真紅の花嫁
牛風啓
プロローグ
その現実は、一瞬にして地獄と化した――廃墟へと堕ちていく絢爛な屋敷の一室に駆け込む男は、足をもつれながらもそう思わずにはいられなかった。
屋敷の主でもある男はみすぼらしい身体をしながらも、人としての価値を底上げする高価な服装や装飾品で身を固めていた。しかしこの地獄の中では無価値に等しい。男の服は無残に切り裂かれ、醜い身体には無数の切り傷が刻まれていた。
「何が……何がどうなっているんだ⁉」
転がり込んだ部屋の隅に隠れ、荒れた呼吸を整えながら頭を抱える男は、あまりの事態にそう嘆く。苦悶の表情を隠しきれず、恐怖と焦りから周りを見失いそうになる。
男の身に降りかかった事態は、至極わかりやすいものだ。部屋でくつろいでいたら、何者かが屋敷を襲撃。使用人や警備員、ボディガードに至るまで、屋敷にいた人間は魂なき亡骸へと変わってしまった。残っているのはこの男のみ。しかも逃げるのに必死だったからか、既に自分しか残っていないという絶望的な現状にも気づいていない。
それでも男は生へしがみつくのを諦めない。まだ生き残る術はある、そう信じて疑わなかった。だが彼のやっていることは、ただ死のタイムリミットを引き延ばしているだけの時間稼ぎに過ぎない。
「――あ、いた! もう逃げないでよ~?」
「ひぃっ……⁉」
静かな部屋に響く、気の抜けた少女の明るい声。地獄と化したこの屋敷に似合わないその声に、男の恐怖心は心の底から限界までせり上がってくる。無理もない、この地獄を作り出したのは、他でもないこの少女だからだ。
血のような赤い髪、宝石のような美しい瞳、ウェディングドレスのような純白のワンピースに包まれた魅惑的な身体。一級品の容姿をしている少女の美しさからは誰も目を離すことは出来ない。しかし男は少女の美麗さなどに目も暮れず、白さの欠片もないほどに赤く染まった少女のワンピースから目が離れない。
男は知っている、その赤みの正体が屋敷中の人間の返り血であることを。男は推察した、屋敷にいた人間が全員殺されたことを。そして男は予想した……次は自分の番であると。
「た、頼む……私を見逃してくれ……!」
「え、無理~」
なりふり構わず命乞いをする男であったが、少女は満面の笑顔で一蹴した。
「何言ってるの? だってこれ、お仕事だから……アンタを殺せ、っていうね」
可憐な笑顔を崩すことなく、少女は驚愕の事実を男に叩きつける。大したことのないようなその口調に、男の背筋はゾッと凍った。しかし少女が男に気をかける様子は微塵もなかった。
「表向きは福祉に尽力する優秀な政治家……でも裏では横領はもちろん、汚職事件のもみ消し、挙句に無数の軽犯罪歴の隠蔽。はっきり言ってクズ、どうしようもない極悪人だね。こんなゴミみたいな人間、生かしておく理由なんてどこにもないよ!」
少女の口から次々と語られる、男の本当の素顔。図星を突かれたのか、男は咄嗟に言い返せない。それが事実の裏付けとなり、少女の口角が更に緩んだ。少女の中で、男に対する処遇が確定した瞬間だ。
「ゴミはちゃんとお掃除する……誰でもわかる、当たり前のことだよ?」
笑顔の向こうから響く、少女の真意のこもった声。まるで死刑を執行するかのような禍々しき雰囲気を纏いながら、少女は一歩ずつ男の元へと近づく。その足取りに迷いはなかった。
「そ、そうか……なら、死ねぇ‼」
許しは得られない、そう理解した男は最後の足掻きに出た。
男は近くに隠してあったものを手に取ると、それを少女に向ける。それは狩猟用のボウガンであり、矢を放てば致命傷すら負わせられる危険な代物だ。所持しているだけで法に触れるものだが、死を宣告された男には関係のないことであった。
そして迷うことなく、男はボウガンの矢を放った。慣れた手つきで発射された矢は、真っすぐと少女の心臓を射抜こうとする。貫けば即死は免れない。だがボウガンの矢が少女の心臓を貫くことはなかった。
その瞬間、二つの変化が少女に現れる。宝石のような瞳を持つ少女の右目が、一瞬にして真っ赤に濁る。充血などではない、純粋な赤色が右目を支配した。
それと同時に不気味な破裂音が部屋中に響き、少女の背中から「ソレ」は出現した。赤と呼ぶには黒すぎる鋭利な形をした、悪魔のような3本目の巨大な手――突如として姿を現した「ソレ」が、目に見えぬ速度で貫こうとするボウガンの矢をいとも簡単に掴む。そして軽く力を込め、ボウガンの矢を割りばしのようにへし折った。
「……つまらない悪あがきだね」
薄っぺらい笑みを浮かべながらも、少女はつまらなそうに呟いた。しかし男の方はそれどころではない。まさに化け物のような所業を前に、言葉を失ってしまう。化け物には勝てない、という当たり前の事実に気付いてしまったが最後、男の生存の未来が閉ざされた音がした。
そんな男の反応を、抵抗の放棄と判断した少女は、へし折った矢を後ろに捨て、男を一瞥する。その瞳には男への興味は一切なく、ナイフのような鋭さが男を襲う。
「もういい? それじゃあ……死んで」
少女の背中から生えた赤い手は男の方へと伸び、丸く膨らんだ頭を躊躇なく掴む。僅かな時間すら与えることなく、禍々しき赤い手が男の頭を握り潰した。
肉片と血液が辺りに飛び散り、少女のワンピースがより一層赤く染まる。赤い手を開いた時には既に形を留めている物体はなく、少女の目の前にまた一つ死骸が増えた事実だけが残った。そんな普通とは逸脱した光景が広がっていたとしても、少女は顔色一つ変えない。少女にとってはその光景こそが、日常の一片に過ぎなかった。
「――烈火様」
そんな時、全身を赤く染めた少女とは違う少女の声が部屋に響いた。芯の通った聞き取りやすい声なのに、その声色に感情は宿っていない。しかし聞き慣れたものなのか、その少女――紅烈火は緊張感のない、にへらとした笑顔を浮かべながら声に反応した。
「あれ、さーちゃんじゃん。現場に足を運ぶなんで珍しいね」
「……その呼び方は止めてください。他の方への示しがつきません」
烈火の物言いに呆れる「さーちゃん」と呼ばれる少女は、わかりやすくため息をつく。烈火よりも幼い見た目とは裏腹に、厳格さすら漂わせるヴィクトリア風のメイド服を身に纏うその姿は、一般人とはかけ離れている。その証拠に彼女の背後には、10人近くの黒ずくめの怪しい集団が横一列に整列していた。
「後の処理は私どもの方で行っておきます。烈火様はどうぞ屋敷にお戻りになってください」
「えーいいよこのくらい。いつものことだし」
「そういうわけにはいかないのです」
烈火の言葉を容赦なく制し、少女は忘れているであろう事実を烈火に伝える。
「……お忘れですか? 明日は『あの方』と初めてお会いになる日ですよ? 少しでもお体を休まれることを優先すべきかと」
「――あ、そういえばそうだった! 忘れてたよ~」
本当に忘れていたのか、烈火はポンと手のひらを叩く。その事実を思い出したからか、烈火の機嫌はすこぶる良くなり、表情がより柔らかいものとなっていく。よほど楽しみにしていることだというのは、誰の目から見ても明らかであった。
「なら帰ろうかな。さーちゃん、後のことは任せたよ」
「はい、承りました」
烈火に深々と頭を下げる少女に見送られながら、烈火は屋敷の外へと飛び出した。既に夜も更けており、だだっ広い庭園があるせいか、辺り一帯は静寂に包まれていた。烈火の耳に聞こえるのも、肌をくすぐる程度の弱い風の音だけだ。
だからこそ、小躍りしながら帰り道を歩む少女の楽し気な声だけが辺りをこだまする。その姿からは、数分前に人を始末したとは想像できない。
「どんな人だろうな~楽しみだな~!」
夜空を見上げながら、烈火は頭の中で未来を描く。それが客観的に楽しい未来なのか、残虐な未来なのか。それを理解できる者など、限りなく少ないことだろう。
人殺しに抵抗感を抱かず、残虐的な最期を容赦なく与える若き少女、紅烈火――裏世界では『真紅の狂戦士』の二つ名を持つ彼女の心中など、常人には理解できないのだから。
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