに横目小径を進むと、突き当たりに大きな門が見えた。鳥居こそないものの、神社の入り口を思わせる大きな門であった。両脇の格子の中に何か祀られているようだが、薄暗くてよく見えなかった。門を抜けると湿った黒土に飛び石が連なり、苔生した庭石と紅葉の木が並んだ。幾重にも重なった葉は優しいうす緑の光を落とした。その先に格子戸を設えた玄関があった。すぐ手前には竜のような細工を施した手水鉢が置いてあり、小さな紅葉の葉が一つ、ゆらゆらと浮いていた。ヒグラシの声が遠くに響いた。

「こんにちは」

 不意に背後から声がかかった。

「え? あ、こんにちは」

 私は振り向き様に返した。背後に立っていたのは作務衣姿の四十代半ば位の女性で、大きな籠を抱えていた。

「今日お泊りの方ですよね? 暑かったでしょ。さあこちらへどうぞ」

 女性はカラカラと格子戸を開けて私を中へ案内した。中はいかにも歴史ある古民家という感じで、薄暗い廊下を曲がりくねりながら歩いた。彼女はこの旅館の女将ということだった。

「こちらをお使い下さい」

 通されたのは広い前室のある座敷で、中央に大きな黒檀の机、部屋の隅には湯呑などを置いてある小さな机が置いてあった。奥の障子越しに外の光が入り込んで明るかった。古民家の割によく冷房が利いており、心地良い涼しさであった。

「一旦失礼します。お茶を淹れてきますね」

 そう言って彼女は部屋を出た。ふと見上げて、欄間の細工が見事なのが目についた。水の流れに遊ぶ竜の躍動感がよく表されており、今にも動き出しそうであった。奥の障子を開けると、縁側になっていた。さらにガラス戸を開けると庭があり、目の前に小さな蓮池があった。

「失礼します」という声とともに襖が開いた。女将がグラスに入ったお茶を持って戻ってきたのだ。

 私はよく冷えた麦茶を頂きながら宿の説明を聞いた。どうやら女将は一人でこの宿を切り盛りしているらしかった。

「あの、ここまで誰にも会わなかったんですけど。住人の方はどちらかに行かれてるんですか?」

 私はそれとなく訊いてみた。

「ああ、そうですね。実は明日お祭りがありまして。そちらの準備に皆駆り出されてるんですよ」

「へー、お祭りですか」

 私は俄に興味を惹かれた。秘境の祭り。何とも言えない響きがある。

「まあ、お祭りといってもどちらかといえば内々の神事みたいなものですし。あまり外には宣伝もしてないんですよ」

「そうなんですね。見学は出来ますか?」

「ええ。明日の本番はぜひ。ただ、前夜祭の神事は一般には公開しないことになっていますので、ごめんなさいね」

「それは残念です。前夜祭もあるんですね。どんなことをするんですか?」

「ええと……。それは言えない決まりになってるんです。すごく決まり事が多い祭りでして……。本当にごめんなさいね」

 何だか俄然興味が湧いてくる話だが、仕方がない。

「あ、そうだ。もう一つ訊いてもいいですか?」

 さっき見た不思議な光景が気になった。

「はい?」

「駅に着いたときに、遠目になんですけどお面を着けた鹿を見かけたんです。あれってもしかしてお祭りと関係があったりするんですか?」

 私の言葉に女将は一瞬驚いたような目をしたが、すぐに何かを考えるような様子に変わった。

「あ、ああ……。はいはい。それは多分ね、タマヘギ様ですね。人目につく場所に出てくるなんて珍しいですよ。遠目だったんですよね?」

「ええ。遠目だったのでよくは分からなかったんですけど」

「そうなんですね。タマヘギ様はね。この土地を守ってくれてるんですよ」

「ああ、そしたら土地の守り神ということでしょうか?」

「んー、ちょっと違うんですけどね。土地の神様は水竜様で、その水竜様が怒って災厄をもたらすのをタマヘギ様が防いでくれるという感じです。詳しい経緯を知ってる古い人も今ではすっかりいなくなっちゃって、ほぼ形だけが残ってるような風習ですよ」

「へー。珍しい形の風習なんですね。とっても興味深いです。もしかして明日のお祭りとも関係があったりするんですか?」

「そうです。お祭りは水竜様に捧げる神事で、土地の者は水竜祭と呼びます」

 新たな奇祭との出会いに、私の胸は踊っていた。

「その、タマヘギ様というのは野生の鹿を捕まえてお面を着けるということですか? もちろん何らかの儀式はあるんでしょうけど」

 私の質問に答える前、女将はまた少し何か考えるような様子だった。

「ええと……、まあ……、大体そんな感じですね。でもここら辺のものは使いません。必ず他所の土地からやってきたものを使うようになってます」

「なるほど」

 古くからこうした閉鎖社会では外部から入ってきたものに神秘性をみるようなところがあり、その表れなのだろう。しかし、一体どうやって他所の鹿と土地の鹿を見分けるのだろうかなどと思いを巡らせた矢先、玄関で誰かが呼ぶ声がして女将はそちらに行った。私は夕食の時間まで少し集落を散策することにした。玄関に行くと、女将が土地の人間らしい五十代くらいの男性と話し込んでいた。

「少し散策してきますね」

「あ、どうぞいってらっしゃいませ」

 女将は笑顔で見送った。男性は物珍しそうに私を見ているようだった。格子戸を出て紅葉のトンネルを歩いていると、背後で「お客さんかい?」、「ええ、今日お泊りの方よ」、「へえ、若い女の子が一人でこんなとこへねぇ」、「こんなとこってことはないじゃない」というようなやり取りが聞こえた。

門を抜け農道に出て、何となくさっき来た方とは違う側に歩いてみた。やはり道の端に墓が並んでいて少し気味が悪い。ヒグラシの声に混ざって、さらさらと水の流れる音が聞こえてきた。石垣で若干高くなっている田と田の切れ目が小径になって、その先に川が流れているようだった。こんな山奥の川であるから相当きれいな水であろうと想像した。大きめの石を階段代わりに疎らに並べただけの小径は少しぬかるんでおり、うっかりすると転げ落ちてしまいそうであった。下まで辿り着くと、思った通りの小川が流れていた。

 夏の日差しを受けて川はキラキラと輝きながら、木々の緑を映した。川縁には安全のためか古びた細い縄が張ってあり、引っ掛けないよう気を付けながら乗り越えた。川縁にかがんで水に手を入れると、思わず引っ込めたくなるほど冷たい。丁度自分の頭の部分が影になって照り返しが消え、川の中の様子が窺えた。おそらく自分の腰ほどもないであろうほどの浅さで、メダカやオタマジャクシがちょろちょろと動き回っているのがはっきり見えた。

 私は靴を脱ぎ、ズボンの裾をまくって川縁の石に腰掛けた。足を水に浸けると手で触れたときの何倍もの冷たさが一気に脳天まで届いた。真夏の暑さの中ではそれも一瞬のことで、じきに心地よい涼しさへと変わった。ヒグラシの声が流れた。まだ日は高いが、小川に沿って吹く風は幾分か夕暮れの成分を含んでいた。

 対岸近くの水面にキラキラとした照り返しが強く、ぼんやりとそこを眺めていた。するとすぐその上手に何か見えた気がした。その部分は丁度木々がトンネルのように覆い被さって陰になり、照り返しがない部分であった。私は川縁に腰掛けたまま、よく目を凝らした。

 何だあれは? 白っぽくて……、四角い……。気になった私は、辺りを見回して誰もいないことを確認した上で、ズボンを脱いだ。自分で言うのも何だが、細くて白い脚で水底を探った。太腿の辺りまで鋭い水の冷たさが上がってきた。ギリギリ下着が濡れないくらいの深さなのが幸いであった。ゆっくり水の中を歩き、程なくして件のポイントに辿り着いた。私はすぐそばまで伸びていた木の枝を掴み、器用に右足でその白い物体を捉え、そろりと引き揚げた。軽い、そして薄っぺらい感触であった。右手で取り上げると、それはパスケースで、中には社員証が入っていた。聞いたことのある雑誌の会社だった。私はゆっくり川縁に戻って腰掛け、しばしパスケースを眺めたが、そっと木の根元に置いた。落とし物だろうが、もうとっくに再発行なりなんなりしてるだろうから、そんなに困ることはないだろう。

「うおぉぉぉん……」と、不気味な低い声が響いた。私は虚を突かれてビクッと身を震わせた。一体何の声であろうか。誰かが覗き見でもしていたのだろうか。カバンからハンドタオルを取り出すと、素早く両脚の水分を拭ってズボンを穿いた。

「うおぉぉぉん……」

 再び声が響いた。川向うから聞こえたようだった。木々の間によくよく目を凝らすと……、いた。あの異様な面を着けた鹿……、タマヘギ様だ。茂みの中なので視界が悪く、辛うじて面が見えただけであったが、間違いない。こちらの様子を窺っているようだった。何か伝えたいことでもあるのだろうか。こちらもじっと見返していると、「うおぉぉぉん……」と野太い声で一鳴きし、後ずさるように山の闇に消えていった。その声はどこか悲しげな響きを耳に残した。あの鹿は、妙な面を着けられてタマヘギ様などと崇められ、一体どういう気持ちなのだろうか。もっとも猟銃で撃ち殺されるよりかはよっぽどいいのかも知れない。ヒグラシの声が山林の闇からしみ出して、耳の奥の不思議な余韻と混ざりあった。

「あっ!」

 川縁から離れようとしたときに、ついうっかり川縁の細い縄を足で引っ掛けてしまった。その拍子に縄がブッツリと切れてしまった。

「あらら。ごめんなさい」

 誰に言うとなく謝罪をして、私は切れた縄を結んだ。その後は何となく村の中をぶらぶらと散歩してから宿に戻った。途中、前夜祭の準備を終えたと思われる村人数人とすれ違った。彼らは愛想よく旅人の私に挨拶をした。いい村だと思った。夕食までにはまだもう少しだけ時間があるので、自室に戻ってごろんと畳の上で寝転んだ。そしていつの間にか眠ってしまった。

 どれくらい眠ったろうか。コツン、コツン、という物音で目が覚めた。何の音だろうか。目を開けて音のする方に目を遣ると、どうやら庭の方から聞こえてくるようだった。縁側に出ると外は夕暮れ時のようで、少し薄暗くなっていた。ガラス戸を開けて庭に目を凝らしたが、一見すると何もなさそうだった。気のせいか、と思ったとき、縁の下から何かがひょっこり顔を出した。

「え? 何?!」

 私は驚きのあまり後ろに飛び退いた。見覚えのある面だった。

「タ……、タマヘギ……、様?」

 縁の下から突然顔を覗かせたのは、ついさっき川で見掛けたタマヘギ様の面であった。どうしてここにいるのだろう。改めて近くで見ると、この面の造りがひどく雑なのが分かった。彫刻刀か何かで荒く削り出したような顔は造作が整っておらず左右の目の位置もずれており、少し盛り上がった格好の小さな鼻らしき構造は顔の中心線上にはなく、ひん曲がったような角度で付いていた。その下に丸い穴があいており、おそらく口ということなのだろう。全体的に彫刻刀の跡がザクザクと残っており、とにかくもうボロボロであった。まるで子供が作ったかのように稚拙な仕上がりなのだ。しばし黒い二穴の瞳で私のことをじっと見つめたかと思うと、徐ろにタマヘギ様は後退り始めた。すると縁の下に隠れていた胴体部分が少しずつ露わになった。

「何……、これ……」

 思わず声が漏れてしまった。全身の身の毛がよだった。面の下から現れたのは、肌色の首、そしてわずかに黒い毛が生えた胸……。そして異様なことに四肢と呼べる部分は切断されたのか殆ど存在せず、代わりに木製のコタツの脚のような物が四本刺さっていたのだ。まるで家具か何かのような有様は、面と同様に雑そのものであった。これは……、鹿などではない。自分の思い違いを後悔した。そのとき、タマヘギ様の面がズルっと動いたかと思うと、カランカランと音を立てて面は地面に落ちた。

「え……? ひ……、ひいーっ!」

 一瞬どういうことか分からなかったが、面の下から現れたのは、まぎれもなく虚ろな目をした中年男性の顔であった。しかも、その口はホチキスか何かで縫い合わされて開かないようになっていた。異常そのものだ。こんなモノがタマヘギ様だって? 守り神だって? ここの住人達は……、狂ってる! 待てよ。この顔……、見覚えがある……。そうだ。さっき川で拾った社員証の顔だ。まさか……。私はそこに書いてあった名を呼んでみた。

「う、うう……」

 男は開かない口で喉の奥から声を絞り出して唸った。その目からは涙が溢れ出した。

「うう……。うおん。うおおおーん」

 泣きながら今度は一際大きい声を上げた。ブチブチと音を立てて口の縫合が千切れた。口から血を流しながらじっとこちらを見つめた後、男はどうにか聞き取れる位の微かな声で「タスケテ」と言ったのだった。そのとき、村人達の騒ぐ声が聞こえた。

「タマヘギヤブレじゃー! タマヘギヤブレじゃー!」

 耳慣れぬ言葉を叫びながら村人達が宿の方に近付いて来ているようだった。憐れな男は、怯えた表情を浮かべて後退り、夕闇の中に消えてしまった。

 こうしてはいられない。ともかくこんな狂った村にいてはいけない。私は大急ぎで荷物をまとめた。取り敢えず村を出て、街の警察か何かに相談をすれば、さっきの人も助け出せるかも知れない。バッグを肩に掛けていざ部屋を出ようとすると、玄関の方で騒ぐ声がした。音を立てないようにそっと廊下に顔を出して様子を窺った。玄関に座った女将の横姿が見えた。興奮気味の訪問者達の姿は壁に隠れて見えなかった。

「困ったのう。明日が本祭じゃというのに」

 高齢男性らしき声が聞こえた。

「まぁ、タマヘギ様も長く勤められたし、そろそろ限界だったんじゃないかしら」

 女将はため息混じりに言った。

「長くってのぅ……。先代はもう少し頑張っておられたんやが……。根性のないことよ」

 もう少し若い男性の声がした。

「お前! めったなことを言うもんじゃないぞ! タマヘギ様はわしらのために身を犠牲にして下さったニエなんじゃぞ」

 高齢の男性が叱るように声を上げた。ニエ……、生贄のことであろうか。先程女将が守り神ではないといっていたのはそういうことだったのだ。

「それにしても、神域を出られたということであれば、仕来りに則ってご成敗ということになるのかしら」

 女将がそこまで言うと、遠くの方でズドーンと大きな音がした。数人の歓声のようなものが聞こえた。

「あ、やったか」

 男のどちらかが呟いた。

「そうみたいねぇ……」

 女将の声は哀しげであった。何の音だろうか。タマヘギ様の身に何があったのか。どうしようもなく嫌な予感がする。

「また墓を建てて弔ってやらんとのぅ。まあとりあえず、タマヘギヤブレの始末が着いたとして、今後のことじゃ」

「そうじゃそうじゃ。今はタマヘギ様がおらんことになる。こんなときこそ水竜様が暴れ出すんと違うか?」

「その通りじゃ。大急ぎで新しいタマヘギ様を用意せんと」

 男達は口々にまくし立てた。タマヘギ様を用意? 不穏な空気がさらに強まった。

「それは分かるけど……」

 女将は戸惑っている様子であった。

「ほれ、あんたんとこ。おるじゃろ? 他所者がよ」

「そうじゃ。今日村ん中をあちこちうろついちょったらしいのぅ」

「まさか……。あんた達あの人を? ダメよ。女性のタマヘギ様なんて聞いたことないし」

 女将は両手を振って拒絶を示した。

「他に誰がおるね? 時間もないというのに。言い伝えでも女はアカンとなってないじゃろ。大体水竜様も中年オヤジよりかは若い娘っ子の方がうれしかろうよ」

「違ぇねえや」

 高齢の男の声に反応するように若い方の男が「ゲッゲッ」と醜い笑い声を響かせた。女将は返事をせずにため息をついた。非常によくない方向に話が進んでいる。まさか、あんな……。タマヘギ様にされてしまうのか。深い穴に落とされるような気持ちであった。女将が乗り気でないのが唯一の救いであるような気がした。

「おい、お前。あれを」

 促された様子で若い方の男が何かを女将に渡した。小さなカードのようなものに見えた。

「これって……」

 女将は指で摘んでしげしげと見つめている。あ、あれはまさか……。

「ほれ。あんたんとこの他所モンがうろついちょった川縁に落ちとったたそうじゃ」

 年寄りのしわがれ声が重々しく響いた。

「まぁ……」

 間違いない。例の社員証だ。私の立ち回り先を監視して回っていたのだ。あのカードは川に投げ捨てるべきだったのだ。

「あの娘っ子は何か気付いてしもうたんと違うかね。それにのぅ。これが落ちとった場所の結界が切られとったんじゃわ」

 若い方の男が言った。

「まあ、結界が……。それじゃ、タマヘギがご神域から出てらしたのは、そのせいなのね……」

 女将はため息混じりに言った。結界……。あの縄か。やはりあれを切っちゃいけなかったんだ。悔やんでももう遅い。そのとき、ドタドタと走り込んでくる数人の足音がした。

「何? あんた達どうしたの?」

 女将は狼狽えた様子であった。

「どうしたもこうしたも……。やるべきことをやったまでよ!」

 野太い声がしたかと思うと、ドンッと何か黒いものが女将の座るすぐそばに飛び込んで来た。

「ま! そんな……、投げたりして」

 女将は非難の声を上げた。女将の横でくるくると数回転した黒い物体は、ピタリと動きを止めた。

「ひいっっ!」

 私は思わず声を上げてしまった。それは、タマヘギ様……、例の中年男性の頭部であった。散弾を浴びたためか、あちこちから出血していた。

「おい。あれ、例の娘か? 話聞かれてたんと違うか」

「逃げられたらかなわんぞ。どうするんじゃ」

「おい、女将。あんたのお客やぞ」

 私は部屋に閉じこもって聞き耳を立てていた。どうしよう。ここに入られたらもう終わりだ。急いで小さな机を襖の端に引っ掛けて心張り棒代わりにした。もう一度彼らの様子を窺おうと襖に耳をピタリとくっつけた瞬間、「失礼します」と襖越しに声がして、驚きのあまりビクッと身体が震えた。女将の声であった。襖を開けようとしたらしいが、心張り棒が利いて開かなかった。それでも襖を破られたらおしまいだ。私は部屋の中央にある大きな黒檀の机を必死で動かし、襖に重ねるように立て掛けた。非力な私でも危険が差し迫ると信じられないような力が出るものだ。背中で黒檀の机を押さえつけながら、次の手を考えた。

「お客さん。お待たせしてすみませんねぇ。ご夕食の準備が出来ていますよ。どうぞ襖をお開け下さい」

 慇懃な女将の態度には、底知れない凄みを感じた。絶対に開けてはならない。どうにかして逃げよう。そうだ。庭の方へ抜ければどうにかなるかも知れない。

「お客さん。ねぇ、お客さん。開けて下さいよ」

 女将は必死で襖を開けようとしているようだった。私は背中で机をぐっと押し付けた。

「おい。もうぶち破るしかねえんでないの?」

 老人のしわがれ声が聞こえた。

「仕方ないわねぇ」

 いよいよまずい。もうこうなったらすぐに庭に飛び出そう。腰を浮かしかけた瞬間、「おう。ここじゃここじゃ。こりゃあ確かに、タマヘギ様の面じゃのう」と、また別の男達の声が庭先から聞こえてきた。ダメだ。挟み打ちになっている。もう逃げようがない。身体の力が抜けかけた瞬間。ドスっという音と、背中の机越しに衝撃を感じた。斧か鉈か……。何か金属製の物で襖を殴り付けているのだろう。ドスっ、ドスっと何度も繰り返され、その都度私の身体は強く押されて前に倒れそうになった。この襖が壊されたらもう……。私はどうしようもなく必死で机を押さえつけて耐えた。遥か遠くの方から、ザアアアという激しい水音が聞こえた。すると襖の向こうの人達が俄に狼狽え始めた。

「何をしとるんじゃ。早うせんと間に合わんぞ。水竜様がお怒りじゃ」

「分かっとる。もうちょいじゃ」

「早う、早う! タマヘギ様を……」

「おい! 板と縄、斧はあるか? あと、木の棒何本か! 何でもいいから余ってるようなやつ。それから……」

「ちょっと待って! あんたら! まさかここでやる気?」

 女将が声を上げた。やるって……、やっぱり……。私をあの人みたいに……。 絶対に嫌だ。

「そりゃそうじゃ! さっきの音聞いたじゃろ? もう時間がない。早うタマヘギ様を用意せんと、村ごとやられてしまうでの」

 言われて女将は黙ったようだった。

「それちょっと貸して!」

 女将は鋭い声で言った。

「お、おい。危ないぞ」

「お客さん。開けて下さい。開けて下さいよう!! もう、失礼しますよ!」

 女将が叫んだ次の瞬間、ズドーンっと大きな音がして私は机ごと前に吹っ飛ばされ畳の上に転がった。何? 撃たれた? 音と衝撃で意識は朦朧とした。襖が開く音がして、村人達がなだれ込んできた。

「よし! ようやったぞ女将。お前ら手足を押さえてくれ! そこの机の脚を切って使おう。それから……」と檄を飛ばす作業服姿の老人の後ろに、硝煙の余韻を残す猟銃を構えた女将が無表情のまま立っていた。私はあっという間に畳の上で手足を強く押さえつけられ身動きが取れなくなった。そこから先は……、よく分からない。ただ、ザアアアという水音と、たくさんの悲鳴に包まれた……、ような気がした。


 気が付くと薄暗い林の中を歩いていた。肌寒く、霧のせいか見通しが悪い。私は一体ここで何をしているのだろうか。確か電車で山奥の集落にやってきて……。記憶を辿りつつ歩いていると、妙な物が落ちているのに気付いた。木彫りのお面であった。どこかで見たような気がして拾い上げようとすると、右手の感覚がないことに気付いた。見るとだらりと垂れ下がった右腕は付け根のところを縄で縛られており、そこから先が赤黒く変色していた。瞬間、昨日の記憶が戻り始めた。そうだ。あのとき私は村人達に捕まって……。

「んん?!」

 頭が冴えてきてようやく気付いたが、私は何も身に着けていない状態だった。しかも髪も身体も水に濡れてびちょびちょになっていた。辺りを見回すと幸い昨日来ていた服が打ち捨ててあったので、不自由な右腕でどうにかそれを着た。

 どうにか人里に辿り着き、病院へと運ばれた。人に話しかけようとしたところ全く声が出せず、そこで初めて唇を大きなホチキスで閉じられているのに気付いた。変色した右腕はもほや切断処理するしかないという話もあったのだが、長い治療期間を経て、若干の後遺症は残ったものの、不自由なく使えている。曖昧だった記憶も次第に戻り、タマヘギ様にされかけていたのをどういうわけか助かったのだと理解した。そして件の村であるが、どこをどう調べても一切の情報が見つからなかった。まるで初めからこの世に存在しなかったかのようである。そんなはずはない。あの村は確実に存在した。

 今でも不意に襲ってくる右手の痛みと同時に、遠くの方でザアアアと大きな水音が聞こえるのだ。

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