高瀬、旅に出ないか
澄田ゆきこ
1、
「高瀬、旅に出ないか」
俺がそう言った時、彼は伏せていた目をゆっくりと上げた。色素が薄く、淡い茶色をしたその目は、かすかだが驚きを孕んでいた。
話はつい先刻に遡る。年の瀬の夜。修論がようやく終わったあと、俺は高瀬のいる古書店に顔を出した。狭い店だけれど、蔵書は多い。壁と言う壁、棚という棚に、本がぎっしりと敷き詰められている。店は古本特有の濃い匂いが立ち込めていた。
高瀬は難しい顔をして目録を睨んでいるところだった。来訪者に気づくとやや緊張をまとったが、相手が俺だとわかるとすぐにその雰囲気も弛緩した。
「古本業には慣れたか」
土産のビールが入った袋を掲げて、俺は高瀬に尋ねた。高瀬は少し肩をすくめて、「まだまだ。知らないことばかりだ」と俺の袋を受け取った。
そのまま、いつも通り奥の居住スペースに通してもらった。とはいえ、あるのは居間と、寝室の二間だけ。その二間にも、高瀬の個人的な本がこれでもかと溢れかえっている。壁という壁を埋めた本棚はすでに限界まで本が詰め込まれており、本の山はこたつのある居間にもそこかしこに侵食していた。
外の寒さで凍えていた俺はすぐさま布団にぬくもりに行った。
肩までこたつ布団をかぶりながら、みかんを肴にビールを飲んでいると、読書をしていた高瀬が急に話を切り出した。
「最近、悩んでいることがあるんだ」
その声があまりに深刻だったので、どんな話かと俺は身構えた。
「真崎、おれは実は本が好きじゃないのかもしれない」
そう言う間にも高瀬は片時も本から目を離さないことに、激しい矛盾を感じた。
「本が好きじゃない? ならこの本の山はなんだ」
怪訝をあらわに尋ねた俺に、「違うんだ」と高瀬は弁明するように言った。
「おれが本を読んでいるのは、純粋に本が好きだからとか、そういう理由からじゃない気がしてる」
「……なるほど? じゃあ何が動機なんだよ」
「知りたいんだ。厳密には、知らないことがあるのが怖い。――なあ、真崎。お前も本は読むほうだろう? 大きな書店や図書館で、見たこともない本を大量に目にしたとき、お前はどう思う?」
「わくわくするね。片っ端から読んでやりたくなる」
「おれは……違うんだ。怖い、と思う。読んだことのない本が、つまりは自分の知らないことが、この世にはこんなに――あるいはもっと果てしないほどあるのかって、絶望に近い気持ちになる」
そう告白する高瀬は、この世の罪業を全て抱え込んだかのような、思いつめた顔をしていた。
「……あのなあ、お前はこの世の全てを知りたいわけか?」
「そうかもしれない」
はっ、と俺は笑った。「お前がそんなに傲慢だとは知らなかった」
「傲慢……だろうか」
「そうだろ? 全てを知るなんて神にしかできない。人間様にはせいぜい『無知の知』がお似合いだ」
高瀬は塞ぎ込んだ表情を変えなかった。だから俺は言ったのだ。
「高瀬、旅に出ないか」と。
驚く高瀬に、俺は続けた。「年末年始くらい店を閉めても、誰も文句は言わないだろ。ただでさえ閑古鳥が鳴いてる古本屋だ」
「……年末年始だけなら、それは旅ではなく『旅行』じゃないのか」
「細かいことはいいんだよ」
かくして、俺の強引な誘いにより、俺と高瀬は旅に出ることになった。書を捨てよ、町へ出よう、だ。
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