この街はまだ終点じゃない

@_naranuhoka_

この街はまだ終点じゃない


1 胡桃

〈東京でどこが好きと訊かれたら東京駅、とこたえる。燦然と浮かび上がる東京駅を見上げるたび、ため息を漏らしてしまう。田舎者のばかのひとつ覚え、と彼に嗤われそうだけれど、私は飽きもせずにこの景色を眺める。

 ディズニーランドの張りぼての城にも似た建物をじっと見つめる。比類なく美しいこの景色はけっして私のものにはならないことに、いつも律儀に傷つく。何度訪れても初めて見る人みたいに新鮮に心がふるえる。

 いつかはきびすを返して自分の身の丈に合った場所へ帰らねばならないのに、それは今すぐでなくてもいいんだとうそぶきながら、できるかぎりこの時間を引き延ばして、まばゆい閃光に目をすがめていたい。美しい虚像に身を浸していたい。あまりに見つめていれば目が眩んで立ち上がれなくなることもうすうす気づいているのに。

 ふいに携帯がふるえ、スマホ画面を光らせる。

【仕事終わった。いま飯食ってるとこ。家行っていい?】

 不在着信とともにメッセージが彼から届いていた。ばーか、と呟きながらもうきうきしながら急いで最寄りまで帰る。化粧と掃除の段取りを脳裏に浮かべながら。

 地下鉄より、窓の外が見える電車の方が好きだ。快速がかっさらってきた街灯りが車窓越しに見える。一瞬の星座のように、ガラスに映る私の顔の上を通る。自分のつまらない生活も、遠くから見たら誰かの心を灯す小さな光の粒のひとつなのかもしれない、と頑張って思いこもうとする。むなしいとわかっていても。〉

 更新された記事を小刻みにスクロールしながら一気に読む。知らないOLがつづっている日記調のブログだ。おそらく年齢は二十四歳から二十七歳、といったところか。中学生のポエムみたいな日記、いまさらブログなんて古いし痛すぎる、と初めは思っていたのに、いまでは朝と晩更新がないか必ずチェックしてしまう。

このブロガーの言う「彼」は「片思い相手」であり、セフレ扱いをされてしょっちゅう呼び出されている。都合よく搾取されていることを自虐しながらも、美しい装飾をほどこしてブログの記事にしたててしまうこの女は、なかなかたくましいんじゃないだろうか。

別に有名なブログというわけでもないし、読んで何か役立つライフハックが得られるわけでもなんでもない。キャバクラの待機時間にネットサーフィンしているときにたまたま見つけた。初めは「何この痛い女」といらいらしたりつっこんだりしながら読んでいななみたけれど、時々入り混じる素の卑下や誰かを激しく欲する恋慕は、胡桃にも覚えがある感情だった。ブックマークして一年半ほど経つ。ブロガーの彼女と彼のセフレ関係は別れる別れないのいざこざが時々起こるものの、ほとんど発展していない。それなりに筆が上手いから読まされるけれど、その内容はほぼ言い回しを変えているだけで日々のコピーだ。

変化に欠けた緩慢さに、苛立ちと不思議な安堵の両方を感じながら記事を読んでいる。どこまで本当の話なのかはわからないけれど、固有名詞がぽつぽつと混じるせいか生々しいリアリティがある。

家賃補助なしで七万円以下の古いアパートに住んでいる契約社員の彼女は、横浜に住む院生の胡桃よりずっとわびしくつつましい暮らしを都内で送っているのかもしれない。そう思うと、ぼんやり東京駅を見上げている女の人の姿が、よりわびしい絵として思い起こされる。水を含み過ぎた筆で描く水墨画のように、ぼんやりと。

「胡桃」

 煙草を吸い終えた篠田さんに呼ばれ、スマホを置いてベッドに這い登る。一面窓ガラスに覆われたスイートルーム。誕生日でもなければ内定が出たわけでもないのに、「空いていたから」と言う理由だけで一泊十五万の部屋を取る篠田さんの金銭感覚には付き合い始めて一年以上経ついまもついていけない。一月上旬のいま、そばによればそれだけで鳥肌が立つほどガラスは冷えているはずだ。

 せっかく東京の眺めを一望できる部屋なのに、大して味わっていない。立場上部屋に入った時に歓声をあげておいたものの、篠田さん本人は「今日は曇ってるな」と呟いたきりまったく景色になど注意を払っていない。そういうところが貧乏くさくなくて好きだった。

「マッサージしてやるよ。うつ伏せになって寝転んで」

 面倒くさいな、と言う気持ちといとしい気持ちが混ざり合いつつ、素直に寝転んだ。彼の節くれだった指が自分の腰や背中で丁寧に動きだす。

「気持ちいい。篠田さんって本業マッサージ屋になれるよ。バリとかベトナムあたりで息抜きで旅行に来たOLとかにウケそう」

「胡桃の肌が吸いついてくるから、止まらなくなるんだよ。みずみずしい果物みたいだな」

 おじさんくさい喩え方、と苦笑いしつつ目を閉じる。しっかりと分厚い手のひらはじんわりと温かい。心地よさにうつらうつらしていると、乳房の下に手がすべりこんできた。全体を揉みほぐしたあと先をねちっこく指がいじくる。なすがままにしていると、やがて手は腰の下に伸び、女性器のざらついているところに指がぬうと伝った。先端を柔く擦られているうちに、火をともした蝋のようにぬかるんでくるのがわかる。

「挿れる?」

 くるりとひっくり返ってみせると、だらんとした性器をぶら下げて篠田さんは苦笑いした。出会った時から篠田さんが二回できたためしはない。いつだったか「バイアグラ飲めばいいのに。別に身体に害はないらしいよ」と言うとわずかに嫌な顔をされた。若い小娘に差し出口をされた羞恥ではなく、その目に映っていたのは嫉妬だったことを、いまでもよく覚えている。

「横になって。舐めてあげる」

 四つん這いになり、銃で撃たれて打ちひしがれるあざらしのように力ない性器を咥える。舌で味を感じ取らないよう、唇と舌の動きだけに集中した。ふれるかふれないかくらいの力で全体を包み込むように舐め上げる。篠田さんは温泉に浸かるような声を出して呻いた。

「胡桃は巧いなあ」

「これが下手な女なんてほんとうにいるのかな」

 相手をした大概の人は褒めてくれるけれど全く真に受けていない。女性器の愛撫に比べてわかりやすい作業だし、技術の巧拙に差が出るとは思えない。

結局、何度舐め上げても吸い上げてもほんのりと回復のきざしを見せただけで、挿入はできなかった。代わりに深いキスを交わし、シャワーに向かう。バスローブを巻いてベッドに戻ると、「はい」と篠田さんが封筒を寄越した。中身は五枚一万円札が入っている。ありがとうと微笑んで鞄にしまった。去年の誕生日に買ってもらったフェラガモのバッグに中身を入れ替えるのは覚えていたけれど、この前行った伊勢旅行でねだった真珠のピアスをしてくるのはすっかり頭から抜け落ちていた。篠田さんは何も言わなかったけれど、覚えていないからなのか水を差したくないからなのかは判断がつかない。

「胡桃はどんどん垢抜けていくな」そんなことないって、と笑って返す。

 彼と初めて出会ったのは二十三歳になる一か月前のことだ。バイトしているキャバクラの客だった。常に笑顔ではいても時折観察するような冷静な視線を寄越す彼が、何を考えているのか読めず少し怖かった。値踏みされている、と感じたし、さしてこの人が自分を高く見積もってくれているとは思えなかった。だから、同伴の帰り際のエレベーターで「付き合おう」と囁かれたとき、演技ではなく素で驚いた。あらかじめ渡すつもりだったらしく、前払いとして五万が入った封筒を渡されてなおさら動揺した。

お金を介した付き合いには慣れているらしかった。奨学金返済のためにキャバクラと予備校でバイトを掛け持ちしている胡桃にしたら、渡りに船だった。

「初めて会ったときはこんな可愛い子いるのかと思ったけど、いま思えばどっちかと言えば綺麗なタイプだよな、君は」裸のまま胡桃を後ろから抱きしめて、篠田さんが呟く。

「そんなこと言われたことないよ。思いっきり童顔だもん」

 ロリ顔、とからかわれることが嬉しかったのなんて大学二年までかもしれない。時給がいい店ほどタラバガニみたいにガリガリに痩せた貧相なスタイルのキャストの方が売り上げがいいという事実に、なんどのたうちまわりたいほどの悔しさを覚えたことか。

「胡桃は中身が老成してるからな。賢いし、こんなに若い子とホテルにいてセックスするよりしゃべる方が面白いなんて不思議な気持ちだよ」

 篠田さんがまだ乾ききっていない胡桃の髪をいとおしげにかきなぜる。そういえば明日は何時に朝食の予約をしているのだろう。午前中のうちに出しておきたいエントリーシートが二社ある。切り出すタイミングを伺いながら、そっと視線を外へ投げる。

 窓の外では、東京タワーが大きなバースデーケーキのろうそくのように暖かな橙色に灯っていた。あの貧乏くさいブロガーなら涙浮かべて感激しそうな景色だな、と思いながらゆっくりとベッドの上で脚を組み換える。


 朱莉

 底の見えないホットワインのような色のネイルをキーボードの上に載せて眺めていると、ぽんと頭をはたかれた。思わず悲鳴を上げると、「メシも食わずに何にやけてんだよ」と朝倉君が書類を持ってこちらを見下ろしていた。ほそい目が意地悪そうに吊り上がっている。

職場で話しかけられたことなど入社して以来ほとんどなかったので、心臓が跳ねあがる。誰かに見られていないか、と思ったけれど、消灯された昼休みの職場はほとんど人が残っておらず、席で眠りこけているか、食堂に行っているかで誰も胡桃たちのやりとりなど見とがめていなかった。

「べ、べつに何もないです」

「あっそ。この書類ファックスしといてくれる? 高杉ちゃんに頼むの忘れててさあ。昼休みあけてからでいいから」

「はい」送り状忘れんなよ、と去っていく後ろ姿を、眺めすぎないようにして横目で追う。長い脚をもてあましたようなスーツ姿にぼうっとなる。止めていた息をゆるく吐いた。

 画面を見られてはいないだろか。

 ちらりとパソコン画面を見やる。スリープモードになった画面に、気弱そうな顔をしたショートヘアの女が移りこんでいた。

昼休みにこっそりインターネットをひらいてブログを更新するなんて社会人として常識外れだとはわかっているのだけれど、こそこそ投稿しては履歴を消している。いまのところ注意は受けていないので、おそらく事務員のパソコンの使用履歴など大して誰も管理していないのだろう、と思う。

 ネイルを変えたのは昨晩のことだ。温かい色がいい、と思って「あったかい飲み物みたいな色にしてください」と頼んだら年上のネイリストはワイン色で爪を染めてくれた。深い紅は艶めいて綺麗だけれど、自分には背伸びした色のような気もして、何度も眺めやる。

 今日投稿したのは、先週のデートのことだ。とはいえ朝倉君はデートとは思っていない。東京で初詣に行ったことがないから行きたい、と言うとあからさまに面倒くさがり、「明治神宮とか超絶混むよ? 駅の近くのお宮さんでいい」と行き先を勝手に変えてしまった。

道中も「まじだりい、っていうかくそさみいのな」「もう正月過ぎてんだから神とかいねえって」と白い息を飛ばしながらぶつくさ愚痴を言い通しだった。それでも、白い息を吐きながらの短い道を並んで歩いていると、肺ごと透き通るような神聖な気持ちに浸された。

社内でも群を抜いて綺麗な顔をしている朝倉君にデートに誘われ浮かれたものの、ベッドの上で「彼女はつくらない主義」と言い渡されて呆然とした。この広告代理店に転職してきたばかりの二十四歳のことだ。泣きながら勢いで立ち上げたブログは二年以上続いている。

「これって付き合ってるんじゃないの?」「私じゃだめなの? 好きじゃないのにエッチしてるの?」と泣きながら詰め寄るたびに「すぐ女は深刻になりたがる」「めんどくさい子って嫌いなんだよね。ごちゃごちゃ言うなら帰ってくれる」とすげなく煙草をふかして何もこたえてくれなかった。そのくせ、「朱莉はおびえてるみたいに笑うところが可愛い」「掴んだ痕残したくなるような腰だよな」などと妙にひねくれた褒め言葉を気まぐれに零す。   

所詮は本命になれない女が片思いのくだらない病み記録をだらだら綴っているだけなのに、いまでは六百人近い読者がついている。嬉しかったのは最初の三十人くらいまで、百人を超したあたりで困惑の方が勝っている。いったい何が面白くてこんなブログを読んでいるんだろう。こいつよりはまし、と思いたいのか、自分のように好きな男にいいように扱われているみじめな女が共感を求めて読んでいるのか。どちらだとしても嬉しくはない。

 それでも、いちどルーティンになってしまうと日記をインターネットに垂れ流すのがくせづいてしまった。最近はどんなひどいことを言われたりされても、泣きながら(あとでブログに書こう)と記事の内容を冷静に頭の隅で組み立てるようになった。初めは単なるやつあたりだったのに、いまではできごとをどの角度でどう切り取ればより読者からの反応が増えるのかも計算しているふしがある。

完全な匿名とはいえ、自分との会話やセックスが明け透けにインターネットでさらされていると知れば朝倉君は気持ち悪がって関係を切るとでも言い出しかねない。まだ関係を持つ前に一緒に行ったカフェで、朱莉ちゃんってサブカル系の音楽とか映画とか好きなんだ、意外、とあまり嬉しくなさそうな顔で頬を歪めて笑っていた微妙な表情を思いだすと、いまでも小さく傷つく。

【てか今日会議リスケになったから早く上がれそう。家行っていい? 十時ぐらい】

 本人からLINEが来たのでOKしているハリネズミのスタンプで返した。ごはんは? と訊くとうっとうしがられるので、それ以上は何もコメントしない。お弁当入れから朝作っておいたおにぎりを取り出して席で食べた。水筒には温かいほうじ茶が入っているし、おにぎりでは足りないときのためにカップスープの粉とお味噌汁の元が何種類か引きだしにストックがある。別の段には、チョコレートやクッキーもある。契約社員の低い手取りなりにそこそこ上手く自分をあやして丁寧に扱っているはずなのに、どうして好きな人にはティッシュを引き抜くような軽さであしらわれているのだろう。

男を知らないから男に遊ばれるんだよ、もっと遊びなよ、と朱莉の現状を知る女友達は言う。見かねて紹介してくれる子もいたし、合コンも誘われれば断らずに参加した。けれど誰にもぴんとこなかったし、いいな、と思うこともなかった。定員が埋まってしまっている以上、心が頑なに誰にも恋心のセンサーを向けられない。自分の不器用さに焦燥感を覚える一方、朝倉君への一途さの表れのような気がして誇らしい気持ちもあった。もはや自分に巣食っているのは恋の病などではなく、ばかという名の不治の病なのかもしれない。

今年で二十七歳になる。早生まれだから実際になるのは来年の三月だけれど、周りは結婚ラッシュだ。片思いがどうとかいう次元でのたうちまわっているのは朱莉くらいしかいない。帰りの電車でもうブロックしちゃおうかなとうろんな目つきでLINEを眺めたり、ことが終わるなり「じゃ飲み会言ってくる」とアパートを後にされ、閉まるドアに「大っ嫌い。最低」と叫んだことは数知れない。

〈無理やり連れ出されて不機嫌だった彼が、帰りに「氷踏むときの音って、もの悲しくてガキの頃からあんま好きじゃないんだよな」とぽつりともらした。いつもは皮肉っぽい言いぐさばかりするのに、なんだか急にかわいく思えた。この恋には先がないとわかっていても彼から離れられないのは、根っこのところでは彼のナイーブな感性に惹かれているからかもしれない。〉

先ほど会社のパソコンを拝借してブログに書いた文章を頭のなかで反芻する。参拝した帰り、鳥居をくぐりながら「そういやゴム切れてたからファミマ寄っていい?」と言い放ったひと言はブログには書かなかったれど。

まだ水曜日だ。定時まであと五時間半。午後はできるだけ時計を見ないで作業しよう、と思いながらおにぎりを包んでいたサランラップを丸めて足元のゴミ箱に捨てた。


 晴夏

「もう終わりにしたい」

和樹が切り出したとき、まだ口のなかにはさくらんぼの種が残っていた。枝が不恰好に飛びだした自分の間抜けな姿を想像し、慌ててつまんで抜き取った。

「え、どういうこと? 私たち結婚前提で付き合ってたよね」

真剣交際を謳い文句にしているマッチングアプリで出会った一歳年下の和樹と付き合って一年。プロフィールに登録された【結婚願望】の欄は【今すぐにでもしたい】とあった。気持ちはわかるけど前面に本音出すぎだなあ、と心の中で笑ってしまったものの、舌なめずりしたくなるような好感を持った日のことはほんの最近のことのようだ。

 和樹はコーヒーを啜り、「ごめん」と漏らした。「でも、晴夏が本当に俺のこと好きなのか、正直自信ない。結婚したいしたいっていうわりに妙に冷めてるしさ」

 なんと言い返せばこの人生の危機をチャンスに翻せるのだろう――嵐の中の風見鶏のように脳みそがぐるぐる動く。けれど凍りついた大地を歩いているみたいに何の言葉も思いつかなかった。鈍そうに見えて意外と私のこと見てたんだな、と乾いた頭の片隅で思った。

「わかった。今まで楽しかったよ。残念だけど、仕方ないね」

 にっこり笑ってみせる。和樹はまだ何か言いたげだったけれど、そうだねと弱々しく微笑んだ。少しは引き留めたほうが可愛げがあるというのはわかっているけれど、こういう局面で往生際悪く茶番を引き延ばしても、虚しさが広がるだけなのは経験でわかっている。

 思い出やお互いの近況を報告し合い、「じゃあ俺先に行くよ。大学の後輩が出張で東京出てきてるから飲んでくる」と用意していたような台詞とコーヒー代を置いて去って行った。

 一人になり、テーブルに突っ伏す。「昼間に会えない? カフェとかで」という提案の時点で不和の匂いはかぎとっていた。別れの気配を感じ取ってあたらなかったためしはいちどもない。だとしても、失恋の痛みが和らぐわけではない。

 それにしても、と思う。人がフルーツパフェを食べてる最中に振らないでほしい。別れのかすかな乾いた匂いをかぎ取っていたにもかかわらず注文したのは、おまじないめいた小さな意地だった。それで和樹の気持ちを押しとめられるなんて思うほど無垢ではないけれど、こういう場面であっても食べたいものをまっさきに選ぶ自分である、と和樹に見せたかった。違う。晴夏自身にかもしれない。

 また、振り出しに戻ってしまった――。すべての季節を分かち合い、休みが合えば必ずどちらかの家に泊まり、実家の事情やお互いの貯金額や年収も把握しあっていた。大手自動車メーカーの営業職である和樹と看護師の自分。自分以上に大雑把な性格で、何度注意してもコンタクトレンズで排水溝を詰まらせるくせは気にはなったものの、おおらかでやさしく、仕事への向上心が高いところに惹かれていた。女性に慣れておらずデートの段取りは不器用だったし、大味の顔の造作は正直タイプではなかったが、こういう人と結婚したら幸せになれるんだろうな、と漠然と思っていた。

 三十代で婚活をするなら常に複数人を並行して付き合うべし、とキュレーションサイトには書いてあるけれど、そんなに器用なタイプではない。そもそも、男の人からとりたててもてるタイプでもないのは自分がよくわかっている。

ちびでまるぽちゃ、褒め言葉のニュアンスで似ているといわれる芸能人は食いしん坊を売りにして同性からの支持を集める女子アナ。まったく異性に相手にされないと気に病むほどではないにしろ、願った相手と必ず交際にこぎつけてきたわけではない。自分から「付き合おう」と言って最後に振られるパターンも、これが初めてと言うわけではなかった。というよりも、最近は全部相手から別れを言い渡されている。

【振られた。三十三歳にもなってまた失恋しました!!!!】

 自虐的なメッセージを何人かの友達に送る。すぐさま【お疲れ。この年で別れる別れないってマジで命に関わるレベル】【合コンまた誘うよ~】【厄払い一緒行く?】などとテンポよく返信が返ってくる。どれも湿っぽくなくからりと乾いているのは、気遣いの表れだ。本当は内臓をごっそりと持っていかれたかと思うほどダメージを受けているけれど、あまり自分の痛みの細部を見ないようにして蓋をしている。

【マジで~? うまくいきそうって言ってたのに、残念だったね。飲もうよ,奢るよ】

 大学時代からの友人である由季子が酒で潰れているクマのスタンプとともに送ってきた。

【飲む。いま下北沢にいる】

【私は家。すっぴんだが(笑) そっち行こうか? それかどっちかの家で飲むのもアリ】

【そしたらうちに来てくれる? 元彼の遺品整理を一人でする元気がない】

 すぐに行くよ、と由季子がこたえる。元彼、と打ち込むことに痛みはなかった。またかあ、と思っただけだった。

 落ち込んでぐずぐず泣いている暇などない。すぐにでもマッチングアプリを再開して、街コンサイトからのメールをチェックして、場合によっては覚悟を決めて結婚相談所の料金比較サイトも覗いて吟味した方がいいのかもしれない――。頭のなかでぐるぐると算段が動き出す。無駄にできる時間など一秒もないのはわかっていても、いまはもう、婚活において何も行動を起こす気になれなかった。

 初めに婚活の真似ごとを始めたのはいまから六年前のことだ。学生時代の友人や高校の同級生がぽつぽつとSNSで結婚や出産の報告をあげていた。仕事に没頭していることもありさして年齢に頓着はしていなかったけれど、気づけば自分もアラサーと呼ばれる歳だった。いくつかマッチングアプリをインストールして、通勤後の電車や休日の睡眠前などに通知を確認したり誰かとメッセージを交わした。

 出会い系を駆使することに抵抗がなくなって六年。彼氏は半年から一年のスパンで替わり、失恋してはまた誰かと出会うためにアプリを入れたり街コンや相席居酒屋に繰り出した。彼氏ができたらほっとしてアプリを速攻でアンインストールした。

半年過ぎるまでは様子見かも、と思いながら付き合っていたものの、和樹はおっとりとやさしく、結婚の話題が出ても気まずそうに話をそらしたりはぐらかすことはなく、むしろ「一緒に暮らすとしたらどこがいいのかな」「色白で撫で肩だし意外と和装も似合いそう」などとほのめかすようなことを言うこともあった。その場を盛り上げるためのへつらいではなく、素で言っていたからこそとても嬉しかったのに、いまとなっては「最後には振るなら期待させるようなこと言わないでほしかった」といういらだたしい思いでしかない。

 今度こそ、うまくいきそうだったのに。

 人前ではなければいっそ顔を覆ってわっと泣き伏せてしまいたい。けれどそれは和樹個人への執着、ではないかもしれない。結婚したいと思ってもらうために一年間あまり趣味ではないふんわりとした色合いのブラウスや和樹好みのAラインのスカートを履いて、仕事の休みをできるだけ彼に合わせて、手料理をふるまってきた労力に対する「ここまでやってきたのに」という惜しさと、また一から心を擦り減らしながら婚活にまつわるひと通りの活動に励まなければならないことへの億劫さによる悲しみだった。

 冷静で、合理的であること。熱意や期間のばらつきはあるものの、六年間でわかった婚活のコツの一つはそれだ。ロマンチックさや恋愛感情や熱意よりも、ずっとずっと大事だ。これは恋愛活動ではなく、一つの事業だ。常に一定の距離感を持って相手と向き合い、冷静に判断しなければいつまでたっても終わらない。

【はる姉お久しぶり。いま三茶に住んでるんだよね? インターン先が渋谷だから、今度ごはん食べよう】

 見慣れないアイコンからメッセージが届いていた。見ると従妹の胡桃だ。十歳近く離れており、叔母のような気持ちであれこれ世話を焼いていたのでいまでも懐いている。

大学を出たとばかり思っていたけれど、インターンということはまだ就職していないのだろうか。確か神奈川のそこそこ偏差値の高い国立大学にいたはずだ。利発なぶん生意気なところもあるけれど、こうして時々近況をやりとりしたり、季節に一回か半年に一回はごはんに連れて行っている。

【いいよ。また泊めてあげる。はる姉はたったいま彼にフラれたところです】

 がっくり落ち込んでいるウサギのスタンプとともに送る。すぐに既読が付き【えっまじで 結婚秒読みって感じだったよね】【自動車会社の人だっけ? 次いこ次 ラグジュアリーな男と出会えるアプリ教えてあげるからまた泊まらせて!!】【はる姉の皮からつくる餃子また食べたいな~】と矢継ぎ早に返信が来た。若いなあ、と苦笑いしながらオッケーと返信する。子供の頃から顔が可愛らしい上、出会いがわんさかある学生と言う身分である従妹を羨ましく思いそうになって、店員を呼び止めてホットコーヒーを頼んだ。

 外ではコートを着たカップルたちが寄り添うようにして歩いている。帰りにたくさんチョコレート買おう、と夜のように濃い色のコーヒーを啜りながら思う。


胡桃

 紅茶にマーマレードジャムをほんのひと匙落としたように、ほんのりと明るい光が足元に差しているのに気づいた。手触りで携帯を探り当てる。

十三時。身を起こすと、部屋の主であるはる姉はいなくなっていた。

 暖房をつけっぱなしにしてくれていったらしく、空気は蜂蜜のようにまったりとぬるい。いつもなら手足の冷えで目覚めるのにほとんど夢も見ないで寝こけていた。幸い今日は何も予定は入れていない。夕方から出勤だ。キャバクラではなく、予備校の授業だった。

 顔を洗い、メイクをする。チークがなかったのでこっそり鏡台から拝借する。子供が描く絵のような素朴な顔をしている従姉だけれど、デパコスが乱雑に積みあがっていた。

 インターン先である船草社は、出版社のような名前をしているけれど単なる編集プロダクションだ。給与はない。期待はしていなかったものの、一日目からがっつりと定時まで働かされてげんなりした。しかもあたえられた仕事のほとんどはテープの文字起こしだ。「取材につれていってほしい」「記事が書きたい」と社員に主張すると、嫌そうな顔をして「来週からだったら連れて行くけど、まずはこれやって」と言い残して去って行った。

 それにしても、編集プロダクションがこんなにも貧乏くさい職場だとは想像もしていなかった。不衛生でどこにでも積み重なった週刊誌の束には埃がざらざらと積もっていたし、初日はくしゃみが止まらなかった。トイレは男女共用、社員のほとんどはヘビースモーカーでベランダでばかみたいに吸いまくっている。身綺麗な格好をしているのは胡桃だけで、皆宅浪生のようなだらしのない格好をして、女性社員すら髪型もメイクも適当だった。

 文字起こしなんて機械でだってできるし、内容もマイナーな映画監督の座談会、というあまり興味ない内容だったのですぐに飽きた。それなのになんと三日分もある。いらいらしながらワードをがたがた打った。

 出版社に入って文芸編集になりたい――。およそ文学部に入る人間なら誰もが考えるようなわたあめよりもあまったるい夢は、大学一年あたりで干し梅のように小さくしょぼくれた。実家が母子家庭なので経済的理由で国立大学に進学したものの、どうやら就活というのはOBOGの多い私立大学の方が圧倒的に有利なようだ。加えてキャリア支援課に行って調べたものの、大手出版社のOBOGは胡桃の大学にはほとんどいないことがわかった。 それでも、出版に携わる仕事に就くことにどうしても諦められなかった。一文字0.1円のしょうもない記事をちょこちょこ量産したり、ライターの実績を積むためにキュレーションサイトや雑誌のライター募集にエントリーし続けた。

 学部四年の就活については、もう何も思いだしたくない。惨敗だった。ざん、という切れ味のある響きそのものの敗北ぶりだった。第一志望の出版社は五次選考で落ちた。夏までねばったものの保険の保険のような内定しか出せず、身を切る思いで就活浪人を選んだ。

 院生である今年がラストチャンスだ。院進学は自分で学費を払うことを条件にゆるしてもらった。県職員のパート勤務をしている母が言いだした条件ではない、胡桃自らの提案だ。奨学金とバイト代、篠田さんからの支援でなんとかまかなえているけれど、インターンが始まったので来月以降はさらにバイトのシフトを入れないと間に合わない。

 ベンチャー系の編プロである船草社の内定が出たのは一週間前のことだ。保険の保険の保険レベルではあるものの、一月中に何かの内定を持っているのはまずまずの出来だと思う。就活は続けるものの勉強のためにインターンがしたい、と言うと快諾された。やる気があると思われて編集長に早期の内定承諾を唆されたものの、それは笑顔でかわした。

 編プロの正社員というのは驚くほど月給が低い。よく東京で生活できるよな、と額面を見て思った。もちろんインターンは本命の面接で「編プロでの経験を生かしたいと思っています」と具体的なエピソードを話すためでしかない。

 ――けどあんな感じじゃ意味ないし、飛んじゃおうかな。

 請け負っている記事は週刊誌のアダルト系とギャンブル系がほとんどだし、社員も職場も薄汚く、任されるのは単純作業ばかり。刺激的に見えて、実際は単調で面白みに欠ける。

 昨晩飲んでいるときに、ふと気になって年収を訊くとはる姉はあっさり「六百万くらい」とこたえた。月に五十万円もらう生活なんて想像もつかない。

「いいなー。そんなにお金あったら結婚なんてしなくてもよさそうな気がするんだけど」

「経済的には自立できてるけど、私は子供ほしいから結婚はマストなの」

 親戚の中でも、熱心に胡桃の世話をしてくれたのははる姉だ。「そっか」と妙に実感のこもった相槌を打ってしまう。

「くるちゃんって彼氏いるの? 中学生の時から『彼氏が~』とか言うからびびってたよ」

「いま彼氏いるよ。でも結婚はしないと思うし、社会人になる前にちゃんと相手探したいな。なんだかんだ来年アラサーだし」

「くるちゃんはまだ考えなくてもいいんじゃない? まだ恋愛がしたい年齢でしょ。現実的なこと何にも考えないで男の人と付き合える年齢は本当貴重だよ」

 戻りたいの? と訊くとはる姉は少し黙ったあと「二十代は二十代なりのつらさがあったから、それはない」と笑った。

 バイト先の予備校は横浜だ。三茶のカフェで軽く食べてから行こう、と思った。はる姉の家は居心地が良すぎる。


朱莉

小舟のように乱暴に揺さぶられ、突き上げられ、喘ぎと悲鳴の区別が付かなくなる。うるせえ、響くだろ、と上から枕で押さえつけられた。ひどい、と思っているうちにぐっと中で蓋が膨れあがる感覚があった。出る、と思ったのとほぼ同時に生温かい液体を下腹部にかけられた。

「シャワー浴びてくる」

朱莉の腹をティッシュでぬぐうこともなく、さっさと朝倉君が去って行く。枕をのけてのろのろと起き上がり、汚れた部分を丁寧に拭いた。青臭い。シーツにも飛んでいるのかもしれない。自分の部屋だとここまでの無茶をしないくせに、朱莉の部屋でするときは傍若無人な振る舞いをする朝倉君が憎たらしかった。所詮、捨てても捨てても底の尽きないティッシュくらいにしか思われていない。

入れ替わりでシャワーを浴びて、ベッドに戻る。おいで、とやさしく手を伸ばされて腕の中に倒れ込む。したあとにやさしくされることは滅多にない。仔猫でもあやすみたいに丁寧に髪を撫でまわされ、甘い気持ちになる。「乾かしてやるよ」と朝倉君がドライヤーを手に取った。そして「その間フェラして」とのたまった。

冗談でしょ、と顔を上げようとしたときには頭に押さえ込まれ、石鹸の匂いのするそれを咥えさせられた。頭上では熱風が吹きつけられている。なんてばかばかしい状況なのだろう。逃げようもないので諦めて丁寧に舐めあげる。時々彼がバランスを崩して熱風が直に頭皮にかかった。避けようにも体勢的に逃げられない。

「乾かさなくていいから、普通にしてて」

熱かったの? とにやにやしながらドライヤーを止めた。朱莉への敬意などみじんこ一匹ほども見つからない。

もういいよ、入れていい? と言われたものの黙って速度を上げ、アトラクションのように舌を前後左右に動かす。ああ、と撃たれた鳥のようにあえかな声を上げて、朝倉君が射精した。できるだけ味を感じないようにしながら、飲み下す。

ピルは飲んでいないのだから避妊してほしい、となんど言っても朝倉君はつけずに無理やり押し入ってくる。断りなよ、と女友達には怒られるものの、いざ閨の場面においてはやすやすと組み敷かれ、到底朱莉の力では跳ねのけられない。であれば不本意であっても口で処理した方がいくらかましだ。

「大丈夫、絶対外に出すから」――朱莉の懇願を物ともしない彼の言い分を聞くたびに、この女と人生を交差させるような粗相は絶対しまいという強い拒絶を感じて膝から力が抜け、途方に暮れてしまう。行為のさなかに甘いことは言っても、「責任は取るから」というような、言質を取られかねないようなことは決して口にしない。所詮朝倉君が言う「可愛い」は潤滑油でしかなくそれ以上の意味などないのだ。その一方で、子供ができたら今度こそ責任を取ってくれたりするのだろうか、とばかげたことを考えてしまう。

「今日泊まって行く?」

おずおずとたずねると、朝倉君は黙って携帯をいじり、「あーうん」とひらがなをそのまま投げ出すように低く呟いた。興奮が醒めたあとの男の人ってなんでこんなにあからさまにそっけなくなるんだろう。誰を着火剤にして射精したかを一秒後には忘れてしまうのか。

朝倉君はとても有名な大学を出ていて、同期の中でもずば抜けて出世頭で、見た目もモデルみたいに整っている。実際、学生時代は読者モデルをやっていたらしい。細身ですらりとした体躯に、猫を思わせる意地悪そうなつり目。すっと通った鼻すじ。少女マンガで出てくる、ヒロインとは結ばれないけれどちょっかいをかけてくる先輩キャラにいそうな、繊細な見てくれをしている。当然ながら社内でもちやほやされている。女性社員だけではなく、男性社員もどこか彼にはおもねるような態度を取っている。朝倉君にはそういう雰囲気が備わっている。どんな場であっても「この場の指揮者はこの人」と思わせるような。

コピーを頼まれたんだったか領収書を提出されたのだったか、職場で初めて話した時、仏頂面だったので容姿に見惚れると言うよりも、非情そうな印象を先に抱いた。何だか怖そうな人だな、としか思わなかった。

転職してきてまもなく、歓迎会があったのでそこで朝倉君の名前を知った。楽しくなさそうな顔をしてハイボールを飲んでいた。興味もないのに連れてこられたのだろうな、と遠巻きにしているだけだったけれど、ふいに隣に来て話しかけてきた。

「白尾さん、下の名前朱莉っていうんだ。名前の中に二つ色が入ってるの、めずらしいね」

紅白でめでたいじゃん、と笑う。端整なせいで笑うとかえって怜悧に見える人だった。それでいながらふるまいは妙に懐っこい。大型犬がすっと胸元に擦り寄せてくるような。

「朝倉さんって、何歳ですか」

「俺? 二十七。朱莉ちゃんの二個上」

もう下の名前で呼ばれた。距離感にくらくらしていると、「じゃああとで連絡するから」と煙草を吸いに出て行ってしまった。

その日の飲み会中に【来週の金曜日定時で上がって。そのまま飲みに行こう】とメッセージが来たのには驚いた。朝倉君は、驚いている朱莉を見て、にやりと笑ってみせた。それからはどれだけ目配せしても視線はかち合わなかった。

 三度、デートをした。毎回すべて払ってくれたし、軽妙な話ぶりで人見知りの朱莉をリラックスさせた。三度目、古いフランス映画と同じ名前のバーを出ると終電間際だった。朝倉君は「帰ろっか」と言ってひょいと朱莉の肩に腕を回した。ぐっと身体が密着して、心臓が早鐘を鳴らした。

「あの」

「朱莉ちゃん家どこ」

目白ですけど、と小さな声で言うと「意外と良いとこ住んでんね」と朝倉君は素で驚いたように言った。「っていうか目白ならこっからタクシーで三千円ちょいとかでしょ。面倒くさいし乗ろうぜ。俺終電嫌いなんだよね、混むしうるせーし臭いし」

そう言ってさっさとタクシーを捕まえて乗り込んでしまう。乗り込むなり、朝倉君は腕組みをして目を瞑ってしまった。すうすうと聴こえるのは寝息なのかただの呼吸なのかよくわからない。

「どちらへ」

運転手が無愛想に言う。仕方がないので自分の住所を言った。夜の皇居が、光のリボンのように煌きながらするすると車窓を流れていく。これから起こるであろうことを忘れて、贅沢な景色に目を奪われた。

押し問答があったものの、結局なし崩し的に家に上げた。玄関で鍵を閉めていると、ドアに押し付けられるようにキスされた。

「酔ってるんですか」

押し返しながら言うと、朝倉君は「朱莉が可愛いから」とこたえになっていないことを唇の中に落とし込むように呟き、手を引いて自分の家のようにベッドに連れて行った。

服を脱がされながら、これは付き合うということなのだろうか、それとも酔った勢いというやつなのだろうか、と混乱した。可愛いとは何度も言われたし彼氏の有無もしつこく訊かれたけれど、付き合いたいとか好きだとは一言も言われていない。けれど三度デートをして三度目で身体を重ねるのは、二十代半ばともなればごく普通の展開なのではないだろうか。ぐるぐると思考がめまぐるしくめぐる。

見た目と言動を裏切らず朝倉君はおそろしく手馴れていた。いろんなことがスピーディに行われた。ほとんど経験がないので確信はないけれど、いろんな女の子と遊んでいるんだろうな、とのしかかかられながら思った。余分な肉も体毛もなくて細身の体躯は女性的なのに、加えられる力や重さは男性のそれで、いま私はとても綺麗な人に仕留められている、と思うと状況を忘れてうっとりした。

あの、私たち付き合うの?

終わったあとおずおずと切り出すと、朝倉君はん? と言う顔をした。まるで、完璧にクリーニングしたシャツに一つだけインク染みが残っていることに気づいたみたいに。

「あー、俺彼女はつくらない主義なんだよね。仕事忙しすぎるし休日まで空けられないし」

 そう言ってもういちど長い四肢を伸ばしてベッドに寝そべる。呆然とした。  

嫌な方の予感が当たってしまった。自分はまんまとやられたのだ。だったらせめてもっと遊びに慣れている女の子を狙えばいいのにどうしてよりにもよって自分だったのだろう。高揚が引いてしんと身体が冷えていく。

「来週の土曜日空いてる?」

「え」

「また遊ぼうよ。観たい映画あるから付き合って」

どういう意味なのだろうか。彼の意図を読み取れず黙っていると、朝倉君は「そんな顔するなよ」と柔らかく微笑んで、身体を起こしたままの朱莉の腕を掴んでぐっと引き寄せた。胸板に顔を押しつける格好になる。「俺、結構朱莉ちゃんのこといいと思ってるからさ」――腕枕されている格好で、彼の熱と鼓動をじかに感じながら言われると、一瞬、遠回しの告白なのかと思いそうになった。

正式に彼女にするのかどうか、今後判断していくということなのだろうか。恋人ではない社員の男の人と寝てしまった、という衝撃に頭を打たれ、自己防衛するために都合良く解釈してしまっているということにそのときは気づかなかった。

あの時勇気を出して「そういうことは私にはできない」と拒んでいたら、いまごろは、もっとまじめな人と付き合っていたかもしれない。そもそも、朝倉君の見るからに軽薄そうな容姿や人を強引に押し込むような横柄な性格は少しも朱莉の好みではない。それなのに、関係を重ねていくうちに、心ごと引き剥がせなくなってしまっていた。

ぼんやりと台所に佇んでなれそめを思いだしていると、ベッドから朝倉君が降りてきて、腰に手を回してきた。「腹減った。なんかカップ麺とかない?」と肩に顎を載せてくる。

「ないよ」

「コンビニ行こうぜ、どん兵衛食いたい」

下着姿でいた朱莉に、さっきまで自分が着ていた上からセーターをかぶせる。

「行こう」

「え、下履くから待って」

「大丈夫だって、見えないし」

 っていうか俺が朱莉の脚見たいだけだけどな、と含み笑いで腿の裏をさっと撫でられる。もう、と腕をはたきながら満更でもなくて、そのままつっかけを履いた。

こういうところが、と思う。雀に金平糖でもばら撒くみたいに、時々こちらをくすぐるようなふるまいをする。ずるい、と思わせることは男女関係では大きな武器になるんだな、とこの人と会ってから知った。

「さみ」

 アパートのすぐ下とは言えエレベーターを待つだけでも寒かった。剥き出しの脚がたちまち氷柱になる。朝倉君がぎゅっと朱莉の手を掴んで自分の腰にまわす。

「寒いね」

「だな」

 普段、ほとんど手を繋いでくれない彼の温もりを少しでも味わいたくて力を込める。真冬に好きな人と手を繋いでコンビニに買い出しに行く、ただそれだけを切り取ればまぎれもなく自分は今幸福にぬるま湯のように浸かっているのだ、と思い込もうとする。


晴夏

冬の雨は針のように鋭く、マフラーを巻いていない首元を思わずすくめた。部屋から見ているときはミシン目のように弱々しく見えたのに、ぼつぼつと傘を攻撃してくるみたいに落ちてくる。徒歩十分のスーパーへ買い出しに出ただけなのに、もう後悔し始めていた。

恋人がいたとき、主任である晴夏が日曜日に休みを取るのは至難の技だった。けれどなぜかすこんと予定が空いたので、「墨田主任、日曜日休んでください」と後輩に言われるまま休みを取った。けれど別段予定などあるはずもない。

出かけようにも、電車に乗ってひとりでカフェやランチに行くほどの気力はない。洗濯物を干し終え、シンクに溜まっていた食器を洗い、ぴかぴかに磨き上げた。ふと空腹に気づき、携帯を見るとすでに十二時だった。冷蔵庫を開ける。以前胡桃が泊まっていった時にほとんどあるだけの材料を使い切ってしまったらしく、卵がパックの中に二つ残っているだけだった。

仕方なく着替えて最寄りのスーパーに来たものの、特別食べたいものなんてない。炭酸飲料とお菓子でも買ってジャンキーな映画鑑賞でもしようかな、と思いながら歩く。

後ろから、晴夏を邪魔くさそうに若い女の子がすり抜けていく。紺のダッフルコートから覗く菜の花めいた色のスカートは、ふわふわしていかにも寒そうだ。目に沁みるほど鮮やかな黄色が遠ざかっていくのを眺めているうちに、ふと、パエリアを思い出した。お店にあまり詳しいわけではない和樹が「ここは何頼んでも美味しいから」と北参道のスペイン料理店に連れて行ってくれた。そこで食べた鮮やかな黄色のパエリアは、さらさらとしているのにバターの風味が濃厚で、さくさくと黄金に輝くごはんをスプーンで運んだ。

調味料のコーナーでサフランを探す。少量で六百円近くするのには慄いたものの、かごに入れる。ムール貝は見当たらなかったのであさりにした。海老とイカもカゴに入れる。トマト缶はたしかまだ使っていないものがあったはずだ。パセリ、パプリカ、玉ねぎ、鶏肉、グリーンピース……クックパッドを見ながら材料を放り込んでいく。目的意識を持ってスーパーで買い物をするのは随分久しぶりだった。だったら白ワインも一緒に飲もう。目についたバスク風チーズケーキも入れた。精算すると思いがけずかさんだものの、何も考えずにクレジットカードを差しだす。

持ち手が手のひらに食い込むくらい重くなった荷物を家まで運ぶ。清潔になったばかりの台所は、晴夏に使われるのを待ちわびる小さなステージのようにも見えた。

大好きな宇多田ヒカルを携帯で流しながら、買ってきたばかりの具材の処理を始める。魚介や肉を小さく切り、野菜はみじん切りにした。イカと野菜をオリーブオイルで炒め、トマト缶の中身をフライパンに開ける。煮立てている間、「First Love」を口ずさみながら海老の殻を手際よく剥いていく。

胸を張って得意だと言えるわけではないけれど、料理自体は別段嫌いではない。工程を逆算しながら無駄な動きが出ないように常にてきぱきと作業していると、頭の中がすっきり片付いていく気がする。魚介を一旦取り出し、タイ米をくわえて水分を飛ばしながら炊いていく。ブイヨンの香ばしい匂いと魚介の出汁が混じり合い、初めての割にうまく行ったかも、とひとりごとを呟いた。レモンを買うのを忘れたので、代わりにポッカレモンを何滴か垂らそう。そう思っただけで頬がきゅっとすぼまる。

からりと仕上がったそれを大皿に装い、パセリを添えてテーブルに並べる。まだ十三時すぎだったけれど、ワインも開けた。パソコンで映画を流す。

晴夏の家って居心地いいよな。なんか、ずっと居座りたくなる。

年末、ソファに横になりながら和樹が呟いた。年始年末を家族以外の誰かと過ごしたのは初めてのことだった。

「そう? 広いっちゃ広いけど、全然綺麗じゃないし片付いてるわけでもないよ」

「でも居心地の良さって清潔さで決まるわけじゃないでしょ。俺のばあちゃんち死ぬほど綺麗だったけど、早く帰りたいとしか思わなかったし」

ラグで横座りになり、和樹の顔を覗き込みながら腹をこちょこちょとくすぐる。やめてーと笑いながら「晴夏っていいな、気張らないでいいから」と呟いた。思えばあのときが彼との交際の間で最後の甘い時間だったかもしれない。休みが明けると仕事で忙殺され、土日休みの和樹とすれ違うことが多く、二週間に一度慌ただしく会うのが関の山だった。けれど、ピークさえ過ぎればまた日常に戻るはず、とたかを括っていた。会っていない時間、彼の中で何かが急速に醒めてしまったのだろう。恋愛はいつだって、相手が目の前にいない時間に進んでしまう。

ぱらりと仕上がったパエリアを黙々と口に運ぶ。泣くつもりなどなかったのに涙が迫り上がって止まらなかった。和樹が恋しいんじゃない。温かく満ちていた日々を失ったことを惜しんでいるだけだ。

スマホを取りだし、いくつかのマッチングアプリをダウンロードする。やる気など微塵も湧いてこないけれど、業務のように黙々とプロフィールを埋めていく。近影写真で実物より綺麗めに写っているのはどれも和樹が撮ってくれたものだ。もし彼が見つけたとして、別れた彼女が自分が撮った写真をプロフィールに使っているのを知ったら、きっと嫌な気持ちになるだろう。まあでも仕方がない。振った側は和樹だ。

〈職場が同性ばかりということもあって出会いがなく、登録しました。穏やかで面倒見がいい、と周囲から言われることが多いですがただののんびり屋です(笑)趣味は料理とカフェ巡り、最近はいろんなカレー屋さんに行くのがマイブームです。好きなタイプは真面目でやさしい人、よく聴く音楽はエレファントカシマシです〉

もはやプロフィールに書く内容もさして迷うこともない。尖らず、とにかく普通に、いっそ印象に残らないくらいまっとうで平凡な人間であることしか伝わらないくらいでちょうどいい。

結婚したい、と思った。口に出して「結婚したい」と言った。それはほぼ、死にたいと同じ響きだった。


足下で何かが震えている、と思い飛びのいて、自分が床で寝転がっていたことに気づく。一体今は何時なのだろう。ぶるぶると振動していたのは思った通り携帯だった。先週飲んだ由季子が電話をかけてきていた。切れてしまったので慌ててかけ直す。

「もしもし、ごめん。寝てた」

「あはは。だと思った。今近くいるけど、三茶で飲まない? それか家行っていい?」

「あ、うん。来てほしい。超散らかってるけど」

「お酒なんかある? 食べ物も買ってく?」

「ワインならある。あ、チーズケーキあるよ。しょっぱい系のおつまみあったら助かる」

「はいよー。三十分くらいしたら行くよ」

ごめんわざわざ、と口走りそうになったのを押し止めて「ありがとう助かる」と言い換える。由季子は豪快に笑った。

「いいよ、それは。でも私がいつか結婚したらバカラのグラスほしいなあ〜」

「はいはい、いつか知りませんけど、わかったわかった」

 気のおけない友人の声を聞いているうちにぐんぐん身体に熱が戻ってきた。慌てて立ち上がり、部屋を見渡す。テーブルの状態を見るかぎり、パエリアを半分ほど残してあとはちびちびワインを啜っていたようだ。皿にラップをかけて冷蔵庫にしまい、ごみを片付ける。幸い、午前中に部屋の掃除を済ませていたのですぐに綺麗になった。

汗をかいたので、セーターを脱ぎ捨て、ついでにスカートも脱いでシャワーを浴びることにした。いかにも失恋した女、って感じの休日だな。そう思いながら蛇口をひねる。熱いお湯の粒が背中を滑り落ちていく。

でも仕方ないじゃないか。こうやってふて寝して、むくんだ顔でシャワーを浴びて、中途半端な時間にようやく這い出るようにして活動する。それを何回か繰り返してやっと、土砂崩れを平らに馴らすようにして日常へ戻っていく以外、どんな手段があるというのだろう。特別美人でもなく、男友達が多いわけでもない自分がなんとか生き延びていくには、こうしてふてくされたように休日を潰すくらいしかできない。

ドライヤーで丁寧にブローする。どうせ由季子だし、と思ったけれどコンシーラーでくまを消して眉毛を描く。そのうち、軽やかにインターホンが鳴った。

女友達は最強だな、とひとりごちて「はーい」とロックを解除する。


2 胡桃

この人のいいところは、お酒を飲んでいるときにいちいち薀蓄を垂れ流さないところだ。

篠田さんと初めて外で同伴したとき、まっさきにそう思った。逆に言えば、期待していなかった。どうせこの人も、若い女子大生とエッチしたいだけだろ、ちょっと高い店に連れられたくらいでありがたがると思ったら大間違いだ、と笑顔の下では勘繰り、何かボロを出さないか観察し、物慣れているふうを必死に取り繕っていた。けれど性的な話は何もされなかった。大学の専攻について、最近読んだ本について、夜職で働いている理由について、つまり胡桃がどんな人間であるかについてしか聞かれなかった。これがこの人の常套手段なんだろうから心を許しきるのはまずい、と思った時点で、奪われていたのはこちら側だったのかもしれない。時々そんなふうに思う。

「インターンはどう? 楽しい?」

篠田さんがワインを飲みながら言う。胡桃は肩をすくめた。

「地獄だよ。まず無銭で働かされてるっていうだけでストレスだもん」

まあ出版業界はここ三十年くらいずっと斜陽だからな、と篠田さんが諫めるように言う。

「企画出して自分で取材先見つけてアポ取って、みたいなのも楽しいっちゃ楽しいけど、毎週毎週だと頭パンクしそう。出版社も編プロと変わらないのかな、常に何かに目を走らせてツイッターとかネットニュースに貼りついてネタ探してる感じ。ある意味キャバより疲れるよ。就活もばたばたし始めてるしね」

「来月誕生日だろう。のんびりしようか、どこに行きたい?」

にっこりと微笑んでみせる。去年は一緒に尾道に行った。誕生日当日は当時付き合っていた別大学の院生とディズニーシ―に行ったけれど、そのあと別れてしまった。篠田さんに入れ込んでしまったのはそれからだ。それまではもっと打算的に、自分の生活を潤してくれる〈パパ〉としか見ていなかった気がする。

「あ〜どこだろう。セブ島とかバリとかいいよね」

「おいおい、俺会社があるからそれは勘弁してくれ。年始年末とかだったらまだ都合つくんだけど」とたんに篠田さんが慌てだす。可愛くなってうそうそ、といなした。

「普通にゆっくりしたいなあ。別に都内でもいいし。あ、水上とか鬼怒川とかは? 温泉行こうよ。箱根もいいね」

「いいけどなんか渋いな。わかった、予約しておく。ほしいものも考えておいて」

わーい、と気持ち大げさにはしゃいでみせる。CELINEの鞄がずっとほしかった。価格帯としてはいままでねだったなかで一番高い。ホテルで尋ねてみよう、と思った。

 白いワインが湖面のようにやさしく揺れる。涼やかな味わいに、すっと内側から臓器が透き通るようだ。

「おいしいね、このワイン」

「だろ?」

「なんか」湿った舌で唇の端を舐める。「篠田さんと付き合って舌が肥えすぎて、今後ほかの男とどこでデートしてもしょうもないなとしか思えなくなりそう」

篠田さんは満足そうに微笑み、「胡桃は大物だからな。それくらいでちょうどいいんだよ」と言ってのけた。

「今日どこ泊まるの」首を傾げて見せると、篠田さんは苦笑いした。

「すまん、今日このあと仕事が入ったからまた赤坂に戻るんだ」

「別に遅くなってもいいよ。起きて待ってるし」

けなげなことを言って見せると大体相合を崩して胡桃の希望を通してくれるのに、今日に限って篠田さんは「すまん。借りは来週返す」と小さく肩をすくめるだけだった。

ワインの酔いで緩んでいた脳にぴんと糸が張る。もしかして女だろうか。いくら自分が二十四歳とはいえ油断はならない。もっと年嵩の女でも信じられないくらい綺麗な人はうじゃうじゃいるのが東京なのだし、あるいは胡桃より歳若くて利口な女が現われればそちらに気を惹かれるのは当然だ。そしてこの人にはそういう女を惹きつけるだけの魅力と権力が充分にある。それに対する強い自負も。

タクシー代として一万円もらい、渋谷で降りて東横線に乗った。四十過ぎの男と付き合いながら自分が(飽きられたのかもしれない)なんて危惧を抱くとは思わなかった。

〈彼氏に初めてホテル拒否られた。マジ鬱だわ。不倫なのにセックス断るってマジでもう意味なくない??〉〈でも誕生日温泉行くことになった〜!! やっぱ地味な遊びがなんだかんだしっくりくる〉〈終電ある時間にもらうタク代をマジでタク代として使う女いるのかな。まあ一万円で横浜まで帰れるとは向こうも思ってないだろうけど〉

フォロワーが四人しかいない裏アカウントで立て続けにツイートする。学部生の頃はそれなりに友達も裏垢で彼氏やセフレの愚痴、マッチングアプリの成果などを報告して盛り上がっていたのに、社会人になってからはほとんど呟かなくなった。予定が何もない平日の夜、自撮りを上げても惚気を呟いても、いいねはほとんどつくことはない。みんな他人の人生をリアルタイムで追うほど暇じゃないんだろう。胡桃より先に人生に本番が来た友人たちがツイッター以外の現実世界で生活し始めたのだと思うと寂しい。

マンションに着いたのは零時半だった。気力を振り絞ってシャワーを浴び、丁寧にクレンジングする。素顔だとどこにでもいる普通の女にしか見えなかった。篠田さんとの付き合いはかなり安定してきたけれど、いまだに「何が良くて私に大金を注いでいるんだろう」と不可思議に思う。それとも富裕層からしたら税金みたいなもので大した額とも思っていないのだろうか。

――篠田さんと付き合って舌が肥えすぎて、今後ほかの男とどこでデートしてもしょうもないなとしか思えなくなりそう。

別に彼を喜ばせるためのおべっかとして口にしたわけではなく、正真正銘本音だった。自身の手を汚さずに贅沢を知ってしまった自分が、何食わぬ顔で別な男と、たとえば会社の同僚だとかメーカー勤務のシステムエンジニアだとか不動産の営業だとかと付き合えるとは到底思えない。金銭感覚が狂ったとまでは思わないけれど、旅行先やレストランで純粋に歓声をあげたり喜んだりはできないだろう。

すぐに寝る気になれず、ツイッターやインスタグラムのタイムラインを眺めたりyoutuberの整形報告動画を眺めたりした。ふと思いついて、ブックマークに飛ぶ。

ブログタイトルは〈日記〉で、日付をサブタイトルにして記事を淡々と書いているだけのそっけないくらいのブログだ。なんの発見も目新しさもない、啓発するような内容でもない。それなのに、ログが消えていないことを確認するとほっとする。どこの誰が書いているかも、本当のことかも疑わしい日記だとしても、たったいまは、こういう文章しか読みたくなかった。

〈2月4日

新しく下着を2セット買った。ものすごく久しぶりに買い足した。買う下着の価格帯で如実に生活レベルが測れてしまうということが時々恐ろしくなる。周りの子は上だけで6千円とか8千円とか、それくらい払うのが普通らしい。

いつものお店で10パーセントオフになったセットを2点。ネイビーと黒。彼が家に来たので着てみせると「つくづく冒険しない女だね。たまには全然違う、黄色とかピンクとか買ったらいいのに」と肩をすくめてすぐに剥ぎ取られた。

確かにそうかもしれない。下着の買い方にも人生が現れるなんてなんだかみじめだ。いっそカルバンクラインのスポーツブラで一式揃えられたらかっこいいのにな、と思う。以 前ヨガの体験教室で見かけた女の人が身につけていてとても様になっていたのだ。

彼に言ってみると「腹筋割れてる肌黒い女が逃げ道として選んでるだけでしょ」と一蹴された。彼のこういう、自分の範疇にいない人のことをやたらと揶揄して見下したがるところは好きになれない。〉

相変わらずしみったれてるな、と笑う気にはなれなかった。切実だな、と思った。

ブログ内でコメント欄がないか探す。メールアドレスを打ち込み、感想を書きだす。

〈初めまして。一年くらいあなたのブログを読んでいます。学生です。どんな女の人が書いてるのかな、と想像しながら読んでいます。いつか直接お話しできたら〉

そこまで打ち込んで全部消去した。通りいっぺんなメッセージでしかないような気がした。いっそ自分もブログでも立ち上げようか、と思いついて、それもやめた。

七階建ての五階のマンションの窓から見える景色は、到底夜景とは呼べそうにない、のっぺりとした街が淡々と広がっている。それでも、島根から初めて上京して、東京ではないものの初めての都市の暮らしに感激した。すべてが新しく、めずらしく、十八年間田舎で見てきた暮らしがみみっちく思える材料になった。

服に買いに行こう、と言われて、大学の一年生の時に学部の東京生まれの友達と新宿へ行った時のことが、今でも忘れられない。初めて行った新宿の駅ビルで、眩暈がした。

冗談抜きで、自分より可愛い子しか歩いていないように見えたのだ。

店員は皆モデル並みに細くこぶしくらい顔が小さかった。制服姿の女子高生は自分よりよほど巧みなメイクをして甲高い笑い声を上げて闊歩している。地元では絶対に見かけることのないレベルの美女がうじゃうじゃ通り過ぎていく。ここではスカートもブラウスも一枚五千円からだった。バイトをしていない身には到底買えない、と思った。結局新宿ではカフェだけ行って、帰りに横浜駅のGUで何着か買った。

そのとき、猛烈に腹の底からこみ上げてくる感情に襲われた。

間に合わなかった――。

マグマのようにどろどろと熱いそれは、どうしようもない恥ずかしさと悔恨と焦燥感だった。春先というのに、地元で買ったコートの下で脇が汗で冷たくなるのを感じて、また羞恥心が沸いた。敗北感。志望大学にストレートで合格したというプライドなど、もはやちりぢりになった。

東京で生まれた人間は、初めから、ありとあらゆる一流の商品からがらくたと紙一重のアンティーク、あるいはチープだけれど味わいのある変わり種まですべて揃った豪勢なクローゼットの中で、自分が身に着けるもの、自分のそばに置くものを選んでいるのだ。初めから、しまむらとユニクロとジャスコ以外選択肢がなかった自分とは、何もかも違うのだ。大げさだよ、東京に住んでても庶民だったら買えるものは田舎の人と何も変わらないんだよ、と友達は言ったけれど、ファッション誌や部屋カタログやあるいは写真集がリアルに展示されている街を無料で闊歩できる環境とそうではない環境では、やはり雲泥の差があるのではないか。

その日の夜、胡桃はガールズバーの体験入店に申し込んだ。まだ、お酒の飲み方も種類もろくに知らなかったけれど、それ以外手っ取り早い道など、女子大生の自分にはない。とにかくお金が早急に必要だった。早急に、できるだけいますぐ、現金で。

以来六年間、頻度に差はあれどガールズバーやスナック、イベントコンパニオン、キャバ嬢、種類を変えながらバイトを繰り返した。いずれもいましかできない、若さと年齢を切り売りするような職だった。若さと性をごりごりとアスファルトに押しつけるような勢いで遣ってきたことをことさら恥じるつもりはないけれど、大手出版社の内定にこだわっているのは、それらを帳消しにするような揺るぎない正しさを人生の軸として欲しているからなのかもしれない、と時々自分を疑う。

眠れそうにない。ダークカラー設定で背景が真っ黒に塗り潰されたTwitterのタイムラインを、ゆっくりとまた、泳ぎだす。


朱莉

いまにも湯気を立てそうなほどふっくらとした頬にこぼれ落ちそうなほど大きな黒目がちな目。自分がここにいるのは場違いなんじゃないだろうか。そんなことを思いながらも、目が合うとあやしてしまう。子供が好きだから、という純粋な気持ちからではなく、そうしないとまるで自分が人の心を持たない冷徹な人間なような気がしてくるからだった。

昔、日曜日の午後に母と作ったミルク餅のような匂いがたっぷりと溢れている。これが赤子の体臭なのだろうか、それとも母乳の匂いなのだろうか。

「ミオちゃ〜ん、どうしたの、眠いのお? ねんねしよっか、ん?」

ぐずり出した赤子を慣れた手つきであやす。短大の同級生である紗枝は一児の母にして美容師でもある。カラフルなメッシュが入ったトレードマークである金髪は相変わらずだけれど、根元が黒くまだらになっていた。

「ねえ、亜弓んち母乳であげてる? うち完ミにしたいんだけど、消毒が間に合わなくて結局母乳で済ませちゃうんだよね」

「うちは元々出がそんなだったから初めからミルクだよ。でもマグの消毒ほんとめんどいよね、いっそ使い捨てしたいくらい」

泣き声に触発されたのか、亜弓の腕で眠っていた赤子も目をぱちりと開けた。ふわあああああ、と柔らかいのに甲高い声が上がり、よしよしよし、と亜弓があやす。ほよほよとした輪郭が昼の陽射しにふちどられ、神々しいくらいだ。

こうして短大時代の女友達二人と会うのも久しぶりだ。以前は亜弓も紗枝もお腹が目立たないくらいのふくらみしかなかった。あのとき本当に人間がほかに二人いたんだな、と思うと、感慨深いというよりも、なんだか奇妙な感覚だった。

「朱莉はまだあのしょうもないイケメンと付き合ってるわけ?」

ストレートな問いに戸惑いながらも、「まあ、進捗は変わってないよ」と苦笑いする。紗枝は「もー」と不満げに声を上げた。

「朱莉ってあれだよね、典型的な幸薄系だよね。可愛いのになんでそんな辛そうな恋愛してるのかよくわかんないな」

「やめたいけど、いまさらひとりになるのが怖いんだよ。二人みたいに、手に職つけたわけじゃないし。それに、やめどきがよくわからないっていうか」

紗枝と亜弓は顔を見合わせた。なんだかこの光景、昔も見たなあ、と思う。長く付き合っていた彼氏についていって北海道で就職しようか迷っている、と相談したときも、二人は「やめなよ」「勢いだけでついていくと後悔するよ」と止めてきた。

ハンバーグセットや海老のピリ辛揚げ、青豆のサラダが次々テーブルに運ばれてくる。「食べよう」「おいしそ〜」と大人たちが声をあげると、赤子たちもふにゃふにゃと笑った。

「二人は最近どうなの?」

投げかけると、亜弓は「うちもしかしたら二人目生まれるかも」と言った。「里帰りが長かったからさあ、旦那がその反動すごくて。こっちは眠いし子供いるとこでやりたくないのに、お構いなしでさあ」

昼間のファミレスで繰り広げる会話ではない気がする。面食らっていると、紗枝は「まじで? 仲いいねえ」と相槌を打った。

「うちは全然、レスだよ。三回くらい鬼みたいな顔で断ったら、もう誘ってこなくなった」

「私だってできれば相手したくないよ。でも浮気に走られたらと思うと怖くてさ。ほら、うち旦那がレストランで働いてるから、バイトの若い子とか結構いるんだよね」

「それ言ったら美容師の旦那なんてマジで最悪だよ。たまにインスタのストーリーとか見てるとさ、メッシュ入れた女の子の耳に髪かけてる動画とかがアップされてるのね、いやメッシュ部分見せたいのわかるけどなんかちょっと欲求にじみ出ててめちゃくちゃキモいもん。女の子も笑顔引きつってるしさー」

「うわー地獄だね、そんなもの見なきゃいいのに」

「っていうか嫁が見てるアカウントでそんなのガンガンアップするなよって話だけどね」

学生の頃と変わらないマシンガントーク。自分の子供の前でそんな、と思わないこともないけれど、これが彼女たちの日常なのだろう。

「でもさ、早く結婚しすぎた感は否めないよね。うちデキ婚だから新婚生活とかないままとりあえず家族になった、って感じだし。義母が〜保育所が〜とか言ってる間、私より歳上のアラサーが遊びまわってるの見ると、ほんと羨ましくなる」

「だねー、大人だけでバーとかカフェ行きたい。ってか一人になりたい、それだけでいいや。子供いるとマジで孤独な時間とかないからね。常に目離せないから」

だから朱莉も一人を恐れることなんてないんだよ、と慰められる。彼女たちが求める孤独と朱莉が恐れている孤独は根本的に違うような気がしたけれど、微笑むに留めた。

毎週のように誰かの家でたこ焼きパーティだの鍋だのしていたのも、もはや七年前のことなのだ。an・anのセックス特集の付録でついてきたDVDをぎゃあぎゃあ言いながら観賞したり、四大の学際に行って「あの男の子かっこよくないー?」「行ってみ行ってみ」などとはしゃいだりしていた思い出はもはや遠い遠い過去でしかなかった。

「まあ前から言ってるけど、彼氏がどうのこうのっていうのもいまとなっては羨ましいよ。うちらはもう、ナンパされることも朝帰りすることもほぼ確実にあと五年は縁がないわけだしさ」そうそう、と亜弓も気怠げにうなずく。

「朱莉としては男に振り回されてつらいだろうけど、そういう恋愛が一番楽しかったりするしね。三十までは好きにしてていんじゃない? 結婚だけが幸せじゃないよー」 

一時に集まって三時にはお開きになった。独身の頃ならあり得なかったことだ。朱莉はともかく、そもそも二人とも酒豪で昼から集まること自体めずらしかった。「オムツ買い足さなきゃ」「amazonでいいのあるよ? リンク送ろうか」とやりとりしている二人が、同い歳なのに遠い星の種族のように思える。

よく結婚して子供産んだ同性と友達付き合いできるよな、マウントされねえ? 朝倉君は底意地悪く言うけれど、朱莉は別にストレスを感じていない。いまマウンティングされてるのかもな、と思う瞬間はなかったわけではないものの、流すくらいの技術はある。

「じゃあ、私ちょっと薬局寄るわ」

そう言って紗枝がドラッグストアへ吸い込まれていく。亜弓が携帯に目を落とした。

「朱莉は何線?」

「私? 山手線だよ」

「あ、そうなの。私銀座線。渋谷ってなんかホームとか入り口があっちこっち引っ越してるよね? いつ来ても記憶と違う。なんか信用できない男みたいな駅だよね」

あはは、と愛想笑いで返してみたものの、亜弓が何を想起させたくて自分にそう言っているかはなんとなく察しがついた。

「子供寝ちゃったし、一瞬だけお茶しなおさない」

「いいよ」スターバックスに入ろうとすると、「あ、ごめん。ベローチェでもいい?」と言って道を曲がった。別にどこでもいいのだけれど、亜弓が早口で付け足した。

「旦那の小遣い、月二万切ってるんだよね。一万八千円。なのに私が一杯五百円とか六百円の甘いだけのドリンクに使うのはちょっと」

なんと返していいかわからず、そうなんだね、とかだけ返す。亜弓はメニューもろくに見ずに「ホットコーヒー」と注文した。少し考えて「ミルクティーください」と注文する。 本当はバレンタイン限定のルビーチョコホットドリンクが飲みたかったけれど、なんとなく空気を読んでやめておく。

「紗枝さ、割と家族ぐるみで会ったりするんだよ。家近いから公園とか連れてったりするわけ。そんでさ、旦那同士も仲良いんだ」

一階一番奥のトイレ横のカウンターに腰を下ろすなり、亜弓が話し始めた。へえ、と相槌を打つ。夜や休日は自分も呼んでくれたらいいのに、と一瞬疎外感を覚えたものの、独身の自分が公園での会合に加わったところで場違い感がさらに深まるだけだろう。

「紗枝、旦那の浮気どうこう言ってたけど、あの子自分が不倫してるんだよね」

へ、と間抜けな声を出してしまい唇を引き締める。亜弓は意地悪そうに口を曲げた。

「マッチングアプリで会った二個下の営業マンと週一で会ってやってるらしいよ。その間子供どうしてるのって聞いたら実家から親呼んで見てもらってるんだって。どうかしてるよ、それ一種の虐待でしょ。自分の子供の世話親に預けて浮気って、本当ありえない」

吐き捨てて、ホットコーヒーを熱そうに啜る。そういえばカフェインは母乳に影響はないのだろうか。一瞬よぎった疑問は口にせず飲み込む。

「まああの子学生の頃から男関係はとにかくだらしなかったけどさ。自他ともに性欲強いことを認めるビッチだしね。結婚なんか絶対向いてないのに、避妊もしないで遊んでるから慌てて体裁整えてさ」

子供がかわいそう、としきりに呟き、朱莉の反応を伺っている。亜弓は高校時代から付き合っていた初めての彼とそのまま結婚するという、朱莉からすれば少女マンガのような人生を歩んでいる。自分も「紗枝ってばそんなことしてるの?」「何それ信じられないんだけど」などと同調しなければこの場ではずっとこの話題なのだろうか。正直に言えば、嫌悪感が湧くというよりも、顔が可愛くて飽きっぽい性格の紗枝がマッチングアプリを使っていたり歳下と不倫をしていると聞いても「まあそうなんだろうなあ」という感想しか湧いてこない。むしろ息抜きを自分で見つけられているのならそれはそれで賢いのかも、などと思ってしまった自分は母親になる資格などないのだろうか?

「それよりさ」と亜弓は反応の薄さにしびれを切らしたのか話題を翻した。来る、と思った。「広告代理店の彼、ほんとのところはどうなの? 進展なし? さっき全然朱莉の話聞けなかったからさあ」

来た、と思いながらさりげなくうつむいて視線をそらす。その話が聞きたかったんだろう。いっそ赤ちゃんが泣きだしてくれたらなあ、とちらりと横目で寝顔を確かめてしまう。

「ないよ。ない。私のことは彼女とは思ってないと思う」

「相変わらずセフレってこと?」

悪意がないからこそ、まっすぐに刃物が胸に刺さる。林檎をまっぷたつにするようにあまりにもあっけない。

「……まあ、そうなのかな」

自分の中では明確に彼をそう定義したことはない。変わらず「好きな人」だ。けれど、外野からしたらそうとしか呼びようがない万年床のような関係でしかないということはよくわかっている。

「なんで切らないの。結婚願望なかったっけ?」

「あるよ。ある。でも、彼から振られるのならともかく、自分から好きな人とさよならするのは勇気ない」われながら幼稚な言い回しだなと思う。亜弓は顔をしかめた。

「その男、朱莉以外の女とも遊んでるでしょ」

「……確信は持てないけど、ふらふらしてるとは思うよ」

「そんなの絶対そうでしょ。そんな人、どうせ付き合ったって長くつづかないよ。結婚したところでずっと浮気の心配することになるよ?」

亜弓の言うことはあまりに正論だ。まっとうで正しい。けれど賛同する気にはなれない。

「っていうかほかに男いないの? まあそのハイスペ男と比べちゃうとレベル下がるけど、もっと真面目で朱莉と合う人いるから。旦那の大学の時の同期とか後輩。どう?」

曖昧に微笑んで流す。「あの子さ、彼氏以外の男と遊びたいなら遊べばいいのに。遣り手ばばあすることによってうちらがちゃらちゃら遊び続けるのをはばもうとしてない?」と学生時代紗枝が愚痴っていたのを思いだす。そして、それには同調したことも。

「もー。まあつらい恋愛したいならそれはもう止めないよ。でも長引けば長引くほど、苦しむ時間も長くなるんだからね」

それだけは本当だ。初めて朝倉君の家に行ったあと、完全に縁を切っていれば、こんなに苦しむことも傷つくこともなかった。甘い記憶をちまちまアイドルの雑誌の切り抜きみたいに拾い集めて、期待だけは一向に捨てられない。割り切ってほかにきちんとした相手をつくることができればバランスは取れるのだろうとは思うけれど、食指が動かなかった。デートをして二人ほどに交際を持ちかけられたことはあるものの、朝倉君と比べてしまうとなんだか少しも魅力的だと思わなかった。着ている服や話す言葉の一つひとつが安っぽいまがいものに思えて、迷った挙句に結局断った。

朝倉君と知り合う前だったらもしかしたら承諾していたかもしれない。でも、好きな人と比較してしまうと、どうにも、その人と手をつないだりキスをしたり抱き合ったりということを、自分にはできない、と思ってしまった。

気が済んだのか亜弓は「ごめ、先帰る。今日旦那早番だから夕食一緒に取れるんだよね。今日はビーフシチュー作ってくれるらしくて」と言い残してベビーカーを押して帰って行った。陰口、助言、惚気、数十分の間で亜弓の欲求すべて叶えるような会話の流れだったな、と思いながらミルクティーを啜る。

――不倫しなきゃやってられないくらい育児のストレス溜まってるんじゃないの。手段はどうであれ、自分の息抜きして子供育てられてるなら、それはそれで立派だと思う。

――紗枝の振る舞いが癪に障るならこうやって集まったりしないで距離置けば?

――彼との関係は私が一番熟考してその上で納得して続けてるんだから口出しするのは野暮だよ。中学生の交際に口挟む、子離れできてない親みたい。

会話の途中途中で思いついた文句がぽこぽこと胃の底で息を吹き返す。言い返したらすっきりするだろうにしなかったのは友情のためじゃない。亜弓と縁が切れれば自動的に紗枝とも切れてしまう。亜弓が手回ししないはずがないからだ。

そうなると学生時代からの気兼ねにない友人は本当にいなくなってしまう。もちろん前職の同期や会社の後輩、高校の同級生など人並みの人間関係はあるけれど、朝倉君とのことを隠さずに伝えているのは二人だけだった。あとの友達には彼氏いるの、と訊かれても「え〜いないよ」「いるけどまんねり気味」などと濁している。素性がわからない程度にぽつぽつと朝倉君のプロフィールを話すと、「え、めっちゃエリートじゃん」「優良物件だね! いいなあ」と羨ましがられる。けれど話したあとに自己嫌悪で落ち込んでしまう。

――私って見栄っ張りなのかもな。

二十七にもなって弱音や愚痴を吐露できる友人がほんの二人しかいない。それは、恋愛が上手く行ってないことよりも思案すべきことなのかもしれない、そう思った。


晴夏

【お酒好きなんですね♪ よかったら神楽坂あたりで飲みませんかー? 最近おいしいワインバー見つけたんでハルさんと一緒に行きたいです】

【いいですね。来週の木曜日の19時以降だったらOKです】

【わかりました!その日にしましょう。20時駅集合でいいですか?】

女にしてはそこそこ稼ぎがあることのメリットは、年収で男を選ぶ必要があまりないということくらいだろうか。

「同世代なら年収七百万はほしいよね」「自分より稼いでない人、仕事できないのかなあと思って魅力的に見えない」とのたまう同僚もいるけれど、晴夏はあまり気にならない。稼いでいても人間性がおかしい人もいるし、低年収でもまじめで優しい人はたくさんいる。

 前の前の恋人は二歳年下で、はっきりたずねたわけではないけれど、察するに晴夏より二百万近く年収が少なかった。あまり気にしていなかったし、割り勘どころか自分の方が多めに払うことが多い交際だったけれど、より稼ぐ方が出すのは別に理にかなっていると思っていたから不満はなかった。最後は「はるちゃんといると、成長できない気がする」と思春期の男子高生のようなことを言って別れを切りだされたのだけれど。

〈約八〇パーセントの会員が三か月以内で恋人ができます〉と謳っているマッチングアプリのなかで知り合ったグラフィックデザイナーを名乗る男とのトークを切り上げ、カレンダーに【20時神楽坂 デザイナー】と打ち込む。語尾に音符マークをつけるような浮かれた男と話が弾んだりましてや交際に発展するのかは疑問だ。確かに稼ぎがあれば男性に求める条件も減るかもしれないが、その頃にはとうが立った年齢になっている。あまり足きり条件もつけてはいられない。

どちらにせよ男性を選ぶ基準はある程度あまくしないとそもそもマッチングできない。語尾に女子高生のようなカラフルな絵文字をつけていたり、「こんにちわ」と打ってきたり、いきなりため口を訊かれたり、上半身裸で筋トレしている鏡越しの自撮りを載せていたり、会ってもいないうちに呼び捨てにしたり、「フットサル/ジム/コンサル よろしく」などとプロフィールが短すぎたり、そういう人たちを全部「アウトだな」と×を押していたら誰も残らなくなってしまう。二十代だったり、容姿に恵まれているならそれでもいいのだろうが、自分はそういうわけにもいかない。婚活において大切なのは売り出したい商品への客観的な評価と市場把握、要はマーケティングだ。「いいお母さんになりそう」「おおらかで癒してくれそう」――晴夏に好意をもってくれる男性が思っている晴夏へのニーズと自分のキャラクターを多少すり寄せれば案外スムーズにいく。

この作業自体年季が入っているとはいえ、だらだら使うつもりはない。少なくとも三か月内には次の相手を見つけたい。結婚してもいいなと思うような人と。結婚願望が強い晴夏を恋愛体質なのかと決めつけてくる人もいるけれど、全くもって逆だ。これ以上恋愛を繰り返して傷つきたくないからこそ、最後の相手を見つけようと必死なのだ。恋愛の土俵から上がるために恋愛相手を探す矛盾に気づきながらも、一人で生きていくことを潔く受け入れる強さはない。

「主任、これ見てもらっていいですか」

 後輩の看護師が日誌を渡してきたのですばやく携帯画面を暗くする。「オッケー、昼休み終わるまでには返すね」と受け取ると、さっと出て行った。

「墨田さん知ってる? あの子西先生と付き合ってるんだって」

 向かいで携帯を触りながら同期が話しかけてきた。特に興味が湧かず「そうなんだ」と返すと、別の看護師が「違いますよー」と口を挟んできた。「西先生とは年末に切れてて、いまは野田先生のとこ通ってるらしいですよ。ま、遊びらしいけど」

 きゃあきゃあとはしゃぎ始めた彼女たちの会話に混じらず、ぼんやりとマッチングアプリのタイムラインをもういちど眺める。看護師が院内の医者と付き合うことは茶飯事だし、同時に別の人間と付き合っていたり怒り狂った医者の妻が乗り込んでくることももう慣れた。深夜の見回りで行為中のカップルを懐中電灯で照らしだしてしまうなんて間抜けな事態もあった。どうも生死と日常的にかかわるような、気を張り続ける仕事をしている人間はそのぶん性欲が異常に高まったり別の場所で発散しないとやっていられない、という性質の人間が多いみたいだ。目の前で噂話と陰口に花を咲かせている同期だって一時期毎晩のようにクラブに行っていたし、別の後輩もマッチングアプリを多用して遊び歩いているようだ。人のことは言えないので口出ししたりはしないけれど。

「……看護師ってやっぱりメンタルがゴリラ並の人が多いよね」

 じゃあ行ってきます、と立ち上がると、「何その唐突な感想」と同期がぼそりと呟いた。無視して歩き出す。

午後の病室はとろみのある卵色をした空気に包まれている。働き始めてもう何年も経つけれど、なんとなく、新築の校舎に踏み入ったときのことを思いだす。知っている場所なのに知らない場所のような、取り澄ました空気。

「失礼します」

 患者たちはめいめい「こんにちは」「おはよう」と声をかけてくる。そのなかに弓子さんの声はない。けれど奥から妙に強いまなざしを感じる。順にシーツを回収して取り替える。

「失礼しますね」

 弓子さんのベッドに向かい作業を始める。彼女は返事をせず、じっと晴夏の手つきを見ていた。かと思えば唐突に「ねえ、こないだのデートはどうだった?」と話しかけてきた。

「うーん、いまいちでしたね」

「自営業のエンジニアだっけ。フリーランスなら看護師のあなたとも休み合わせられるじゃない。どこがだめだった?」

「食事の仕方ですかね。どことなく品がありませんでした」

 手を止めずに淡々とこたえると、弓子さんはくふふふと紙を擦るようにして笑った。

「それはそれは。直してあげられるような年齢じゃないもんね」

「その人私と同い歳でしたけど、もし私がこの歳で『食べ方がどうかと思う』って言われたらその場で舌噛んで死にます」

「墨田さんって意外と短気ねえ」

 検査の時間を伝えると、「はあい」とボールから抜ける空気のような淡い声で返事をして目を閉じてしまう。それで会話は終わったと思って背を向けたら「食べ方が綺麗だったらそのエンジニアと二回目のデートしてた?」となおも話しかけてきた。

 少し考えて「してないですね」とこたえると、弓子さんはほらね、と嬉しそうに言った。

「だってその人、墨田さんが探してる人じゃないもんね」

 こたえず、「四時になったら検査室に来てください」と声をかけると、弓子さんもまた沈黙で返事をした。

病状は重いけれど、本人はとてもそれを感じさせない。長いこと病と帆走して生きてきた人特有の、悟り切って安定した精神で日々過ごしている。

彼女が患っているのは膵臓だ。透析をつづけて、息継ぎのように生きつないでいる。本人の表現だ。「同じ病気だった子は小学生の時に死んだから、中学生以降は往生際悪いあとがきみたいな感じで生きてる」――読書家の彼女らしい言い方だと思った。皮肉屋で、少し気まぐれで、美人というのとはまた違うけれど、薄青く浮かんだそばかすや伏し目がちな一重瞼は、竹久夢二が描く女性画のような色気がある。

同い歳だと知ってから打ち解けるようになった。それまでは、移り気で看護師や医師をじっと観察するようなまなざしを向けてくる彼女はどちらかと言えば苦手な患者だった。 けれど歳を訊かれてこたえたときに、「えーほんとに?」と弓子さんは眉をひそめて、けれど語尾を跳ね上げた。「あなた子供っぽいから、歳下だと思ってた」と言う。

 それから晴夏のことをあれこれ聞いてくるようになり、婚活していることまで話す羽目になった。恋の顛末を一通り引きだして聞いていたあと、弓子さんはぽつりとつぶやいた。

「墨田さんって、あんまり結婚したいって思ってないんだと思ってた」

「それ、周りのみんなに言われます。めちゃめちゃ思ってますしすっごい焦ってますよ。結婚相談所のサイトブックマークにがっつり入ってますよ」

 おどけて言ってみせたのに、彼女は笑うことなく、「え、うそ」と低く呟いた。そしてこう言った。「何のために?」

意地悪で言っているのでも冗談で言っているわけでもない素の疑問というふうにどこまでも無防備に問われて、いっそ傷ついた。

「私ってそんなに結婚願望なさそうに見えますかね」

「話す前からなんとなく思ってたけど、いままでの話を聞いたら余計そう思った」

 患者に自分の恋愛歴などばか正直に話すんじゃなかった、口が堅そうなのとそもそもほかの患者や看護師ともあまり打ち解けたようすのない弓子さんにはつい話してしまったけれど、立場もあるのだし適当に濁すべきだった。

「あの、私の話、できたら忘れてください。話しすぎました、すみません」

「私が聞き出したことだから別にいいよ。こっちこそごめん、話したくないことまで話させちゃったかも」弓子さんは華奢な肩をすくめた。

「ねえ、あなた宗教は何か特別信じてるものある?」

「いや、全然」考える間もなかった。こたえてから、ああそういえば私って神とかなんも信じてないな、と思った。とはいえ医療従事者なんてみんなそういうものなんじゃないだろうか。質問の意図が分からず弓子さんを見返すと、彼女はひょいと矢を投げるようにこう言った。

「昔のこと以外に、信じられるものが見つかるといいね。あなたにとっての宗教って過去そのものでしょ」

 笑い返せたかどうか、よく覚えていない。


胡桃

目じりが釣りあがるくらい高い位置でシニヨンに結ったリクスー女が、電車の向かいの座席からちらちら見てくるのがうっとうしくてマスクをして文庫本を開いた。現役生っぽい、というだけでなんとなくむかついてしまう。

三月一日に採用情報が解禁になってから、キャンパスでも駅でもスーツを来た学生で溢れていた。就活生同士なんとんなく視線を交わし合って「こいつはダメそう」「商社狙ってそう」「大手一般職狙いっぽい」と心の中でジャッジしている。

学部生のときの就活は右も左もわからず、出版以外に受ける企業は、業界も業種もあまり絞っていなかった。手当たり次第にエントリーして毎日何かの選考を受けていた。

けれど、今年は戦法を変えることにした。大手出版社九社がメインで、あとは保険あるいは遊びだ。中小出版社が四社、広告代理店が三社、あとは化粧品メーカーや食品メーカーの企画営業にもミーハー心と好奇心で何社かエントリーしている。

――けどまあ結局は恋愛と一緒だもんなあ。

少しもタイプでもなくお金を引っ張れるくらい気前がいいわけでもなさそうな客の名刺は煙草の吸殻と一緒に一秒でごみ箱に捨てる。マッチングアプリで全部のいいねに目を通すことなくむしろ自分からいいねして返ってきた人とだけメッセージを交わす。それと就活は何ら変わりない。ニーズが不一致なら、内定など出るはずがないのだから。

牛込神楽坂で第二志望の出版社の説明会を受けたあと黒服に【今日ヘルプ入れそうなんですけど人手足りてますか】とLINEしたら【体入二人いるから今日はいいです。明日とかだったら逆にどうです?】と返ってくる。です? ってなんだよですかって言い切れよ気持ちわりぃ、と思いながら【すみません、ゼミがあるので。また来週入ります】と返信する。夜職についてから、自分の語彙は随分下品になった、と冷静に思う。

学部四年のときに就活で挫けたのは苦々しい思い出だ。恋愛にしろ勉強にしろ人間関係にしろ、躓いた経験はほかにほとんどない。だいたい予想通りに欲しいものが手に入り、思い描いた設計図通りに進路を進めてきたつもりだ。いっそ何の挫折もなくて面接でエピソードを捏造しなくちゃいけないから大変だな、ぐらいに余裕をかましていた。結果は惨敗だった。塔のように頑丈な自分のプライドが、もろもろと煮込み過ぎた豆腐のように醜く崩れていくさまを、どうしよもなく眺めるだけだった。

――今年こそは絶対に失敗できない。

事故的な形で院進して学費に喘ぐはめになったことは人生の汚点でしかなかった。二十代のうちの貴重な二年を挽回するためにも必ず志望している出版社に入らなければお金も時間も徒労も水の泡となる。若い女であることを思いつく限りの方法で生かそうと躍起になっている自分が、就活でしくじったせいでこの二年を犬死させるのはあまりに皮肉が利いていた。

【ダーリン 次いつ会える?】篠田さんにメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

【月初は厳しいな。再来週の月曜日が最短】

【遠いよー】

【ごめんごめん 何食べたいか考えておいて】

【いいけど、さみしー。馬とか猪とか獣肉がいいなっ】

 そこで既読が途切れた。先月の誕生日は鬼怒川温泉に行った。都内に帰ったあと、銀座で希望通りCELINEの鞄を買ってもらった。嬉しかったけれど、仕事が忙しいのか食事の席でもずっと携帯を手放さず、音声入力でメールの返信をしていて、気もそぞろもいいところだった。これが同世代の恋人だったら、ぶちぎれて荷物をまとめて帰るところだ。そう思ったけれど、口にはできなかった。あくまで楽しませる役はこちらなのだ。

時計を見やるとインターンのシフトの時間だった。行きたくは、ない。けれどこの作業も自分が行きたい場所への踏み台なのだ、と思えば苦ではなかった。


黙々と文字起こしに没頭しているとモールス信号のように指で肩を叩かれた。不用意に身体を触られるのは好きじゃない。きっと顔を上げると、乾が「うわ怖」と棒読みで呟く。

「コモモ。これ赤入れしといたから直してまた再提出で」

色白い細面に銀縁のめがね。ひょろりとした男が無表情に胡桃を見下ろして髪を差し出していた。推定百六十六センチ、ナナフシみたいにガリガリで、下手すれば胡桃より体重が軽そうだ。こいつがかけてるめがね、チェーン店じゃなくて地元の個人店で買ったのかと訊きたくなるようなださいデザインだな、と思いながらじろじろ見てしまう。

「何すか」

「いやなんも。っていうか私の名前はコモモじゃなくて胡桃です。そうやって呼ぶのやめてください」

乾はにやにやしながら自分のデスクへ戻っていった。心の中で舌打ちする。編集長いわく胡桃と同い歳らしい。同級生にインターンの面倒を見られるのは、正直屈辱的だった。そのうえ遠慮なく仕事のダメ出しをされる。

初対面ではおどおどしていていかにも童貞という感じだった。常に隙のないメイクと露骨な格好をしている自分みたいな女を怖がり遠巻きにしているタイプに見えたのに、いざ仕事が始まるとこちらがひるむほど遠慮がなかった。

うんざりしながら原稿に目を通す。細かい言い回しや小見出しに至るまで、細かくコメントが記入されている。こういう男に限って私より達筆なんだよな、と思いながら渋々ワードを開いて手直しした。人より本を読んでいるし論文も書き慣れているから当然文章力には自信があったのだけれど、単なる過信でしかなかったのだろうか、と落ち込む日々だ。

文字起こし作業を区切り、乾に渡された原稿を直していく。三度目の再校でようやく「オッケーこれで提出します」と乾が原稿を引っ込めた。思わず長いため息を吐くと、乾はにやりと笑った。

「コモモ、文章書くの本当はすっごい得意でしょ。でもこういう記事埋めじゃ文才は邪魔になるだけだから。誰が書いたかわかんないような平坦な文章で書いてくれないと何回も赤入れするよ」

「わかってますって」唇を尖らせて言い返す。インターンを始めてすぐの頃から口酸っぱく言われつづけていることだ。無個性で平坦で、機械の説明書のようなモノクロの文章を書くように。意識はしているつもりなのだけれど、どうしても我が出てしまう。

「そっけなさすぎるくらいで充分だから。はっきり言ってコモモの文章はサービス精神旺盛すぎ」わかったからあっちいけ、と言う意味を込めてじろりと睨む。凍りつくような空気に気づいてないのか、気づいていても無視しているだけなのか、乾は「じゃあ次の記事依頼あるまで文字起こししてて」とデスクに戻って行く。

まあでもここは所詮踏み台、と唱えながらヘッドフォンを装着する。文字起こしをしているとき、他の音楽を聴けないことがかなりストレスだ。

乾が向かいのデスクからぬうっとあざらしのように顔を出した。

「あとさ、コモモの友達で派遣社員とか契約社員の女の子、」

「いない」

「被せでこたえんなって。週刊誌の企画で貧困女子特集あるんだけど、謝礼も出せるからもしいたらアポ取ってくれない?」

国立大出てんだからいるわけないだろ、と思考をシャットダウンしかけて、ふと思いついた。いつも読んでいるブログの、あの女の子。たしか契約社員だという記述があった。

「心当たりあった?」

 胡桃の表情を読んで乾が楽しそうに言う。

                                                                  

朱莉

児童公園の桜が、気づけば満開を迎えていた。深い藍色の空に、石鹸のようなほの青い花びらがよく映えている。帰りにもういちど寄ろう、と思いながら通り過ぎる。

帰宅途中に思いついて図書館に寄った。「朱莉、本とか読むんだな。なんか意外」などと朝倉君に言われたけれど、できるだけお金を遣わずに娯楽を生活に取り入れようと思ったら公共施設の利用はマストだ。

平日の夜、利用者はほとんどいない。林立する本棚から江國香織と小川洋子、それから思いついてカズオイシグロを選び取り、カウンターで手続きする。たまたま、二週間前にもあたったスタッフだった。幸田、と書かれた年配の女性のネームプレートを見るともなく見ていたら「いつもありがとうございます」と言われてしまった。なんだか気恥ずかしく、そそくさと図書館をあとにした。

――けど、契約社員の私とあの人たちとで大して手取り変わらないんだろうなあ。

高校時代なんとなく司書の年収を調べたら驚くほど低かった。なんとなく、後ろめたい気持ちになったことを思いだす。

夜風にあまい花の匂いが混じり、ふわりと柔らかい。過ごしやすい季節になったことは喜ばしいはずなのに、毎年春になることをおそれている気がする。変わらなければ、良い方向に前進しなければ、と急かされているようで。

さっき通り過ぎた児童公園に入り、思いついてベンチに座ってみた。思っていたよりもずっと冷えていて、おしりから腰まで瞬くまに冷えが伝わっていく。

ぼうっと桜を見上げる。神々しいほどのびやかに枝を四方に伸ばし空を埋めている。綺麗だな、と思うよりも、気迫がありすぎて圧倒されてしまう。やわらかい花弁がふいに膝の上に舞い落ちてきた。指でつまむと、濡れているわけでもないのにしっとりしていた。

感傷に浸っているわけでも、日本人として桜の束の間の満開を楽しんでいるわけでもない。桜に思い入れがあるわけでもない。そもそも春が苦手だから。

それでも、ずっと見ていられる。癒されるわけでもない、慰められるわけでもない、喝が入るわけでもない、それでも途方もなくこの時間が贅沢なのだということだけは確かだ。

立ち上がる。写真を撮って朝倉君に送ろうかと思ったけれど、うまくiphoneで映せなくてやめた。そもそも朝倉君ってそういうメンヘラポエム的なこと嫌いだしな、とため息をついて今度こそ帰路に着いた。

出社は九時半で定時は十八時半。残業はほぼなし。年間休日は百二十日。手取りは十八万。そう悪い条件ではない。前職は四年働いていたけれど手取りはいまより低かった。

毎日自炊して、お弁当も作って、コンビニでは買い物しない、コスメはドラッグストアで揃えて、毎月二万円は必ず貯金する。華やかさなど全然ないけれど、それなりだと思う。  

でも、時々膝からくず折れそうになる。一杯千円近くするスムージーを片手に出社するバリキャリ風の女性社員とすれちがったとき、駅のホームでブランド物の鞄を肩にかけて携帯をいじっている新卒らしき女の子を見たとき、「一括で全身脱毛契約しちゃったあ」とあっけらかんと正社員がトイレで話しているのを耳にしたとき、同じ中学の同級生が「国家試験受かりました! 小児科の医者として頑張ります」という内容で記事をフェイスブックでアップしていたとき、心が水分を失って表面がはりはりになる。そのまま卵の殻のようにぱらぱらと剥がれ落ちていく。

とりたてて会社や仕事に不満があるわけでもない。二十歳の頃から社会に出て七年目ともなると、ある程度「こういうものなのかな」と諦めることができてしまうせいだろうか。けれど、スムージーを飲んでいる女性社員やブランド物の鞄で通勤する新卒は「会社行きたくないな」「無理だな」と毎日律儀にため息をつくこともなく黙々と通勤できているのかと思うと、発狂しそうになる。

学も資格もない契約社員は結局、寿退社で人生のランクを押し上げる以外手段がないのだろうか。二十五歳を過ぎたあたりから、そう思うようになった。ランチに三百円以上かけられず、契約更新に心を擦り減らし、ボーナス支給に浮き立つ正社員をしり目に定時でタイムカードを切って帰宅する。

朝倉君ともし、結婚することができたらもうそんなみみっちい暮らしとも手が切れるのに。現実はあまりにも程遠い。いっそ妊娠すればいいんだろうか、と一瞬考えることもいちどや二度ではない。我ながらばかげた発想だと思うけれど、それくらい低俗で非倫理的な方法に頼りたくなるくらいには、あまりにも朱莉の現実は薄暗く、足元は不安定だ。

――マッチングアプリとかやってみればいいのに。

紗枝にも亜弓にも勧められたし、同僚は休憩中ずっとマッチングアプリの通知を確認している。いまだインストールしたためしはない。「このあと初アポなんだー」「いま医者とマッチングしたからすっごい慎重にトークしてる」などと浮かれたように話す同僚たちをうらやむ気持ちがないわけでもないけれど、食指が動かない。

いまどきふつうだよ、みんなやってるよ、怪しくないよ、と回し者のように彼女たちは擁護するけれど、そういうことではないのだ。期待してインストールしてちまちまとプロフィールだの写真を埋めて、もし彼女たちのように顔がかっこいい人や商社マンだの医者だの弁護士だの華やかでわかりやすく稼いでいそうな男の人とマッチングできなくて変な人としかマッチングできなかったり、ましてや全然いいねがこなかったらみじめさと恥ずかしさできっと心がぐしゃぐしゃになる。そもそも自分には朝倉君という好きな人がいるのだし……と思うと、完全に言い訳が完了してしまうのだった。マッチングアプリとかやったことない、という自分のままで、まだ、いたかった。

スーパーで適当に買った材料でミネストローネを作る。作り置きのハンバーグを朝のうちに解凍していたので、それを焼いてきのこの炒め物を付け合せにした。あまり凝ったものは作れないけれど、朝倉君は意外なくらい、朱莉が手料理をふるまうことを喜ぶ。初めは、外食の手間や食費が省けるからかと穿っていたけれど、どうやら本気で家庭的な女の子が好きみたいだ。

【今日何してるの】

用事がないLINEうっとうしいからやめて、盛れた自撮り送ってくるの本当勘弁、と何度も言われ過ぎたせいで、朝倉君には極力自分からは連絡しないように努めている。けれどどうしても、声が聞きたくなってメッセージを打ち込んでしまった。電話に付き合ってくれるのは、彼が酔っぱらって飲み会から帰ってきている道中くらいだ。それ以外、「電話? 何のために? 話すことなんかないだろ」と取りつく島もない。

【そろそろ家】

めずらしくすぐに返信が来た。しゃん、と背中に一本ものさしでも入れられたみたいに姿勢を正してしまう。

【帰ってるんだね。お疲れ様。行ってもいい?】

【まあいいけど】やった、と口元がほころぶ。こんなにスムーズに逢瀬を承諾してもらえることは、平日だとめったにない。いそいでシャワーを浴び、丁寧に化粧をほどこして替えの下着を鞄に入れて駅へと急ぐ。中目黒に住む朝倉君の家までおよそ四十分ほどかかる。渋谷で東横線に乗り換えたあたりで、朝倉君からメッセージが来ていることに気づいた。

心臓がざわりと毛羽立つ。急いでタップした。

【ごめんやっぱ今日無理かも】――さっと心が凍りつく。

【もう代官山まで来てるよ】と返すと【駅のスタバに入ってて】と返信が来た。

すぐに追い返されるような事態にはならなかったことにほっとしつつも、いやな予感がする。浮かれていた気持ちはすっかり鎮火して、しとめた仔鹿が逃げ出さないか荒んだ目つきで見張るハイエナのようなじりじりとした気持ちで電車が中目黒に着くのを待つ。重い足取りでのろのろとスターバックスに入った。

高いな、と思いながらチャイティーラテのホットを頼む。たぶんこれじゃ足りないだろうな、と思いながら小ぶりなSサイズのカップを受け取った。

トーク画面をひらく。いつくらいに終わるの、と言う朱莉の質問に対して【いつ迎えに行けるかわからん】となげやりな返信が来ていた。

心臓が早足になる。内臓を素手でかきまわされているみたいに気持ちが悪くなる。

【いまスタバにいるよ。待ってるね】

既読がついて、それっきりだった。電話をかけたら、二秒も待たずガチャ切りされた。

【家に誰かいるの?】と打ち込みかけて、送信できずに消去した。

窓際のカウンターに席を見繕い、チャイを啜る、熱すぎてあまさをほとんど味わうことができなかった。こんなところで女の子を待たせる男がいい男であるはずなどないのに、どうして自分は石のようにじっと待とうとしているのだろう。さっさと帰った方がいい。 今日彼の家に上がれることは、ない気がする。

外から見たら、おろかというよりもいっそ不可解に思えるような恋愛の仕方だ。それくらいわかる。それでも朝倉君が好きで、顔が見たくて、肌に触れながら眠りたかった。

 いや、違う。それもあるけれど、何よりも、「なんだ」と安心してからじゃないと到底に家に帰りたくなかった。いま踵を返してしまったら、本当に何か悪いことが起こってしまう気がする。深呼吸をして落ち着こうとしたけれど、見えない手で胸を押さえられているみたいに、ほそくしか息を吐けなかった。

充電しながら日記を書いた。

〈3月26日

 家に来てもいい、とめずらしく彼が平日なのにOKをくれたので、うきうきしながら最寄駅に向かった。それなのにいまは、彼の最寄り駅のカフェでチャイをちびちび啜っている。「やっぱり今日無理かも」と土壇場で彼からメッセージが入ったせいだ。

 こういうことは、初めてじゃない。一年くらい前も、「飲み会抜けられない」と言ってずっとコンビニの中で待って、それでも来なくて、飲めもしないのによくわからないバーでカルーアを舐めるように飲んで、結局来なかったから終電で帰っているとき「いま終わった どこ?」とラインが来たことがある。そのときの腹立たしさや哀しさ、みじめさを忘れたわけじゃないのに、どうして同じようなことを繰り返しているのだろう。二年の月日の中で、私は同じ駅の構内をぐるぐる移動するくらいしか、たぶんできていない。

 東京は他人がもっと他人に見える。彼が住んでいるこの街はすごくお洒落で、華やかで、豊かで、ロマンティックだけれど、誰一人として目が合うことがない。私だけを見つめてくれる人と、いつか出会うことがあるのだろうか。

 セルフでピンクベージュに塗った爪の先がうっすら禿げかけている。きっと彼が見たらめざとく「気抜いてるな」とでも指摘してくるのだろう。私が彼に大事にされずに雑に扱われるのは、きっと私自身が私を大事にしたり可愛がっていないせいだ。〉

二、三度読み返して投稿する。動揺しているせいで文章があちこち飛んでまとまりに欠けているけれど、しかたがない。

 数分して、ぽつぽつとお気に入りが飛んできた。この一瞬だけは、世界に認められたような気がして満たされる。けれどそれもつかのまの光だ。

朝倉君からは音沙汰ない。フォローの言葉も詫びもなく、無言を貫いている。朱莉のことを投げても壊れない、ゴムボールか何かだと思っているのだろうか。何をしてもゆるすと思われているから、ひどい扱いばかりされる。朱莉を大事にしないことがあたりまえの関係がつづくことによって朝倉君の男性としての器がどんどんいびつに歪んでしょうもない人間になって誰にも相手にされなくなってしまえばいいのに、と矛盾した願いを思い浮かべた。結局自分たちは、無為に時間を費やして足の引っ張り合いをしているだけに過ぎないんじゃないだろうか。

 窓の外に視線を投げ、通りかかる人を観察する。一時間経った。隣に座る人が二回替わった。二時間経った。お腹がすいたからシフォンケーキを食べた。

 やがて閉店の時間になり、空になった容器を捨てた。タイトスカートから出た膝小僧が、大理石のように冷たくなって、痛い。

ハイヒールの踵を鳴らして駅へ向かう。ここは飲み屋が多いから、電車に乗り込んできた人々が吐く息が干し柿のようにあまったるくて気分が悪くなる。

 ああ、と思った。だめだ。朱莉は目を閉じる。疲れ切った顔を映す車窓から目をそらすために。そして思った。

 ――朝倉君は、浮気をしている。


晴夏

【今日はる姉の家泊まっていい?】

 業務から上がる直前、胡桃からラインが来てほっとした。予定が入らなければ無理やりにでも作るところだった。【いいよ カレー食べない?】と返信しておく。

 本当なら今日は二歳年下の税理士と恵比寿でオイスターバーに行く予定だった。そういえば現地集合だっけ駅集合だっけ、と昼休みにアプリのメッセージを見に行ったら、トーク履歴からさっぱりと消えていた。あれ、違うアプリだったけ、といくつかうろついてみたけれど、あるわけもなかった。

 ブロックされたのか。さっさとカレンダーから予定を削除する。爽やかな高身長イケメンかつ税理士という職業なので、いいねが返ってきたときは「押し間違いか、やりもくだろう」と思った。思いがけず丁寧な言葉づかいでメッセージのやりとりをする人で、「ここを予約しました」と洒落た店のURLを送ってきたので当然期待値は入道雲のようにむくむくとふくれあがっていたのだけれど。ほかにめぼしい相手とのアポでも入ったんだろう。

 所詮はネットのやりとりなのでこんなことは日常茶飯事だ。ひどいと当日の時間になって「あと五分くらいでつきます!」と送っておきながらそれ以降何の音沙汰もなくなる、というもはや何をしたいのかも意味不明なドタキャンを食らったことも二度ほどある。それに比べたらまだましだ。自分に言い聞かせる。慣れてはいる。顔の見えないネットで、しかも無料の媒体で結婚相手を探していたらこんなのよくあることだ。犬の糞を間違って踏んでしまった時みたいに自分にさばさばと言い聞かせる。三回デートして家に行ったタイミングで実は既婚だと明かされたことや、高い店に連れて行かれて「財布を忘れた」と全額払わされたことなんかに比べたら今回の無言ブロックはまだましな部類だ。そうはいっても傷つかないわけではない。予定の消滅がそのまま心の焦燥感に変色し、急かされる気持ちのままタイムラインをスクロールしてめぼしい人にいくつかいいねを飛ばし、昼休みは終わった。胡桃から返信があった。

【カレー? いいね! 超楽しみ。デザート買ってく~】

 胡桃は今月になってやたら晴夏の家に泊まりたがる。「どうせ六月には就活終わるから、インターンあるまでは宿にさせて」と言っていたものの、いまだにインターンはやめていないようだ。

本命は晴夏でも知っているとても有名な出版社だった。民間企業の就活のことはよくわからないので口を挟んだりはしないものの、日本中誰もが知るような会社の正社員になることなんて宇宙飛行士や医者や弁護士になることと同じくらい、晴夏からしたら無謀な夢に思えた。やっぱりこの子は傲慢で自信にあふれてるんだなあ、と妙に感心した。確かに胡桃だったらファッション誌の編集なんかが似合いそうな気がする。

「ごめんねー急に! なんか横浜まで帰るのめんどくなっちゃって」

 二十時半にマンションにやってきた胡桃は、いつもよりかは化粧が薄くカジュアルな格好で、子供の頃の面影が透けて見えて可愛らしかった。

「いいよ。っていうか彼氏いないし泊まりに来る人は誰でもわりとウェルカムだよ」

「マジ助かる」あ~いい匂い、と言いながら食器棚から勝手に皿を出して台所へ向かう。その背中に「ビールあるけど飲む?」と言うと「飲む!」と元気よく返事が来た。冷蔵庫を遠慮なく開ける音がして、カレーと缶を持って胡桃が部屋に戻ってきた。

「あー、人がつくってくれたカレー最高」

「わかる」はる姉ありがと、とつめたい缶を肩にぶつけてきたので、押しのける。

「てかさ、彼氏三か月くらい探してない? いい人いなかった?」

「いないよ。和樹と付き合ってる間にめぼしい男の人は全員結婚したのかっていうくらいしょうもない人としかデートしてない。今日にいたっては当日ドタキャンされた」

「マジか。使ってるアプリどういうのやつ? 結婚感強そうなやつだと偏った人間しかいないから遊びっぽいのと結婚ガチ勢の間くらいのが無難だと思うよ」

 胡桃の言い分だと目の前の従姉も偏った人間ということになってしまうということに気づいていないようだ。素直に納得する部分もあるので「そうかもね」とうなずいておく。

「私がたまーに使ってるのはこれ」胡桃が見せてくれたのは、晴夏も昔使ったことのある、日本で一番ユーザー数の多いマッチングアプリだった。

「ま、私は就活の情報収集とごはん目的で使ってるけどね」

「悪いなあ」

「賢いって言って。こないだ会ったやつがマジで最悪だった。三十三なのに、あ、はる姉と同い歳だけどさ、イタリアン行ったのね。六本木の。したら会計割り勘でさー! しっかり四千円取られて超びびった、場所のチョイスも相手都合だったし絶対コイツ若くて可愛い女に相手されたことないだろって思ったよ」

「あー、いるいる。割り勘主義を頑なに通す人」

「私、学生だよ? っていうかそうじゃなくてもよくもこの私相手に割り勘できるよねって感じ。脈ない感じ露骨に出しすぎたかなー、あー今思いだしても四千円も取られたの腹立つ。そういう人に限って話も面白くないし顔も写真以下だし店選びもセンスないしさあ」

 遠慮などみじんもない胡桃の高慢さはいっそすがすがしいほどだ。「まあまあ」と適当になだめる。晴夏はむしろ割り勘に好意を抱く。なんでも奢ろうとするタイプはほかの女の人にも気前よく払っていそうで貯金少なそうだな、と思ってしまう。自分がそうだからだ。

「っていうかくるちゃん彼氏いたよね? 別れたの?」

 歳上の経営者と付き合っていると話していて、いかにも器用な胡桃らしい、と思った。きっとキャバクラで出会った客だろう、と勝手に思っていた。

「あー、いるよ。いるけど、最近かまってくれないんだよね忙しすぎて」

「じゃあ次の彼氏探してるんだ」

「うん。暇だし」カレー結構辛いね、と舌を出す。「はる姉ってどんな人がタイプなの?」

「んー。あんまり性格にくせとか粗がなければ、わりとどんな人でもOK出すけど。そこまで面食いじゃないし」

「適当過ぎない? っていうか前の彼氏写真あったら見せて」

 しぶしぶ和樹の写真を見せた。「へえ、元彼の写真残しとく派なんだね」と勝手なコメントを呟きながら胡桃が画面をしげしげと眺める。

「なんか、意外なタイプかも。犬っぽい感じの人だね」

「中身も犬みたいな人だったよ」

「え、結婚にはめっちゃ持って来いってタイプじゃん。彼氏にするならもっと振り回してくれる方が私は好きだけどさ」

「でもふられちゃったんだよねえ」そうだったね、と胡桃は無邪気に笑った。

「はる姉って結婚願望ある?」

「超あるよ」

「へえー。そういえば大学生のとき、この人と結婚するかも~とか言ってたよね」まあ学生は誰でもそういう時期あるけどさ、と胡桃が快活に笑う。

「……そんなことよく覚えてるね。くるちゃんまだ小学生の時とかでしょ?」

「あーうん。はる姉がのろけるなんてちょっとびっくりだったからさ。それまで男っ気ゼロだったし」

おそらく二十歳とか二十一歳くらいのときのことだろう。自慢の恋人。初めて味わう相思相愛という幸福。魂ごと頬擦りしているかのような一体感。きょうだいのように分かち合った生活。迷うことなく幸せだったし、当時の自分も臆面なく思い、口にしていたはずだ。「私、幸せだなあ」と。

死んでおくべきタイミングが人生にあるとするなら、まさしくあの時だった。蜂蜜の瓶の底に沈む羽虫のように、閉じ込められて結晶になって終わらせたかった。そんなふうに思えるような時間の記憶を持っているだけ幸せなのだろうか。それとも不幸なのだろうか。

「くるちゃんこそ結婚願望あるの?」

「あるよ。まだ遊びたいから三十歳くらいまではするつもりないけど。基本メンヘラだからやっぱ安心したいなあ」

「彼、歳上なんでしょ。就職したら同棲しようとか婚約しようとかせっつかれないの」

 胡桃は曖昧に笑ったあと、「いまの彼氏はあんまりそういうこと言ってくるタイプじゃないねー」と言った。「ドライっていうか超合理的。あんまべたべたしてこないし用事ないラインとかも一切ない」

「ふうん、極端だね」

「前の彼氏は趣味とか全然なくて、胡桃ちゃんが俺の趣味そのものだから! みたいな依存系で重すぎて切ったけど、放置されるんはされるんでつまんないな。やっぱ『胡桃がいないと生きていけない!』系を探そうかな」

「それは重い。私は依存されるのはいやだなあ」

「重いくらいじゃないと愛されてる実感がない。いまの彼氏はお金遣ってくれるから愛されてる実感はかろうじてある」胡桃は指をぺろりと舐めた。「ま、お互い頑張って彼氏つくろうよ。はる姉も別に前の彼氏引きずってるわけじゃないんでしょ?」

「全然。何にも思わないよ」

 強がりでも虚勢でもなんでもなく、和樹のことは引きずってなどいない。

 おんなじ誰かを愛し続けることは、ずっと同じところに立ち続けることに似ている。風が吹いても雪が積もっても強情に立ち続けるかかしみたいに。

 周りの風景だけが、めまぐるしく変わり続ける。メリーゴーランドの中心になったみたいに、あまりの眩さに目がつぶれそうになる。というよりも自分はいつの間にか目をつむってしまっていたみたいだ。


3胡桃

 ポスターカラーの絵の具を水でほとんど溶かさないで刷毛で均一で塗り込めたような青空だった。リクスーで日傘をさす滑稽さに気づきながらも、日焼けしたくないのでビルを出るや否やぱんとひらく。

 二度目の就活はそこそこうまくいっていた。

 そもそも本命内定のためなのだから、と思い直し、船草社では社員に愛想を振りまくように心がけた。「根岸さん、つんけんしてるから愛想悪い子かと思ったけどシャイなだけだったんだねー」「就活困ってることあったら出版の人つなごうか? 週刊誌系ばっかだけど」などと手を差し伸べてもらえている。この性格と容姿で同性に嫌われないのは、何年も夜職に従事していたおかげでしかない。

 郷に従う同性を女は仲間とみなすので、まずはすっぴんとスウェットの上下で出社してみた。このカウンターパンチはすぐ効いた。「根岸さんいつもと違うね」とおそるおそると言った感じで話しかけてきた女性の副編集長に笑顔で「彼氏に二股かけられてて、別れてきたんです。そしたら全部どうでもよくなっちゃてえ」とへらへら言うと、一気に空気が変わった。よそよそしかった女性社員たちが途端に話しかけてくるのは中学生みたいな手のひら返しで気分が悪かったけれど、おかげでいくつか志望している出版社のOB訪問ができそうだ。我ながら世渡りがうますぎると思う。

 リクスーのまま午後から大学に戻り、研究室で学会資料をつくった。締切前日になるまでほとんど手をつけられない自分のさがを呪いながら豪雨のような勢いでタイピングする。ふいに携帯が通知で光り、何気なく目で追うと篠田さんからだった。流そうかとも思ったものの、嫌な予感がしてすぐにロックを解除する。【今日赤坂に18時で大丈夫?】――メッセージを見て「げっ」と声が出た。どうしたの? と助教授に声をかけられる。

「彼氏とデート予定入れてたの忘れてました」

「発表会明日だよ? 断ったら」ほがらかに言われたけれど、実際には彼氏ではなくパパなので、そんな簡単にはいかない。ため息をついて返信をする。

【ごめん! 日付見間違えて明日だと勘違いしてた】

【19時半だったら行けると思うんだけど、時間ずらせる?】

 連投すると既読がついた。三分ほどしてようやく返信が来る。

【それはできない。今日予約してる店、18時か20時かしかコース選べない】

【20時からの枠は今日一杯だから、ずらすのは不可】

 ――なんだそりゃ。

 ぼうとトーク画面を見つめたけれど、【しょうがないから別な店取り直そうか】【じゃあ明日にしよう】とつづくことはなかった。きっと篠田さんも今ごろ苦い表情でトーク画面に目を落として胡桃の出方を伺っているのだろう。

 ためされている気がする。彼に従順であるかどうか。穿ちすぎだろうか。

 もともとは見間違えていた上に資料作成をぎりぎりまで終わらせなかった胡桃が悪い。それはわかっているのだけれど、どうして、こんな突き放すような言い方をされなきゃいけないんだろう。せめてもっと早く確認の連絡をくれれば、と考えてもせんないことにいらだつ。すでに十七時――違う、研究室の時計は遅れているから、すでに十七時半だ。

 立ち上がる。荷物をまとめ始めた胡桃に「資料どうするの?」「印刷は?」とぱらぱらと声がかかる。

「二十一時くらいに戻ってきます。今日私が鍵閉めますね」

 それならと同期が鍵を渡してくれた。無言で受け取り、研究室を飛び出す。きっといまごろ「根岸さんって彼氏に顎で使われてんのかなー」「なんか意外」とでも好き勝手噂されているだろう。彼氏が、とかばか正直に言わなきゃよかった。横濱から赤坂まで、電車で四〇分。間に合わない。

 パパ活は事業、所詮はビジネス。こんな時なのに、いつだったか自分が裏アカウントで呟いたツイートを思いだす。しかたがないので、さっさとタクシーに乗った。「赤坂五丁目まで」と運転手に告げる。パパの機嫌を損ねないためにタクシーで約束の場所まで向かう。なんて皮肉が利いているのだろう。お金を使ってもらうために自分がまずお金を使う。働いたこともないのに、仕事ってこういうことの積み重ねなのかもな、と思った。

 はらはらしながらじっと前をにらむ。クレジットカードで会計する。五千七百円、黒字とはいえ痛手の出費だ。ばかみたいだ、と思いながら転がるようにして走る。スーツだと走りづらくて仕方ない。

「お待たせ」

 息を切らして店の前に向かうと、よ、と篠田さんが手をあげた。良かった、いつも通りだ、機嫌が悪いようには見えない。ほっとする一方で、こっちがどれだけ気を張り詰めて間に合わせたと思っているんだろう、と八つ当たりまがいの苛立ちが一瞬湧いた。

「ごめんねー、日時完全に間違えてた。だから服もスーツのままなの」

「いいね、やっぱり似合うな。背徳的な感じがする」

 行こうか、と手をつないで店の中へ入る。以前行きたい、と伝えていた鉄板焼きの店だった。内装が現代美術館のようにどこか無機質で荒削りなのが魅力的だった。いつもだったらもっと浮き立つだろうに、しんと胸のうちが静まり返っていた。

 お酒など飲みたい気分ではなかったけれど、しらふでいたくなくて白ワインを頼んだ。

「なんか篠田さんと会うの久しぶりだね」

「そうだね。すまん、ちょっとばたばたしてて。誕生日以来だよな?」

「仕事忙しいの?」篠田さんは肩をすくめた。

「いや、仕事はまあいつも通り。暇ではないけどな。ちょっと家の方がばたばたしてて」

 不倫であるからして、普段二人の間で篠田さんの家庭のことが会話に出ることはほとんどなかった。「そうなの?」と食いつきすぎないように無難な相槌を打つ。正直耳に入れたいとは思わなかった。

「娘が美大に通ってて今二年生なんだけどさ。ニューヨークでイラストの勉強がしたいから留学させろって言うんだよ。俺も家のも、止めてはいるんだけど、どうも本気で言ってるみたいでさ、ちょっと揉めてて」一瞬思考が止まった。

「……篠田さん、子供いるの」

「いるよ。今年で二十二。二浪してやっと私立の美大に保険合格したんだよ」

 それじゃ胡桃と二歳しか変わらないということか。ステーキを切り分けたまま、フォークで口に運べずにじっと青い皿を見下ろす。オレンジのソースを肉で拭った痕が、まるで死体を引き摺った痕みたいに擦れて皿を汚している。

「あれ、話すの初めてだったっけ」

 不穏な空気を察知したらしく、篠田さんが表情をかすかに強張らせた。

「そうかもー。ってか、いま二十二歳ってことは篠田さんって早くに子供作ったんだねー」

 へらりとした声を心がける。篠田さんはほっとしたように「そうそう」と同調した。「俺はディンクスでも良かったんだけどな」

 店員が空になったグラスに水を注ぎに来たので会話が途切れる。グラスの形に水が浮かび上がる様子をじっと見つめる。

 娘の存在を隠されていたことに裏切りを感じて憤っているわけではない、と冷静に判断する。むしろ逆だ。知りたくなかった、隠し通してほしかった。せめて異性だったら良かったのに、と思う。子供がいるのに手を出してきたことに嫌悪しているわけじゃない。この苛立ちの矛先は、突如存在を知らされた彼の「娘」だ。

 外資系の弁護士の父を持ち、港区に実家があって、美大に行くために二浪を許され、その上親のお金でニューヨーク留学すら行こうと思えば行けるのだ。胡桃がこれから整形しようが男から金を巻き上げようがキャリアを積み上げようが一生手に入らない環境が最初から備わった上で人生を進めている。そんな女、存在していることを考えるだけで身体の中身が猛然と煮え沸き立つ。

架空の敵を具現化したような存在である女子大生の父親と寝て代金にお金を受け取っている。知らずうちに復讐を果たしてはいるのがまた複雑な心境だった。逆に言えば、そういうかたちでしか自分はそういった女たちに一矢報いることができないのだ。

「子供がいること黙ってたの、怒ってるのか」篠田さんがうかがうように顔を覗き込んでくる。笑顔を作る方が嘘っぽい気がして、「ん〜」とあくまで冗談っぽく首をひねる。

「別に怒るようなことではないでしょ。びっくりはしたけどね」

「隠してたつもりはないんだけど、言いそびれて。一緒に暮らしてるわけじゃないしな。大学の近くのマンションで一人暮らしさせてる」

「地方?」

「いや、都内だよ」思わず鼻から笑い声が漏れた。つくづく、親がお金を持っていると与えられる選択肢が無限であるということがよくわかる。会ったこともないその女をすでに憎み始めていることに気づいて視線を落とした。胡桃の沈黙を嫉妬と読み違えたのか、篠田さんは声をまるくした。ほとんど猫撫で声になって言う。

「明日、急ぎで打ち合わせがあったんだけど先方の都合で流れたんだ。今晩泊まりにしようかと思うんだけど……赤坂のプリンスホテルでいい?」

 泊まれば四万円上乗せされる。こないだは断ったくせになぜ今日にかぎって誘ってくるんだろう、と舌打ちしそうになった。学会の資料提出があるから泊まれない、と断ろうとしたけれど、タクシーまで乗って間に合わせたのに差額四千円だけもらって帰るのはもっと癪だった。どうしたら一番割を食わないで済むか、素早く頭で計算する。行為をするだけして、終電前に「ごめん今日資料提出なの忘れて助教から鬼電来てるの気づかなかった、鍵あるし大学戻るね」とでも言えばいい。泊まらないからといって額をまるまる渡すのを渋るほどこの人はけちではない。いつだって湯水を浴びせるみたいに気前がいい。与える側特有の鈍感さが胡桃を傷つけているとはいえ。

 笑顔を浮かべた。正確には、笑顔の自分の物真似をするように口角をキュッとあげた。

「いいよ、泊まろ。久しぶりだねー」

「さっきからスーツの胡桃を脱がせたくて仕方なかった。楽しみにしてる」

 耳元で囁かれ、なんだかぞっとした。

 ――この人は、娘と変わらないような年齢の女とお金を介してセックスしている。

そう思ったら、急に篠田さんのことがその辺のおじさんと変わりのない、ぬめぬめとした欲望を滾らせたくだらない存在に思えた。妻がいる男とは寝られるのに、娘がいる男と寝るのは受け入れがたい、その違いはなんなんだろう。この人の娘として生まれていれば、金銭を介してセックスする必要もなかったのに。禍々しいことを考えて呻きそうになった。

 考えまいとして逡巡を追いはらい、内側の感情と完璧に切り離して笑顔を油膜のように浮かべ続ける。お前はいい女だな、と篠田さんが微笑んだ。

元々、お金の関係から始まっている。そこに恋愛関係を持ち込んだのは、胡桃自身だ。

 またそこから感情を引き抜くのも、自己責任でしかない。


朱莉

 浮気してるの?

 なんども、そう問いただす想像をしてきた。二人で炉端居酒屋のカウンターに並んでいる時、電話で話す時、家でごはんを食べ終わった時、セックスが終わった時。けれど実際に想像した状況になっても、切り出すことができない。

「最近肉の脂より魚の脂の方が旨いなって思うことの方が多いんだよね。三十過ぎるとカルビとか絶対胃もたれて食えなくなるんだろうなあ」

 朱莉が暗い想像に思いをはせていることなど露ほども想像していないのんきな声で、鮭のハラミを食べながら朝倉君が呟く。そうだね、カルビはちょっと重いよねとこたえながらも、ずっと間合いを計っていた。

「なんか今日暗くね」まあ別にいいけど、と朝倉君が唇を横に引いて歯を剥き出しにして爪楊枝で掻きだす。下品とも言えるしぐさなのに、どうしてか彼がすると粗野で妙に色っぽかった。つくづく自分は朝倉君に弱すぎる。観念して、朱莉は箸を置いて目をつむった。

「朝倉君、こないだのことだけど」

「あーあれ? いやごめんって。悪いと思ったから今日誘ったんじゃん、ダチの飲み断ってまでさあ」声を遮り、朱莉はえいと空気を裁断する思いで口にした。

「あの時、家に、誰かいたの? 女の人」

 沈黙だった。やけに居酒屋の喧騒がうるさく立体的に聴こえる。緊張のあまり、こめかみがひくひくと痙攣する。

「え、何で?」朝倉君の声はまだ笑いが混じっていた。「どういうこと」

「……家に誰かいたから土壇場で来るなって拒んだのかなって。そう思ったの」

 目を開けて、おそるおそる顔を上げた。朝倉君は、右の口角だけを持ち上げて笑っていた。機嫌が悪いときの笑い方だった。

「……この関係で、いまさらそういうこと言うかなぁ」

 荒いしぐさでハイボールを煽るのを、息を殺して見守った。非を詰っているのは自分の方なのに、どうして朱莉の方が彼の機嫌にはらはらと気を揉んでいるのだろうか。

「いたよ。大学の後輩が、うちの会社のOB訪問したいからってフェイスブックに連絡くれて、会社の近くでコーヒー飲んで、実家が川越で遠いから泊めてくれって、夜遅いし若い女の子ほっぽりだすわけにも行かないから泊めた。それだけだよ」

 心臓に爪を立てて引っ掻かれたような痛みが走った。喉が細く引き攣れて、半分しか空気を吸い込めない。やはり、あの時家に女の子をよんでいたのだ。朱莉がなんどもLINEの通知を気にして泣きだしそうな思いでカウンターから窓の外を歩く人を見つめている間、朝倉君のマンションで一緒にコーヒーを飲んだり同じ布団で寝たりしていたのかと思うと、怒りと悲しみで血液が沸騰しそうだった。

「言っとくけど、何もしてないから。向こうもすごい恐縮してたし、そもそも入りたい会社の上司と寝たら気まずくなるに決まってんだからお互い全然そういう雰囲気にならなかった。当然布団別々で寝たし」

 早口で言い切り、これでいいか、というふうに朱莉をじっと見据える。何もしていない、の言葉に、倒れこみたいほどの強烈な安堵を覚えながらも、質問を重ねた。

「でも……気まずくなるってわかってるなら、そもそも入りたい会社の先輩の家に、泊まらないでしょ。初対面の女子大生だよね? その子、厚かましすぎるんじゃないかな」

「仕方ないじゃん、もともと十九時で約束してたけど仕事終わんなかったから二十一時にしてもらって、メシ食いながら面談して、じゃあ解散しようかってところで『もう最寄りの終電がなくなった』って言われたんだよ。こっちの都合で時間遅くしちゃったんだから、別に厚かましくはないだろ」朝倉君は眉根を寄せて吐き捨てた。「おまえ、案外心狭いな。なんかがっかりしたわ」

 ひゅっと喉の奥でおかしな音が鳴った。がっかりした、という強い響きに身体の細胞すべてが凍りつく。迷いながら言葉を選んだ。

「……ごめん、そういう事情は知らなかったから。だとしても、別の日にするとか都内に住んでる友達の家に泊まるとか、ほかにも方法はあったでしょ」

「知らねえって。っていうか、もう終わったことに対していまさら『別の選択肢も選べたはずだ』って言われても困るよ。俺もいきなり『終電なくなった』って学生の子に泣きそうな顔で言われて、テンパったんだからさあ」

 本当に何もなかったの? 今後もその子の就活の相談ごとに乗ってあげるつもりなの? その子は朝倉君のタイプとは全然かぶってないの? ――訊きたいことや念押ししたいことはまだ会ったけれど、口にはできなかった。朝倉君がいらだたしげに飲みもののメニューを眺めている。もう蒸し返すな、と肩のいかり具合で示していた。

 小さな声で、じゃあ信じると呟いたけれど、聞こえていないのか聞こえていないふりをしているのか無視された。「すいませんジントニック」と店員さんに注文する言い方も、いつもよりなげやりだった。

「朱莉もなんか頼む?」

「え」

「グラス。空になってる」顎でしゃくる。慌てて「ジンジャーエールください」と頼んだ。

 しばらく無言がつづいた。周りが楽しそうに笑い声を響かせるたびに、朝倉君はいらだたしげに眉根を寄せた。自分たちのテーブルだけが、世界から切り離されて流氷のなかを漂流しているような錯覚に陥る。さっきまで気の抜けたゆるい空気が嘘みたいだ。そんなものは微塵も残らず、お互いにお互いを見張りあうような緊張感を孕んで張り詰めている。

「もう、やめるか」

「え」

「会うのやめるってことだよ。めんどいし」

 加工フィルターをさっと通したように、景色から暖色がすっぽりと抜けた。

意味が後から脳に追いついてきた。いつかこんな日が来ると思っていた。でもいまじゃない。いつだってそう思っていたことが、たったいま飛びかかってきた。

 何それ、と笑い飛ばして「朝倉君悪酔いしてるんじゃない?」とでも軽く流せばいい。「酔ってねーし」と朝倉君が軽くいなして不機嫌になったとしてもたった今の台詞を上書きすることができるなら自分はなんだってできる。けれど、どうしても出てこなかった。

「……別れたいってこと?」

 口にすれば本当にそうなってしまう。そうわかっていながら口にした。「元々付き合ってはないけどな」と朝倉君が意地悪い口調でつづけた。

 世界からすべての彩りが消え、テーブルに並んだ食べかけの料理たちが灰色っぽく見えた。粘土でつくった精巧な偽物にも見えて、こんなもの絶対に口にできない、と思いながら見下ろす。視線を上げ続けることすらしんどく重力で引っ張られるようにしてうつむく。

 何か言わなければ。茶化したり、すがったり、泣いたり、なんでもいいから今の言葉をなかったことにしなければ。けれど、何を口にしたところで朝倉君を失う決定打になってしまう気がして、ただくちびるだけが乾いていく。

「……私、朝倉君のこと好きだったよ」

「知ってる」

「もう、本当にだめなの?」これじゃ別れ話そのものだ。なんて陳腐な状況下にいるのだろう。金槌で脳を叩かれたような衝撃に打ちのめされているのに、徐々に冷静に景色が色を取り戻し始めていることが腹立たしく、悲しかった。

 朝倉君は目を伏せて、「ずっと、申し訳ないとは思ってたよ」と低く呟いた。「なあなあにして朱莉の時間奪ってる自覚はあったし、それなりの年齢だし。いつか終わらせないとなとは思ってたけど、いい機会だし、今日でやめよう」

 ずるい。卑怯だ。居丈高にそう言い放ってやれたらどんなにいいだろう。けれどこの期に及んでまだ嫌われたくなくて、嗚咽を噛み殺しながら涙を垂れ流すことしかできなかった。「そんな顔すんなって」といまさらやさしく言われて、余計に目頭が熱くたぎる。

「朱莉の家にある荷物、着払いでいいから俺の家に送っといて。俺の家にあるものは、元払いで送るわ。それでいい?」

 朝倉君はほんのりと眉を下げて微笑んでいる。どうして、と思いながら、おしぼりで目元をぬぐう。視界に彼を入れていると泣いてしまうから、目をつむって言った。

「ごめん。全部捨てておいていいよ。私の家の朝倉君の荷物は、送っておく」

「わかった」

 会計を済ませ、店を出る。ほんの五センチのピンヒールを履いた足元が、綱渡りでもしてるみたいにやけに遠くに思えた。朝倉君はふにゃりと笑って言う。

「タクで帰るけど、朱莉も乗るか? そんで荷物持って帰ったら。やっぱり悪くて捨てるなんてできないよ」

 ばかげている。今日に限って、なんてくだらない提案を吹っかけてくるんだろう。けれど断れるほど強くもなかった。うなずくと朝倉君はほっとしたようにタクシーを捕まえた。

 もしかしたらこの人も私と手が切れることがさみしいと思っているのかもしれない。愛情はなくても、愛着くらいあるんだな、と思った。

 このあと、彼の家で最後のセックスをするのだろう。泣きながら。余計引きずるからもう二度と彼の家に行くべきではないし、ふれるべきではない。頭ではわかっているたけれど、いまは流されてついていく方がずっと楽だった。いまは、というより、いままでずっと、そうして生きていて、いつのまにか二十七歳という可愛げのない年齢になっていた。

 タクシーの車窓を流れる夜景がやけに光に満ちてきらめいていた。哀しいときに見る景色がやたら美しく見えるのは、涙が残る目で見つめているせいでしかないのかもしれない。  

引っ掻き傷のような鋭い三日月が、銀色にひかっていた。

〈5月23日

 朝起きて、すぐ、「終わったんだった」と思った。そうだ。誰かと別れたとき、失恋したとき、翌朝、こんなふうにいつも早くに目が覚める。二年ぶりにその感覚を思いだした。

 しばらくはずっと、毎朝別れたことを再確認して起床するのだろう。眠る前よりも、朝にこそ失恋を実感してしまう。

「LINEブロックしないから。俺からは連絡しないようにするけど、どうしてもしんどくなったら電話かけてくれていいよ」

 最後にしたあと、彼がそう言ったので絶望した。いっそ「二度と顔見せんな」とでも言ってくれた方がましだ。結局この人は、私のことなんか最初から最後まで大切ではないのだ。後ろめたいからそう言っているだけ。わかっていてなお関係が完全に切れるわけではないことを嬉しいと思ってしまっている自分がおろかで憐れだった。

 振った側の方がつらいんだよ、と言われたけれど、別れ話をしたときも、逢っていた間も、泣かされてばかりいたのは私だけだった。いつも。

 しばらくはあなたのことが好きだ。明日も、明後日も、一週間後も、一か月後も、あなたのことが好きなままだと確信を持って言える。けれど、半年後や一年後はそうじゃないかもしれない。そのことがさみしくてたまらない〉


 晴夏

 キスしたあと胸を攻めてきてすぐさま性器をまさぐるような男は愚鈍を通り越していっそ善良なのかもしれない。

 開始二分ですでにこの男を家に連れ帰ってきたことを後悔している。つまらない。この人恋愛においても既存ルート頼りで冒険しないんだろうな、浮気するとしても近場で済ませたりするタイプだな。そんなことを考えながら適当に喘いだり動いたりしておく。

 単調な動きで内部を擦られつづけて何分経つだろう。早く達してくれないだろうか、だんだんと乾いてきて、不快な引き攣りに表情を作りきれなくなってくる。

体位を変えるために男がずるりと晴夏から抜け出た。あ、と情けない声を上げるので「どうしたの」と声をかける。

「ごめん、ちっちゃくなっちゃった。舐めて」てっきり射精したのかと思ったので、余計な工程が増えたことに対してうっすらとした絶望と怒りが湧く。わかった、と曖昧な表情を浮かべて起き上がった。男は嬉々として代わりに寝転がる。

 まるでおしめを替えてもらう赤子のように四肢を投げ出した姿を見て、一瞬本気でばかにされているのではと困惑した。どうして萎えずに没頭できるっていうんだろう。早く終わらせるためだけに顔を埋めて技術を駆使する。

どうにか膨れを取り戻したものを後ろから突き立て、その男はあっけなく出した。なんだか緩急にかけるな、と思いながらも、終わったことに安堵した。

「いやー、晴夏ちゃんってこういうこと興味なさそうなのに上手いんだね、興奮した……」

 早く終わらせるためだけに技術を総動員したとも知らず、温泉から上がったおじいさんみたいな顔でのたまわれ、「そんなことないよー」とへらへら言ってみせるほかない。

「ねえ、今彼氏いないんでしょ? とりあえずでいいから付き合ってみない?」

「あーいま、あんまり彼氏とか探してなくて」縮こまったショーツを裏返して履き直す。クロッチ部分が濡れていて不快だった。

「じゃあさ、割り切った関係でもいいよ。癒されたいときとかお互いちょっと時間合わせて会うとかで。どう? 俺も家世田谷だから近いよ」思ったよりも近所だった。まあ別にいいかも、そこまでぶさいくとか太ってるとかじゃないしと思いそうになったが「汗かいたしシャワー浴びてきなよ」と寝室から追い出した。

 遠慮のない水音を聴いているうちに、長いことつけすぎて乾いたフェイスパックのように、作り笑いがずるりと顔から剥がれ落ちる。心も身体も疲弊した状態で勤務して、疲れが抜けきらないまま酒を飲んで、現場調達した男を連れこんで、ばかみたいだと思う。あと四時間しか眠れない。わかっていて自分から「家行こうよ」と誘った。

 ひどいときは日をおかずに毎夜違う誰かと重なり合っていたことを考えれば、いまはずいぶんおとなしくなったよなあ、と思う。誰の顔も覚えていない、腰から下だけ貸しあうようなあれはなんだったんだろう。

 すればするほどセックスなんか大して好きじゃないな、と自覚する。普段から自慰をしようと思わないし、以前付き合っていた恋人もその前も、付き合って半年以降は泊まっても性交しないことの方が多かった。いま思えばそれも長続きしなかった原因なのだろうか。

 私だってできることならこんなリスクばかり多くて疲れる手段を選びたくなかったさ、と口のなかで呟く。餓えている時はひたすらにさびしくて、物悲しいほど人恋しいのに、始まればただの消化試合でしかない。交わっているというより使いあっているだけだ。

 いくらでも効率よく異性と会える時代になったせいでもあるのだろうけれど、何年かそういうたぐいの活動をしているとどうしても底が見えてくる。自分と釣り合う異性のレベルと、自分の中でどうしても許せない最低限の線。時間はお金以上に貴重ないま、その二つが交差する人にしか食指が動かない。ある程度予想がついてしまうのは相手も一緒なようで、この人との先はないなと思ってしまった人に限って「ホテル行こうよ」「家近いんだよね」などと誘われる。婚活において、運命の相手以外の人間にも役割は振られるものなんだなあ、と思った。落胆するというより、ひらきなおって利用している。交際や結婚は責任が伴うからそう易々と決められないけれど、性交は誰が相手だとしても大体得られるものと擦り減るものは一緒だ。とてもわかりやすく、やすやすと腑に落ちることができる。

「シャワーありがと。タオルあったの借りたけどよかった?」

 男が寝室に戻ってきた。みっともなく突き出た腹をさらしても恥ずかしげもなさそうだ。自分も言えた義理では到底ないけれど、三十代になってから急に同世代の男たちの肉体の劣化にぎょっとするようになった。同世代以上の人と寝る局面においてお腹が出ていない人を引き当てると心の中でありがたがってしまうくらいには、きちんと自分の体型に手入れできている人は少ない。たいてい油断した体型にくずれ始めている。

「いいよ。明日早いからもう寝よう」

「えー? 晴夏ちゃんなんか男みたいじゃん。もうちょっとくっついてようよ」

 面倒くさくなり、じゃあさ、と指さしてみせた。「そこのクローゼット開けてみて」

「え? 何か取ればいいの?」

「違う。とびっきり恐ろしいものがあるから、開けてみてよ」

「なんだよそれ」

 男は軽く笑ったけれど、晴夏が黙って指差し続けているとだんだんと顔をこわばらせた。いまさらのように我に返ったように晴夏の顔をじろじろと眺める。まるで、一緒に遊んでいた老人の正体は狸が化けているだけだと勘付き始めた昔話の子供みたいに。

「何が入ってるわけ」

「だから、開けてみてのお楽しみだって」

「なんか、こえーよ」

 まさか死体だの生首だのがずるりと床に転がり落ちてくるとでも考えているのだろうか。

「いいじゃん。開けてみてよ。震えあがるよ」

「別にいいよ、見なくて」

 急に男は不機嫌になり、吐き捨ててそそくさとアウターを着始めた。そうして「じゃ、タクシーで帰るよ」と本当に部屋を出て行った。やっと一人になれる、と思いながらベッドに横たわって目をつむる。だったら最初から一人で過ごせばいいとは思うものの、うんざりするような気持ちを味わってからじゃないと「一人が一番」とは思えないのだ。 男からしたら、このクローゼットが何か禍々しいものを閉じ込める重い扉にでも見えたのだろうか。そんな猟奇的なキャラクターではないつもりだったのだけれど。

 久しぶりに開けてみようと立ち上がってクローゼットに近づく。取っ手に手をかけて、なんとなくやめた。いまはいいや、と口に出して部屋の照明を落とす。

 別におそろしいものなど入っていない。動物の死体や猿轡をかませた誰かが転がっているわけでもないし、法に触れる所有物を突っ込んでいるわけでもない。おかしな植物を育てているわけでも、隣の部屋から盗電しているわけでもない。

このクローゼットは、ひらくと海がこぼれてくる。押し寄せるさざなみに部屋が浸される。ただそれだけだ。


胡桃

 ある程度自分に自信があって品がない女はみんなそうだと思うけれど、初対面の女の人と自分とでどちらが上か瞬時に見定める癖がある。ほとんど無意識の所業だ。今日来る彼女はどちらだろう、と思った。

――まあ、可愛い女が来るとは思っていないけどさ。

 美人はブログなんかやらない。しかもあんな薄暗い日記を二年も飽きずに続けている人が容姿に恵まれているとは想像しにくい。

 乾が以前言っていた案件は、四人の契約社員か契約社員の女性を集めて一人ひとり取材していくというものだった。三人までは船草社のほかの社員が集めたものの、残り一人がやはり足りないと言われて、思い切って胡桃がアポを取った。二年間、かかさず読んでいたブログの中の女の人に。

【@scarlet_04様 初めまして。船草社でライターをしている根岸胡桃と言います。契約社員の女性の暮らしの実態について記事を書きたいのですが、取材をお願いできないでしょうか。謝礼は払います。お時間30分ほどいただけないでしょうか? ご検討よろしくお願いいたします。】

 もう少しで、ブロガーの彼女が現れる。そわそわして落ち着かない。

 二年あなたのブログを読んでます、と書いていた部分は迷った挙句消してしまった。あった方がこの人は来てくれただろうか。謝礼が三千円であることも書かなかった。契約社員の女の人を相手に書くと足元を見ている感じがする気がして削った。そういうことを考えてしまうような女がこの人に取材に行っていいのか、それ自体どうかとも思ってしまう。

【根岸様 初めまして。私でよければ取材をお受けします。こちらのgmailに連絡ください。***@gmail.com  白尾朱莉】

彼女からの返信に気づいたのは一昨日の夜のことだ。迷惑メールフォルダに入ってしまっているのを偶然見つけて慌ててアポを取った。

 とはいえ懸念はあった。アポを取った次の日に、彼と別れた、という内容の日記があがったのだ。心配と慰めのコメントが多数ついていたけれど、どれにも反応を返していなかった。もしかしたらアポをキャンセルされたりすっぽかされるかもしれない、と思って【明日はよろしくお願いします】と一言送った。【こちらこそよろしくお願いします】と一言、夜中に返ってきたものの、来る確率は五十パーセントくらいかな、と冷静に考えていた。

「あの、ライターの根岸さんですか」

 顔を上げると、ショートヘアの女の人が立っていた。すぐさま、華奢だな、と思う。すらりと背が高い。この人があのブログの中の人なんだ、と思うと電気が走るみたいに脳の一部がぴかりと閃いた。

「そうです。あの、白尾朱莉さんですよね」このたびはありがとうございます、と頭を下げると、朱莉さんも浅く頭を下げた。

「お待たせしてごめんなさい。私地図読むの下手くそで」

鹿を思わせる、おどおどと伏せ目がちになる大きな目とすっと通った鼻すじ。唇はやや薄く、ごく薄い桜色のリップが載せられている。失礼だ、とはわかっていてもどうしてもさがでじろじろと観察してしまう。予想していたよりずっと身綺麗な同性が現れたことに内心動揺していた。本当にこの人なんだろうか、と一瞬疑ってしまう。

 朱莉さんはメニューに目を落として「アイスミルクティーください」と注文した。少し甲高い、鈴のような声だった。

黒いシフォン生地のタイブラウス。ベージュのタイトスカート。裸足で履いたミュール。一見隙がない綺麗系なのに、どこか頼りない雰囲気が漂う。学生の胡桃よりほんのりチープないでたちだ。

「お会いできて嬉しいです。私ずっと朱莉さんのブログ読んでます。大学四年の時にたまたま見つけて。今回の取材も、正直読者として会いに来たっていうのが強いんです」

「なんか、恥ずかしい。今日、同い年くらいの人か年上の人がくるのかな、と思ってたけど根岸さん、すごくお若いですね」

「あー、私学生なんです。今年二十四歳」

遠慮がちに朱莉さんが微笑んだ。「私はいま二十六。三月で誕生日だけど」

 ということは学年的には自分より三歳上なのだ。二十七歳という響きはしっかりと根を張った大人のイメージがあるけれど、朱莉さんは風が吹けば折れそうに頼りない。

「あのブログ、もうすぐ二年くらい経ちますよね、確か」

「多分そう、だと思います。もうそんなになるのかな。惰性でずっと続けてるだけで、内容も自分も全然変わってないですけどね」

 綺麗なのに卑屈、というのが目の前の女に対する第一印象だった。失恋のことをふれてもいいのかふれないべきなのか迷い、結局「まず、以前送った質問事項に従って取材させてもらいますね」と無難に切りだした。ボイスレコーダーをテーブルの真ん中に置く。

「朱莉さんは新卒のときから契約社員としてお勤めしてるんですか?」

「そうです。本当は正社員で内定がほしかったけど、どうしても内定が出なくて。二年勤めたら正社員登用の検討があるので、いまはそれを目指しています」

「今どういう仕事されてるんですか?」

「広告会社の事務員です。今の会社が二社目だけど、前も事務でした」

 契約社員の何が大変か、ストレスはどんなことがあるか、その解消方法、節約術にいたるまで、企画書通りに取材を進めていく。ある程度回答を練っていてくれたのだろう、朱莉さんは意外なくらいスムーズにこたえてくれた。見た目も中身も頼りない、と思ってしまって申し訳なくなるくらいに。

 この人、多分本当は仕事できるんだろうな、と思った。契約社員という肩書きから、軽んじていた意識があったことに気づいて恥ずかしくなった。

「ありがとうございました。取材内容を記事にして、来週水曜日までには原稿を送るので、確認お願いします。あと、謝礼を振り込みたいので銀行口座もあとで送っていただければ助かります」

「わかりました」

 録音をいったん止める。「まだお時間大丈夫ですか?」と訊くと「今日は何も予定ないので」と微笑む。

「あの……ここからはブログのファンとして接するんですが、最近別れたんですよね。例の、」彼氏ではないし、と思い素早く言い換える。「好きな人と」

 朱莉さんはまばたきしてゆらゆらとまつげを揺らしたあと「そう」と淡々とうなずいた。「ふられちゃったんです。あっけなかったな。二年も続いてたんですけど、彼女だと思ってたことは向こうはないみたい」

「かなり長かったですよね。職場の人とかですか?」

「そう。飲み会で連絡先渡されて、っていう感じ。部署は違うけどフロアが同じだから、別れたあとも顔合わすことは全然あって」

「うわーそれ地獄ですね」思わず素で顔をしかめる。朱莉さんは肩をすくめた。

「転職も考えたけど、ちょうど今年が二年目だから、正社員登用の検討があるんです。九月とかだったかな。うちの会社は割と登用率が高いし、そうなったら手取りもかなり変わってくるから、やめるのはもったいなくて」

「そうですよねー。早く次の好きな人見つけないとですね」

「胡桃さんは彼氏いるんですか?」可愛いし絶対いますよね、と朱莉さんが言う。

「いや、んー、いないわけじゃないけどあんまりうまくいってなくて。次の彼氏候補探そうと思って最近マッチングアプリ使ってます」

「そうなんだ」朱莉さんはどこかほっとしたような面持ちになった。

「私も、もう悠長にしてられる年齢じゃないし、誰かと出会いたいんだけどなあ。マッチングアプリってなんか、あんまりしようって思えなくて。だって、できたら普通に出会いたいし。付き合うだけならいいけど、できたら次で結婚したいから」

 ピンとくることがあった。この人、もっと記事に生かせるかもしれない。

「え、じゃあ私と婚活します?」

畳み掛けると、朱莉さんはぎょっとしたように目を見開いた。

「婚活? 胡桃さん、まだ二十四歳でしょ。早くないですか。私ですら、まだ婚活っていうほど本気にはなれないかも」

 別れたばかりだし、と視線をテーブルに落とす。軽い気持ちで『婚活』という単語を使っただけなので、過剰な反応に少したじろいだ。

「いや、えっと、とりあえず将来性のある彼氏ほしいじゃないですか? まあ一年後とか次付き合った人と絶対結婚、とは思ってないけど、遊びの彼氏はいらないし」

「ああ、私もそういう感じです」朱莉さんがほっとしたようにうなずく。やっと噛みあったようだ。

「じゃあ、もし今後婚活パーティとか相席屋の潜入取材とか、企画があったら声かけていいですか。ちょっとだけど謝礼も出せると思うし」

「婚活パーティかあ」朱莉さんは困ったように口元に手を当てた。

「もうちょい軽めの企画もありますよ。公務員と出会えるとか高学歴の男性限定とか、そういうコンセプト系の街コン一緒に行きません? 朱莉さんはいてくれて、感想くれるだけでいいので。早速なんですけど、来週の日曜日の夕方とか空いてないですか」

 朱莉さんはスマホでカレンダーアプリをひらいたのち、三秒くらい間を置いて「わかりました。いいですよ」とこたえた。

 LINE交換して別れた。あ、意外と自分が盛れてる写真をアイコンにするタイプなんだ、と自分のことを棚に上げて思った。それじゃあ、と秋風のように去っていくのを見送る。

 ――予想とは違うタイプの女だったなあ。

 ものすごいデブスかめがねをかけたがり勉タイプ、あるいは安っぽい茶髪の風俗嬢系が来るかと思っていた。ああいう、普通にしていれば異性に困ることなどなさそうなタイプでも軽薄な男には適当にあしらわれてしまうのかと思うと、溜飲が下がるような哀しいような、複雑な気分だった。

 会社に戻る。「お疲れ様でーす」と言いながら席に着くと、なぜだか空気が揺れるのを感じた。編集長と話していた乾が「あ、根岸さん帰ってきた」と言う。

「ちょっと同行してほしい取材があって。遅い時間帯なんだけど無理かな。夜の九時新宿、って言うか歌舞伎町なんだけど」

「ホストかなんかですか」

「いや」乾はなぜか気まずそうに声量を落とした。「そういうんじゃないな。まあ近いけど。女性を連れてくと安くなるからさ」

心なしか、他の社員が二人のやりとりに耳をすましているのもなんだかしゃくに触った。嫌な予感しかしない、と身構えていると、乾はあっさりと答えを告げた。

「ハプニングバーなんだけど。行く? 行かない?」


朱莉

 いまにもこらえきれずに泣きだしそうな曇天だった。雲は押し潰されそうに分厚く、うっすら太陽を透かして鈍く光っている。無理に出かけなくてもよかったかな、と思いそうになってぐっと顔をあげた。

朝倉君と会わないようになったことで一番困ったのは休みの日があまりにも暇になってしまったことだった。今週土曜日は友達とランチに出かけたから一応予定があったものの、夜はyoutubeを見たり小説を読んだりもしたけれど、手持ち無沙汰なのは否めなかった。きちんとメイクをして綺麗な服を着て出てきたものの、予定なんてない。

先がない上に傷つけられるだけの関係だとわかってはいても終わらせることができなかったのは、ひとつに、朝倉君がいれば自動的に休日が埋まったからかもしれない。もちろん、彼女ではないので毎週末遊んでくれるわけでもないしデートらしいデートなんて、せいぜい家で映画を観るのに付き合ってくれれば御の字、というレベルではあった。それでも、誰かといる、というだけでそれなりに充実した休日を過ごしている、と自分に言い訳できるような気がしていた。自分一人でも自分のことくらい楽しませてあげないといけないな、と思う。夏物のワンピースを見たり、サンダルを探したり、コスメを買ったりしたい。あるいは、映画のなかのような素敵な喫茶店で、一杯で定食ぶんの値段のする紅茶を啜りながら古本をめくる。それに飽きれば、また街に戻って雑貨を見たり食器を眺めるのも悪くはない。新しいマグカップがほしい。頑張って、充実した休日になるようなプランを頭のなかで考える。

 それなりには楽しいのだろうけれど、お金を使ってまでするべきことなのか、よくわからない。そもそも、同世代の恋人のいない同性が、どんなふうに休日の時間を過ごしているのかまるで想像がつかないのだ。【飲み会終わった】と朝倉君からLINEが来ればすぐに店の最寄り駅まで迎えに行き、【家行っていい】と言われれば外にいてもすぐに用事を切り上げて急いで部屋の掃除をする。体力も精神も消耗するばかりの恋だったけれど、「朝倉君に好かれたい」を軸にして行動を選択するだけだったから、ある意味とても楽だった。

 面倒臭いしマンガ喫茶でも入ろうかな。そんなことを思いながら信号待ちでふと、思いつく場所があった。

 ――結婚相談所。

 あれはいつだっただろうか、短大時代の女友達が誰も結婚していない時に、独身のうちに一回は行ってみないか、と近くまで行ったことがあった。結局予約がいっぱいで受付であっさり断られて引き返したものの、予約で埋まっているってことはそれだけ結婚相手に餓えている人がいるんだな、と意外に思ったことも覚えている。そして、その時は素で「一回くらいはどんなところか行ってみたいよねー」と口にしたことも。

 ありえない、と打ち消しながらも、暇なんだし行ってみてもいいんじゃないかと思い始めている自分がいた。失恋した女が休日に向かう場所が結婚相談所。それならまだ相席屋とかの方がましじゃないかと思ったけれど、こんな早い時間ではあいているはずもないし、一人で入れるとも思えない。

地図を開くと、徒歩圏内で大手らしき相談所の支店が見つかった。電話して「今から行きたいのですが空いていますか?」と尋ねた。断られるかと思っていたのに、あっさりと通った。ネイルや美容室よりもずっとスムーズだった。

 朝倉君が知ったら、血迷いすぎだろ、と本気で腹を抱えて笑い転げる気がする。それとも本気でひかれるだろうか。どちらにせよ仲のいい同僚にすら打ち明けられそうにない。

 予約が取れた途端足取りが重くなってしまった。地図を見ながらビルを探し当てる。ほかの同性とすれちがったら嫌だな、と思いながらエレベーターを上がる。

「先ほど予約した白尾です」

 受付で名乗ると、個室に通された。廊下で待たされる時間がなかったことにほっとする。渡されたプロフィール欄ちまちま埋めていると遠慮がちにドアが開いた。小柄な女性がファイルとパソコンを抱えて入ってくる。

「白尾さん、初めまして。本日カウンセリングを担当する飯野真理子です。よろしくお願いいたします」四十代後半くらいの、めがねをかけたボブヘアの女性だった。どことなく、学校の養護の先生にいそうな雰囲気だった。

「今回弊社へのお問い合わせありがとうございました。ついさっきご予約いただいたみたいで、何かきっかけはありましたか?」

 好きな人と別れて、休みの日を持て余してしまい、時間をつぶしたくて予約を入れた――あるがままをいうわけにもいかず、「周りで結構、友達とかが結婚し始めたので、ふと思いついて」とごまかす。

 飯野さんは「なるほど、周りで結婚ラッシュがあって意識するようになったんですね」と柔らかい声で復唱する。簡単に料金や必要書類や入会後の紹介システムについて説明をされた。なんて高いんだろう、と素の反応を出してしまいそうになったけれど、これは冷やかしなのだし、と思い直して涼しい顔で「なるほど」「そうなんですね」と相槌を打つ。飯野さんは従順な反応に手応えを感じたのか、少し身を乗り出した。

「さっそくですが、白尾さんはどういった方とのご結婚をご希望でしょうか」

「えっと……やさしくて、真面目な人ですかね」傍若無人だった朝倉君のことを思いだしながらそうこたえた。あら、と飯野さんは口元に手を当てて笑みをこぼした。

「それだとかなりざっくりしてますねえ。年齢や年収や、外見の希望も教えてください」

「……同い歳から三十四歳くらいまで、かな。背が高い人がすきです。年収は……あって越したことはないですけど」

 直接金額を口にすることがはばかられて口ごもる。飯田さんはパソコンにデータを入力せず、首を振った。

「申し訳ありません、言い方が不十分でした。いま白尾さんがおっしゃった、二十七歳から三十四歳までの東京在住の男性会員だけで、千人近く該当者が弊社エージェントには在籍しています。あくまで私たちは数値でわかる部分でビッグデータの中から検索をして白尾さんに見合う男性をお探ししますから、きっちり条件は数値でおしえていただきたいんです。たとえば百七十六センチの男性はOKで百七十五センチの男性はNG、とか。年収であればどれだけ大雑把だとしても百万円単位で条件を設定していただければ助かります。こちらとしても、より精度の高いマッチングをご提供できるかと思います」

 そうは言われても、すぐには「では**万から**万の年収の方でお願いします」とは決められない。もちろん、あるに越したことはないし、どれぐらいが相場なのかよくわからない。たとえば「じゃあ年収一千万以上の方で」と口にしたとして、おまえはそれに見合うようなプロフィールなのかと思われそうでそれも怖かった。

 黙り込んでしまった朱莉に、飯田さんは「わかりますよ」とうなずいた。

「いきなり言われても、いままで考えたこともないと思います。白尾さんと同じくらいの年齢の女性ですと、だいたい年収六宇百万円以上の男性を望む方が一番多いですね。もちろん、もっとうんと上の額の年収の方をはっきり希望される方も少なくはないのですが、逆に、年収はあまりこだわらないという方も多くはありませんがいらっしゃいます」

「……そうなんですね」

「いまよりいい暮らしがしたい、玉の輿に乗りたいとおっしゃる女性も多いです。転職活動するより結婚をすることで自分の暮らしや生活のグレードをあげたい、なんておっしゃる方もいましたね」

 口元に手を添えて上品に飯田さんが微笑む。邪気がない笑みに見えたけれど、なんだかいたたまれなくなって視線を落とした。あなたも本当はそう思ってるんでしょう、恥ずかしがることはないんですよ、そういう女性はたくさんいますから――被害妄想だとはわかっているのだけれど、暗にそう言い当てられいるような気がしたのだ。

 結局、年収の希望は飯田さんが口にした平均額である六百万円以上を指定した。正直なところ、本当はもっと高望みしたかったけれど、そうすることによって「世間を半分に分けたとき自分の位置は半分より上である」と位置付けていることが彼女やエージェントに伝わってしまうことが嫌だった。朱莉自身、契約社員の身分で望むにはもともと高望みすぎる希望だということはよくわかっていた。打ち込みながら飯田さんが言う。

「白尾さんがいま設定した条件ですと、おおよそ百人くらい希望に沿う男性がいらっしゃいますね。まだお若いしお綺麗ですから、きっとすぐに成約できますよ」

 曖昧に笑い返す。数値で絞れるような条件以外でも、性格やルックス、生活スタイルのタイプの好みや条件もこまかく問われ、その都度思いつくことをぼんやりとこたえた。聞かれれば聞かれるほど自分が本当に欲しているものから遠ざかっていく気がするのが不思議だった。

初めは熱心に耳を傾けていたけれど、だんだん飯田さんの相槌が間遠になり、やがて無言でパソコンに打ち込んでいくようになった。そして、打ち終えて朱莉をじっと見つめる。

「白尾さん」

飯田さんの表情はあくまで微笑を浮かべたままなのに、まなざしの強さにひるんでしまう。まるで中学生の頃にでも戻って、教員に個人的に呼ばれて向かい合っているような緊張感を空気が孕んでいる。

「もし違ったらごめんなさいね。でも、率直に感じたから申し上げますね。もしかして、結婚相談所を利用することは、とても恥ずべきことだと感じていらっしゃいませんか」

 かっと顔めがけて血液が集まる感覚があった。

「そんな」恥ずべきことだとは思っていない。ただ、冷やかし半分で来てしまったことに対する後ろめたさはあった。

「うちにいらっしゃる方の中でそんなふうに感じている方は決して少なくはありませんよ。  親がうるさいから、周りの友人で利用者がいるから、興味があったから……いろんなエクスキューズを用意しないと、ここまで来られなかった方はたくさんいらっしゃいます」

飯田さんの表情も口調も柔らかかった。だからこそいたたまれず、朱莉は目を伏せた。逃げだしてしまいたかった。

「厳しいことを言うようですけど、そう思っているうちには白尾さんが結婚相談所に入会するタイミングは、まだなのかもしれません。でもね、老婆心でひとつだけ」

「……なんでしょう」聞きたいとは思わなかったけれど、話を終わらせるためだけに促す。飯野さんは柔らかい表情で言った。

「婚活は当事者の方の気持ちも大切ですが、それと同じくらい、早く始めることも大切です。もっと早くいらしてくれたら、とこちらとしても歯痒く思うのは不本意ですから」

 何も言い返す言葉がなく、朱莉はうつむいた。

 飯田さんは「差し出がましいことを申してすみません」ともういちど完璧な笑みを浮かべた。何を投げつけてもひび割れない仮面のような、強固な笑みだった。「ぜひ前向きにご検討ください。婚活の極意は、何よりもスピードです。一日でも早く始めることが何よりも成功の秘密ですから」

 パンフレットを詰めたビニール袋を帰り際に渡され、会釈してエレベーターに乗り込んだ。ふかぶかとお辞儀をする飯田さんを見ないようにして、閉まるボタンを押す。一刻も早くこの建物から出てしまいたかった。なんで来てしまったんだろう、と思いそうになるのを留める。これ以上自分をみじめに思いたくなかった。

 ――婚活はスピードが大切、ね。

 それはそうだろう。女性の年齢が一歳変わるだけで、望める相手の年収は百万円単位で変わる。下手をすればもっと変わる。それくらいはわかっている。でも。

 どこかで聞いたようなフレーズだな、と思ったら、昔、いまの会社に入る前に利用した転職エージェントでの面談でも「スピードが命」と言われたのだった。ため息をつく。

 飯田さんに嫌悪感を抱いたわけではない。きっと何年も経験があって、契約すれば的確なアドバイスと励ましをしながら親身に婚活をサポートしてくれるのだろう、と想像がつく。でも、堪え切れずに逃げ出してしまった。

 地下鉄に乗り込みながら、飯田さんとのやり取りを思いだす。もっとも印象的だったのは、「いまよりいい暮らしがしたい、玉の輿に乗りたいとおっしゃる女性も多いです」という言葉だった。誰だって一度は夢を見るだろうけれど、そんなにはっきりと他人に希望を口にできる人がたくさんいるということに正直びっくりした。そのなかにはきっと、二十七歳の契約社員で短大卒の朱莉よりも条件が悪い女の人もいるのだろう、とも思う。

 ――でも、そうやってあっけらかんと「お金持ちと結婚したい」「玉の輿に乗りたい」と口にできるような人のほうが、私より性格が良い気がする。

 本当は心の奥底では自分もそう思っている。朝倉君相手ではうまくいかなかったけれど、きっと巡り合わせさえあればきっと、年収の高い優秀な男性と結婚して、高層マンションで犬と観葉植物の世話をしながら暮らすような生活ができるんじゃないか。口にするのもはばかられるような幼稚で浅薄な、妄想すれすれの望みを、ありえない、と跳ねのけきれずにうっすらと持ちつづけている。それを得られるような自分であるという根拠も説得力もないのに。

 優先席で隣り合って座り、小声でおしゃべりをつづける五十代くらいの女性二人組をそっと見下ろす。二人とも、ブランド物の鞄を持ち、これみよがしなほど大きな石のついた指環を嵌めていた。朱莉からしたら、ごくごく普通の中年女性にしか見えないけれど、若い頃は高値の花と呼ばれるような美女だったのだろうか、それとも実家が裕福だったのか、たまたまお金持ちの男性と意気投合して結婚したのか。彼女たちの持ち物が配偶者からの贈り物とはかぎらないのに、つい下世話な勘繰りを働かせてしまう。

 くだらない。少なくとも自分がそれなりに年収のある男性だったら、こんな浅はかな女はまっさきに伴侶の相手から外すに違いない。

 気がつけば最寄駅に帰っていた。まだ、夕方の四時だ。時間が過ぎるのを待つような休日だな、と思いながらついさっきまでいたアパートへ歩きだす。


晴夏

 断ればよかった。さっきからそう思いながら、食事をしている。

「ここの店、予約しづらいから今日墨田さんと来られてよかった」

 目の前の男は鴨肉を器用に切り分けながら微笑んだ。おいしいですね、と無難に相槌を打つ。三十八歳、百七十〇センチ、システム会社勤務で年収は六百万から八百万の間、吉祥寺在住。不動産の物件情報のように、数字で表せるような情報は覚えているけれど最初に名乗っていた名前が思いだせない。

ぱっと見て「あ、全然タイプじゃない」と瞬時に判断してしまった時点で、やる気はもはや二割も残っていなかった。身長はあまり高くなくて、固太りというよりも女性的な肉づきの体型で、朴訥とした男性だった。よく言えばまじめそう、悪く言えばもてなさそう、になる。落ち着きすぎて、ぱっと見四十代に見える。かけているめがねはとても度が強そうで、一重の目がより奥まってひょうきんというより爬虫類のように無機質に見せていた。

 世間的点数をそのままに自分を同性に反転させたら案外こういう感じになるのかもなあ、と思いながらむっちりと肉がついた二の腕を盗み見る。将来性やセックスアピールを感じたわけでもないのに会う気になったのは、単純にアプリで【写真を見て、雰囲気がとてもすてきだと思いました。よければお食事から仲良くしてもらえませんか】と低姿勢のダイレクトメッセージが来たからだった。全然付き合う未来が見えるタイプじゃないけど会ってはみるか、といいねを返した。無駄打ちはできればしたくないけれど、贅沢をいってはいられない身であることは承知だ。その中途半端な立ち位置のせいで、こんなふうに微妙なデートをしては時間を無駄にしている。

 彼が選んだ創作フレンチのお店は個室だった。なんか初手から本気くさいな、と正直胃が重くなった。見た目通り、お見合い感覚で出会い系しているんだなこの人、と思った。

「今日、会ってもらえてありがとうございます。僕、あのアプリ通して女性とお会いするの初めてなんですけど、墨田さんみたいな素敵な人でも婚活してるんですね」

 含んだワインをふきだしそうになった。数回会っている間柄ならともかく、初回のデートで言う台詞ではないような気がする。「そんなことないですよお」と笑って流しながら、内心、げ、帰りたい、と思った。

 あたりさわりなく仕事の話や趣味の話を振ったものの、いちいち「あ、それいいですよねえ」「墨田さんの気持ち、よくわかりますよ」と慇懃すぎる相槌が返ってくるのにも閉口した。自己アピールされているような気がして、会話を楽しむどころではない。この歳でよほど女性慣れしていないのだろうか、と思うと憐れだった。婚活市場において時々いるタイプだ。よく言えば愚直、悪く言えばマニュアル通り。はっきり言って面白みに欠ける。

終始こんな調子で凝った料理をちまちま切り分けなければいけないのだろうか。いっそ腹痛の振りをして帰ることもちらっと頭をかすめたものの、実際のところどれだけつまらない相手や失礼な相手であっても、勇気がなくて実行したためしはない。婚活をしたての女の人ならそれなりに嬉しいと思うのかもしれないけれど、こちらは年季が入っているので大仰なことを言われても冷めるだけだ。

「いい歳なんですけど、仕事柄なかなか女性と出会う機会にめぐまれなくて。気がついたらもう四十代目前です」はは、と自嘲するように笑う。卑下する人はもともと苦手だ。いたたまれない気持ちになる。

「晴夏さんは看護師の仕事をされてるんですよね。出会いなんて、たくさんありそうな気がするんだけどなあ。最後に付き合っていた人は、いつ別れたんですか?」

 そう失礼なことや非常識なことを訊かれているわけではない、とわかってはいるのに、なぜだか神経を逆なでされているような不愉快さがじわりと走った。本当のことをこたえるいわれなどない気がして、「七年前ですよ」とこたえた。途端、思った通り彼の目が見ひらかれた。

「へっ、七年? 随分、おひとりでいた期間が長いんですね。仕事が多忙すぎたんですか」

「いえ、そこまで忙しかったわけじゃないです。単純に、その人のことを忘れられなかっただけです」らんらんとしていた彼の目が、途端にかがやきを失った。そのことにうっすら喜びを感じながら、淡々と話を進める。

「学生の時からずっと付き合ってて、お互い初めての恋人で、社会人になって同棲もして。結婚の約束もしていたんですけど、でもどうしても擦れ違って別れることになりました。なんだか、自分の時間がそこで止まっているような気がして、ほかの人と付き合おうとしても、うまくいかないんです。七年間の間、その人のことをずっと忘れられなくて」

「……いまでも?」彼が眉をひそめて迷子のような顔をしてたずねた。黙ったまま、にっこりと笑ってみせる。もう、これでくだらない茶番も終わりだ。せいせいする、と思いながら鴨肉を切り分けていると、彼が言葉を発した。

「まあ、よくある話と言えばそれまでかもしれませんね」

 一瞬、聞き間違いかと思った。けれど、そうではないらしい。思わず顔をあげた。彼は表情を変えないままつづけた。

「どんな人でも、そういう大恋愛や大失恋のトラウマを持っていると思いますよ。具体的な話はしませんが、僕も少なかれありますし」

 場を台無しにするような話をした自分への反撃だろうか、と思いながら聞き流す。トラウマという単語でひっくるめられたことにかちんときたものの、反論する方が面倒くさく思えて「そうかもしれませんねえ」とワインで流し込む。

 そんなに昔の相手が忘れられないなら婚活の土俵に上がってくる資格はあなたにはない、とかそういうこと言われたりするのかな、こういう温厚そうな相手に限って逆ギレしたりするのかもな、と思いながら出方を待つ。もはや場を取り繕う気持ちは残っていなかった。

「でも、自分が好きになってくれる人を好きにならないかぎり、どんな人でも幸せになれないんじゃないかな、と僕は思います」

 遠回しに自分を好きになれば幸せになれる、とでも言おうとしているのだろうか。ばかばかしくなって、表情筋を意識しながら笑顔をつくる。

「そうかもしれませんね。でも、なんでだかそれ以降は恋愛がうまくいかなくて」

「墨田さんのことを好きになってくれる人があらわれても好きになれないって意味ですか」

「まあ、そうですね」晴夏がつくりあげた鉄仮面のような笑みを見て、彼が心をこわばらせる手ごたえを感じた。あなたが私を好きになっても、愛情を打ち返すことはない。言外に込めたメッセージを的確に嗅ぎ取ったのだとわかった。

 おとなげない対応をしてしまったな、とは思う。別に、悪い人ではないんだろうけど、なんとなくむしゃくしゃした。それだけだ。

 それからは、運ばれてくる料理やはまっているドラマの話などあたりさわりのない話題しかふれなかった。表面を撫でるような、うわっつらの会話だった。

 けれど彼は、会計を済ませて財布をしまいながら、別れ際にこう言った。

「僕ずっと考えてたんですけど、墨田さんが大事にしたり愛し続けているのは七年前に別れたその人じゃなくて、その人に愛されていた時の墨田さん自身なんじゃないですか」

 酔っているせいもあり、何を言われているかすっと呑み込めなかった。

 へ、と思わず間抜けに声を上げると、存外冷たい目が銃口のようにこちらをにらんでいるのに気づき、ひくりと心臓がひるんだ。

「好きだった人を盾に自分を守るなんてかっこ悪いし、その人だってきっといい迷惑だと思ってるはずです。そんな失礼な人、誰にも愛されなくて当然じゃないですか。自分が愛し返せなかったから破綻した、なんて思わない方がいいですよ」

 それじゃと彼はさっさと店を出て行って、早足で歩いて行った。ぽかんとばかみたいに背中を見送り、彼の苗字が熊藤であることを、なぜだかいまになって、奥歯に挟まっていた韮が取れるみたいに、思いだした。


 弓子さんの部屋に誰かが来ていた。めずらしく男性だ。お父さんだろうか、と思いながら「失礼します」と声をかけてからカーテンを開けると、めがねをかけたずんぐりとした男がこちらを振り返っていた。「墨田さん」と呟く。

「クマ、何、墨田さんのこと知ってるの?」

 くすりと弓子さんが笑う。とっさにすべての動作が止まってまじまじと見つめ返してしまった。ありえない、こんなところでこの男と再会するとは思わなかった。てきぱきと点滴を替え、カーテンを閉めた。

 部屋を出たところで、「墨田さん」と呼び止められた。呼ばれることは予想していた。仕方がないので足を止める。

「業務中です」とつっけんどんに言い返えすと、熊藤は無防備なほど眉をハの字に下げた。

「すみません。でも、まさかこの病院でお勤めされてるとは思いませんでした」

「タイミングが合わなかっただけで、もしかして何度かいらしてましたか?」

 好奇心に負けて尋ねると「いや、二か月ぶりとかなのでそんなには」とこたえた。「どこかでお見かけしたことくらいはあったかもしれませんけど」

 そうですか、と返しながら、もう来ないといいけれどと思う。この男とよりによって勤務中に顔を合わせたくなどなかった。

「弓子とは幼なじみなんです」黙っていると熊藤は話を続けた。「あの、墨田さん今日は何時に上がりますか。よければ、もういちど話したくて」

 どういうつもりで言っているのかわからず、思わず眼球がくるりと天井を向いた。あのあと、アプリを通して何の一言もメッセージをかわすことはなかった。お互い、二度と会いたくない、という意見が合致したということではないか。

「前回はすみませんでした。別れしなに、失礼なことを口走ったなと思って。正直、気まずくて何も返せなかったんです。いや、大人げないことをしました。すみません」

 汗をかきながら、ハンカチを取りだして額を拭く。キャラクターじみたしぐさだった。黙っていると、熊藤はさらにつづけた。

「墨田さんに怒ってああいう態度を取ったわけじゃないです。、自分にも似たようなところはあるな、と思って、自分が見て見ぬふりをしてきたことを照らし出されたような気がして。だからあれは、墨田さんに言ったわけじゃないです。自己嫌悪からの発露です」

 矢継ぎ早にまくしたてられ、理解が追いつかないまま、はあ、と話を進めるためだけに相槌を打つ。正直、どうでもよかったし、忙しい時間帯なのだからこれ以上熊藤と話していたくはなかった。無下にできないのは、弓子さんの見舞客だから、ただそれだけだ。

「僕と、もう話したくないですか」熊藤がしつこく食い下がる。げんなりして「勤務中ですから」と通り抜けようとすると、熊藤が後ろで続けた。

「たぶん、弓子と僕は、墨田さんと同じです。下心からじゃなくて、人として、墨田さんの話を聞きたいと思ってます」

 歩きだして、うんざりして振り返る。熊藤は、なぜだかにこにこしながら名刺を晴夏に差し出していた。


胡桃

「ハプニングバーってどういうイメージ?」

丸の内線で新宿三丁目に移動しながら乾が言う。痩せているので絶望的にTシャツが似合っていない。

「裸の男女がそこいらじゅうでくんずほぐれつしてて、足下では猿轡された老人が転がってたり、外人がラリって倒れて蹴飛ばされたりしてる。天井からたくさん吊るされたは裸電球にカラフルなコンドームがかぶさってて、いろんな色にピカピカ光ってるの。で、燭台には大中小さまざまなバイブがキャンドルに見立てて飾ってある」

車内だと言うのに、乾は喉を仰け反らして笑った。

「ネタ系のAVの見過ぎでしょ。やっぱコモモは文才ギャルだな」

「セクハラですよそれ。あとギャルじゃないし」

ハプニングバーに潜入してきてレポートしてきてほしい、と言うのが週刊誌の依頼だった。なんで私が、と思わないこともなかったけれど、こんな機会もなければ一生行く機会もないと思えば、悪くはなかった。

「じゃあ、来週の金曜日二十時半出勤しますよ」

「えっマジで行くの」

自分から振ってきたくせに乾がぎょっとして素で引いているのが愉快だった。ひそかにやりとりに耳を傾けていたほかの社員たちも、驚いた顔で忍び笑いを漏らした。「ねぎっちゃん、ガッツあるねえ」と編集長にからかうように言われたけれど、無視した。

駅に着いたので歌舞伎町に向かって歩きだす。ハプニングバーの住所は非公開だったので、電話でスタッフとやり取りしながら歩いた。知り合いにでくわすことよりも、乾が地図の案内に気を取られてそこらじゅうのスカウトだのホストだのキャバ嬢だのとぶつかるようにして歩くことの方がよほどひやひやした。「あ、このビルの七階」と乾が立ち止まる。

古びたテナント のエレベーターに滑り込む。狭くべたついているので、寄りかからないように真ん中に寄ると、乾が「なんか近くね」と呟いたけれど無視する。

受付はラブホテルと同じで、スタッフの顔が見えないようになっている。何気なく料金表を見てぎょっとした。会員費が二万円、入場料八千円。こんなのよほど風俗でも利用した方がよっぽど有意義だ。

「ハプバってこんな高いんですか」

「ああ、男性だけで入ろうとすると本当に持ってかれる。でもハプバにおいて大切なのはコスパじゃなくて刺激と臨場感だから」

あっそ、と言い返しながら受付で免許証を出す。こんなふざけた場所で自分の身分証のコピーを取られるのは嫌だったけれど、仕方がない。長ったらしいルール説明を受けたあと、ロッカールームで荷物を預ける。カップルと出くわし、お互い視線だけを絡ませてすれ違う。両方六十三点、と心の中で呟いた。

「なんか、ハプバって無法地帯かと思ってたけどルール多いんですね。エッチするスペース使うときはスタッフに報告するとか、単独で来てる女性にグループで来てる客は話しかけちゃだめとか。こんなの聞かされてるうちに萎えません?」

「そう?」ウエストポーチをロッカーに押し込みながら乾が首を傾げる。「トラブル避けるためにはこういう場所こそ規律が多くなるのは仕方ないと思う」

「乾さんってハプバ来たことあるの」随分精通してる気がするんですけど、と言うと「ないよ。ないない」と顔の前で手をばたばたと振った。「そもそもこういうシモ系の潜入取材も、ずっと避けてたんだよ。でも編集長が荒療治で俺を指名してきたってわけ」

「ふーん」手ぶらで店内に向かう。一体どんな阿鼻叫喚の景色が広がっているのだろうか、と思いながらドアを押すと、わっと大音量の音楽が押し寄せてきた。

思わず顔をしかめたくなるほどのうるささだ。異様に暗くてクラブ並に音楽がうるさいことを除けば、パッと見普通のバーだ。カオスな状態が繰り広げられているということもなく、多少露出度の高いコスプレをした男女立ち歩いているくらいで、あとはそれなりにお行儀よくお酒を飲んでいるふうにしか見えがなかった。

隣を見ると、乾はきょどきょどと忙しなく目を動かしている。何が“ハプバにおいて大切なのはコスパじゃなくて刺激と臨場感”だ、と呆れる。戦力になるとは思えない。今日の取材は、自分がしゃしゃりでた方が良さそうだ。この空間のうるささはクラブ顔負けで、これでは会話どころじゃない。カウンター周りでは人だかりができ、時々地鳴りのような笑い声が爆発していた。鼻にピアスをしたスタッフに飲み物を訊かれ、ジンジャーハイを頼む。乾は生ビールを頼んだ。

人だかりの一番後ろでさりげなく立っていたものの、誰も新入りの胡桃たちに話しかけてはこない。どうやら混じりたかったら自分たちから果敢に話しかけて輪に加わる以外ほかないようだ。こんなふざけた場であっても結局ものを言うのはコミュニケーション能力なのか、と思うとうんざりした。「向こう行きましょう」と乾の脇腹をせっついてついてこさせた。どうやらカウンターの奥はカップルシートのようで、男女がべったりと寄り添っていた。膝に女の子を載せておっぱじめているカップルもいる。

壁にはありとあらゆるコスプレ衣装が吊り下げられていた。スケスケのベビードールばかりでうんざりしたけれど、チャイナドレスやメイド服、制服など王道のものもある。

「着るの?」壁際に目を走らせていることに気づいた乾が言う。エヴァンゲリオンのプラグスーツがあったので壁から外した。アスカの方が良かったけれど、白いものしかない。

「着替えてくる。こっち来て誰か入ってこないか見張ってて」

「ちょ、」

バーの隅っこに試着室があったので中に閉じこもり、着替える。誰かが着たかもしれない、肌に吸い付く素材のスーツを直接着るなんてどうかしている。普段なら絶対着ない。

「乾さん。ファスナー上げて」

カーテンを半分開けて背中を向ける。カップ付きのスーツだったこともあり面倒くさくなってノーブラだ。剥き出しの背中を見ても乾は何も言わずにファスナーをきゅっとしめた。思ったより細身の作りで、胸の前がパンと張ってきつい。

カーテンを開けて飛び出すと、乾がじろじろと不躾に眺めて「なんか、異様に似合うな。髪型とキャラ考えると綾波レイっていうかアスカっぽいのは否めないけど」と感想を寄越した。「うっせ」と一蹴する。着替えたのは、この場になじんで溶け込み、話しかけられやすくするためだ。というのは建前で、着る機会もそうそうないからめずらしいコスチュームを着てみたかったというのもないわけではない。

「右端のカップル、さっき俺たちより先に入ってた人たちじゃない?」

見ると受付ですれ違った二人が酒を飲みながら小声でぼそぼそと話していた。うるさ過ぎて近づかない限り会話できないからだ。乾の耳元に囁く。

「あの二人の前に行って、話しかけましょう」

「わかった」

笑顔で「こんにちは」と言いながらテーブルの前にコップを置きながら席につく、二人とも胡桃たちを見て「あ、綾波レイだ。きれー」「さっき会いましたね」と笑った。なし崩しで乾杯する。こういうとき、夜職についていた甲斐があった、とわずかに思う。

「二人はどういう関係なんですか?」

声を張らないと会話にならない。嫌だったけど四人で顔を突き合わせるようにして話した。煮込みすぎた餅のように肥えた女と、鶏ガラのように痩せた男。どちらも三十代半ばといったところか。女の方がにこにこと答えた。

「まあ、友達かなあ。ツイッターでつながって、ここ二人で来るのも四回目とか」

「へえ。じゃ既セクなんですね」

「二人は違うの」男の方がニヤニヤしながら胡桃の胸辺りを見ている。デブと付き合っているくらいだし巨乳好きなのかもしれない。

「あ、うちらは普通に友達なんで、したことないですね」

「今日もしないの?」女が男の太腿を円を描くようにしてさすりながら言う。「まあ気まずいんで」と適当に流すと、さらに大声を張り上げてつづける。

「そっか残念。私たちスワッピング希望なんだよねえ」

君たちができないなら他のカップルに訊いてみるから、と言って二人は飲み物を持ってカウンターへ行ってしまった。乾が、う、と情けない声を上げる。肘でどついた。

「ちょっと、全然取材できてないですか。せっかく段取りしてあげたのに」

「面目ない。もうちょっと飲むわ」

 そう言って生ビールを煽る。そんなんで酔う? と冷ややかに見ていたけれど、暗がりでもわかるほど乾の耳は真っ赤に染まった。

「あそこもカップルがいい雰囲気だから、行ってみよう」

 シートを移動する。二人ともマスクをしているので年齢はわかりにくいものの、女の子の方が胡桃と歳がそう変わらないようにも見えた。歯科クリニックの受付にでもいそうな美人だ。へそが見える丈のセーラー服を着て男の膝の上にねこのように座っていた。

「わあ、綾波レイちゃんが来た。可愛い! めちゃくちゃ似合ってますね!」

近づくと、女の子の方から胡桃に話しかけてきてくれた。やっぱり着て正解だった、と思いながら「こんばんは」とワントーン高い声で微笑む。「よく来てるんですか?」

「ううん、初めて。でもこの人は常連なの」私以外の女の子とも来てるんだよねー、とセーラーの子が男の頬を指でふれる。男はマスクをずらすと結構老けて見えた。

「まあねえ。でもカナが来てみたいって言ったんじゃん」

「そうだけどさあ」

「あの、二人はどこで知り合ったんですか」

ほとんど初めて乾が声を上げた。二人は声を揃えて「え、マッチングアプリ」と言う。

「そっちは? セフレとか?」

「いや、友達です。リアルの知り合いなんで、他の人たちのセックスが見られたらいいなあ、と思ってここに場所陣取りました。いい雰囲気だったから」

乾の言葉に、カナさんがキャハハと不良品の玩具のような甲高い笑い声を上げた。

「えー。でも見られてるとやっぱ……やりづらいって言うか普通に恥ずいよ」

「いいじゃん。この子たちビギナーなんだから見せつけてあげよう。カナの綺麗なおっぱい」オッサン臭い台詞を吐きながら男がセーラー服をまくり上げる。身をよじりながらも、完全にめくれあがり赤い薔薇の刺繍が入った紺のブラジャーがあらわになった。Dカップ、というところか。同じくまくれあがった短いプリーツスカートからも、お揃いの柄のショーツが丸出しになっていた。

「え〜めっちゃ見られてんじゃん。やだ」

 カナさんが首を捻ってうつむこうとするのを、男が顎を掴んで上を向かせた。そのまま深いキスをする。「舌出して、べえって」と言われてその通りにするカナさんは、抗うのを全くやめて行為に集中し始めたのがわかる。というよりも、同性の胡桃を含めて他人に見られながらエロいことをしているのにしらふで話しつづける方がよほど恥ずかしいから、観衆を無視して行為に没頭する方にシフトしたのだろう。音楽に紛れて、湿った音が聞こえよがしに響く。見入るのもなんだか違う気がして、「水取ってくる」と乾の肩を叩いて立ち上がった。乾は「おけ」とにやにやしながら二人のキスを眺めていた。

カウンターで「お冷やください」と頼み、壁に寄りかかる。なんだ、この空間は。

もはや私服でいるのは単独で来ている男の人くらいで、女の子はみんな下着姿かコスプレに身を包んでいた。あちこちでキスが交わされ、ばか笑いが弾けている。可愛い子は自分かさっきの子くらいしかいない。みんな三十過ぎかそれ以上に見える。入店にそれなりにお金がかかるというのもあるのだろうけれど、カルチャー的に古いのだろう。さっきのカップルみたいに、やりもく色の強いマッチングアプリを使えば、ただでやるのはとても簡単だ。わざわざ二万近く入会金を払って本番行為ができるかもわからない不衛生なバーに入るのは、コスパが悪すぎる。

水を受け取ってその場で飲み干し、乾のところに戻った。

「おかえりなさーい」

さっきまで制服をまくりあげてキスしまくっていたカナさんは、また裾を戻して男の隣に座っていた。熱気のようだった空気はとうに平熱に戻っている。「あれ、やめちゃったんですか」と思わず非難がましい声を上げると、男が肩をすくめた。

「まあ、やってもいいんだけど、刺激が足りないよね、どうせこういう店に来たんだから、スワッピングくらいはしたいじゃん」

「えーやだ。やきもち焼くもん」

「じゃあ4Pするか?」

 カナさんがけらけら笑いながら男の指をしゃぶる。上目遣いで、胡桃を見つめた。

「綾波レイのおねーさんと、その彼氏はやんないの。あたしも、してるところ見たくなっちゃった」――矛先を急に向けられ、思わず言葉が詰まった。

「いや、私たちはそういうのは……見る専なんで」

「えー? 高いお金払ったのに見るだけってもったいなくない? むらむらしない?」

いや別に、と思いながら乾の様子を伺う。困ったように笑っているだけだった。なんか言って断れよ、と思っていると、「じゃあキスしてよ」と男が口を挟んだ。

「するのがハードル高いんだったら、せめてチューしてるところは見たいな」

「いいね! カナも見たい。っていうか友達とするならエッチよりキスの方がなんかエロいよね。リアルで」

 そう言いながらまた顎を上に傾けて、噛むようにして男の唇を吸う。舌が絡みついている様子は、なんだか生肉を口移して食べさせているみたいにも見えた。

「そっちはしないの」

カナさんが横目で胡桃を見つめながらかすれた声で言う。男の指が顎から喉に移り、軽く締めているのがわかった。ひぅ、とかすれた音が風のように漏れる。

ウェットスーツに包まれた二の腕がかすかに乾の腕とふれている。入る時は絶対無理こいつにしたい的なそぶり出されたら一瞬で帰る殺す、とまで思っていたのに、なんだかもたれかかりたいような気持ちになってきた。半身浴しているうちに面倒くさくなってずぶずぶと肩まで浸かってしまう時のように。

乾と視線がかち合う。あ、これキスしちゃうな、と思いながらわずかに顔を傾げて見せた。すると、乾の目に浮かんだのは劣情と安堵ではなく、純粋な驚愕だった。ぎょっとして、慌てて元に戻す。軽く肩をはたいた。

「っていうか、カナさん見てボッキしてんじゃねーよ。上行こ」

「あ、うん。ありがとうございました」

何食わぬ顔で飲み物を持って階段を登りながらも、心臓がばくばくしていた。一瞬とはいえ物欲しそうな顔を見せてしまったことを悔やむ。乾はまるで、プールに水着ではなく裸で現れた連れでも見たみたいな顔をしていた。

――何でこんなするめみたいなひょろひょろしたやつに恥かかされなきゃいけないの。

建物が暗くて助かった顔中に集まった熱を、お冷やを飲み干すことで逃がす。身体の中に透明な滝が一瞬すっと通り、ようやく落ち着いた。すべて気のせいだった。そう自分に言い聞かせる。酔っているだけだ。

二階はいわゆる本番行為をするための部屋だった。ぱん、ぱん、と肉がぶつかる音が小刻みにリズムを刻んでいる。個室を誰かが使っているのだ。マジックミラーになった窓に、人だかりができている。後ろから輪に加わった。

暗く狭い部屋にちゃちなマットレスが敷かれ、男女が重なり合っていた。男の貧相な尻が上下して、重く肉を打つ音がする。絡みつくような甘ったるい喘ぎ声が動きに合わせて響き渡る。なんだか、煮込み過ぎて鍋のすみでぐったりと伸びきった餅みたいに見えた。

壁越しとはいえ、他人の性行為を間近で見たのは初めてだった。足を突っ張るように伸ばして男が腰を振っていて、さながら壁にひっついている蛙みたいだった。

セックスって客観的に見るとつくづくぶざまだな、と思う。けれど観衆たちは興奮したようににやにやしながら目を離さずにいる。奥にいるカップルは、お互いの身体をさすりあい、時折耳打ちし合っては湿った笑い声を立てる。もしかしたらおっぱじめる気だろうか。二組のカップルが狭い空間で性行為している図は興味がある。ひょっとするとスワッピングも期待できるかもしれない。入る入らないの問答を繰り返しているのをじれったく観察していると、乾が横から「コモモ」と突いてきた。「そろそろ終電。退店しよう」

「え、でもあそこいい雰囲気ですよ。もう少し粘りましょうよ。始発で帰ればよくない?」

乾は困ったように「頑張るねえ」と笑い、「どっちにしろ終電で帰る人がほとんどみたいだよ。今日のところは退散しよう、ネタは十分だよ」と胡桃を促した。渋々一階に降りて、着替えを済ませる。外に出て、やっと深呼吸ができた。ずっとこの世のどん底みたいな淀んだ場所にいたので、肺の中身を入れ替える。

「あー面白かった。もうちょっとでいいところだったのになー。スワッピング交渉が生で見られるとこだったのに」

「どうかな、みんないきってるだけで実際にはかなり心理的にハードル高いと思うよ。ああいうところだと性病も怖いしね」

挙動不審に見てるだけだったくせに妙に冷静だった。円山町の坂を駅に向かってゆっくり歩く。週末の金曜日は、いつもより年齢層が自分たちより少しだけ上だ。

「コモモって家どこ?」

「横浜」

「えっ」乾がバネのように身体を逸らした「いま零時十分だよ。そんなに余裕あるわけじゃないってこと?」

「終電は確か二十三分かな」

「走ろう」言うや否や乾はピッチをあげた。嘘でしょ、と思いながら追いかける。スニーカーを履いているとは言え、そこそこ飲み食いした身では厳しい。

「走らなくても間に合うってば。最悪どっかで時間潰して朝帰るし」

「渋谷で朝まで待つなんて危ないよ。絶対乗ろう」

 そっちは何時なの? と訊くと「俺池袋に実家あるから、全然余裕。最悪タクシーで帰れるよ」と申し訳なさそうに言う。

「お坊ちゃんなんだね」

「そう思うじゃん? 全然普通のサラリーマン家庭よ。中退してるのに奨学金いまでも返してるしな」

 信号が赤になった。スクランブル交差点で男女がまろぶようにかけていく。乾が細い手足を曲げて不格好に走るのを追いかける。改札まで全力で走ったら息が切れた。

「間に合いそうだね。じゃ、俺も山手で帰るよ。おやすみ」乾が手を振って改札に吸い込まれていく。何だかな、と思いながら東横線の地下深いホームまで降りた。結局、終電より一本前に乗れた。滑り込んできた電車に乗り込み、空いていたシートに腰を下ろした。  汗をかいてメイクもぐちゃぐちゃだろうし、足も疲れたけれど、なぜだか楽しいと思えた。

乾から【乗れた? 大丈夫?】とLINEが来た。乗れなかったよ、いまからクラブでオール、とでもからかおうかとも思ったけどやめた。

【おかげさまで乗れました。鬼汗かいた】

【よかった。じゃあまた来週。今日ついてきてくれて助かったよ、今度お礼にメシおごる】

【じゃあ生パスタ食べたい】

【さすが小洒落たもん食いたがるな笑 中目黒においしいところあるから、そこにしよう】

 ――乾の分際でデート申し込むのかぁ。

ウケる、と思ったけど金髪の女の子がふんぞり返ってOKしているイラストのスタンプを送る。サクサクとURLが送られてきて、【じゃ来週の火曜は? それか木曜】とすぐさま日時指定が来た。本気じゃん、と思ったけれど、茶化していないと途端に恥ずかしくなってしまう自分の方が焦っているような気もした。

【じゃ木曜】本当は火曜日も空いていたけれど、なんとなく照れくさくて木曜日にした。じゃあ十九時で予約取るから、と返ってきた。

LINEを閉じてメモ帳アプリを開き、今日の取材で思ったことや発見したことをバーッと箇条書きでメモしていく。なんか思ってたより楽しかったかも、と思ってしまって悔しかった。土曜日は朱莉さんと婚活パーティ潜入だ。給料激安いから絶対になりたくはないけれど、ライターもはまれば楽しいのかもな、とふと思う。

 

 朱莉

 街コンってどんな格好が無難なんだろう。

地味過ぎたら埋れるし、かと言ってキメすぎても痛々しい。自分一人だけ浮いて恥をかくだけならともかく、胡桃さんに見られるんだもんなあ、と思い、結局いつもの通勤服と変わらないようなコーディネイトになった。

 青山一丁目駅で待ち合わせると、先に改札を出ていた胡桃さんが大きく手を振った。大振りのピアス、ビビッドピンクのリブニットノースリーブに、黒いデニムのミニスカート、金色のサンダル。婚活っぽいとかモテそうだとかとはまた違うような気もしたけれど、自分の武器が何かをよくわかっている人のファッションだ、と思った。

「胡桃さんってお洒落だね」

「これみよがしな感じの服が好きなだけですよ。あと婚活ガチ勢からはウケが悪そうな服で行った方がいいかなって。あくまで今日はさくらだし」

 前回、取材として初めて会った時のジャケット姿の方がよほど落ち着いたOL風に見えた。きっと今日の胡桃さんが本来の姿なのだろう。

「朱莉さんもいい感じに婚活っぽい。でもフレアスカートじゃなくて前みたいなタイトスカートの方が似合うと思いますよ。華奢だし」

「そう?」直前まで悩んで結局履いてきたのはパリッとした素材の膝丈のスカートだった。

「もっと露出すればいいのに。二の腕細いんだからオフショルとかノースリーブ着るとか。上品で悪くはないけど、隠すのもったいないですよ」

 ここまでずけずけ言われるとかえって説得力があった。そうなのかな、と思いながらフレンチスリーブのブラウスの袖をつまむ。青山集合だというのでどんなリッチなレストランでやるんだろう、と思っていたけれど、【あんまラグジュアリーな感じじゃないんで気張った格好しすぎないでください 普通のデート服でOKです】と前日にLINEで胡桃さんから念押しされていた通り、会場は普通の居酒屋だった。店の前で待っていたスタッフに「予約してた根岸と白尾です」と胡桃が臆せず話しかけて、中に通してもらう。

 中には何人か女性がいた。「こちらの席にどうぞ」とその人たちとは別の席に通される。

「こういう婚活っぽいイベントに参加するの初めてかも」

思わず呟くと、胡桃さんは「えっ初めて⁉」と声を上げた。

「あーでも朱莉さんって彼氏切らしたことなさそう。しれっと替え馬用意してから用意周到に別れてそう」ずる賢い、と暗に言われている気がしてあまりいい気分ではなかった。

「そんなこと全然ない。彼氏いない時期も結構長かったし」

「ふーん、意外。あんまりがつがつ恋愛しよう、ってタイプじゃないんですね」

 続々と女性や男性が店に入ってくる。ほとんどの人がグループで来ていた。なんでこんな人が、というような身綺麗な女の人や女子大生のような若い女の子も多く、正直なところひるんでしまった。

「結構可愛い子多いですね」

「あー、確かに。イケメンは全然だけど女の人は結構レベル高い感じですね。まあその方がうちらが浮きすぎてさくら感出ないからいいけど」

 しゃあしゃあと胡桃が言う。なんでそんなに自信があることを隠さないのだろう、と面食らう一方で、これくらい堂々としていたら恋愛でみじめな思いをしたことなどないんだろうな、と気持ちがねじくれる。

続々と席が埋まっていく。正直、心躍るような容姿の男性はいまのところ目につかない。彼女できたことないんだろうな、というようなあからさまに非モテそうな男性こそ一人二人しかいないものの、人生で常にクラスカーストトップだったんだろうな、と思わせるような人は少しもいない。クラスで六番目から十一番目の男子を集めて大人にしたらこういう男性群になるのだろうな、と思った。始まる前から全く乗り気になれない。

胡桃さんも横で「あー……」と低い声で呻いた。「やっぱこういうレベルになるよね。仕方ないかあ」

「イケメンは街コンとか行かなくても彼女できるもんね」

「朱莉さんってどういう人がタイプ? 見た目で言うと」

「……なんだろ、背が高い人かな」朝倉君は百八十三センチだった。朱莉は百六十五センチあるので女性では背が高い方ではあるのだけれど、朝倉君は高さのあるピンヒールを履かせることを好んだ。

「いやー、百八十センチ以上の人この会場にいないんじゃないかな。日本人の平均身長ってこうしてみると低いですね。ま、私が言える立場にいないけど」

「こういうところに来る人って、普段から異性との出会いに餓えてるのかなあ」

「餓える、って」胡桃さんが喉を鳴らして笑う。「や、そこまで非モテツールじゃないでしょ。街コンってだいぶ市民権得てると思いますけどね。私もプライベートで何回か友達と来たことありますよ」

「うそ、意外。街コンで本気で彼女作ってそのまま結婚までいけたらいいなって思ってるような人と気が合うような気がしない」

「ちょっとー、一応潜入取材なのに始まる前から醒めすぎですって」胡桃が肘でつついてくる。「ま、わかりますけどね」

時間になり、スタッフが真ん中で説明を始めた。

「何人か遅れてくる方がいらっしゃいますがお時間になりましたので始めたいと思います。三人対三人で十五分歓談いただき、グループをローテーションしながら全員と話していただきます。最後の二十分はフリータイムになりますので、もっと話してみたい方や連絡先を聞きそびれた方はその時間に個別でコミュニケーションをとるようにお願いします。では、まず一回目、かんぱーい」

一拍間を置いてからかんぱーい、とまばらに声が上がる。胡桃さんの横にいるのは、どちらかと言えば胡桃さんに似た雰囲気の、幼い顔つきの女の子だった。どうやら街コンの時間中、この三人で固定らしい。

「じゃあとりあえず一人ずつ自己紹介から始めましょうか」

乾杯のあとうっすらとしたはにかみ笑いと探り合いの沈黙があり、黒縁めがねをかけた男性が仕切り始めた。あ、この空気就活のグループワークと似てるー、と胡桃がぼそりと呟き、くすくすとしのび笑いが生まれる。「じゃあタイムキーパーやりまーす」「グルディスって結局発表者が一番いいとこ持っていく説あるよな」と男性たちが茶化すように笑った。胡桃とその隣の女性は笑っているけれど、就活をしたことがない朱莉にはいまいち、何が面白いかまるでわからない。

「じゃあ俺から。斉藤哲です。二十九歳です。今は鎌倉の方に住んでて営業をしてます」

「休みの日はNetflix観たりたまにランニングしてます」

「一年くらい彼女がいないので初めて同僚と参加しました」

三人ともあまりこうと言って特徴も惹かれる要素もない。胡桃さんは「ヘ〜鎌倉! いいとこ住んでる〜」「Netflixは国民の義務」「え、なんの会社ですか」ときちんと相槌を打って会話を回している。なんだかバラエティ番組のMCとそのアシスタントみたいだ。朱莉や、エンジニアをしているらしい短髪でおとなしそうな男性は、「へえ」とか「そうなんですね」とあってもなくてもなんら会話の流れに支障のない相槌を打ちながらそれを観覧しているだけ。

「じゃあ私の番ですね。根岸胡桃です、二十四歳です。家横浜で出身は島根です。今は院生で、今日は隣にいる友達と一緒に来ました。好きなタイプは声が大きくて出世しそうなごりマッチョ系の男」

男性陣は胡桃さんの言葉に大げさなくらい手を叩いて笑った。え、こういう場が湧きそうなことを言わないとだめなのか、と戸惑っていると胡桃さんが脇腹を突いてきた。

「あ、えっと、白尾朱莉です。今年二十七です。生まれは川崎です。広告代理店で事務をしてます。よろしくお願いします」

とりあえず無難な挨拶で済ませる。何か質問が飛んできたらすぐこたえなければ、と構えていたけれど、仕切っていたMC役の男性が「へえ川崎なんだ」とうなずいたくらいだった。はい、とうなずいていると横の女性に移った。二十六歳でアパレル店員をしている、と自己紹介する。この固定の三人の女性の中で自分が一番年嵩か、と思うと少し滅入る。

最近Netflixでどんな映画が一番面白かったかについて、胡桃が男性陣に振る。「最近小津映画にはまってて〜」と真ん中の、茶髪だけどあんまり顔に馴染んでいない男性がしたり顔で話しだす。

へえ渋い、観たことなーい、とアパレルの女の子も胡桃さんも頷きながら聞いているけれど、彼の話ぶりは教養がある自分の演出、という感じが透けて見えすぎていまひとつ内容に集中できない。横の、さっきから全然話していないエンジニアの男性にいたっては、ずっとアップルウォッチの通知を気にしている。一体何しにきたのかな、と思ったけれど、ほかの人からしたら朱莉も「この人やる気ないのかな」「なんのために参加してるんだろう」と不可思議に思われているのだろう。

す、と身体から心だけがぽっかりと天井に浮き上がっていく感じがする。ヘリウムガス入りの風船を誤って手離してしまったみたいに。

――二時間半ずっと、こんな感じなのか。

そう思うとすでに帰りたかった。好みのタイプの男性もいないのだし、いっそ「酔いすぎちゃって」と嘘をついてでも会場を後にしたい。けれど、隣にいる胡桃さんにはきっと「馴染めなかったから席外したのかな」と見抜かれてしまうだろう。かと言って彼女ほどバイタリティーやコミュニケーション能力があるわけでもないので、自分から進んで話したり仕切ったりなどできそうにない。

一巡目の男性たちが隣のテーブルへ移る。せわしなく二巡目の男性たちが来る。不愉快になるほど容姿に無頓着な人がいるわけでも、ちょっと目を合わせるのも緊張するほどの美形がいるわけでもなく、たとえば実家の母に紹介したら「実直そうでいいじゃない」とでも言いそうな男性たち、という感じがした。友人が「この人と付き合ってるんだ」と紹介してきたら、きっとこの子を泣かせたりせず大事にしてくれるんだろうな、と祝福できる。とはいえ、いざ朱莉自身が彼らのうちの誰かに選ばれて付き合いたいか、と言われたら、ちょっと違う気がする。

とんでもなくえらそうだというのは自分でもわかっている。胡桃のように積極的に発言して男性陣にちやほやされている若い女の子ならともかく、さして自分が条件をあげつらねて値踏みするような立場にいないのだとわかってはいても、かと言って「え、休みの日自分でピザ作ったりするんですか、すごいですねー」とか「私もその映画すごい好きで何回も観ました」とか擦り寄るような態度をとることができるほど器用でもない。ずっと、自分の意識だけが居酒屋の天井の隅っこで冷めた顔つきで見回している。街コンに集中せず第三者のように観察するスタンスを取ることでしかほかの参加者に優越を保てないのだ。

五巡か六巡したあたりだろうか。

多少慣れてきて愛想笑いを浮かべて「すごいですねー」「そうなんだ」と気持ちよりずっと大げさにうなずくくらいのことはできるようになったあたりで、次のグループが来た。何気なく顔ぶれを確認して、朱莉は目を伏せた。あからさまな動作になってしまったとあとから気づいたけれど、いまさらごまかしようもない。

一人だけ、異様なレベルで顔の綺麗な男の人がいる。いっそ恥ずかしくて、自意識過剰とわかっていても直視できなかった。すると、隣で胡桃が素っ頓狂な声を上げた。

「うっそでしょ。谷澤さんですよね」

どうやら知り合いらしい。まさか元彼だろうか、と嫌な予感を抱きながら男性を見やるとわざとらしく顔を歪めた。顔を崩しても美形、と思いながら一挙一動を見守ってしまう。

「誰かと思ったらおまえかよ。くそ気まずいな」

えー知り合い? と場が一気に湧く。胡桃さんの方を見やると、「あ〜昔のバイト先の上司? みたいな」とこたえる。なんのバイト?と訊くと男性の方が「飲食だよ」とさらりとこたえた。なんて綺麗な目の色だろう。うっすらと翠色を帯びて明るく透き通っている。

「まさか谷澤さんが街コンって……地に落ちたもんですね」

「その発言、そっくりそのまま返すしなんならこの場にいる人全員敵に回してっぞ」

二人のやりとりにみんなが手を叩いて笑う。けれどどこか胡桃さんも谷澤さんも醒めたような目をしているのに気づいて少しぞっとした。谷澤さんと、彼と対等に口を利いている胡桃さんだけがこの場から浮いてほかのメンバーが背景としてかすんでしまっている。  容姿のインパクトとは裏腹に、谷澤さんの振る舞いはごくふつうの男性と変わらなかった。三十一歳でエンジニアをしており、一年ほど彼女を探している。趣味はジム。アパレルの女の子が、視線が食い込みそうなくらい谷澤さんを凝視している。こうなるのが怖いから自分は彼を見つめることができないのだ、と朱莉は思った。ほかの男性陣は女性の露骨な振る舞いに慣れきったのか、飲み物を頼んだり視線を逸らしたりしてやり過ごしていた。

「では、相席は以上となります。ここからはフリータイムですので、話し足りなかった方や連絡先を聞きたい方に積極的に話しかけてください」

みんなどこか照れくさそうな顔をして、居座りつづけている人が多い。谷澤さんは動かずにハイボールらしきグラスを傾けていた。

「連絡先ください」「私も。LINE交換してもらっていいですか?」

三十代前半くらいの二人組が果敢にもこちらのテーブルに来て谷澤さんに話しかけた。「どうぞ」とラフに谷澤さんがQRコードの画面を出す。

「わー、後でスタンプ送っておきますね!美奈子って言います」

「返すかどうかわかんないですけど見ときますね」

おどけたように谷澤さんが混ぜっ返す。やりとりを羨ましそうに見ている女性たちが遠巻きにしてちらほらこちらに視線を送っていた。

「さすがもてますね」女性たちが去ると、うんざりしたように胡桃さんが肩をすくめた。

「そらあね」

「返信返してあげるんですか」

「押し間違いでスタンプ送るくらいはあるかもね。でも基本返さないよ」

表情はさっきまでと変わらない愛想笑いなのに言っていることの乖離にぎくりとした。アパレルの女の子は少し引いたように「私お手洗い行こうっと」と席を外した。

「おまえはひとりで来てんのか」

「ううん。朱莉さんと一緒に来た」不意に谷澤さんの目がこちらに向けられどきりとした。

「そうなの? さっきの子の連れかと思ってた。実家が川越の朱莉ちゃんだっけ」名前、憶えてたんだ。心臓が野兎のように跳ねた。

「あ、そうです」

「何歳?」

「二十七です」

「それくらいがちょうどいいよね」にこりと微笑まれ、なんと返していいかわからず曖昧に微笑み返した。自分の顔があからさまに火照っていないか、それだけが心配だった。

「彼氏探してるの」

「んー……そう、ですね」

「LINE教えてよ」あまりにラフに言われて、冗談かと思って微笑んだまま黙っていたら、「俺自分から訊くときはちゃんと返すよ?」と目を覗き込まれる。

既視感にくらくらした。これではまるで、歓迎会での朝倉君の振る舞いとそっくりだ。

 谷澤さんはにっこりと笑ってLINEのQRコードを表示した。それを読み取りながら、このやりとりが新しい人生への入り口なんだろうか、とふと思う。

 胡桃さんは「へえ、二人でデートするんだ」と子供のようにぼそりと呟いたけれど、どこか不穏な面差しだった。嫉妬かな、と思って、初めて彼女に対して優越感を覚えている自分がほんの少し、後ろめたくも快感だった。


晴夏

 いやな予感はしていた。予感は的中した。部屋に入るなり、弓子さんはにやにやしながら晴夏を見ていた。何も言わないでほしい、と思いながらシーツの取り換えに入ると、「ねえ、クマとデートしたんだって?」と口火を切った。最悪だ、と口の中で聞こえないように舌打ちをする。

「あいついい歳して独身だし慣れてないから、つまんなかったんじゃない? 大丈夫?」

「いや、特に可もなく不可もなく、って感じでした。お鮨食べました」

「へーえ。クマってね、墨田さんみたいに地に足つけて仕事してるようなしっかりした女の人に昔っから弱いの。しつこくしてきたら私にちくってくれていいからね」

 なんだか告白を取り持つ中学生のようだ。妙にテンション高いな、と思いながらもてきぱきとベッドメイキングした。それにしてもなぜ弓子さんに話したのだろう。結局幼なじみとの会話のたねのために食事に誘ったのではないか、と邪推がよぎって苦い唾が湧いた。

 退勤後に新宿駅で落ち合うと、熊藤はや、というふうに軽く手をあげて「今日は暖かい日だったので、さっぱりしたくて和食にしました」と歩きだした。好奇心や野次馬根性が働いたわけでもないのになぜ名刺の電話番号に連絡してしまったのだろう、と思いながらついていった。

 彼がとっていたのは鮨屋だった。向かい合わずに済むことにほっとしながら席に着いた。

「まさかあんなところでお会いするとは夢にも思いませんでした」

「ですね」初対面の食事から一週間も経っていなかった。それが二週間だったら、もしかしたら記憶が甦らなかったかもしれない。あるいは素知らぬ顔をつくれたかもしれない。さすがにそのふりはできなかった。熊藤の容姿が特徴的なせいもある。

「熊藤さんって弓子さんのこと好きなんですか」

「へっ」

他人のしめっぽい思い出を遠回りしながら聞く気分ではなかったので注文もしないうちに直球を投げたものの、飛ばし過ぎたらしい。すっとんきょうな声をあげて熊藤は三秒固まり、「とりあえず頼みましょう。コースにしましょうか」と何事もなかったかのように店員を呼び止めた。

「墨田さん、日本酒は好きですか」前回に比べて、いやにスマートで面食らった。初回でのマニュアルに従順すぎる言動は演技だったのだろうか、と思うほどに。

「詳しくないですけど、飲もうかな。辛すぎなければなんでも」

 わかりました、と熊藤は冷酒を二合頼んだ。涼しげなガラスのおちょこは赤や橙や金色、いろいろな暖色が粒になってちりばめられて、テーブルに置くと水中で咲く花のように影がゆらめいた。

「結論から言うと、別に恋仲ではないです」

「ふうん」

「なんていうのかな。ええと、弓子は僕しか知らないんです」

 一瞬下世話な想像がよぎった。むっちりと冷たい烏賊を噛み切りながら眉根を寄せていると、「違うんです」と沈黙を正確に読み取った熊藤が慌てた声を出した。「なんというか、そういう意味ではなくて人間関係において、長期的に続いているのが身内以外で僕しかいない、って意味です」

 言われてみれば弓子さんの見舞客は大概両親か姉とその夫、姪らしい女の子くらいだ。いちいち患者の見舞客の傾向を把握できているわけではないにしろ、あまり多くはない、と言うのが正直な印象だった。

「だから、弓子は僕を通して世のなかを知ろうとしてるふしがあって。いろいろ根掘り葉掘り聞かれたませんでしたか? 不愉快にさせたらすみません」

「はあ」熊藤とのことでなくても、弓子さんはよく晴夏の婚活の進捗やデートの感想をせがんだ。ミーハーで人をからかうのが好きな人なんだな、くらいに流していたけれど、弓子さんからしたら、男女の生臭い恋愛のあれこれはファンタジーに近いのかもしれない。初めてその可能性について思いをはせた。

「弓子さんと熊藤さんが私と同じって言ってたの、あれなんだったんですか」

 熊藤は虚を突かれたように少し黙ったあと、「ああ……」と呟いた。「正確には、同じではないんですけどね。弓子は僕以外に人間関係がほとんどないから、僕を世界のすべてだと思ってるふしがあるんです」

 まじめくさった丸顔で熊藤が言うと、ちぐはぐな印象を与える言葉だった。まるで王子みたいなことを言っているな、と思った。

「普通、そういうこと自分で言いますか」

「不遜に聞こえたらすみません、でも、墨田さんならわかるでしょ。最近に関して言えば、弓子のことを僕より見ていたわけだから」

 わからないこともない。彼女の入院は一時的なものではなく、持続的なものだ。人生のほとんどの時間を自宅と病室で過ごしているとなれば、唯一の幼なじみとの会話から外の世界を吸収しようとするのは自然なことかもしれない。

「僕からすれば気のおけない旧友の一人でしかないけど、彼女からしたら僕しかいない。――それって、人間関係としてすごくいびつだと思いませんか」

宝石のように輝く牡丹海老の握りを指でつまんで口に放り込む。噛みしめるたびにやさしい甘さがあふれだす。来たのは初めてだけど、どうやらとてもおいしい鮨屋さんみたいだ。この人は本当はデートがうまいんじゃないだろうか、と思う。

「それが、私と誠との関係に似てるって意味ですか。あ、婚約者の名前ね」

「はあ、そういうことです。墨田さんほど宗教的じゃないですけど、物理的に他の人が介入しないから、弓子は僕のことを唯一と思いすぎているわけです」

「惚気ですか」

「違いますよ。恋だったことはいちどもないです。弓子が間違えたことはありますが」

 なんとなく察しはつく。たとえ見た目がひょうきんな熊藤とはいえ、歳の近い異性が一人しかいなければ、身体の内側を灼くような感情の行き場として矛先を向けてしまうかもしれない。思春期であれば、なおのことだ。

「弓子の感情は恋ではないとわかっていながら人間関係を続けたのは、僕の過失です」

「よくわからないけど、付き合っていた時期もあるってことですか」

「僕としてはそのつもりはなかったけど、弓子からすればそうだった時期もありますね」断定を避けた曖昧な言い差しだった。ふうん、と呟きながらガリをつまんだ。涼しい風がほんのりとした辛味とともに口の中を走る。

「それって好意の搾取じゃないですか、残酷だなあ」

わざと熊藤を傷つける言い方を選んだ。そうですね、と間を置いてから返ってきた。

「じゃ、熊藤さんは弓子さんのせいで結婚できないんだって思ってるんですね」

  熊藤は鮨に手を伸ばしたまま、哀しそうに顔を歪めた。

「いえ。それは僕の意思ですから」

それよりあなたの話を聞かせてくださいよ、と熊藤は声の調子を変えた。取り繕ったようなくだけた声音に、なんとなくかちんときて「前回話したら怒って帰っちゃったじゃないですか」と言い返す。

「すみません。あの時はデートとして力みすぎて、受け入れられませんでした」

「ふうん」自分のことを好みだと言ったのはおべっかでもないのかもな、とふと思った。

「元婚約者の方はフリーなんですか」

「まさか。もうとっくに会社の同僚と結婚して三年目ですよ」

一瞬間があった。あちゃー、と熊藤は口だけを動かした。はいはい、と流す。

「それなのにまだ好きなんですか。もう何年も会ってないんでしょう」

「忘れるなんて無理です。だって生きてるし」

「その人が?」

「違います」しっとりと濡れた漬けマグロを噛み切る。冷たさが舌に心地良い。「私がです」

熊藤は黙ったあと「あなたにとってその人は神様なんですね」と言った。黙っていた。

「思い出にすがりながら生きるのは苦しくないですか」

「苦しいけど、自分の感情って選べるわけではないから」

「なんで別れたんですか」

 適当に嘘をつこうかとも思ったけれど、「浮気してたのがばれたから」と正直に答えた。熊藤が顔をしかめる。

「なんですかそれ。好きだったのに浮気したんですか」

「好きだったからこそ、裏切られる前に裏切ったんです。いま思えばそんなことしなくても誠は一緒にいてくれただろうけど、信じきれなかった」

 熊藤は黙ってお冷を啜った。理解できない、とでも思っているのだろう。それはそうだ。晴夏だってあの頃、自分が何をしたいのか、よくわからなかった。

「案のじょうばれて、婚約破棄に至ったってわけです」

「こわかったんですか」

 わからない、とこたえた。誠がずっと自分なんかのことを好きでいてくれるのだろうか、ほかの若くて見た目が可愛い女に目移りされないか、急に夢から醒めた顔で別れを告げて自分の元を去っていくのではないか。七年も付き合っていたのに、その懸念はずっと、翳のように自分の視界にあり続けた。そんな長いこといてよく停滞期にならないね、と由季子をはじめ大学の同級生たちは言ったけれど、まんねりになるどころか、ずっと、ずっと不安だった。好きな男と付き合う、ということがこれほど恐ろしいことだとは、思ってもいなかった。

「熊藤さんは、この人みたいになりたいって思ったこと、ありますか」

「恋人に対して? いないですね。たぶん、友達とか同性に対しても思ったことがない」

「私、誠の隣にいたいというよりも、誠みたいになりたかったんです。ずっと」

「尊敬していたってこと?」

「すこし違う。誠そのものになりたかった」

 誠のようにまっすぐで、誠実で、頑固で、嘘がつけなくて、志を曲げなくて、誰からも好かれる人間になりたかった。絶対になれないとわかっていてなお、最も近くにいる恋人に対して、尊敬よりも憧れよりも激しい焦燥感を抱いていた。そしてそれは、別れてからなお強く自分の中で燻っている。

 熊藤は少し黙った後、その人みたいになりたい、って感情は恋でも愛でもなければなんなんでしょうね、と言った。晴夏は黙っていた。七年経っても、誠みたいになりたい、誠みたいに生きることができれば、と胃の底が灼けつきそうなほどこいねがっている。

 はたしてこれってデートなんだろうか、こんなに暗いのに、と思いながら、運ばれてきた雲丹軍艦に手を伸ばした。小さな夕焼けのように鈍い金色に光るそれを口一杯に頬張る。

 

胡桃

思えば夜職をしていた同僚と昼間に会うのは初めてだった。

「明るいところで見ると谷澤さんってやっぱ異常なレベルで男前ですね」と感想を述べると「モモは店にいるときの方が乳をやたら強調した服着てたから、私服着てると少しは賢そうに見えんのな」とのたまった。

「っていうかモモが街コンとかウケるな。おまえそういうの一番バカにしてそうじゃん」

谷澤さんが意地悪そうに笑う。「谷澤さんにだけは言われたくない」と言い返すと、肩をすくめる。

【このLINEまだ使ってますか? 婚活してるんなら今度デートしてくださいよ】とメッセージを打つと、即既読がつき【来週の火曜日の昼間なら。渋谷でいい?】と返ってきた。清々しいほどのテンポの良さは、黒服時代から何ら変わりない。渋谷のエクセルシオーレでカフェラテをすすっていると、真っ黒いスーツに身を包んだ谷澤さんが現れた。恐ろしいほど似合っていたものの、場から浮いていた。

「俺は意外と堅実に将来設計してるタイプだから。三十前には結婚して嫁と子供を守るような暮らしがしたいのよ」

「っていうかいま何の仕事してるんですか。街コンで言ってたエンジニアって嘘でしょ」とたずねると、「家電量販店の店員」とこたえる。思わず噴き出した。

「冗談はいいから」

「いや、マジだって。プリンターとか売ってる。俺中国語ちょっとだけ話せるからわりと重宝されてるよ」どうやら冗談ではなく本当に販売員として勤務しているらしい。腕どころか鎖骨まで刺青が入った、強面の谷澤さんがカラフルな社服を着て「いらっしゃいませー」と笑顔を振りまいているのかと思ったら笑えた。「いやなんで家電……」と呟くと、「携帯ショップと迷って、こっちが先に内定出たから」としれっとこたえる。

「真昼間の仕事じゃん。めちゃくちゃ方向転換しましたね」

「ほんとそれよ。黒服の仕事辞めてから二、三キロ太ったもん。俺ストレスで痩せるタイプだったんだなってやめてから知ったわ」

 なるほど、鋭すぎる眼光が柔らかくなったのは、肉づきのせいかもしれない。やくざにしか見えない、とキャストにからかわれていたけれど、爛れたような色気があっていつだってキャストの方が横恋慕して振り回されていた。

「おまえ二十三とか四とかだろ? 婚活はまだ早くね? あれ街コンにしては結構ガチなコンセプトだったじゃん」

「そうだけど、早いに越したことないじゃないですか。あと、一緒に行った人がわりと本気で結婚したがってたから、そういうイベントの方があってるかなって気を遣って選んだの。正直私は付き添い。したら谷澤さんがいるから度肝抜いたよ」

「あの細いワンレンちゃんね。何の友達? モモと接点ありそうには見えなかったけどな」

「朱莉さん。まあ新しいバイト先でたまたま会ったって感じです」

「あの子ね、二回目でやらせてくれたよ」

ぱちんと平手打ちでもされたみたいに目を瞬かせてしまう。朱莉さんとあのあとデートしたんですか、良い感じですか、と訊こうした矢先にあっけなく結末を言われ、思わず「うそ」と呟いた。

「俺ハーフ顔が好きだからああいう薄い顔の子あんまりタイプじゃなかったけど、まあ綺麗は綺麗だしすぐなびいたから一応デートもしたけどさ、あれはだめだな。婚活でぼろぼろになるタイプだな」

谷澤さんは家電量販店のサラリーマンではなく、スカウトで連れてこられた女の子のランクを見定める女衒の顔つきをしていた。残虐な口調に心が痛まないでもなかったけれど、朱莉さんをどう評しているのか、彼の前でどう振る舞っていたのかどうしても気になって「え、なんで。どういうところが?」と好奇心に負けてうながしてしまう。

谷澤さんは「んー」と低く唸った。「本当は自分はこんな場所に来る必要はないはず、みたいな感じがびしばし出てるじゃん。ああいうタイプってプライドごりごりに高すぎて『いいな』って思った相手がいても自分からは絶対声かけたりアプローチできないんだよ。来た人の中から選ぶくらいはしてもいいけど自分からはてこでも動かない、みたいな謎の張り合いが透けて見えすぎ」

――こういうところに来る人って、普段から異性との出会いに餓えてるのかなあ。

――マッチングアプリってなんか、あんまりしようって思えなくて。だって、できたら普通に出会いたいし。

――街コンで本気で彼女作ってそのまま結婚までいけたらいいなって思ってるような人と気が合うような気がしない。

そのときは聞き流していた朱莉さんの発言をひとつひとつ思いだす。気乗りしないのは胡桃だって同じではあったけれど、それにしたって朱莉さんは露骨だった。いっそ顔ぶれが全然かっこいい人がいなくて、「やっぱり」と静かに呟いていた横顔は、いっそ安心しているようにも見えた。自分が付き合いたいと思うような人間はこういう場所には来ない、だから今後も街コンに自分が足を運ぶ必要がない、そう確認しているようにも見えた。

「けど、そういう斜にかまえて婚活してる女って、アプローチしても全然かっていったら逆なんだよね。おっかないくらいすっげえ食いついてくる。あの子まだ二十七だろ? 結婚への焦りが半端なかった」

思った以上に谷澤さんの批評は容赦ない。いたたまれない気持ちでいっぱいになる。

「まあ気持ちはわからないでもないけどね。たいして収入もなくて、将来設計もあやふやで、アラサーで、ってなったら俺だって焦るだろうな。つーか俺だって誰でもいいから今すぐにでも結婚したい、ってひよることはあるよ」

「谷澤さんが? うそでしょ、ありえない」谷澤さんはひひ、と猫のように笑った。子供じみた柔らかい笑みに、性根を知っていても強い引力でぐっと胸が惹きつけられる。

「たまにはね。孤独で道端で急に泣きたくなることとかね、ないわけでもないよ」

「ぜんっぜん想像つかないんだけど。メンタル鋼のように強いんだと思ってた」

谷澤さんは「見えないっしょ?」とにやりと笑って細い指で顎を撫でた。

「そりゃそうよ、少しでもかぎとられたらもてなくなるもん。結婚なんか全然考えてない、する気もない、ってふるまってた方がもてるんだよ。男も女も」

「でも本当は結婚したくてしたくてたまらないの?」

「別に。まあダチの結婚式に出たときとか甥っ子と遊んだときとかは、帰ったら嫁がいたらなあ、くらいは思うよ。俺も人の子だからね」

元黒服の思っても見ない面にくらくらする。実は誰かと暮らすことを望んでいると明かして心の隙を見せる、それ自体が彼の策略なのだ。もしかしたら自分にしかこういう面は見せていないのかも、と一瞬錯覚しそうになる。

それなりに場数を踏んでいて、かつ同じ業界の同じ店で働いていたから残忍な性根を知り尽くしている胡桃ですら騙されそうになるのだ。ましてや朱莉さんは、彼がガスボンベの火加減でも替えるように醸し出す色気にひとたまりもなく心を炙られたに違いない。

「今度ランチ行きましょうよ、俺白尾さんみたいに綺麗で芯がある女性好きなんです、とか適当言ったら次の週の土曜日さっそく指定されてさ」

「あえてじらすとか暇なことを知られたくないとか小細工しないタイプなんだ。っていうか朱莉さんって一番芯がないタイプでしょ」思わず突っ込むと、「おまえもなかなかだな」と谷澤さんは眉根を寄せた。「人を褒める時は全然逆のことを言ってやると簡単に心くすぐれるからな。そっからはもう、秒よ」谷澤さんが軽く手を振る。何気ないしぐさだったけれど、蠅でもはらうような、酷薄な動きに見えて思わずびくりとする。

「谷澤さんいまどんな仕事してるんですか、土日休みですか、いつまでに結婚したいと思ってますか、って質問のオンパレード。いやそれは全然いんだけどさ、もう交際がきまっているかのような口ぶりなんだよね。婚活ガチ勢よりの街コンで声かけてくる男はイコール自分との結婚を考えている、みたいな図式ができあがってるんだろうな。まあそういう人もいなくはないだろうけど、俺もそこまで相手に困ってるわけではないし」

「そもそも谷澤さん、いま彼女いないんですか」

ふと疑念が湧いて尋ねると、邪気のない笑顔で「いま保険屋のねーちゃんと同棲してる。あと商社のバリキャリと付き合ってる」とこたえる。一瞬でも彼が吐露した心の翳った隙にぐらついた自分をおろかだと思うのと同時に彼のぬかりのなさに呆れた。

「保険レディとは結婚しないの?」

「どうだろ。向こうはしたがってるけど、そこまで急ぐこともないしなって感じ。不思議なことにねえ、結婚しようかなと思ったら思ったで、急に一人に決めるのが惜しくなってきたんだよね。だからもうちょっとだけふらふらしてようかなって」

 思わず細く、息を吐いた。何が恐ろしいって、この人が特別貞操観念がゆるいわけでも誠実さに欠けるわけでも女にだらしないわけでもないのだ。息を吸って吐くように異性をとっかえひっかえする種類の人間はそこいらじゅうにいる。というかだいたいそうだ。夜職を少しでもかじったり人並みに遊んだことがある人なら、あたりまえのように熟知して、その上で人を選んでいる。

「結婚しなきゃ、って焦りは人一倍強いのに、婚活してます! って堂々とふるまったり活動的になれるほど吹っ切れてない人ってさ、つんけんしてるように見せかけて隙だらけだから、少ししたてに出て懐に飛び込むと一瞬で心ひらくんだよな。何の手ごたえもないからなんも面白くないね。二回目はねーなって思ったけど、彼女が夜勤でいないときに思いついて『よかったら家で一緒にワイン飲まない?』ってLINEしたらチャイム鳴ってさ、俺びびったよ」

「……朱莉さん、家来たの? でも会うの二回目でしょ?」

ありえない、と呟くと「あの子モモが思ってるよりずっと経験ないよ。超丸腰だもん」とにべもない。

「ワイン飲みながら、いけんのかなと思って『キスしていい?』って言ったら子供みたいに目見開いてさ、でもそういうの隠さないとって一瞬で能面みたいに無表情に戻って『いい、ですけど』って。ぶっきらぶらぼうな演技しろって言われたからしました、みたいな。まあ建前上拒みつつではあったけど、完全にポーズだったね。あっけなさすぎてしょうもなかった、家に呼ぶまでもなかったわ」

好きな男の人に二年もセフレ扱いされていた朱莉さんのブログを思いだすとどうしようもなく息が詰まって苦しい。野次馬根性で聞き出してしまったことを、うっすらと悔やむ。

「いまはもうやりとりしてないの?」

「家帰したあと速攻ブロックしたよ」

予想とたがわない即答に、黙り込む。きっと朱莉さんは半狂乱になったはずだ。街コンに対してどこかばかにするような態度で、気乗りしていないことを隠そうともしない態度に鼻白みはしたけれど、失恋を引きずっているのが傍目にも痛々しかったから見て見ぬふりをした。いっそ注意してあげた方が朱莉さんのためになったのだろうか。少なくとも、ざまあみろと思うような気持ちはどこにもなかった。

「……朱莉さん、本気で結婚したがってるんだけどな」

「わかるよ。だってああいう人って若さと見た目しか武器がないじゃん。たったいま失っている渦中にあるしね。自分でそれをよくわかってるからこそみとめたくないんでしょ」

「でも、美人だよ?」

「ああそれはね。でもモモみたいに自分で考えて動いたりはったり打ったり仕事でばりばり生計立てて自己投資もばんばんする、みたいなこと無縁でしょ。若くて可愛いだけで結婚相手に選ばれたいなら、二十五までには男捕まえないと無理だね。同じ条件なら二十歳そこそこでも結婚市場にいはするんだからね」これ以上聞くべきではない。わかってはいるのに、もっと谷澤さんの辛辣な分析を引き出したいと思っている自分がいる。

「遊びで婚活やってみて思うけど、キャバ嬢でもラウンジ嬢でもない普通の一般職のOLの方が鬼のようにプライド高いんだなって思うよ。っていうか夜職やってるとどんな絶世の美女でも客にこき下ろされてプライドなんかばっきばきに折られるような経験山のようにしてるからね。若くて綺麗な子と比較されまくるのが茶飯事だし」

散々味わったことなのでしかたなくうなずく。

「そういう子の方が世間での自分の正確な評価を弁えて自分のレベルと現実に正確に点数つけて相手選ぶから、結婚しようと決めたら一瞬で決めるよ。でも朱莉ちゃんみたいなタイプはそれが全然できないんだろうなあ。ちやほやされた経験があるっていうよりも、むしろ逆なんだろうな。値踏みされたり自分の現実の点数を突きつけられたことがないのかもね。全然遊び慣れてなかったし」

「……朱莉さんとはもう、連絡取らない?」

谷澤さんは「イエス」と大きく頷いた。「っていうか、向こうもそんなに俺のこと引きずってるとかはあり得ないと思うよ。俺の刺青見てまっとうにひいてたもん」

「あー。朱莉さんってそういうの隠せなさそう」

思わずだらしなく笑ってしまう。そうそう、と谷澤さんもうなずいた。

「だからどっちにしろ、向こうは向こうで俺のこと『ナシ』判定してるってわけ」ピンと指を弾く。架空のゴミを飛ばすように。

「あの人ね、二年くらい好きな人のいいようにされてたんだって。その人と完全に切れたから、婚活に踏み切ったみたい」

「あ〜」と谷澤さんはゲームの攻略のヒントがわかった子供みたいにはしゃいだ声を上げた。「わかる。そんな感じするわ。二年は長すぎるな」

「でもプライドが高いんだとしたら何でそんな男に二年も費やしたんだろ」

「逆だろ逆。プライド高いからこそ切れないんだよ。自分から切ったら敗北決定だからな。やっぱり自分は本命にしてもらえる人間なんだって思いたいってことだけに執着しすぎてたんだろ。その男本人っていうよりは」

核心を突かれたようでどきりとする。

おそらく谷澤さんは朱莉さんをいいようにしていた男とおんなじような恋愛を繰り返しては女を使い捨てしてきたのだろう。寒い日に自販機でカイロ代わりに缶コーヒーを押すみたいな気軽さで。手を温めるだけ温めて、中身を味わうかも決めずに。

「これからも一緒に婚活すんの?」

「どうかな……友達っていうには付き合い浅いけど、それくらい薄いつながりの方が一緒に活動するにはかえって気楽なのかも。街コンはもう行かないかな、効率悪すぎるから」

「それは同感。モモがどう男選んでるか知らんけどさ、朱莉ちゃんは面食いをやめれば速攻で結婚できる程度には条件悪くないと思うよ。俺レベルはまず無理だけどね」

「でも家電販売員でしょ」すこしでも反撃したくて言い返すと、谷澤さんは肩をすくめた。

「まあね。昼職ってマジで端た金しか稼げないのな。でもそれ本業じゃないから。俺今ホスト経営してるんだよ。これは付き合ってる子にも言ってないけどね。ひもですから」

だったら稼ぎは黒服時代よりずっといいのだろう。「全然人の子じゃない」と悔し紛れに呟くと「俺、顔に恵まれただけじゃなくて金儲けの才能にも恵まれたみたいなんだよね」と腹立たしいほど整った顔でからりと笑う。

「モモはまだキャバやってんのか。もう大学卒業したか?」

「まだ学生だし、キャバもやってる。就活も終わってない」

「ま、せいぜい頑張れよ貧乏人」

うっさいと腕をはたく。じゃあ、と五千札を残して谷澤さんは立ち上がった。餞別のつもり? と言うと「お前、痩せすぎ。なんか甘いもんかすき家で牛丼でも食え」と言って店を出て行く。やっぱり手練れてるわ、とあきれながらも、悪い気はしない。

店員を呼んでメニューをもらった。この中で一番カロリーが高いデザートを頼もう、と写真に目を凝らす。

【選考結果のお知らせ】――ふいに携帯画面が光り、すばやくタップしてメール画面を表示させた。そうだ。忘れていた。第一志望の出版社の選考結果が出る日だった。目が走る。

【厳選なる選考の結果『不採用』という結果となりました】――あまりに一瞬で自分の結果を把握してしまい、長いことメール画面を見つめたまま動けなかった。

 どうして、と口に出して呟いたものの、落ちたものは落ちた。ただそれだけだ。

 心臓がどかどかとせわしく体当たりを繰り返す。身体の内側を冷や汗が滝のように垂れて滴る。受かるものと思っていた。元々今年の就活は絞って選考を受けている。残っている手札は、結果待ちの出版社がいくつかあるけれど、あてにできない。

 思っているよりも自分の頭が真っ白になってフリーズしていることにショックを受けながら、暗くなっていく携帯の画面を見つめる。

 どうする。


朱莉

 風景がやけにのっぺりして見えて、強くまばたいてみたけれど何も変わらなかった。

 脈絡もなく、昔夢中になって遊んでいたリカちゃん人形のドールハウスを唐突に思いだす。簡易なテーブルやベッドがくっついているだけで、あとは床にカラー刷りで家具が立体的に描き込まれているだけだった。あんなふうに目の前を動く人びとが風景と一体化して平面的に見える。それとは逆に、耳に流れ込んでくる音楽はやけに誇張されて飛び込んできてくる。

 通勤時間の山手線は想像以上に出入りが激しい。ホームに並び、電車から大量の人たちが押し出されて後ろへ去っていく。前の人の動きに従って車内へ乗り込み、居場所を守る。一分おきに聴こえてくる駅の発車メロディ、駅員のアナウンス、誰かのおしゃべり、携帯の通知音までが鮮明に、耳に飛んでくる。いっそイヤフォンをして耳を塞いでしまいたかったけれど、混み合った車内では鞄の荷物を取り出すどころか身動ぎするのも無理だった。じっとお地蔵さんのように固く目を閉じる。

 目白駅で降りて、改札を通る。相変わらず視界に映る立体的なものすべてが、やけに距離感が遠い。手を伸ばしても透き通って擦り抜けてしまうようで、リアリティを感じられなかった。誰かが用意した精巧な3Dの世界を歩いているような。

 ふわふわとした足取りで帰路へ向かう。そういえば冷凍庫のものを解凍するのを忘れていたからスーパーに寄って肉か魚でも買おうと思っていたことを思いだす。今朝までの自分といま仕事を終えて帰路を歩いている自分が延長線上できちんとつながっている、ということが信じられない。ほんの、十時間しか空いていないというのに。

たったいま通り過ぎたスーパーに戻って何かを買う気にもなれず、アパートへ向かう。誰かに意を操られているみたいに、あるいは平面のエスカレーターにでも乗っているみたいに、するすると道を歩く。二年近く住んでいて、いつもと同じ風景なのに、全く違う世界のように思えた。違う惑星に朱莉が住む街をそっくり作って、そこを知らずに歩いているような奇妙な感覚。我ながら中学生のような妄想だと思った。

 部屋に着く。明かりもつけずにラグの上にへたり込む。身体と床がくっついて、ようやく、現実味を取り戻すのを感じた。のろのろと携帯を取りだす。

【そうか。とにかく、お疲れ様。今後のことはあとで考えるにして、今日はゆっくり休んで。もし俺にできることがあるなら協力するから】

 目を閉じる。涙が出るかと思ったけれど、何もにじむものはなかった。泣いている場合ではない、と身体の方がよほど冷静にいまの状況を判断しているのかもしれない。

 朝礼の終わりに、部長から「一時に会議室取ってるから昼休みの後に来てほしい」と声をかけられた。一瞬どきりとしたけれど、正社員登用のことかもしれない、と思ったら胸がひゅっと高い位置に浮き上がった。わくわくしつつそれを同僚に読み取られないように表面上は静かに業務に携わった。自分の脳天気さと愚かさが、いま思うと寂しくて哀しい。

 けれど、昼休みが明けて二人で向き合った部長が重々しく言い放ったのは、正社員登用の件ではなかった。

「白尾さんの契約だけど、来月で終了することになった」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。正社員として立場が変わるからだろうか、とこの期に及んで自分の都合の良いように考えてしまった朱莉に、平手打ちのような言葉が脳を直撃した。

「君、時々業務時間中に別の作業に没頭してることがあるだろう。残念だけど、上司の三村さんから何回か報告があって、白尾さんの契約更新は見送ることになった」

ぐらり、と身体が傾きそうになった。椅子の背もたれが朱莉の身体を受け止める。たまに、眠くてたまらないときや作業が空いた時、ブログを書いていたことがばれていたらしい。恥ずかしさで胃がよじきれそうだった。

「クビ、ってことですか」

自分の声が、口からではなく天井から漏れ出ているみたいに遠くで聞こえた。

苦々しく部長がうなずいた。そのあとさばさばとつづいた保険証の手続きや失業保険や引き継ぎなどの事務的なやりとりは、あまり覚えていない。

【今日、部長に呼ばれて来月で契約満了って言われた 更新ないから来月から無職になるみたい】ためらう余裕もなくトイレで朝倉君にメッセージを送ってしまった。親でも友達でもましてや同僚でもなく、このことを明かせるのは朝倉君以外思いつかなかった。

 無視されるだろう、と思っていたのに、きちんとねぎらいの返信が来た。【ありがとう あまり考えられないから今日は早く寝ることにする】とだけ送った。

 ――どうしたらいい。

 ラグにぺたんとお尻をつけたまま、Googleの検索窓に【契約社員 契約】と打ち込んだところで、契約満了、契約解除と予測変換が浮かんだ。契約解除の方を選んで検索する。

 ざっと読みあさって、要は自分は仕事ができなくてさぼったりもする不届き者で会社に不要な人材と判断されかたら契約満了かつ更新なしを言い渡されたらしかった。会社に不当なところは何もない。

契約社員に関する掲示板を開くと【仕事ができない無能な奴に金出せるほど今の時代景気良くない】【仕事できないなら介護職でも飲食でも風俗でも行ってどーぞ】と罵詈雑言が飛び交っていた。直視できなくてすぐに閉じた。

 貯金額は四十万程度だ。幸い家賃は先週払ったばかりだからすぐに出ていくわけではない。だとしても、いつまで六万九千円もの大金を無職の身で払えるかはわからない。

 這いずってベッドに入った。空腹ではあるのだけれど、夕食など作って食べる気になれなかった。着替える気にもなれなかったけれど、それなりに気に入っているシャツとスカートを朝選んだことを思いだし、自分を介護するような気持ちで服を脱ぎ捨てた。下着だけで布団の中にもぐりこむ。コンタクトも剥がして床に捨てようと思ったけれど、ツーウィークのコンタクトを自分の怠惰で捨てられるほど今後の生活には余裕もないのだと気づいて、のろのろと身を起こした。スマホの明かりを照明代わりにして立ち上がり、コンタクトレンズを外して洗浄液に浸けておく。そのままベッドに戻りたいのを我慢して、ついでに化粧を落とした。布団に潜り込む。カメのように首だけ布団から突き出して携帯を見たけれど、朝倉君からの連絡はとくになかった。

 あれ以上、返しようもないだろう。業務中にメッセージを送った時は頭が真っ白だったとは言え、一応は別れている女から【契約の更新がない】と連絡が来たところで、要領が悪いなとか仕事ができないからだろとか、そういう感想しか出てこないんじゃないだろうか。彼がどんな気持ちであの連絡を読んだのかと思うと恥ずかしくて舌を噛んで死にたくなる。底意地も素行も悪いけれど、朝倉君は仕事の面ではとても優秀だった。

 でも、ほかの誰にこのくだらない状況を明かせるだろう。結局は自分が悪いのだ。余計に羞恥といたたまれなさがカッと喉元までせりあがってきた。上司と部長や課長の間で朱莉についてどんな会話が繰り広げられていたのか、考えたくもなかった。

 眠たさなど一ミリも押し寄せてはこない。けれど、思考をシャットダウンするためだけに無理やり目を閉じる。

 朝倉君と別れてからまだひと月しか経っていないのに、失恋を上回る絶望がまだあった。現実的なことを考えれば、今回のことの方がよほど人生に直接的な打撃をあたえている。社会人七年目にして、クビ。貯金もない。恋人もいない。学歴もない。資格もない。最悪実家を頼ることも選択肢に入れなければいけないのだろうけれど、義理の両親の介護に骨を折る母のことを思うと、到底自分のていたらくを明かせそうにない。お金がないのは実家だって同じだ。何も考えたくない。


 尿意を感じて目が覚めたのは朝の三時だった。お手洗いに行くために身体を起こす。

完璧に目が覚めてしまい、ベッドに戻る気もなくてクッションを抱えてラグに座り込む。寝汗が引いて、少し寒かった。タオルケットを肩にかけて肌を隠す。朝特有の薄青い部屋は、物音でも立てればぱりりとひびが入りそうな繊細さでしんと静まり返っている。

 絵に描いたような現実逃避をしてしまった。一ヶ月後にはどうしたって職を失う。それまでに、何を自分はしなければいけないのか、きちんと把握しなければ。

携帯を引き寄せて転職のアプリを探して登録した。契約社員に特化したそれは、扶養内でパートを探す女性のための求人アプリだと気づき、なきたくなった。まあなんでもいい。時給で働く方がすぐに内定は出るだろうし、正社員の内定なんてそもそも出ると思っていない。事務職や受付、内職などいろんな条件の求人を眺めているうちに、初めて楽観的な気持ちが芽生え始めていることに気づいた。

 こんなに職があるんだし、何かには引っかかるに決まってる。いままでもそうだったし。

 履歴書を買い、証明写真を撮って、条件が良さそうなところを探そう。そんなに悲観する必要なんてないはずだ。無一文と言うわけでもない。

 痛み止めを飲んで、もういちど布団の中に潜った。効き目が出始めるまで痛みに気を取られて眠れなかった。

〈9月8日

 契約満了につき一ヶ月後に会社を辞めることになった。

 ショックのせいか生理まで来てしまった。心身が物理的に重い。

 長いこと眠っていたら朝のこんな変な時間に目が覚めてしまった。眼球が乾いている。なんだか早く生まれすぎたあかんぼうみたいに、よるべない気持ちだ。

 転職活動自体は初めてではないし、自分の人生を見つめ直す機会だと思うことにする。

 今はまだ、現朝靄に包まれているみたいに頭がぼんやりしている。悪い方向にばかり想像が働かないように、意識的に食いとめている。

 転職アプリを2年ぶりに登録する。テグスのようにほそい糸で、どうにか生活をつなぎとめる。それしかいまは、すべがない〉


晴夏

【来週誠と逢うことになりました】

 と送ると熊藤は【それはすごい。戦いの前に精進料理でも食べましょうか】と手作り豆腐を出す和食店を予約してくれた。待ち合わせると、「あれ、なんか少し痩せました?」と声を跳ねさせた。

「七年ぶりに好きな人に会うんだから、そりゃ絞りますよ」

「それにしてもすごい展開ですね。何があったんですか?」

「私もよくわからなくて。誕生日おめでとう、って毎年メールを送ってるんですけど、別れてから初めて返信があって、話がしたいから逢おうかって段取りになりました」

 返信があった時、自分に都合のいい夢でも見ているのかと思った。けれど、かしこまった他人行儀な口調ではあるにしろ、雨宮誠本人からのメッセージに違いなかった。

「彼とはどこで会うんですか

「恵比寿のレストラン」

「へえ。何着ていくんですか」

あなたには関係ない、と思ったけれど、「リネンのロングワンピースを卸したのでそれを」とこたえる。ふうん、と熊藤はだし巻き卵を半分に割りながら呟く。

「まるきしデートみたいですね」

「だって、デートだし」唇を尖らせると、「ま、そうでした」と肩をすくめる。見た目は肉厚なくせにのれんみたいな男だ。

 今日で会うのは五回目だった。容姿も中身もまるきりタイプではないし、あまりかかわったことのない人種、という印象だった。いつだったか「こんな傷の舐めあいみたいなことして意味あるんですか。私はともかく熊藤さんは本気で結婚相手探してるんじゃないですか」と突きつけると、鷹揚に笑った。

「本気で結婚相手を探している人間は、結婚願望がある人しか最初から相手にしないですよ。ひよったツールを使ってる時点で、墨田さんと同類です」――何か意地悪なことを言い返したかったけれど、何も言えなかった。天に向かって唾を吐くのと同じだからだ。

 弓子さんと言い胡桃と言い熊藤と言い、どうも晴夏を結婚願望がないくせに婚活をしているときめつけてくるのはなぜなのだろう、と思いながらも、確かに婚活の本質をついているような気がした。本気で誰かと添い遂げたいなら、結婚相談所に行けばいいだけの話だ。晴夏にしろ熊藤にしろ、入会金をひるまず一括で払える身ではあるのだから。

「一生をかけるような楽しみな日が明日に迫ってるとなると、いっそ早く終わってくれないかって思いませんか」

「そんなことないです」

「さすが。肝が据わっている」茶化されているような気がして苛立ったものの、黙って日本酒をちびちび飲んだ。お酒が飲みたい気分ではなかったけれど、無理をして流し込む。

「熊藤さんって、なんで弓子さんと会ってるんですか。幼なじみだからですか」

「いろいろ理由はありますけど、彼女そのものじゃなくて、幸せだった時の自分に執着してるだけですよ。墨田さんも少なかれそうじゃないんですか」

「自覚があるからと言ってしがみつくのをやめられるわけじゃないから」

 それはそうだ、と熊藤はおどけた。けれど、静かになって黙々と料理を口に運んだ。

「楽しみなんですか、彼と会うこと」

「もちろん」

「そのわりに、思い詰めた顔してますね。裁判員に選ばれた人ももうちょっとリラックスした顔してますよ」

「うるさい、どれだけ好きだと思ってるの」酔いのせいで大きな声になった。けれど熊藤は動揺するでもなく、「それはわかりますけど」と飄々と受け流す。

 冷酒の香水めいた蒼く透き通った匂いを嗅いでいたら、余計頭がぐらぐらと内側からふくれていく気がした。誠は晴夏よりアルコールに弱かった。酔っぱらうと冗談みたいに明るくなって誰にでも話しかけるくせに、翌朝には忘れていた。ネイビーのシャツがよく似合った。デニムが好きで何種類も持っていた。やきとりではぼんじりが一番好きで、レバーが苦手だった。そのくせ「晴夏は貧血だから」と焼き鳥屋に行くと必ず頼んだ。焼き魚をきれいに食べた。甘いものは苦手だった。小さい時にかかった水疱瘡の跡が背中の窪みに残っていた。誕生日の時必ず手紙をくれた。後背位が好きだった。晴夏の声聞いてると出そうになるから、と手のひらで口を押さえられた。脚を閉じようとすると膝で払うようにして簡単にひらかせた。晴夏の左手首に三つほくろが並んでいるのを「点字」と呼んだ。寝ながらぎゅうぎゅうと晴夏の腰を自分の腹に押し付けるように抱きしめる癖があった。夏になると錫の風鈴をつるした。朝食用にいくつも飲料ゼリーをストックしていた。ブスとかバカとかクズとか、他人の評価でそういう言葉を絶対に使わなかった。SNSが苦手で、長電話は好きだった。生理が重い晴夏のためにいつまででも腰を揉んでくれた。横顔がきれいでホームで電車待ちしている時よく見惚れた。子供が好きで街中ですれ違うとにこにこして目で追っていた。春が好きで、冬が苦手だった。

 いくつだって思いだせる。誠の欠片。片っ端から諳んじられる。持っていてもしょうがない、と他人の鼻息で吹き飛んでしまいそうな記憶の断片の数々を、自分はいつまでとっておくつもりなのだろうか。

「晴夏さん、実は生活荒れてるでしょう」

 ぼんやりと思い返していると、ふいに直球を投げられた。どういう意味ですか、と言い返すと涼しい顔で「思い当たる部分があるならそれですよ」と言う。

かっと耳が熱くなるのを感じた。ごみを何袋も溜めているとか、毎日カップラーメンとコンビニ弁当で済ませているとかそういうたぐいの推定をされているのではなく、誰彼かまわず寝ていることを明確に指している。なぜだかそう思った。

「大変なお仕事をされてるわけだし、気持ちに蓋をする手段としてはいろいろあるかもしれませんけど、自分のこと大事にしないとだめですよ」

 ごまかしたり、失礼だと怒りだしてもよかったけれど、なぜだか熊藤にそんな気は起らなかった。そういうことを言う男特有の説教臭さがまったくなかったせいかもしれない。

「なんでわかったんですか。私が男にだらしないってこと」

「そこまで踏み込んで言わなかったのに」と熊藤はゆったりと笑った。「結婚相手を真剣に探している割に焦りもないしもっと言えば本気で探してる風には思えなかったから。おそらく別で捌け口を用意してるんだろうなって思っただけです」

 淡々とした口調で指摘され、決定的な表現を避けた言い方にもかかわらずばりばりと頭を掻きむしりたいくらい恥ずかしさに襲われた。やめてくださいよ、と顔を背けると熊藤は肩をすくめた。

「男も女も、そんなもんでしょう。きれいごとだけで生きている人はいないですよ」

 そんなわけない。いまでも誠はきれいごとだけを整理整頓して並べた無菌の世界で生きているはずだ。それなのになぜいまさら、不貞を働いた元恋人に会おうとしているのかわからないけれど。

「……熊藤さんは? 何を捌け口にしてるんですか」

「僕は見た通り、もてませんから。仕事も正直、ここまでがピークっていう頭打ちが見えてるし、お金を遣いまくるような趣味もないし、特にないですね」

「ずるい」

「僕からしたら、晴夏さんみたいな人の方が羨ましいですよ」熊藤はいつのまにか名前で呼んでいる。「自分の中にある純愛と、だらしのない面をしれっと両立するなんて器用なことやってのけるなんて、僕からしたらジャグリングくらい複雑に思える」

「いやみですか」

「いやみではないけれど、晴夏さんが元彼をひきずりすぎて奔放な生活を送るのは僕としては悲しいかな。あなたが異性としてタイプだったことは嘘ではないし」

 ばかばかしい、と日本酒を煽る。「私ね」

「なんですか」

「家にウェディングドレスがあるんですよ」

ひるませるために明かしたのに、熊藤は別段驚くわけでもなく「はあ」と言った。「例の彼との式で着る予定だったドレスですか。そこまで行って、破談になったのは確かにダメージですね」ダメージなんて軽いもので済むか、と思いながら日本酒を煽る。

「そう。あれを見せると大体の人が怖気づきますけどね」

「僕にも見せてくださいよ」

「嫌ですよ」

「僕なら一緒に傷ついてあげられると思うけど」

「結構です」

「おちょくってるわけじゃないよ。晴夏さんがドレスを見て思い出に傷つけられるのとおんなじで、過去の恋人にしばられている晴夏さんを見て僕も傷つくと思うし。あなただって何も驚かせるためだけにいろんな人に見せたわけじゃないでしょう」

 そうなのだろうか。酔った頭ではよくわからなかった。

「まあ、また来週話を聞かせてくださいよ。彼と会って、何を話したのか」熊藤の声がやたらと遠くから聞こえた。お店の前でタクシーを捕まえて、さっさと乗り込んだ。熊藤が何か言った気がしたけれど、ドアを閉める音でかききえた。最寄駅を告げて目をつむる。

飲み過ぎた。一昨日も飲み過ぎて朝起きたら玄関でへばりつくようにして寝ていた。いつまでこんなにだらしなくいるつもりなんだろう、と我ながらくだらなく思いながら、プラモデルのパーツを外す時みたいに不穏にしなる身体を起こし、のろのろと出勤した。

お客さんもう着きますよ、と不機嫌そうな声で運転手に起こされる。駅前で止めてもらうと五千円と表示されていた。

高いな、と思わず舌打ちしたくなる衝動を抑えて「クレジットカードで」と差し出す。迷惑そうに追い出され、他人の冷たい態度に涙が出そうになる。午前二時半の駅前は閑散としていて、影一つない。

 誠や誠の妻が住んでいる明るく暖かいマンションと、たった今自分がいる場所の差を考えた。どうして自分だけがこんなに孤独で冷たく寂しい場所にいるのだろう。まるで死後の世界に間違って入り込んだような気分だ。こんな寂しい景色を、誠も誠の妻も知らない。

 誠。

 私は、毎日、本当に毎日、あなたの名前をくちびるに乗せて、呟いている。最寄駅から家に帰るとき、シャワーを浴びるとき、仕事で理不尽な目に遭ったとき、雲一つない空に鳶がひゅうるりと弧を描いているのを見たとき、名前も知らないのっぺらぼうの男が家から帰っていったとき。ありとあらゆる場面で、呟いてしまう。ひどいと声に出していることもある。呼べる名前があるということは、おまもりがあるっていうことと同じだ。誰にも奪われたくはない。

 いつか誠ではない他人に、「今晩月が綺麗だよ」と教えてあげようと思う人にこの先出会えるのだろうか。いまは想像もつかないし、別に現れなくてもいいと思っている。

熊藤もこうして月を見上げている気がした。彼もまた、不毛なことをしているという点では、自分とおんなじ人種なのだ、そう思ったらわずかに歩幅が大きくなった。


胡桃

 くるくると惑星のように回るミラーボールの光を目で追っていると、なんだか酔いそうになる。クランベリーのジュースに口をつけると、氷を入れすぎたのか金属のような香りが鼻を掠めた。歯が透き通ってしまいそうなくらいきんと冷たい。

「本番の部屋、誰もいなかったわ。もうちょっと遅い時間にならないと無理かもな」

乾が戻ってきてカウンターの横に腰かける。「まだ早いかもね」と肩をすくめて見せる。

 編集長に二回目のハプニングバー潜入を依頼されたのは、乾ではなく胡桃だった。

「え、私ですか」と戸惑ってみせると、編集長は顎をさすりながらにやついた。

「こないだ乾以上にぐいぐい客に話しかけて取材できてたらしいじゃん。だったら乾よりも根岸さんかなと思って」

「はあ」

「危ないし、無理にとは言わないよ。考えといて」

女一人で行くと身の危険があるかもしれない、という点ではほとんど不安はなかった。そこまでアグレッシブな人間が集まっているわけではないということは前回で察している。

とはいえ、一人で行くのもつまらないから結局乾も誘ったわけだけれど。

「コモモ、今回こそ俺着替えてくるわ」

「え、何着るの」

「メイド服」

乾が持ち上げて見せたのはフリルが満載の、地下アイドルの衣装のようなコスチュームだった。冷たすぎるグラスをカウンターに戻し、衣装をひったくった。

「あんたがこれ着るくらいなら私が着る。飲みもの見といて」

「またコモモが着るのかよ。了解」

 すっかり乾に対して呼び捨てにしたりため口を聞くことにお互いが慣れきっている。流石に職場では控えているものの、「なんか打ち解けたね。あんたら正反対なのに」と社員に言われた。すぐに「気のせいです」と否定したけれど。

短い裾が、太もものうんと上の部分でチュチュのように広がっている。胸のすぐ下にコルセットがあり、キュッと締めて後ろで蝶々むすびにすると胸がぐっと球体として浮き上がる。なんかやらしいデザインだな、と思いながらも鏡でさもしくチェックする。生足でパンプスを突っかけた。

「着てきた」

お、と乾が目を見張り、「カチューシャもつけてみ」と頭にヘッドドレスを被せてきた。

「ロリ専門のイメクラの売り上げナンバーワンエースってところだな」

「うっさいな」

腕をはたく。カウンターが狭いせいで、乾の二の腕に胸を押しつけるような格好になった。咄嗟に、前回キスしそうになったことを思い出す。気まずいわけでもないけれどどこか気恥ずかしさみたいなものは残っている。

「今日はスワッピングの現場見られたらいいな。できれば交渉してるところ込みで」

「そううまくはいかねーだろ。こっちが人身御供差し出すわけじゃあるまいし」

「でも、やってるところ見るだけだったら前回とおんなじだもんねえ」

寒くなったせいなのか、人の入りは前よりも少ない。常連らしき客が固まってぼそぼそと会話しては、時折爆発するような笑いを弾かせていた。

適当にカップルや常連客に絡み、無難な雑談をしては立ち去る。スタッフに時間を訊くと、まだ零時前だった。今日は終電で帰ることはまず無理だろう。とはいえ、この空間で朝まで始発を待つ気はなかった。

ぐうるりと部屋を見渡す。ひとり、壁の隅に男の人が胡座をかいてお酒を飲んでいるのと目が合った。さっきはいなかったはずだ。胡桃の視線に気づくと、そらすでもなくにっこりと笑ってみせる。なんとなく、玄人くささを感じた。慣れきった人間は取材相手としてはさして面白いネタにならない。感性に目新しさがないからだ。

「何、新しいメンツじゃん。話してこよう」

流そうと思っていたのに、乾は胡桃の目配せを積極的な方に解釈したらしい。乾が意気揚々と男のところへ向かった。

ここに来る前に入った焼き鳥屋で、乾がそこそこハイボールを飲んでいたことを思いだす。弱いわけではないだろう、と思い止めはしなかったけれど、仮にも潜入取材前に飲むにしては加減していなかった気がする。

「こんばんは。お兄さん一人で飲んでるんですか」

 軽く話しかけてみる。見知らぬ人を”お兄さん”あるいは”お姉さん”とナチュラルに呼ぶ人間のほとんどは水商売出身だと以前乾が小賢しげに指摘してきたことを思い出す。言い当てられた悔しさから、「へえ、そうなんだね」と流しておいたけれど。

 男は顔をこちらに向けた。

「そうだよ。君たちは二人で来てるの? 若いね。二十五いってないくらいかな」

温和な声色に対して、あまりに目つきが鋭く、少したじろいだ。カウンターから目を合わせたときにはあまり感じなかったけれど、どこか爛れた雰囲気がある男だった。

「まあ遠からずってところ。お兄さんは何歳なの」

「俺? まあ三十は過ぎてるけど、あんまり数えないようにしてるから忘れちった」

「ふうん」

「暗いし、こういうめちゃくちゃな場所だとどんな人でも年齢当てづらいよな。でもここはそこそこ値が張る方だし、若く見える人でも二十代後半、一番多いのが三十五以上ってところかな」なんだか投げやりな会話だった。

「常連?」

「わりとね。でも、常連同士でつるんでだべるんじゃあ普通の飲み屋と変わらないでしょ。だから俺の定位置はいつもここ。カップルに割り込むのが趣味だから」

そう言ってにやりと笑ってみせる。「さすがに、そっちから飛び込んでこられたのはあんまりないけどね。スワッピングが好きなの? それとも彼氏が寝取られ願望あるとか?」

「いや、私たちカップルじゃないんだよね。普通に友達」

男は、信じていないのか、へらへら笑うだけだ。

「そうだとしてさ、君たちはさここまで来といてそういうことはやらないの。だってここフリーセックスを謳ってるんだよ。お金払って入ってるんだったら、しないと損じゃない」

「そういう、さもしい発想が着火剤のセックスはごめんですね。アウトレットに行って何も買わないと損だからいらないけどディスカウント品を探すみたいで貧乏くさいじゃないですか」男はにやりと笑った。

「おねえさんこんな場所に来てるわりに自分に値打ちつけてるねえ。美人だし、当然だと思うけどさ」おいでおいでと手をこまねく。とろ火のような妙になまめかしい動きだった。

「俺の膝に乗る?」

「誰が」

「いいねえ、俺鼻っ柱太い女の子大好きなんだよ。悪いようにはしないからさ、おいで」

ルール上ハプニングバーではスタッフに報告してからでないと本番行為はできない。もちろん同意が取れていない痴漢行為もご法度だ。

目が合う。長い沈黙が、爆音で流れる音楽で埋め尽くされた。

先に視線を逸らすこともできず、返事代わりにテーブルを跨いで男の横に移った。ちょ、と乾が咎めるように声を上げる。逡巡している一瞬に男に対して反撃してくれれば良かったのに、といらだった。胡桃が動いてから止めるのは後出しじゃんけんもいいところだ。

「負けず嫌いなんだね。意地っ張りな子、俺は好きだよ」

そう言ってひょいと胡桃の脇に腕を差し入れ、持ち上げて自分の膝の上に載せようとする。「ちょっと」と声を上げると、「ここは俺の縄張りだから。こっちに移ってきたのはお姉さんの意思だと思うんだけど、違う?」とのたまう。

だめだ。この男に舵を取られきっている。少しはペースをこちらに戻したいのに、うまく言い返すことができない。

「軽いね。小さい子みたい」

「実際背は小さいもん」

「あんまりそれを武器にしているタイプでもなさそうだけどね。でも、あからさまなロリより俺は君みたいな聡い子が好き」

ふいに首すじが一点熱くなり、やっ、と短いを悲鳴をあげてしまう。唇を押し当てられていることに気づく。

「喘ぎ声可愛いじゃん」

「ぶりっこが板につきすぎてるだけで、別に感じてはないから」

乾の顔を見られない。見知らぬ変態に対してどう思われようがどうだっていいけれど、乾の前で喘いだり本気で狼狽えているところなど見せたくない。ましてやこんな場所で、こんな男相手に。

「言うねえ」

うなじを丁寧に舐め上げられる。茹だった蛞蝓が這っているみたいだ。恐ろしく時間をかけて、何往復もする。その間手は太ももに置かれていた。撫でられているわけでもないのに、置かれた箇所がじんと熱くなって自分の身体の輪郭がはっきりしてくるのがわかる。

「いっそもっとめちゃくちゃに乱暴された方が楽なんでしょ」

男が耳元で囁いた。吐息混じりではなく、あくまでもしらふの、低い声だ。行為とのいやらしさとの乖離にぞくりとする。

「自分が感じてるんじゃなくて、俺のせいになるから。でもね、それだとつまんないから」

耳を唇で食まれ、柔らかさを確かめるように動く。乾がどこを見ているのか、どんな表情をしているのか気にはなったけれど、目を見る余裕などない。息を乱さないように気を張るだけで精一杯だ。すでに軀の中心から、ねっちりととろけ出して下着を汚しているのが確かめなくてもわかる。

「首と耳だけじゃ物足りない? キスしていい?」

「絶対いや」

「そっか。粘膜接触は危ないもんね。ま、すでにうなじは充分愉しませてもらったけどさ」

舐め上げられた箇所がすうすうする。今はまだ姿勢を正してできるだけ接触面積が少なくなるように気を張ってはいるけれど、いっそソファーのようにもたれかかることができたらどんなに楽だろう。

手が動いた。予想通り、胸に伸びてくる。

「大きいとは思ってたけど、思った以上だな」

柔らかさというより重さを確かめるようにして両手で胸を持ち上げられる。ふしくれだった指だった。やめて、と口にはしたものの、甘さを含んだ声ではなんの説得力もないな、と自分でも思った。男は構わず緩やかに指を動かす。順繰りに乳房に食い込ませるように、柔く。

「大きい子は胸感じないっていうけど、あれは貧乳好きが巨乳を腐すためだけに苦し紛れに言ってるデマだね。経験だと巨乳の方がおっぱい感じる子多いんだよね」

「貧乳より揉まれる機会自体は多いから?」

はは、と男が笑った。乾は笑わなかった。「どうだろうね。まあ、相手にしたときに貧乳の子だとそこまで胸に時間は割かないかもね。巨乳は、揉み始めるときりがなくて終わらせどころがない」

「あっそ」

「胸揉まれてるときの方が余裕あるね。やっぱり耳のほうが弱いのかな。それともこういうところ?」

すっと顎の下の柔らかい肉を指で撫でられる。撫でるよりもずっとかすかな動きだったけれど、不意打ちの動きに声が漏れた。隠しようもなく素の反応だった。

「意外と擦れてないね」

「ほっといて」

「可愛いね。降ろしたくなくなっちゃうよ」

耳の裏を舌が這う。熱い。触れた箇所から輪郭を失くしてバターのように皮膚がとろけていくかのようだ。耳をまるごと口に含まれ、軽く歯を立てられた。

だめだ、声をこらえ切れないかもしれない。じれったいような痒いような衝動が込み上げてくる。歯が加減しながら耳を噛み、同時に舌がなまめかしく動く。

胸を中途半端に弄っていた手が、また動き始めた。ここかな、と呟きながら中心を両方いっぺんに探し当てられる。やっ、と短く声をあげてしまう。

「胸がある子がこういう、強調した衣装着るんならノーブラじゃないと魅力半減だよ。まあ、つけてるってことは君たち本当にただの友達なんだろうね」

強くも弱くもない加減で、胸のさきを弄られる。もちろん下着が盾にはなっているとはいえ、間接的な愛撫がいっそもどかしい。

男が顎をしゃくった。

「おねえさん、見る余裕ないだろうから教えてあげるけど、彼勃ってるよ」

信じられない最低、とは思わなかった。そりゃそうだろうと死人の脈でも診るように思った。

「でもこのスペース、ペッティングはオッケーでも衛生上オナニーは禁止されてるからね。抜きたかったらトイレ行くか、上で本番するかだね。もうこの子は準備万端だよ」

そのまま指が下に伸びてきたら意地でも払ってやろうと思ったけれど、そこまではされなかった。逆にいえば、確かめなくてもわかる、という男の自信の表れのような気がして、 それはそれで屈辱的だった。

同じ箇所を鬱陶しいほど丹念に弄ばれ、先がじんじんと痛いくらい腫れあがっているのが感覚でわかる。足りない、と猛烈に思う。こんなふうに心から、挿入を欲したのはものすごく久しぶりの感覚だ。

「どうする? 上行く? 俺とするか、連れのお兄さんとするかはお姉さんが選びなよ。俺はいつでも大歓迎だからさ」

ずっと、尾骶骨のあたりに熱を帯びたものが押し当てられているのにはとっくに気づいていた。「しない、死んでもしない」と言い返したけれど、もし乾がいなければすぐさま頷いていただろう。いっそ自分から言い出していたかもわからない。

「気丈だねえ。たまんない。こういう場所じゃないところで会って、知らん顔して口説けてたら良かったのになって思うよ。これも一つの縁ってことだね」

そう言ってひょいと胡桃を自分の膝から下ろした。咄嗟に見上げると、男はにやりと笑って胡桃の頭を撫でた。

「そんな、迷子みたいな顔しないで。可愛すぎて今度こそベロチューしたくなるから。あとは二人で楽しみなよ。俺はしばらくカウンターにいるわ」

おもねるような表情を浮かべてしまったことに顔が赤くなるのを感じる。結局取り残され、ぺたりと座り込んだまま初めて乾の顔を真正面から見た。魂でも吸い取られたような顔をして、見つめ返される。たぶん自分も同じような顔をしている。ズボンの前が張っているかどうかは、暗くてよくわからない。

「……出ようか」

「うん」

嘘をついたり、茶化してごまかしたり、言い訳したりする気力はとうに奪われていた。のろのろと立ち上がり、荷物を持ってロッカールームに向かった。

「着替えてくる」

「ああ、うん」

そそくさとメイドのコスチュームを脱ぐ。べったりと濡れたショーツもいっそ脱ぎ捨てたかったけれど、スカート丈が膝より上なのを思い出して思いとどまる。鏡の前で軽く化粧を直そうとしてぎょっとした。まるでジムかヨガのレッスンを受け終わったあとみたいに赤らみ、汗が垂れ、明らかに欲情していた。癖でグロスを塗り直そうとしたものの、さらにあからさまになるだけな気がして、リップクリームをぬるだけにしてロッカールームを出る。

「行こう」

「うん」

外に出る。ここに出入りするのは三度目なのに、命からがら抜け出てきたような感覚だった。宮沢賢治の童話のように。

「まだ終電あるよね?」携帯に目を落としながら乾が言う。咄嗟に返事ができなかった。

――無かったことにしようとされている。そう思った。

「乾」

「まだ零時十分前だわ。走らなくても間に合いそうだね」

熱などどこにも溜まっていなそうな白い顔。きちんとこちらと目を合わせてしゃべっていることにすら苛立った。ねえ、と発すると思いがけず尖った大声になった。

「抜いたでしょ」

「え?」乾が中途半端な表情で固まる。

「私が着替えてる間、あんたトイレで抜いたでしょ。さっきのをおかずにして」

口にしたこともなかったあからさまな単語が響き渡る。通りかかる人たちから視線を感じた。乾は「ちょっ、静かに喋れって騒ぐなよ」と焦ったように早口で言う。

「じゃなきゃなんでそんな冷静なんだよ。私が、犯されてる間勃起してたくせに」

どうして自分ばかりが恥ずかしい思いをしなければならないのだ。みじめだったのはお互い様のはずだ。寝たことがない、という関係性に目をつけられて見世物にされた。乾と胡桃の関係がどうねじ曲がろうが歪もうがどうでも良かったからこそ、あんなにもあの男は誠実とも言える丹念さで胡桃を嬲ったのだ。

「コモモ」

「最低。これじゃ私は供物だよ」自分でも何を言っているのかよくわからない。合意の上の行為だった。本気で嫌だったらいつでも逃げられる隙をあの男はあたえていた。それでも身をゆだねきっていたのは、単純に、気持ちが良かったからだ。

それを乾も見抜いていただろうことが恥ずかしくて情けないと思っているだけなのかもしれない。ふいにそう思う。

「じゃあさ、どっかカラオケでも入る?」

「……は、」ふざけているのかと思ってさらに語気を強めてしまう。乾は動じることなく淡々とつづけた。

「俺が自分でオナニーするところ見せたらコモモも納得するだろ。カラ館かどっか行こう」

頭がおかしくなったのか。怖くなってあとずさると、乾は苦笑いした。

「え、そっちが言ってることってそういうことじゃないの? みっともないところさらすからそれで相殺してくれ。頼むよ。それ以上こんなところで暴れられると騒ぎになって俺がレイプしたみたいになるだろ」

「ばかじゃないの……」

自分がやつあたりまがいにわめいたせいだとはわかっていても呟いてしまう。乾は胡桃の鞄を奪い取り、「さっさと行くぞ」と地図アプリを見ながら坂を降りていく。

「ここからだと、カラ館か歌広場が一番近そう。コモモ、どっちがいい」

どっちだっていいよ別に、と言おうとしてやめた。坂の上を指差す。

「ラブホにしない? ここ円山町だしそっちの方が近いよ」

乾は胡桃をじっと見つめて、少し黙ったあと「わかった」と道を引き返してラブホ街へと歩きだした。アルコールなど口にしていないのに、ふいに色鮮やかなネオンが雨のように自分たちに降り積もる光景が浮かんだ。


朱莉

「二年間お疲れ様」

 かちん、とグラスを合わせて鳴らす。朝倉君は、見たこともないほどやさしい顔をしていて、いたたまれなかった。「ありがと」と無理に微笑む。深刻になりすぎるのは嫌だった。

「あの会社、業種によっては死ぬほど稼がせてくれるけどケチるところはとことんケチるから。まあ、やめて正解なんじゃないの。そんな落ち込むなよ」

朝倉君の今月の手取りはインセンティブを含めると三桁近いはずだ。そんな人に慰められているというのモ皮肉だけれど、精一杯朱莉の肩を持ってくれることが嬉しかった。

【退職の日、一緒に飲んでほしい ひとりで帰りたくない】

 一週間前に、飛び降りるように送ったメッセージ通り、朝倉君は職場からそうは慣れていない居酒屋に連れ出してくれた。会うこと自体、とても久しぶりだ。一緒にビルを出たからきっと知っている人にも見られていたはずだ。けれど、もう自分は職場と関係のない人間になったのだから、たぶん朝倉君もどうでもいいのだろう、と思った。

「転職活動、うまく行ってんの」

のっけから直球で訊かれ、お通しのチーズに伸ばした箸が固まった。

「行って、ない。難航してる」

「ま、働きながら面接行くのはまず予定組むのも大変だから別にいいんじゃないの。バイトしながらゆっくり探しなよ」

契約が満了するまでのひと月の間で内定をもらうことはできなかった。次も契約社員で働こうと思ってる、と打ち明けたら朝倉君に電話口で「おまえもう二十七だろ? それは危ないんじゃないの」と言われたのだ。

「正社員でも内定出るだろ。数年後また同じことになったら目もあてらんないよ」

「わかってるけど、私の経歴じゃ無理だって」

「事務員七年目って相当なキャリアだよ? 簿記も持ってるしエクセルもパワポもとりあえず一通りできんだろ。普通にしれっと正社員で総務とかに経理入ればいいじゃん」

「うーん……どうなんだろ。最初から正社員ならそれにこしたことはないけど」

次もまた契約を更新されないのではないか、正社員登用はいつになるのだろうか、と気を揉みながら少ない手取りでじりじりと順番待ちをするような働き方は嫌だった。リスクもある。結婚してライフスタイルが変わる予定があるのならともかく、ありもしないことをキャリアプランに組み込めるほど自信があるわけでも楽観的でもない。

「金は。どうしてんの? 足りてんの?」

「……とりあえずは。ちょっとだけど定期預金してたし。解約したけど」解約、の言葉で朝倉君はわずかに眉を下げた。

「そっか。まあ、朱莉は贅沢するような趣味もないだろうし、路頭に迷うようなことはないとは思うけどさ。飯くらいは奢ってやるよ。暇なときくらいは」

 嬉しい、とたわいもなく反射的に喜んでしまう自分が不憫だった。

「いま付き合ってる人いないの? 彼女じゃなくても、まあ、私みたいな関係の人、とか」

皮肉めいた言い方になってしまう。朝倉君は被せるようにして「いるわけないだろ、まだ二ヶ月しか経ってないんだから」と乱暴に吐き捨てた。不機嫌そうに眉根を寄せると彫りが深く見えて妙に色っぽい。この状況でそんなことを思ってしまうのは単に現実から目を逸らしているからだ。

「っていうか、俺も一応は責任感じてんだよ」ぼそりと朝倉君が呟いた。

「えっ、なんで?」

思いがけない台詞に素で驚いた声を上げると、「失礼すぎねえ?」と本気で傷ついたように言う。

「あのなあ、まあ……俺が二年も朱莉の時間を奪ったりしなきゃ、いまごろ寿退社とかそういう未来もありえただろ。そうじゃなくても、ある程度関係性築いた彼氏とかいたら全然違っただろうしさ。少なくとも精神的には。わかったふうなこと言うようであれだけど、そういう頼れる人間がいない状況で職を失うっていうことがどれくらい重いことか、俺だって多少は考えてるんだよ」

 ぼそぼそと低い声で早口で言い切り、砂肝の串焼きをいーっと口を横に引いて抜き取る。野蛮な仕草でごまかしているけれど、要は朱莉に対して贖罪の意識があるから、こうしてごはんに連れ出してくれたのだ。

「……ありがと」

 おそろしくきまぐれで自己中心でわがままで刹那至上主義の俺様気質。朱莉の気持ちなど微塵も慮っていないのだと思っていた。この人もまた自分の失職で傷ついていたのかもしれない。朝倉君はきまり悪そうに「お礼言うようなことでもないだろ」と言った。

「バイトしないの? まだ金に余裕はあるとしても、明日から暇だぞ」

「うーん……自分がどれくらいの期間ニートでいるのかわからなくて、まだバイトの予定入れてない。長期で働ける人じゃないと向こうだって雇いづらいだろうし」

朝倉君は顔をしかめたものの、「いままで働き詰めだったわけだし、ま、休むのもいいかもな」と自分に言い聞かせるように呟いた。

「でもお前の性格上暇を楽しめるタイプじゃなくて罪悪感湧く性格だろうし、すぐバイト始めた方がいいと思うよ」

「そう?」

「そういうもん。あー、俺も一年くらいフリーターになってバイトしてえ。アパレルでくそ高え腕時計中国人に売りつけてぇ」

朱莉本人の前で言うにはあまりにも笑えない冗談だ。怒る気にもなれず、黙ってレモンサワーを飲む。業務があるうちはあまり考えずに済んでいたけれど、今日を持って無職になったのだ。明日から、いったい自分は何をして過ごす気なんだろう。

「そろそろ帰るか」と端末で朝倉君が会計を押した。まだ二十一時前だった。

店を出て歩きながら「もう一軒行かない?」と言うと、朝倉君は困ったように笑った。

「ごめん。俺今日仕事持って帰ってきてるから、家でやんねーと」自分の送別会のために切り上げてきてくれたらしい。「そうなんだ、ごめんね」と言うと、頭を撫でられた。

「いや、こっちこそ。朱莉はなんだかんだ真面目だし、顔可愛いし、どうにかなるよ」

何それ、いまこの関係性で、この状況で言われても全然嬉しくない――。それなのに、ゆらゆらと視界の底が揺らめき始めた。朝倉君は少しだけ表情を歪めて、顔を傾きかけた。キスしようとしたのだとわかって、心臓がひとたまりもなくわなないた。

「いや、ごめん」と顔をそむけた。「いくらなんでも自分の立場わかってなさすぎるよな」と苦笑いする。たまらなく愛しい気持ちが、滝のように身体を貫いた。

「いいよ。してよ」

 強く言い返すと、ぐいと腰を引き寄せられた。しっかりと舌を入れられ、絡ませる。狎れ親しんだ風味に陶酔する。こんなことをしたところで、自分の人生が一ミリでも前進するわけでもないのに、どうしても、たったいま、朱莉にはこの人だけが必要だった。

「……家、来るか。俺、しばらく作業してるし寝るの遅いけど」

「いい、行く」

見慣れた仕草で朝倉君がタクシーに向かって手を挙げるのを、肩にもたれかかりながら眺める。別れた時も、結局こんなふうにタクシーに一緒に乗って、彼の家でセックスをした。けれど、見慣れた光景と言うのはどうしてこうも自分を安心させるんだろう。

自分には学習能力がまるで欠けている。あるいは、記憶障害だ。それでも、今日は。

社会人生活の中で初めて職を失ったのだ。別れた男と寝たって許されるだろう。


晴夏

雨宮晴夏。大学の講義中、誠の苗字を冠せてノートの端に走り書きしては、ペンネームじみてしまうほどロマンチックな響きを口の中で楽しんでにやにやしていた。誰よりも誠の苗字は自分にふさわしいはずだったのに、かっさらっていったのはてんで別な女だ。

 別れて三年が経った初夏、誠が結婚したと聞いた時は咽び泣きすぎて過呼吸になり、なんども吐いた。形のあるものが喉を通らなくなり、眠れなくなり、業務中に急に涙がせり上がり、猫一匹ぶんは痩せた。仕事に忙殺されているうちに気づけば半年経っていた。気が狂う、と思いながら毎晩のように誰かと飲み、知り合いの誰もつかまらないときは強い酒を飲んで自分から男に声をかけた。ホテルから出勤することも少なくなかった。

 誠が結婚したのは、同じ会社の広報部の女性社員だった。自分の一歳下で、名前で検索してもSNSのアカウントは見つからなかった。ようやく見つけたのは大学時代のゼミの写真だった。化粧っけは薄く、芋臭いガリ勉にしか見えなかった。旧姓内村伊勢。ほしくてほしくてたまらなかった誠の苗字をこの見知らぬ女が冠っているのかと思うと、気を違えそうだった。

 内村伊勢のことはたったいちど見かけたことがある。どうしても誠がどんな女を伴侶に選んだのか知りたくて、家のあたりをうろうろした。勢いで押しかけたもののそう簡単にでてくるはずがない、と思っているとそれらしき女性がマンションから出てきた。オペラグラスを覗くと白いニットを着たショートヘアの女だった。じっとエントランスを伏せていると、背の高い女が出てきて晴夏など目もくれず立ち去って行った。切れ長の一重まぶた、白いニットとジーンズというラフな格好、日本刀のようにまっすぐに伸びた背すじ、さらりとうなじで揺れた黒髪。

 ふーん、なるほどな。意外なほど素直に腑に落ちた。確かにあの手の女は誠の横にいたら様になるのだろうな、と頭の片隅で冷静に思った。こんな素敵な男の人の横にいるのが自分でいいのだろうか、と恥じることも誠を卑しい目つきで眺めて神様のように崇めることもないのだろう。当たり前のように腕を組んですたすたと大股で誠の横で闊歩しているのだろう。そう思った。死ねばいいのに、と口に出して言った。

待ち合わせ場所でせわしなく視線を動かすこともためらわれ、駅の前でじっとしていると、ふいに自分の影が大きくなった。

「ごめん、待たせた」

 世界一愛しい男が目の前でほんのりと笑っている。髪を短くして、紺色のシャツを着て、あの頃と同じように黒いジーンズを履いていた。少しやせたようだ。七年前はまだ少年っぽい幼さが頬のあたりに残っていたが、もうすっかり大人の男だった。自分は? 自分はいったい、誠の目にどのように映っているのだろう。

気が狂いそうなほど激しい喜びが自分の身体の中でものすごい勢いで満ち引きする。抱きついて唇に吸いつきたい衝動を抑え、「ううん、来てくれてありがとう」と微笑み返す。

「誠って相変わらず歩く時の姿勢が尋常じゃなくいいよね。うんと遠くから見えてるときからあっ誠だ、ってわかるよ」

「あなたも変わらないね」メールを交わしながら気づいていたことだけれど、誠は頑なに晴夏を名前で呼ぼうとはしなかった。あなたとか君とか、代名詞を代用した。名前で呼んでよ、と言いたかったけれど、さっと頬をこわばらせ目が輝度を失うさまがまるでデジャビュのように思い浮かんで、何も言わずにいた。

「今日の店フレンチにしてみたよ」

「ああ、予約ありがとう。送ってくれた店のサイト見たよ。すごく洒落てたね」

 誠に似合うと思って、と微笑みかけると、かつての恋人はほんのわずかに頬をゆるめ、けれど風が吹いて湖面がたなびくようにまた元の硬い表情に戻った。窓ガラスを割ってしまった野球少年がコーチに連れられておじいさんの家に謝りに行くときのような、蒼く冷たい気配を感じて心がわずかに軋む。

手をつなぎたかったけれど、嫌がられて仕方なく腕を組んだ。手をつなぐのは自分の意思でしているようで嫌だけど、腕を組むのは相手が勝手に絡みついてきてそのままにしているだけだからいいのだろうか。エレベーターに乗り込み、そっと顔を彼の腕に近づけていっぱいに匂いを肺に吸い込む。

 窓際の特等席に案内され、ふわりと腰掛ける。本当だったら個室の店を予約したかったけれど、誠が拉致された少女のような不穏な目つきをこちらに向けるのが想像しただけでも胸が強く軋むからやめた。本当はこの人をほかの誰からのまなざしにもさらしたくない。付き合っていた時はそんな歪んだ独占欲はなかったし、むしろ誰かに二人で一緒にいるところを見てほしい気持ちも同じくらいあったはずなのに、いまは、これ以上誠が他者から見つかってほしくなかった。

 そんなこと端から無理だ。だからこそ、東京の夜景を背負って綺麗な所作で黙々と野菜や魚をナイフで切り分ける誠の姿を、絵画のようにじっと脳裏に灼きつける。それだけで身体が張り裂けそうなくらい、感動している。

「せっかくおいしいのに、料理に集中しないともったいないよ」

 あとあなたがじろじろ見過ぎるから食べづらいし、と誠が肩をすくめる。そうだね、と浅く笑い返して大仰な皿のまんなかにちょこんと重ねられたゼリー状の料理をナイフで切り崩して口に運ぶ。味わうどころじゃなかったけれど、懸命に話をする。想像していた以上に七年という月日は長く、しばらく沈黙がつづいたり、話題を探すために目を誠からそらす瞬間があった。逢うまでは、どれだけ時間があっても誠に伝えたいことや聞きたいことが尽きないとばかり思っていたのに。

「晴夏は相変わらず忙しいのか」

「そうだね。誠は? いまも本社にいるの?」

 自分と別れて一年後に念願だった本社勤務に異動したらしいということをフェイスブック越しに知った。現場監督として働いていた頃よりずっと余裕が生まれたようで、めったに更新されることのない記事のなかで、誠の笑顔はぴかぴかと輝いていた。

 誠はわずかに笑みを深くした。

「俺、来年から海外に出向するんだ」

 訳がわからず、誠を見つめる。彼は肉を切り分ける手を止めて晴夏を見つめた。

「ずっと希望を出してて、やっと通ったんだ。スペイン。次希望が通らなかったらどっちにしろ会社辞めて嫁さん連れて、向こうに住むつもりだったんだけど、来年の五月から行けることになった」

学生時代から誠は学会や旅行でなんどもヨーロッパに留学していた。そのたびに、「日本はどこも景色がだいたい同じだからつまらない」「ヨーロッパの方が歩いてて楽しい」とこぼしていた。

「いつかは向こうで暮らしたい」――自分がそこについていく想像がつかず、曖昧な相槌しか打てない晴夏に、どこか誠が物足りなさそうに苦笑いしていたことも、覚えている。

「……夢、叶ったんだね。おめでとう」

声がふるえた。台詞と表情がまるで一致していないのが自分でもわかった。

「何年向こうに行くの」

「まだ決まってない。少なくとも三年はいることになると思う」

「三年も?」非難するような口調になった。誠は顔色を変えなかった。

「永住する可能性もある。嫁さんが妊娠してるから、いっそ向こうで育てようか、って話してるんだ」

息が止まった。

「子供できたの?」

 誠の目にわずかに逡巡と、そして憐憫が走るのが見て取れた。言わないで、と思ったけれど、誠は口にした。

「そう。いま四ヶ月目」

とうとう、と思った。結婚して三年目。念願であることは誠の表情を見ればよくわかる。

忌避すべき事態になったのだと思った。晴夏と付き合っているときから誠は子供をほしがっていた。いつだったか共通の先輩夫婦の赤ちゃんと会ったとき、誠はこっちが赤面するくらい目じりを下げてあやしていて、そんなに好きなんだ、と意外に思ったこともある。

今度こそ、おめでとうとは言えなかった。思ってもない言葉をかけるくらいなら無言の方がましだと思った。

それからどんなふうに会話をして、デザートが運ばれてきて、食事が終わったのかは覚えていない。自分も半分出そうと思っていたのにいつの間にか会計は終わっていた。

のろのろとエレベーターを降りる。ここに乗り込んだ時の自分の熱気と執念がまだ遺っているかのようだ。目を固く瞑った。

「じゃあ、俺タクシーで帰るから」

あらかじめこの台詞で切り上げようと決めていたように誠がよどみなく口にした。晴夏は黙って首を振った。

「誠」思い切って、倒れ込むようにして抱きついた。拒まれて突き離されるかと思ったけれど、誠は晴夏を押し返さなかった。

深く匂いを吸い込む。元々はひとつだった二つの破片を合わせるように、ぴたりと嵌まる。こんなにもしっくりくるのは、晴夏と誠だからだ。それ以外の組み合わせであってはいけないはずなのだ。

抱き合いさえすれば、肌とは肌さえぴたりとくっつけ合えば、自分たちの関係を、つながりを、かつて満ちていた熱情を否が応でも思い知らせることができるはずなのに。

「晴夏」

 すきだよ、変わらずにいまでも愛してるよ、外国なんか行かないで、ずっと私の見えるところから離れないで、たまに餌を投げてくれれば、それを舐めまわして生きつなぐ。

私の目の届かないところなど行かないでとさけびたかった。けれど本当に誠のことを愛していたら、そんな台詞が飛びだすはずはない。そう思ってくちびるを噛みしめる。妻という座にさえつくことができていれば、誠の夢が叶ったことに本人以上に喜んで、泣くほど嬉しかったはずだ。こんな立場にさえいなければ、誠の夢や将来の足を引っ張るような願いを持つようなことにはならなかったはずなのに。

 けれどどれだけ抱きついても、同じ力で返ってくることはなかった。低反発の人型のクッションでも抱きしめているような、何の熱も持たない柱にしがみついているような空虚さだけがひたひたと胸に押し寄せてきた。

「いままでありがとう」憑きものが取れたような晴れやかな笑顔で誠が言う。こんなシチュエーションでお礼なんて言われたくなかった。まるで、墓参りで柄杓で水をかけながらお礼を言うみたいじゃないか。

【誠と会ってきた】

由季子にLINEを送ると、すぐに電話があり「今どこ?」と短く訊かれた。

「恵比寿」

「とりあえず行くよ」

「ありがとう」由季子と落ち合い、駅そばの居酒屋に入った。

「びびったよ。雨宮君とどういういきさつで会ったの? 偶然?」

「いや、たまたま誕生日にメールしたら、返信が来て、久しぶりに話そうか、ってなったの。そしたら、海外に移住するって言われた。子供できて、来年からスペインに駐在するみたい。少なくとも三年はいるんだってさ……」

口にしながら、ドラマみたいなあらすじだ、と思う。誠の人生はどうしてこんなにもドラマティックで、物語めいていて、光と希望に満ちてているのだろう。

「あー、子供ね。雨宮君、子供好きだったもんね」

 私ビール頼むけどあんたは、とつつかれ、「水」と言った。当店ワンドリンク制なので、と冷たく店員に言い返され、「じゃあ烏龍茶ください」と返した。

「飲まないの?」

「うん。さっき結構飲んでたから」

 じゃあ枝豆とポテトサラダとタコワサ、とつまみを由季子が頼むのをぼんやり眺める。店員が立ち去り「いやー見事にやつれてんね」と由季子がまじまじと見ながら言った。

「失った感じがする」

「何をよ」

「人生自体」

「ばあか。失恋するのに何年かかってんのよ」

 由季子が寛容に笑ってくれるので助かった。烏龍茶で体内のアルコールがどんどん薄まって水分が排出したがっているのがわかる。気持ち悪さもだいぶ凪いでいた。それでも、アルコールを注文できずにいた。きっと今日飲み始めたら潰れるまで飲んでしまう。身体が心配なのではなく、わざわざ出てきてくれた由季子にこれ以上迷惑をかけたくなかった。

「ま、これを機にすっぱり過去の古傷を舐めまわすのはやめることだね。むしろほっとしたもん。やっと終わらせたんか、みたいな」

「向こうの中では終わったことなんだろうけど、私の中では死ぬまで終わらない」

「生き地獄じゃん」

茶化しているふうでもなく、由季子が低く呟く。うなずいたっきり、沈めた顎を持ち上げられなかった。

「ずうっと学生のノリで恋愛してぎゃあぎゃあさわいで血みどろになってる晴夏のこと、痛いなあって思ってたけどさ。正直、羨ましいって気持ちもちょっとはあったんだと思う」

会話が間遠になり、ぼうっとテーブルの木目を眺めていると、由季子がぽつりと言った。

「そういうさあ、壁を垂直にダダダって走り抜けて周りじゅうをぶち壊すみたいな、強烈な台風みたいな恋愛、もうずっとしてないからさ。大学んときかまあせいぜい二十代前半のときに不倫してた時が最後くらい」

「ああ、そういえばあったねそんなの」

懐かしくなって頬が緩んだ。職場の五十代の上司と関係を持ったと打ち明けられた時は仰天したけれど、由季子は「出会うタイミングが悪かっただけ」とひらきなおっていた。

「始めるのはほとんど地続きの段差をひょいってまたぐレベルの簡単さだったのに、終わらせようと思ったら自分の皮膚ごと相手を引き剥がすみたいな大ごとだったからさ。あれ、失恋ってこんなきついんだっけってびっくりしたよ。だからもう、私はあんなに激しい恋はこりごり」

「激しくない恋なんてないでしょ」

口にしながら、嘘だと思った。和樹もその前の恋人も、それなりに濃い時間を過ごした仲であるはずなのに、あれを”激しい恋”と形容するにはあまりに無理があった。「そんなことなかったっしょ? 省エネな恋愛だっていっぱいあるよ。私だって今の相手は映画のサブスク入るノリで付き合ってるしね」と由季子が思考を読んだように笑う。

「いい歳になったらさ、まあお互い結婚願望あるなしもあるし、間合いっていうのかな、好きになる時も『この人のこと好きになったらどれくらい傷つくリスクがあるんだろう』『この人は私を選んでくれそうだから好意のレベルを上げておくか』みたいな、理性はある程度働くじゃん。落雷事故みたいにどかんばきんと恋に落ちるみたいなこと、もう一生起こる気がしないよ」

「そうだね。それは私もそう思う」

「だよ。二度と雨宮君みたいな人は現れないよ。だってあんたが求めてるのは雨宮君本人なんだもん」

 弓子さんも似たようなこと言ってたな、ふと思う。ああ本当にその通りだ。ずっと人間で神経衰弱をしていた。贋作でもいいから、かつて自分をまるごと支配した男との間にあったものを再現できないか、ずっとずっとカードをめくり続けていた。

 失恋した人間には会計出させない、と言って由季子が払ってくれた。ごめん、と謝ると「いいよ」とからりと笑う。

「……ごめん。今日由季子の家泊まってもいい?」

本棚に乱暴に突っ込まれたサブカルマンガ、アジア系ということ以外テイストがばらばらの雑貨、朝方になると風が流れて聴こえてくる子供の笑い声。学生時代の趣味を捨てず、むしろよりお金をかけて趣味の色が濃くなった由季子の家が恋しかった。さっと、刷毛で塗ったように由季子が表情をワントーン曇らせた。

「ごめん、今日はちょっと」

歯切れの悪い回答に、さすがに察した。「彼氏来てるとか?」とおどけて首を傾げる。

「や、住んでる。最近彼が部屋の更新年で、更新しないで引っ越すことにして、うちに居候してる。いま二人で住めるところ探してるところ」

以前由季子の恋愛事情を聞いたときは「いやうちはまんねりだからなあ」と苦い顔をして話を逸らしていたのに、そこまで話が進んでいたとは思わず、一瞬どの種類の表情を作っているのか忘れた。慌てて口角を上げる。

「え、すごいじゃん。同棲? 結婚するの?」

「いや、結婚の話は出てないけど、タイミング的に同棲しよっか、みたいな流れにたまたまなっただけ。まあでもお互いいい歳だし、しれっと籍だけ入れるかもしれない」

そうなんだおめでとう、とふにゃふにゃした笑顔で祝福の言葉を早口で並べる。由季子がどこかきまり悪そうに眉を下げ、自分の動揺をうかがっているのがわかる。ひたすら道化のように笑った。自分の顔のパーツを使って自分の似顔絵の福笑いをしているような、妙な気持ちだった。

改札で別れる。地下へ降りていく由季子の背中が途切れたのを見届けて、自分は改札を通ることなく、また街へと歩きだした。

今度こそ飲もう。酒が物足りなかったわけじゃない。由季子が自分の進展を隠していたことが寂しかったわけじゃない。ただ、このまま帰ろうとは思えなかった。

今日は誰かにきっちりと迷惑をかけてから帰る。本当だったら誠にかけるつもりだった、迷惑を。


胡桃

篠田さんは無駄口を挟まなかった。個室に入るなり単刀直入に「就活、残念だったな」と切り出した。うん、とうなずいてジャスミン茶を啜る。

 指定されたのはタクシーでしかたどり着かないような場所にある西麻布の和食店だった。相変わらず間接照明の暗い店が好きな人だな、と思った。

「出版系のつながりは、ないわけではないんだけど、軒並み中小出版だな。当たってみたけど、新卒採用はどこもしてないらしい」

 おおよそ予想通りの返事に、やはりため息が漏れた。「力になれなくて申し訳ない」と篠田さんが小さく言う。

「ううん。狭き門だからしょうがないよ。だめもとだったし。聞いてくれてありがとう」

「胡桃は明るいしコミュニケーションもうまいんだから、営業職の方がよほど向いてると思うよ」学部生の時からメンターや先輩や人事に言われていたことだった。そして、すでにベンチャー企業と中小企業で営業職の内定をもらっていた。「知ってる」と短く答える。

「そのうえで出版の編集になれないかチャレンジしたかっただけ。二回目だからもうさすがに諦めるよ。ライター自体は楽しかったから、いつか副業ででもやろうかなって思う」

「胡桃は要領よさそうに見えて意外と不器用だし苦労人体質だよな。ビリヤードみたいにバンバン臆せずぶつかっていくだろう。こっちが見ていてはらはらするくらい勢いよく」

「玉砕してみないと諦めつかないだけ。あとからあれこれ後悔するの時間の無駄じゃん」

「雄々しいな。でも、生き急ぎ過ぎてるときもあるから、たまにはゆっくり歩いてみるのも悪くはないよ」

「そうかな」

言葉少なに、運ばれてくる料理を片付ける。宝石のようにきらめきながらふるえる寒天、さくりと心地よく鳴る天ぷら、ほどよく脂ののった刺身。とりとめのない話をしていると、「初めて会った時より胡桃は柔らかくなったな」とぽつりと篠田さんが言った。

「打ち解けただけじゃないの?」

「それももちろんないわけじゃないだろうけど。というより、ここ最近急に思うようになった。もしかして誰かと付き合ってるのか?」

 ほんのコンマ0.5秒迷ったけれど「まさか。就活と修論でそれどころじゃなかったもん」と一蹴した。篠田さんは信じているのかいないのか「まあ、そうだな」と低く呟いた。

 なんだかんだ、篠田さんと付き合っている間ほかの特定の恋人はできなかった。不倫なんだから恋愛相手は分散させないと終わらせられなくてまずい、と頭の中で計算は働いたものの、なぜだかそういう時期にかぎって誰ともかちりとはまらず、こちらからけしかけてもはぐらかされた。人より遊んできたし場数も踏んできたつもりだったけれど、どうやら自分の定員は一人らしい。現に、乾と遊ぶようになってからは篠田さんへの執着はあっさりと遠ざかった。

一個手に入れようと思ったら一個捨てなきゃなのかな、とぼんやり思う。けれど自分から別れを切りだす度胸はなく、足代をもらって帰宅した。電車で横浜に戻っていると、乾から【明日夜空いてたらごはん食べよう】とLINEが来ていた。OKと返信する。

 出版社の内定を諦めた時点で、インターンはやめていた。乾は「胡桃は編集よりも自分が主体となってつくったり動いたりする方が向いてるよ」と言った。

やめてからも、ごはんを食べたり家によんで泊まらせたりしている。何がどうころんだらこうなるのだろう、と不思議に思うけれど、乾は「俺は最初から胡桃と付き合うことになるだろうなって思ってたよ」と言ってのけた。「だって俺ら似てるもん」――つけ加えたひと言に対しては「それはない」と斬ったけれど。

ハプニングバーからラブホテルに行った夜、結局乾は自慰をしなかった。

勃たなかったからだ。

あんなふてくされた気持ちでラブホテルまで行ったのは初めてかもしれない。道中、絶対に「やっぱりやめよう」「ごめん、冗談だった」と乾が言い出すと思っていた。けれど乾は何も言わずに黙々とホテル街へ進み、値段を何店舗か見比べたあと「ここに入ろう」と言った。胡桃は黙ってうなずくしかなかった。

週末ということもあり、どの部屋もいっぱいで空いていたのはとても狭い部屋だった。上がり込んで荷物をソファに下ろした。後ろからついてきた乾も同じようにした。

で、と乾が口火を切った。

「俺、あんなこと言っといて実はEDなんだよね」

「……二十四でしょ?」というかさっき私見て勃ってたじゃん、と詰めようと思ったものの、自分の目で確かめたわけではないので口をつぐんだ。

「二十四でもショックとトラウマがでかすぎると不能になるらしいよ」

 大学んとき付き合った彼女が弩級のメンヘラで、と乾が語りモードに突入しそうになったので、「ほかの女の話するなら黙って」とぴしゃりと言い放つ。乾は苦笑いした。

「まあ詳細は省くけど、そういうわけで俺はセカンド童貞迎えてるってわけ」

「あっそ」ごろりとベッドの上に寝転がる。元々そこまで見たいとは思っていなかった。自分とおなじだけ恥をかこうとしてくれただけで気が済んでいた。

「ここ、三時間パックで取ったから寝るなよ」

「えー? いまから横浜に帰れるわけないでしょ。泊まりに変えるって言っておいて」

「あー。わかった。でも俺現金足りないかも」

「私が出すからいい」ラブホテルで自分のお金に硬貨でも手をつけるのは初めてかもしれない。別にかまわなかった。

「ごめん、あとで返すから」

「いい。高卒の極貧エロライターに全部奢らせるのはこっちが夢見悪いし」

 乾は喉でくっと笑った。「コモモが夢見とか気にするのか」

「ねえ、そういえばなんで私のことコモモって呼ぶの?」

 コンタクトを外してメイクも落とさなければ。頭の片隅ではそう思っているのに、乾が照明を落としたせいで眠気がふぁさりと瞼に覆いかぶさってきて目を開けていられない。

「なんでだと思う?」

「私を好きで気を惹きたいからでしょ」

「もてないおっさんがキャバ嬢の気を惹くために本名聞いて呼ぶみたいなことするかよ」

「乾は実際もてないじゃん」

「まあそれを言われたらぐうの音も出ないけどさ」

 乾も隣に横たわった。くっつこうかとも思ったけれどいちど横になると億劫すぎて動くこともままならない。会話が途切れたので、眠気を押し殺して「それで終わり?」と促すと、乾は間をおいてから言った。

「なんか、胡桃って小さいのに気をびんびんに張ってて、それが面白かったから」

「はあ⁉ 気を張ってるのと身長なんも関係なくない? あと面白いって何っ」

 失礼な発言に、眠気も吹っ飛んで起き上がる。乾は目をつぶったまま笑って見せた。

「ごめん。面白いっていうか、かわいいなって思ったから」

「顔がでしょ」

「あえて否定はしないけど」

 でも胡桃は中身の方が魅力的だよ、と乾がのたまった。あ、初めて本名で呼んだ、と思ったのに、乾は眠ってしまったのか寝たふりなのか話しかけてもこたえなかった。

 顔が好みなわけでもない、体格は自分以下、学歴は中途半端、薄給の編プロ勤めで実家暮らしの同い歳。まさかこの自分がこんな男とこんなところまで流されるとは思わなかった、と思いながらしげしげと乾の寝顔を眺める。けれどいまだって既婚者と付き合っているのだから、不毛なのは変わりないか、と思った。

 幸せになりたいというよりも他人から見て幸せである自分になりたいのだと思っていたし、自覚があるぶんどれだけでもごうつくばりに計算高く生きようと誓っていた。けれど実際のところ逆だったのかもしれない。そう思い込んでいただけで考えるより先に「これだ」とむんずと手で選択している時一般的に価値があるかどうかなど気にしていなかった。

――自分で思ってるより私って性格悪くないのかもな。

 そんなことを思いながら目を閉じる。水商売で働き、既婚者と金銭を介した交際をして、働いてもいないくせに男のことは年収と容姿だけで自分にふさわしいかどうかを判断してきた。傲慢で、打算的で、自信過剰で、性悪であることを自覚していたし、一生こうなんだと思っていたけれど、自分で自分を下げていただけだったのかもしれない。

電車に揺られながら思った。窓の外の景色を映さない暗い地下鉄の車窓に映る自分は、いつもより疲労していて、少しだけ色っぽかった。


朱莉

 ふんわりと甘い匂いがする。誰かの香水かと思ったら金木犀だった。ストッキングではなく薄手のタイツを履く。朝洗顔するときに掬う水が冷たくなって季節が移っているのだな、と気づいた。

秋の空気は、干してしばらくたったシーツのようにやさしい手触りで肌を撫でていく。ラフに結んでいた髪をほどいた。手でとかさなくても風がすうすうと通り抜けて洗っていく。キャラメルポップコーンにも似た、香ばしくて甘い匂いも混じって、息を吸うたびどこか懐かしい。通り過ぎる人たちの香水がフルーティなものから重く甘いものに変わった。

 何の因果だろうか。失業してから朝倉君の中目黒のマンションでほとんど半同棲している。「期待していいってことなの?」とおそるおそるたずねたら、「恋愛感情でやってるのかって意味なら違うよ。少しでも朱莉の自立の手助けになればいいと思ってるだけだから」とあっさり否定された。反射的にわっと泣き伏せった。そのあとも追い出されるわけでもなく、ただのんべんだらりと中途半端な二人暮らしが続いている。

 助かると言えばもちろん助かる。自分の家には週二回帰っているとはいえ、朝倉君の家にいる時は全額食事代を出してもらっているし、一人でいるとどうしても気持ちがふさいでしまうので、情緒が不安定になって涙ぐんでいる時に、大概の手段がセックスであるとはいえ、慰めてもらえるのは正直ありがたかった。

「バイトじゃないんだから、もうちょっとちゃんとした写真撮れば?」

 証明写真を見られ、奪い返そうとしたけれど朝倉君は真面目くさった顔で財布を取りだした。ほら、と三万円を渡される。

「……何、これ」

「貸すから証明写真、ちゃんとメイクまでしてくれるところとかで撮れ。役職持ってるやつの『この子可愛いじゃん』で面接に呼ばれるかどうか変わるんだから、ちゃんとしたの貼らないと郵送代の方がもったいねえよ」

「三万もするの?」思わず悲鳴のような声が漏れた。

「まあ探せばもっと安いところもあるだろうけど。あといま来てるジャケット微妙に丈逢ってないし買ったら? っていうか次の土曜日スーツ買いに行くか。なんか、いまの朱莉の見た目だと歳だけ食った新卒みたいでなんかちぐはぐなんだよ」

 容赦なくけなされてむっくり黙り込んだ朱莉を見て、朝倉君はけらけらと笑った。

「図星だってわかってんだろ。先行投資なんだからけちんなよ。あとスーツ代ぐらい俺が出してやるよ」

「いいの?」

「ちゃんとしたスーツ着ないとなめて見られるぞ。スタイル良いんだから武器はちゃんと駆使しとけって」

 ――これは償いみたいなものだから、期待しないで。心がほんのりと温まるたびに、やけに冷静だった口調がよみがえる。ぬかよろこびは悲しみよりも深く自分を傷つけることをよくよくわかっているので、やさしくされるのは幻にふれているようで苦しかった。とはいえ、無職で貯金もない自分が「つらくなるからやさしくしないで」などと跳ね除けられる立場にはいないのだから、どうしようもない。

 すでになんどもお祈りメールを受け取っていた。社会に戻れる気がしない、と弱気になってぐずぐず泣いていると「大丈夫だって」「つらいのはいまだけだよ」と思いがけないほどやさしく慰められ、励ましてくれる。

このままだらだらと時間だけが過ぎて、いっそ八十歳くらいになっちゃえないかなあ、とばかばかしい妄想に思いをはせてしまう。ずっとこの人と一緒にいたい。けれど一方で、この時間が長引けば長引くほど深く傷つくこともよくわかっているので、転職活動に精を出さないわけにもいかない。矛盾をパッチワークにしたような日々がつづく。

土曜日の午後、本当にスーツを買いに行って、トンカツを食べに行った。一着だけだと思っていたのに店員さんが「二着買うと三割引きになりますのでお得ですよ」と余計なことを言うのではらはらしていたら、「じゃあ色違いでグレーも買おうか」とあっさりと朝倉君が言った。そして本当に、朱莉の家賃ひと月分近い額をカードで払ってくれた。

「一か月以内で内定出そうと思ってたんだけど、無理かもしれない」と打ち明けたら、朝倉君は「そりゃそうでしょ。バイト探しじゃあるまいし、もっと長い目でやりなよ」と当たり前のように言った。

「……え、あの家もう少しいてもいいの?」

「いたけりゃ別にいいよ」女の子よべないよ、と口にしようとしてやめた。遠回しに探りを入れるようなやり方ではなく、もっと素直に言葉にしようと思った。

「私が家にいたら、ほかの女の子とは付き合えないけど、それはいいの?」

 朝倉君はちらりと朱莉を見て、また視線をトンカツに戻した。

「仕事忙しいからそれどころじゃない」

「時間だけの問題じゃないでしょ。現に今日、私に付き合って買い物してくれたじゃん」

 朝倉君は面食らったように瞬きして「まあ、今日はね」と言った。

「朝倉君が私によくしてくれるのは、単なる同情なの? 感傷?」

 昼の光が秋特有の鈍い角度で差してくる。朝倉君はわずかに瞼をふせた。まつげが影を落とす。低くぽつりと呟いた。

「構わない方がいい?」今度は朱莉が押し黙る方だった。

「正直朱莉の言うとおりだと思うよ。もっと言えば偽善かもな。悪い、無職で精神的に追い詰められてると思ったから、あれこれ差し出がましいことして」

「違うの。それは、本当に助かってる。責めたいわけじゃない」懸命に言葉を探した。「ただ、私は」朱莉のことが可愛いからそうしてるんだよとか、好きだからにきまってるだろとか、そういう自分に都合の良い台詞を引きだせるはずはないことはわかりきっていた。それでも、この期に及んでまだ、自分が入り込める隙はないかといやしく探ってしまった。そこまで考えてくちびるをつぐむ。

「……とにかく、いまは内定取ることに集中する。申し訳ないけど、それまでは頼らせてほしい。私はふたつのことを同時にはできないから」

「婚活してほかの男探すこと?」

 心臓を鷲掴みにされたみたいに固まってしまった。朝倉君はあっさりと「別に隠さなくていいよ。むしろ朱莉が婚活してて安心したもん」と言った。口調通り責める言い方ではなかったからこそ、「違うって!」と必死で否定した。

「してないって。知り合いに頼まれて一緒についていったりしただけだし」

 一体何を見られたのだろう。どぎまぎしていると、朝倉君は「そうなの?」と言った。「あ、ごめん。携帯見たとかじゃなくて、前朱莉の家のポストに結婚相談所からお礼のはがき来てたから。それであー登録とかしてんのかなって勝手に思っただけ」

 胡桃と街コンに行ったことではなく結婚相談所に行ったことを知られたのか。あんなのただの冷やかしだったのに、本気で思い詰めて行ったのだと思われている方がよっぽど恥ずかしい。「してないって」と思わず首をぶんぶん振った。

「ま、内定出たら彼氏探しなよ。転勤ないやつにしとけな」

「……ひどい」

「俺がひどいのは前から知ってるだろ」

笑うでもなく真顔で言うので、唇が歪んで、それ以上箸が進まなかった。同じ家に一緒に帰る雰囲気ではなくなり、スーツの入った紙袋を下げてぎこちなく駅で別れた。

 粘り強くやっていれば正社員の内定くらい出る、と朝倉君は簡単に言うけれど、手ごたえを感じられずにいる。いったいいつになったら生活と精神が同時に落ち着くのだろう。

 まっすぐ家に帰る気になれず、池袋で降りた。買い物できるような身分でもないのになんで降りちゃったんだろう、となげやりに思いながら駅前を歩く。一杯だけカフェでお茶して帰ろう、と思っていたら「ねーえ」と横から声をかけられた。治安が悪いことはよくよく知っているのでいまさらナンパに驚きはしなかったけれど、なんとなく目を合わせてしまう。色が白くて、目が離れていてなんだか爬虫類っぽい感じの男がひるむほどそばから顔を覗き込んできて、ひらひら手を振っていた。

「おねーさん今日は買い物? デート? 暇だったらちょっとコーヒーでも飲もうよ。綺麗だから話したくて」

 いつもならさっさと逃げているのに、どうしてだかついていってしまった。どうせお茶を飲むなら他人のお金で飲んでトイレに立つ振りをして帰ろう、と思った。というよりも、誰でもいいから話してから家に帰りたかった。

「ねえ、俺回り道とか嫌いな人なんだけどさ、いまお金に困ってたりしない?」

 抹茶オレをこちらに手渡すなりそんなことを言いだすのでぎょっとした。どうやら普通のナンパではないようだ。なぜついてきてしまったのだろう、と一瞬で後悔しながら逃げるようにしてカップに口をつける。

「いま何してるの? OLさん? アパレルとか?」

「……まあそうですけど」こんな男に無職だとは言いたくもなかった。言えばかもにされるにきまっている。

「副業でさ、メンズエステやらない? メンエス。一日四万は持って帰れるよ」

「……そういう仕事は興味ありませんから」

「いやいや、ぶっちゃけこれ抜きなしでこの額だから。お金持ちの紳士なお客さんの背中とか脚とかオイルでマッサージするだけだよ。むしろうちそういう裏オプションみたいなことする女の子、出禁にしてるから。健全でしょ?」

 一日四万、だとしたら週三回勤務するだけで月五十万近い稼ぎが手に入ることになる。一瞬頭で計算した額の大きさに目が泳いだのを見て、男は調子に乗って畳み掛けてきた。

「ね、一回体験でやってみない? もし向いていないと思ったらやめればいいしやりたいと思えばつづければいいし。おねえさん綺麗なんだから生かさないともったいないよ? ね、ライン教えてよ」

「……いいです」半分以上オレを残して立ち上がり、足早にカフェを出た。追いかけてこられてしまう気がして人混みめがけて一心不乱に走ったけれど、その気配はなかった。その足のまま改札を通って電車に乗り込む。シートに空きがあったので鞄を抱きかかえるようにしてすわった。目をつむる。

 ――女は結局、くいものにされるだけの性別なのかな。

 二十三、四だったらたぶん鵜呑みにして体験入店くらいまではしてしまっていたかもしれないな、と冷静に思う。内定が出るまでなら、とか一回だけなら、と思わないこともなかったけれど、いちどあちら側に落ちてしまったらもう戻れなくなるような気がした。だからこそあの男は自分に話しかけてきたのではないか。そう思うと、みじめさに拍車がかかった。こういう気持ちを一生味わわない同性も大勢いるだろうに、その人たちと自分とで何が違ったんだろう。好きな人に好きとも言われず、性別を搾取しようとにやつきながらナンパをされる。その上無職だ。みんなみたいになりたい。そのためならなんだってする。でもいまは何もしたくない。綺麗な二律背反が朱莉を嘲るみたいに遠ざかっていく。

 家につき、惰性でテレビをつけた。夕方のニュースは虐待の報道から始まった。途中まで見ていたけれど、自分より不幸な人を探しているだけな気がする、と思って消した。布団にくるまる。内定を出さなければどうにもならない。

 

晴夏

 ぼんやりしていると強風が吹きつけてきてくしゃみが二回連続で出た。さっき駅で配っていたポケットティッシュで洟を噛む。

 今日、一度目に起きたら十三時だった。寒さと眠気に負けて二度寝したら、十九時だった。ぼんやり日付を確かめて、朝の七時じゃなかっただけましだ、と思った。

 ここまで休日を寝潰すなんて、ひょっとすると学生時代までさかのぼらないとないかもしれない。どれだけ前日に残業をこなしてタクシーで帰ってこようと、九時過ぎには無理に身体を起こしていた。朝帰りしたときすら、完全な睡眠は取らずに三時間だけ寝たしてまた起きて活動していた。ほとんど、意地や願掛けに近かった。

 誠が、惰眠を忌み嫌っていたからだ。「起きたときに陽が高いと損した気分になるじゃん」と言って、晴夏を起こしてドライブに出かけたり朝ごはんを食べたりした。

先週逢った時ふと思いついて「いまでも休みの日早起きなの?」とたずねると、誠は「よく覚えてるね。あの頃は起こして悪かったよ」と苦笑いしながら「生きてる時間が減って損だからね」と七年前とおんなじように冗談交じりにこたえて、ぐっと胸の底がふくれあがる心地がした。

確かに当時は起こされて不機嫌になったり、猫撫で声でなだめすかしてどうにかもう少し寝させてくれと懇願したこともたびたびあった。けれど、別れてからは誠のルーティンをたどるように休日に鳴るアラームを九時半にセットした。付き合った男たちには「晴夏、休みの日朝早くね」「ばーちゃんかよ」と不評だったけれど、かまわずベッドを抜け出して、手際よくおにぎりやフレンチトーストを作って彼らを起こした。誠がかつて自分にそうしてくれたように。

 ――たぶんあの人たちの中で「晴夏みたいに休みの日でも早く起きるようにしよう」とかって習慣変えた人いないんだろうな。

 そんなことを思いながら、足早に歩く。誰かの神様に、自分はなれなかった。

【僕も仕事いま終わりました。どこにいますか? ごはんでもどうですか。】

 熊藤からメッセージが来ていた。出がけに【今日休みなのに今起きました 人として終わってる】と送ったものに対する返信だった。恋人でもなければ寝たわけでもない相手に用事のないLINEを送ってしまったことをいまさらわずかに恥じる。

 あの時もそうだった。誠と別れて、由季子が恋人と住む部屋に帰って行った晩、晴夏は熊藤を呼びだすことを思いついた。

いきなり、しかも初めて電話をかけたのに熊藤は動揺するでもなく「はい、こんばんは」と静かな声で出た。それだけでなきそうになった。

「誠と別れました」

「そう、お疲れ様。僕もなんだか落ち着かなくて、近所で飲んでます。よければ来ませんか。そちらからはあまり近くなくて恐縮だけど」

 熊藤が住所を言いかけるのをさえぎった。そして言った。

「私と今日寝てくれませんか」

 沈黙が流れた。あまりに長いこと黙っているので、このまま通話を切られるのかと思った。それならそれでいい、と自分から切りそうになった時、熊藤が言った。

「それで晴夏さんの気が済むなら、そうしましょうか」

 そして、熊藤は本当に恵比寿まで来た。酔っているのだろうかと思ったけれど、飲んだのはハイボール一杯だという。タクシーで三十分以上かかった彼を待つ間に、晴夏の酔いはとうに醒めてしまっていた。

 お疲れ様、と後ろから腕を引かれた。熊藤が立っていた。思わずぎょっとして後ずさる。

「恵比寿には全然詳しくはないんですが、なんとかいい雰囲気の部屋取れましたんで、そこに行きましょう」

「わざわざ予約したんですか? ラブホで充分だったのに」

 熊藤は黙っていた。一駅だったので、タクシーで彼が予約したシティホテルに向かった。

 まるで現実味がなかった。そっぽを向いて窓の外をにらんでいるうちに、車が止まった。熊藤のあとにつづく。チェックインを済ませ、エレベータに乗り込み、廊下を歩いている時、どちらも言葉を発さなかった。

「あ、思ったより景色いいですね」

 部屋に入ると、ぽつりと熊藤が呟いた。部屋は広く、お決まりのように夜景が広がっていた。あとについてきた熊藤は落ち着いた様子でコートをクローゼットにかけている。もてない、とやたら自虐はするくせに妙に手だれた仕草に見えて嫌な気持ちになった。

 いまから自分はこの人と寝るんだろうか。短時間のうちにいろんな人と会って話して、なおかつ誠と逢う前の緊張のせいで今日は早くに目覚めていた。急に瞼が重くなってきて、ベッドに力なく倒れこんだ。誘っていると思われて覆いかぶさられてもあの体格じゃ振り払えないかもしれない、と思ったけれど、「メイク落とさなくて大丈夫ですか」とやんわりと声をかけられただけだった。

 ありとあらゆる技術を駆使してつくりあげた化粧の工程を思うと、落として寝た方が絶対にいいに決まっていた。けれど面倒くさくてたまらない。

「しぼったおしぼりでも用意しましょうか」

「いいです」と瞬時に断って、「やっぱり持ってきてください」とお願いした。持ってきてくれた熱いおしぼりを顔に押し当てる。硬くこわばったものが、ゆるゆると溶けていくのを感じたら、いっそ目が醒めた。

「やっぱり、お風呂に入ろうかな」

 ぽつりと呟く。じゃあ溜めてきますよ、と熊藤がバスルームへ消えた。ばばばば、と勢いよくバスタブをお湯が打つ音がし始めた。手持無沙汰で、ぼんやりと窓の外に視線を投げた。さまざまな色に光が点滅して、宝石箱の中身をぶちまけたみたいに綺麗だった。正真正銘好きな人とこの景色を見ながら声が嗄れるまで抱き合えたらどんなに幸せだろう。

 のろのろと熊藤を振り返った。

「お風呂、一緒に入りますか?」

「僕の裸、みっともないですよ」

「何となく想像はつくから別にいいですよ。熊藤さんよりずっと上の人とも、もっと太ってる人ともしたことあるし」

「そういうことをわざと言って人を突き放そうとするんですね」

水を浴びせるような思いがけずひやりとした声で言い返され、思わず口をつぐんだ。聞かれていないと思っていた軽口を教師に指摘された中学生みたいに。

 熊藤は自分が言い放ったくせに、おどおどと目を泳がせた。

「あ……すみません、いまのは嫌な言い方だった。けど、手っ取り早く僕を軽蔑するためだけに誘ってるなら、応じられない」

「どういう意味ですか」

熊藤は晴夏と距離を取るようにソファに腰を下ろした。

「晴夏さんは僕を失っても何も痛手じゃないから、簡単に寝られるかもしれないけど、僕はそうじゃないんですよ」熊藤はまっすぐに前をにらみながら言った。言い返せなかった。

「軽蔑って、楽な感情処理だからね。最愛の男の人と別れたばかりの晴夏さんを抱いたら、晴夏さんは僕のことを軽蔑できるじゃないですか。やっぱり男なんてみんな一緒だ、きれいごと言ってたこいつも結局みんなと変わらない、って並列にならべられるでしょ」

「言ってる意味がよく、わからないんだけど」

「寝たら楽になるっていう感覚はわかりますよ。わかりますけど、それってもセックスじゃなくて僕を消費して自分一人で納得したいだけでしょ」

黙り込んだ。言おうとしていること全て飲み込めたわけではないにしろ、熊藤が自分の言動に対して怒りと哀しみを抱いたことだけははっきりと伝わった。熊藤は淡々と続ける。

「お互い疲れてるんですよ。もう、お風呂溜まってるでしょうから入ってきてください」

 タオルを持たされ、追い立てられるようにしてバスルームに押しやられた。呼びだしたのは晴夏だが、ホテルを取ったのは熊藤の判断だ。なんでこんな扱いを受けなきゃならないんだろう、といらだったものの、帰るにしても一汗流してから考えよう、と素直にお湯に浸かった。

 本当だったら、熊藤はもちろん由季子にも誰にも報告せずにひとりでうちひしがれながら夜を過ごすべきだったのかもしれない。強い酒を煽って、気を失うくらいの濃度に喉を焼いて、玄関でへばりつくようにして帰宅するべきだったかもしれない。けれど、どうしてかいま、こんなにも温かな、まるで天国みたいな温度の広い湯船に浸かっている。信じがたいことに、誠に子供ができたことや海外移住の話がだんだんとどうでもいいことでは、と思いそうにすらなっている。もちろん、気のせいでしかない。けれどいまは無心でいようと思い、もくもくとシャンプーしてお湯を流した。

 熊藤に先に帰られているのでは、と危惧しながら部屋に戻ると、彼はソファに腰かけてテレビを見ていた。音を絞ったバラエティ番組が流れているのを不思議な気持ちで眺めやる。すでに一時を回っていた。

「温まりましたか」

「まあ、おかげさまで」

「よかった。髪、乾かして歯磨いて寝てください」

「子供じゃないんだから」僕からしたらおんなじようなものに見えるけどなあ、と熊藤が笑う。その笑みはいつもと同じ温度で、少しほっとした。

「化粧落とすと、本当に小さい子みたいですね」

「どこにでもいる顔ですよ」

「僕はそうは思わないです。晴夏さんが好きです」

 きょとんとしていると、「いや、我ながら意味不明なタイミングだったな」とあせったように立ち上がった。「すみません。僕も軽く浴びて、歯を磨いて寝る支度します。待たなくていいですから、先に休んでてください」とあたふたと部屋を出て行った。

 その大きな背中を見送ると、みょうにせつない気持ちがこみ上げた。懐かしさにもにたむず痒い疼きが沸き立ち、後ろから抱きつきたいような気持ちに駆られた。けれど、また熊藤に拒絶されることを考えると身体は動かなかった。

 熊藤は父に似ている。雨にも似たシャワー音を聴きながら、ふわりと眠りに誘われた。瞼に毛布をかけられるようにして、目を閉じると、あっけなく寝てしまった。

それから一週間。「仕事間に合いましたか」のひと言だけ、翌日届いていた。なんと返していいかわからず、それには返事をしなかった。

「こないだは自分だけさっさと寝てすみませんでした。先に帰っちゃたし」

 串揚げの店で落ち合うと、熊藤は「いえ、かまいませんよ」とおしぼりで額の汗をぬぐった。「暑いんですか」と問うと「急いで来ましたから」と笑う。

「少しは気休めになったらよかったんですけど、最近はどうですか」

「まあ、多少は落ち着きました」あのあとどうしても気持ちに踏ん切りがつかなくて誠に長いメールを送りつけたとは到底言えなかった。パンドラの箱のような、長く粘るようなメッセージに、誠は数日してから端的な返事を寄越した。それなら会って話そうか、と。

「来月札幌に出張するんです。お土産、お菓子がいいですか、それともお酒とかの方がいいのかな」うずらの卵の串揚げと海老の串揚げを両手で持ちながら熊藤が言う。ロイズのチョコレートとキャラメル、とこたえると嬉しそうに「買ってきます」とうなずく。この男は自分の何がいいと思って逢っているんだろう、と心の底から不思議に思った。


胡桃 

〈11月23日

 ようやく契約社員の内定がひとつ出た。正社員じゃないじゃん、なんで契約社員の選考受けてるんだよ、と彼に怒られたけれどとにかくほっとした。出口のふさがれた落とし穴に落ちてもがいている気分だった。まだそこに行くかは決めていない。もう少し、転職活動をつづけてみようと思う。

 週2のペースだけど、最近は近所の書店で働いている。最初は彼の家の近くの本屋さんにしようかなとも思っていたけれど、そこは求人を出しておらず、結局自分の最寄の書店でバイトしている。少しずつ家に泊まる頻度を減らしている。自立しようとしてるんじゃんえらいね、と彼に言われて複雑な気持ちになった。

 ずっと、女の人の人生は、キャリアを積んでばりばり稼ぐか、結婚して子供を持つかの二種類しか成功パターンがないような気がして不安だった。自分の友達は大体結婚して子供がいるし、前の職場はエリートな同性の正社員に劣等感を刺激されてばかりだった。でも、無職になって友達とも前職の社員とも会わなくなって、どちらにもなれなくても別にいいんじゃないのかな、と思えるようになった。自分に、オーケーを出さないと生きづらいよと彼に言われたせいもある。

 恥ずかしくて、匿名の場所でも書けなかったことを初めて書く。

 ここ数年、結婚したくてたまらなかった。親にも友達にも言ったことがない。聞かれたら「いい人がいたらいつかね」と曖昧にぼかしていたけれど、本当は、聞かれるたびにつらくなるくらい、したかった。恋人がいるどころか好きな人に相手にされていないし、彼以外にちゃんと真面目に相手を探しているわけでもなかったけれど、結婚したかった。具体的な相手が思い浮かんでいるわけじゃないのに結婚願望がある自分が、とても浅ましく思えて情けなかったけど、でも、どうしようもなかった。

 したこともないのにどうしてこんなに結婚したくてしかたがないのか自分でもわからないくらい、確信的に結婚願望がすこんとまんなかにあって消えなかった。男の人に抱かれたこともないのに女子高生が「セックスしたい」と思うくらいちぐはぐな感情だ、と自分でも思った。けれどどうしても結婚したい。できるだけいますぐ。それは、あるのかないのかよくわからない性欲なんかより、よほどずっしりと重く手ごたえのある欲求だった。

 その気持ちが、すっぱりなくなった、というわけではない。いまでもやっぱり、誰かと結婚したい。正直いますぐにでも。けれど、前ほど義務のように思い詰めるほどではなくなった。「できたら幸せだろうなあ」くらいにはゆるまった。それは、ある程度自分の足だけで歩いていける可能性についてやっと思いをはせることができるようになったからかもしれない。内定が出たこと以上に、そのことを嬉しく思う〉

 朱莉さんのブログが久しぶりに更新されていた。長文だったので、ゆっくり時間をかけて三回読んだ。LINEで感想を送ろうかとも思ったけれど、匿名で書いた日記に対して顔見知りからレスが来たらあまり気分がいいものではないかもしれない、と思ってやめた。

 取材のていとはいえ、なぜ朱莉さんを巻き込んで婚活の真似ごとをしたのか、いまになってわかる。文系の院生で就活浪人生、という不安定な立場にいることを、婚活を垣間見ることでごまかして安心したかったのだ。そしてもうひとつは、若さというすぐに朽ち果てるからこそわかりやすい武器があるうちに土俵に入ってみたかったという計算もあった。けれど、それもすぐ失敗だと思った。若いからという理由でよってくる歳上の人間は、そもそも同世代の女から相手にされていないし、タイプじゃない。適齢期になったらまたやってみるのかもしれないけれど、しばらくはいいかな、と思った。

 先月内定式があった。いわゆるメガベンチャー系の会社で、胡桃がもらった内定は営業職とコンサルのあいのこのような、要するに何でも屋に近い業種だった。具体的に何をしてお金をもらうのかいまひとつ想像がつかないままだったけれど、年俸がほかの会社より少し高かったのと、女性社員の割合が少なかったからそこにした。

 めぼしい学生に声をかけて仲良くなり、発表の機会があれば積極的に前に立った。点数稼ぎではなく、自分の居心地のいい場所をさっさと見繕ってしまいたいと思ったからだった。自分と変わらないような年齢の若手社員が考えたインターンの内容は大して面白いというわけでもなかったけれど、様々な人に「根岸さんは優秀ですね」「発想がいい」と声をかけられた。舞い上がるわけでもなく、笑顔で「ありがとうございまーす」と流しながら、なんかキャバで働いていた時とあんま変わんないなこれ、と思った。

 篠田さんは前より頻繁に連絡してくるようになった。慌ただしくセックスして、「明日の午前中に締切あるから」とタクシーで会社に戻ったりする。童貞じゃないんだからそんなにがっつかなくてもいいじゃん、と笑ったら、むきになったように唇が腫れるまでキスされて、なかなか離してくれなかった。本気だった時期もあるからいやではないけれど、正直波が引いたいま見境なく呼びだされては皮膚でもなめすみたいに抱かれるのは面倒くさい気持ちもあった。湯水みたいにお金は貯まったものの、感情がおいていきぼりにされているせいもあり、肉壺にされている代金だな、と乾いた感想しか抱かなかった。

「まだキャバクラで働いてんの? そろそろ修論詰めないとって言ってなかった?」

 焼肉奢るから新大久保行こう、と呼びだすと乾は紙エプロンをつけながら余計なことを言った。うっさいな、と言い返す。

「最近はほぼ出勤してないよ。内定先のインターンあるし修論やばいし」パパに頻繁に呼ばれているからそもそもバイトの必要がほとんどない、ということを乾だったら大して驚いたり怒ったりせず面白がってくれそうだと思ったけれど、ひとまず言わずにおく。

「どうよ内定先は」

「まあ、こんなもんかなって。内定者、結構美人いたよ。私も顔採用枠かもしれない」

「コモモって発言のわりに見た目褒めると怒るよね」

「見た目だけで生きていけるのに可愛げがないぐらい賢いのが私の長所であり短所だから」

 はは、と乾は簡単に笑う。同級生と付き合うとこういう物言いを疎まれることが多いから避けていたけれど、この男は面白がってくれる。初めはプライドがないのかなと穿っていたけれど、結局余裕があるかどうかってことなのかな、と最近は思うようになった。

「出版で働けないって決まった時ものすごく落ち込んだけど、たぶん私ライターも編集も向いてないよね」

「そうだね。向いてないとまでは言わないけど、本業にする感じではないかな、って正直インターンの時思ってた。でも編集長はコモモのこと未だに惜しんでるよ。直しは入るにしろ書くの早い人って重宝されるからね」

 あっそむかつく、と口では言いつつ、内心では納得していた。

ふと、思うことがあった。意志が薄いように見えてほんのり意地悪な視点を持っている朱莉さんこそ、編集やライターに向いているんじゃないか、と。

【朱莉さん日記読みました。興味あれば、ライターになりませんか? 私が以前インターンしてた編集プロダクションで、書ける人を探してるみたいです。労働条件はいいわけではないので胸を張って薦められるわけではないのですが、一応正社員の枠を募集しています。二年近く朱莉さんのブログを読んでると、書くのがすごく好きな人なんだろうなってひしひしと感じたので、向いていると思います。余計なお世話だったら無視してください】

二回読み返して送信を押した。


朱莉

 冬の空は水のように淡く明るい。空に手を伸ばしたら、小川に手を浸すようにどこまでもしずんでいきそうだ。

 遠出でもする? と言いだしたのは朝倉君の方だった。なんでこの関係性においてこのタイミングで、と戸惑いはしたものの、【いいよ】と送った。

遠出ってどこまでのことを指すんだろう、と思ったものの、「泊まりではないよ。悪いけど仕事入っちゃったから」とのことだった。つまり予定が入らなければどこか温泉で宿をとるつもりだったんだろうか。二年の間のうち、朝倉君が一人で、あるいは誰かと旅行に行っていたのはうっすら把握していたけれど、朱莉が誘われたことはいちどとしてない。

「茨城って行ったことある?」

「ないかなあ」正直、もっと遠くだったりわかりやすい観光地に行くのだと思っていたので内心がっかりしながらこたえた。 

「北関東自体あんま興味ねーか。俺実家こっちなんだよ」

「え、品川じゃなかったっけ」

東京に実家があるのだと思っていた。いかにも東京生まれという見た目とふるまいだもんな、とひそかに思ったことも覚えている。朝倉君はきまり悪そうに肩をすくめた。

「親が定年退職してから都内に移ったんだよ。でも元の家は残ってるし、たまーに荷物取りに帰ってる。たまにな」

「ふーん」含みを持たせたつもりなく言ったのに、朝倉君はむきになって言い返してきた。

「うっせ、半端な田舎出身で悪かったな。そういう反応されるから言いたくないんだよ」

確かに、東京生まれなのだとばかり思っていたのと、茨城出身なのとでは、印象はやはり違う。どちらかと言えば、努力したんだなとか、親しみやさがあるだとか、悪いイメージではないのだけれど。そう口にすると、「そういうのが嫌なの」と鬱陶しそうに手を振る。

「それで、なんで実家に行くの?」まさか親に紹介でもする気だろうか。いや、でも両親はいま東京にいると言われたばかりだった。だったらなんだろう、急に。

「実家に行くわけではないよ。三年ぐらい帰ってないし、ひさしぶりに車で走ろうかなと思って。別に観光地ないけど、いいでしょ? 海沿いだし景色は綺麗だよ」

「へえ」なんだ、やっぱり気まぐれか、と肩透かしを食らったものの、弾んだ気持ちが目減りするわけでもなかった。混んでるだろうから、と朝の早い時間に一緒に出かけることになったことすら嬉しかった。

 九時半にレンタカー屋を出発する。雲をすべて掃けたような空に手を翳していると、眩しいならシェード使って、と朝倉君が横から手を伸ばしてくる。

「助手席に乗ること自体、すごく久しぶりかも。親の車だと、後部座席に乗るから」

「あー。っていうか彼氏の車乗せてもらったこととかないの?」

「ない」

「ふうん。ま、大学が都内なら必要ないしな。維持費ばかにならないし」朝倉君はその時々にいろんな女の子を隣に乗せてデートに行っていたのかな、と考えると気持ちがめげそうで、「茨城って納豆以外だと何が名産なの」と話題を変えた。あー、と朝倉君は低く呻いた。

「正直なんもないね。今日行く大洗ってとこは、でかい神社があるからそれは有名だけど、まあ無難に海産くらいしか名産はない」

「大洗って街が朝倉君の地元なの?」

「そうだよ。ヤンキーと元ヤンと老人しかいない街だけどな」

人より顔が綺麗で利発で皮肉屋な少年を思い浮かべる。ふてくされた顔で予備校とか行ってそうだなあ、と思ってちょっとだけ笑っていたら、「何笑ってんだよ」とすごまれた。「あー、だからちょっとやなんだよな。本当の地元言うの」と顔をしかめる。「正真正銘神奈川生まれの朱莉にはわかんないだろうけどね。いっそめちゃくちゃな田舎が地元だったらまだいいんだけど、北関東って全部が中途半端なんだよな。場所もイメージも文化も」

そんなことないと思うけど、と言おうとしてやめた。朝倉君は、素で傷ついたような、無防備な表情で窓の向こうをにらんでいた。

 道が空いていたこともあり、思ったより早く茨城についた。海に囲まれた街だった。窓を開けると、潮の生々しい匂いがした。普段海に来ることなどないし、自分の生まれ故郷は平野部なのに、懐かしい気持ちに心が簡単にひしゃげた。誰かにどこかへ連れて行ってもらうことがあたりまえだった頃の匂いだと思った。

 海が見えてきたあたりで海鮮丼屋に入った。「やっぱ物価安くていいな」と朝倉君は嬉しそうだった。

 お兄さんどこから来てるの、とおかみさんに訊かれて「東京から出てきてます」とはきはきとこたえる。まーやっぱりね、とはしゃいだように声を上げるおかみさんに「ここは景色綺麗だし食べ物おいしいですね」と笑顔で答える。

 あ、こういう面もあるんだと思った。田舎のことも、高齢者のことも、ばかにしているとまでは言わないけれど何の関心も払わず下に見ているのだと思っていた。意外とおじいちゃんおばあちゃんに懐いてる子供時代だったのかな、とふと思う。朱莉の視線に気づいた朝倉君は照れ臭そうにするでもなく、「がりもらう」と言って箸でつまんだ。

 車に戻る。「眠くなりそうだから音楽かけて」と言われて、「イージューライダー」を選んで流す。途端に朝倉君が笑い出した。

「なんで民雄?」

「ドライブっぽいかなって。へんかな」

「へんとかじゃないしむしろ王道だとは思うけど、朱莉のイメージとは違い過ぎてウケる」

 ドライブデートでべたにドライブっぽい曲を流してみたかっただけだ。言い返したかったけれど恥ずかしくて口にできない。

「あ、コンビニで飲み物買ってから行くか。そこのローソンでいい?」

「うん」なんでいまさら、長年続いたカップルみたいなことしてるんだろう。そう思うと気恥ずかしいし、朝倉君の意図がわからなかった。本人は「急に休みとれたから。あと朱莉が無職で腐ってるかと思って」としれっと流すだけだったけれど。

 ドライブデートは人生の中で経験がなかった。ないからこそ、ドラマチックな感じがして憧れていた。CMみたいに、懐かしい音楽を流して、たわいもないことで笑って、流れていく景色を好きな人と分かち合ってみたかった。

初めは、もっとわかりやすい観光地やデートスポットに連れて行ってくれたらいいのに、と物足りなく思っていたけれど、こうして彼の地元の景色を流していると、それだけで満ち足りた気持ちになった。別に絶景がその先になくても、絵になるわかりやすいロマンティックな要素がないとしても、充分楽しかった。もしかしたら、特別なものがなんにもないような場所であっても一緒にいて楽しいと思えるデートこそ、理想のデートなのかもしれない。さざなみに裸足を浸すように、胸が感傷に濡れて色が濃くにじむ。

 知らない海沿いの町。存在していることを意識したこともなかった田舎。自分たちが出会っていたのが都心ではなくこういう町だったら、何かが違っただろうか。目を閉じる。

「いいね、海」

「だな。夏に来るのとはまた違うな」

「泳ぐためじゃない海って、風情があるよね」

朝倉君は少しだけ黙って、そうだな、と低く呟いた。目をつむっていても、海の表面が龍の鱗のようにきらきらとまたたいているのを感じた。


 適当に車を停めてぶらぶらと砂浜を歩いたり、神社に行ったり買い食いしたりしているうちに、日は暮れ始めていた。空の高い場所が薄い水色で、底の方は淡い桃色だった。全然違う世界の色にも思えるのに、グラデーションで空の色がつながっている。不思議に思いながら目を凝らす。指でなぞればにじんで溶け出してしまいそうなほど、水平線が淡い。そろそろ車戻ろうか、と言われた。

「そういや朱莉って助手席で寝ないタイプなんだな」

「だってもったいないよ」

深く考えないまま口にする。あ、と思っていると「俺とドライブしてる思い出を胸に刻もうと必死ってこと?」と混ぜっ返された。

「否定はしないよ」と呆れて言うと、「俺、寝られると眠くなるからありがたいよ」としずかな口調で返された。ふいに照明が切り替わるようにして空気の重さが変わるのを感じた。

何を言っても、この場では決定打になってしまう気がする。じっと、目の前の景色に集中しようとすればするほど、なぜだか逃げ水のように遠ざかっていく。

だとしても、目の前の、平凡で、どこにでもあるような水彩画のように淡い景色を、きれい、と心の底から思った。こうして、朝倉君の運転する車の助手席にいて、安心しながら景色を見て惚けているこの時間だけが人生の中で本物だ、と思った。あとはちゃちなまがいものか、妥協したすえになんとなく手元に置いているニ軍でしかない。そう思った。

こんなにも満たされている。けれど、この時間はほんの蜃気楼でしかないことも、いやというほど二年の間で思い知らされている。

ふと、手首に巻いていた風船の紐をほどいて空に放ちたくなった。

「朝倉君」なに、と返ってきた声は、どこか神妙に張り詰めていた。

「この旅行で最後にする。連れてきてくれてありがとう」

しばらく沈黙がつづいた。車はなめらかに道路をすべっていく。

「そっか」ふう、と長くため息を吐く。顔も首も顎も固定されたみたいに、前しか向き続けることができない。焦点を虫ピンで留められたみたいに。

「朱莉が自分の意思で離れていくことだけはない、って、妙に過信があったんだけどな。そっか。そうだよな」

 言い聞かせるような言い方だった。言葉を選んでいる気配があったけれど、朝倉君はそれ以上言わなかった。私に惚れていないのだから、与えてくれる言葉にもかぎりはあるんだな、とやけに冷静に思った。

 自分の幸せはすべてこの人が連れてくる。不幸せも彼が連れてくる。二年間ずっとそうだった。そこに朱莉の意思は何も働いていなかった。最初から最後までずっと決定権は彼が握っていて、安堵したり絶望したり舞い上がったり憎んだり、気まぐれな春風に翻弄される風見鶏のようにひたすら振り回されているだけだった。なんて自分勝手で我儘で酷薄な人間を好きになってしまったのだろう、と朝倉君を憎たらしく思うばかりだったけれど、一方で自分がありとあらゆる思考や行動をはなからなげうって彼に寄りかかっていたかについては目を向けたことがなかった。

でもだめだ。これからは幸も不幸も私が抱えて、舵取りをする。

「いい女になったな、朱莉」

 ぽつりと朝倉君が呟く。そういう褒め方をされるのは生まれて初めてで、少し動揺した。

「そんなことない。だとしてもあなたのおかげだよ」

「……気づいてなかった? 最初からだよ。気づいてなかったのおまえだけだ」

 朝倉君がつっけんどんに言う。思ってもみない言葉に目頭が洟を啜っていると、「ダッシュボードに箱ティッシュあるからそれ使いな」と言われる。かっこ悪いな、と思いながらも素直に取り出してぐしゅぐしゅと洟を噛んだ。朝倉君が目をすがめながら前を見つめる。

「今日の夕陽はいやにでかいな」

「そだね」海のそばだからだろうか。炎を底に隠し持っているかのように熱い朱色をして海が揺れていた。

 本気の相手ではなかったにしろ、この人に選ばれた自分であることが、ずっと嬉しかったし、どれだけみじめな気持ちになっても、その事実に石のようにしがみついていた。けれど、プライドの支えに利用しているという時点で、自分も朝倉君のことを利用していたのだと、いまは思う。

 この人に選ばれことには自尊心が高まるのに、一緒にいるとどんどんみじめでかっこ悪い人間になっていく。その矛盾のクレバスで気持ちがビニールテープのように無残にちぎれてしまいそうだった。それならもう、いっそどちらも、手放してしまおう。そう思えた。

「ねえ、どこかで車止めてよ。もっと近くで海見たい。コーヒーでも飲みながら」

 ひらきなおりやがって、と朝倉君が呟きながら地図を確認する。「まあいっか。いま行けば夕陽が沈むタイミングが見られるかも」

「ねえ」

「んだよ」

 最後に意地悪なこと言ってやる、と思った。

「海に行くたび私のこと思いだすんじゃない?」

 朝倉君はナビをセットしながら「ばーか」とそっけなく言った。「じゃ二度と海行かねえ」

 大して好きじゃなかったし、とか言われるのかな、と一瞬心が緊張を孕んだけれど、朝倉君はまあでも、とつづけた。

「毎日陽は沈むし、そのタイミングで思いださないこともないかもね」

 咄嗟の返しに、こたえられなかった。車が海に向かって走りだす。


晴夏

会ってくれないかもしれないと思ったけれど誠は待ち合わせ場所にきちんとやってきた。

苦々しい顔をしてコーヒーを飲んでいるのを見て、この人は相変わらずなんてかっこいいんだろう、と中学生のように思った。

「来てくれてありがとう、また誠に会えて嬉しいよ」

「もう会わないってメールで伝えただろ。手短にしてくれ」

ぞっとするほど冷たい口調だった。そうだとしても、目の前に誠がいることの嬉しさの方がうっすら勝っている。それが怖くもあり心強くもあった。

「用事って何」誠が低く言う。かつて自分の身内のように近しく暮らしていた相手に使うにしてはあまりにも鋭い口調だった。あえて明るく言う。

「用事がなきゃ呼び出しちゃだめなの? この前、ちゃんと話しそびれたから、もっとちゃんと、お酒がない席で誠と会って話したかっただけ。いきなり外国に行くって言うからびっくりしすぎて。全然、話せなかった」

「話すことなんてないだろ」

「あるよ。ある。少なくとも私の側にはあるよ」

「子供みたいに言い張るなよ」あきれたように呟く。ようやく誠の口調がくだけた、ただそれだけのことが嬉しくてたまらない。けれどそれを悔やむように、雨雲がさっと風で流れるようにして表情が引き締まる。

「あなたは何が目的なの?」線を引くような言い方だった。それにはこたえず、ホットミルクティーください、と店員に声をかけた。誠はじっとこちらを見据えている。

「毎年長文のメールもらうたびに、ずっと思ってた。なんで俺にこだわるんだよ。確かに長く付き合ったけど、同じくらい別れてから年数も経っただろ。それに俺はもう三年も前に結婚してる」

「どれぐらい経ったとか、関係ないよ」

「俺が結婚したことも?」私からしたらそうだよ――よほどそう言ってしまいたかったが、嫌われるのが怖くて黙っていた。熱いミルクティーで唇を濡らす。誠は声をふるわせた。

「これ以上どうなるって言うんだよ。俺が離婚するのを待ってるのか」

 違う、そうじゃない。そうじゃないけど、離婚したら熱く感激して涙を流し、卑しい犬みたいに飛びかかるだろう。

「何を待ってるんだよ。何を求めてるんだよ。もう何にも、俺は晴夏に渡してやるものなんか何も残ってないんだよ」

「わかってるよ」

「だったらもうやめよう。俺自分が情けなくてたまんねえよ。嫁さんが妊娠してつわりとかもして苦労してるのに、のこのこ元カノと会ってる自分が、情けなくてしょうがない」

「誠、」

「本当はわかってるんだろ? 俺は、とっくの昔に晴夏のことが好きじゃない。正確に言えば、晴夏といる時の自分が嫌いなんだよ。晴夏といると俺のことをどんどんどんどん嫌いになる。だからもう、俺に執着する意味なんてないよ」

真正面から斬り付けられた痛みに、心臓が瀕死の小動物のようにわななく。惚れ込んでいる相手に、”おまえといると自分を嫌いになる”と面と向かって言われることがこれほどこたえることだと思わなかった。一瞬素で「こうまで思わせるまでして、どうして誠と会おう会おうと迫ってきたのだろう」と思った。

会えばどうにかなると思ってたんだ。そう思いつくのと同時に「会えばどうにか丸め込めると思ってたのかもしれないけど、俺は考えを変える気は一切ない」と誠が吐き捨てた。「もうあなたとは会わない。会いたくない」

「……だから海外に行くの? 自分で希望出したの?」

「家族を巻き込んでまで仕事場所を変えられるほどうちの会社は甘くないよ。単なる偶然。けど、正直ありがたかったよ。僻地ってわけでもないし、奥さんも移住に前向きだしね」

「そう」涼やかな顔の内村伊勢が微笑んでいる幻想が見える気がして、視線を落とした。

 しばらく沈黙が続いた。誠が、テーブルの上で手を組んだりはずしたりした。めずらしく逡巡しているのだと思った。

「ずっと、わからないんだよ」

 重い岩からすり抜けてきたような、低く押し潰れた声で誠がぽつりと言った。

「何が?」

「晴夏が、どうして俺以外の男とやってたのか」

 直截的な言葉を遣うことにすらうっすら誠が傷ついているのがわかって、目を見ていることができない。

「俺もおんなじことしたらわかるのかなって、別れた後その辺の飲み屋で声かけて女の子とホテル行ったりしたよ」心臓を直接鞭打たれたように激しい動揺が走った。

「けど何も楽しくないのな。消耗するだけだったよ」

「……そんなことしたんだ」

にわかに信じられなかった。誠は眉を歪めて、自暴自棄だった時期も長いから、とかすれた声で呟いた。

「晴夏がどうして浮気したのか、知りたかったんだよ。でもわからなかった。俺は晴夏だけが好きだったよ」誠が節くれだった指で顔を覆う。「晴夏はいつも自信なさそうにしてたけど、大学とか、街とか歩いてても、ほかの女の子なんか目に入らなかった。それぐらい俺は、本気だったんだよ」こたえられないでいると、誠は低く呻くようにさらにつづけた。

「俺はやっぱり、好きな相手じゃないと興奮しないし、少しも楽しくもなかったよ。晴夏は俺以外の男に抱かれることですかっとしたり俺じゃ埋められないものを埋めていたのかなとか思ったら、もうやりきれなくてしょうがなかった」

「違う」

「じゃあなんであんなことしたんだよ。相手が小久保一人じゃなかったことくらい、俺知ってたんだよ」

 婚約破棄に至った元凶である医者の名前を出されて、羞恥で血が満ち引きするのを感じた。そして同時に、いかに自分の愚行がかつての恋人をどれほど苦しめていたかをようやく垣間見た気がした。誠の口に上るまで忘れかけていた平凡な苗字一つとっても、誠は忘れたことなどなかったのだ。忘れられなかったのだ。

「なんでなんだよ。なあ。晴夏」

 こたえられない。ただわかるのは、誠が自分とはかけ離れた清廉で誠実な人間であるということだけだ。それを証明するきっかけになったのが自分の浮気だというくだらない皮肉に、肋骨が一本ずつしなりながら剥がれて、皮膚が張り裂けそうだ。

 もういい、と誠が静かに呟く。もはや吐き捨てるような口調ですらないことに、より凄絶な拒否と絶望を感じた。まるで戸を閉めるような声だった。

「悪いけど俺には一生わからない。晴夏と結婚したかったのは事実だけど、いま思えばしなくて済んだのは、俺には不幸中の幸いだった。死ぬほど苦しめられたけどな」

「誠」

「もう終わりだよ。晴夏の身体のことは俺にも責任があるから会ってたけど、こんなこと倫理的にゆるされるはずないだろ」

 じゃあ、と荷物と伝票を持って立ち上がる。影のようにぴたりとくっついて後を追う。

「何」心の底からうんざりしたように誠がちらりとこちらを見る。「帰らないで」と繰り返すと、「いいかげんにしてくれないか」と誠が半ば怒鳴るようにして言った。

「わかれよ。常識的に考えて、あなたがやってることは恫喝だよ」――“来なければ内村さんに話す”というメッセージの文面を思いだす。まあそうなのだろう、と冷静に思う自分と、誠の腕を掴んで離さまいとする自分がどうして同時に存在するのかわけがわからなくなってくる。これ以上まとわりついたところで誠には徹底的に忌み嫌われて今度こそ縁を切られてしまうだけだ。わかっている。けれど、目の前から誠がいなくなってしまうという即物的な喪失にどうしても耐えられない。それに、誠はもう外国へ行ってしまうのだ。

「……だったら返してよ」誠は灰がかった青い顔で晴夏をじっと見ている。倒れていくドミノをどうしようもなく見守るみたいに。

「私から奪ったもの、返してよ。全部ぜんぶあなたが奪ったんだよ。返してよ」

わめきながら、嘘だ、と思った。誠は晴夏から何ひとつ奪ってなどいない。むしろすべてを惜しみなく与えてくれた。それなのにどうして自分は今はこんなにもからっぽのがらんどうなんだろう。

私って、なんだったんだろう。こんな人間とかかわって誠が幸せになれるはずがない。誠どころかほかの誰のことも、幸せになんかできない。晴夏と一緒にいたい、なんて誰一人として思ってくれないだろう。

「ごめん」とても小さな声で誠が言う。謝っているのではなく、ゴミ箱に蓋をするような言い方だった。違う、と思った。でも、もう何が違うのかよくわからなかった。

「晴夏、ごめんな」違う。

「子供のこと……一生のことだもんな。それは悪かったと思ってる。いまでも」違うのに。

私がこの人から引き出したかった言葉は、こんなものじゃなかったはずなのに。

こんな時なのに、ふいに思い浮かぶ光景があった。雪の中に埋れそうに立っている、ぼろぼろのバスの停留所。

誰かを引きずるって、何年も何十年もずうっとおんなじ停留所に突っ立ってることなのかもしれないな。突然そんなことがひらめいた。もう去ってしまったバスを茫然と見送って、それでも身動きが取れないでいるような。あるいは来るかどうかもわからないバスを永遠に待ちぼうけているような。

どっちにしたって、引き返そうにも自分の足で行こうにも、その停留所はだだっぴろい原野の真ん中にぽつんと存在しているから、そこでうずくまるしかないように思えてしまうのだ。そのうち雪が吹雪いてくるかもしれないし、お腹は空くし、ここから移動しなくちゃとは思ってはいるのに、動くことができない。歩きだす方がよほど危ないかもしれないからと言い訳しながら。

どっかに連れ去ってくれやしないか、と無責任に考えたりするけれど、そんなことは起こり得ないと言うことも、もうすっかりわかってしまっている。

どうして、意味がないとわかっていても、誠のことを思うことを、やめられないのだろう。この甚大なエネルギーはどこから湧いてくるのだろう。もっとましな場所に捌けることができれば、こんな自分でも少しは世のなかのためになったかもしれないのに。


 視界に入ってすぐ、私にはこの人だ、と思った。

落雷のような衝撃が走ったとか、目があった瞬間彫刻のように動けなくなったとか、そういう劇的さはなかったけれど、でも、確かにあの時そう思った。

 初恋の男の子と大人になってから偶然再会したとか、旅行先でおたがいにひとめぼれしたとか、そういう劇的な出会いがあったわけではなく、誠との出会いは大学二年生の前期、一般教養の授業で同じ班になり、半年間同じグループで活動していたというごく平凡なものだった。行動心理学の授業で、教授が見せる短いビデオや映画を見て感想を述べたり発表をするというごくつまらない授業だったが、晴夏が恋に落ちるまで講義三回ぶんもなかった。初回の授業から、なぜだか目が離せなかったのだ。

「雨宮誠です。工学部建築学科です。北海道出身でバスケ部に所属してます。よろしくお願いします」

ごくごく平凡で衒いも尖りもない自己紹介をすらすら述べる声がとても心地よかった。いちども染めたことがなさそうな黒髪には赤子のように光の輪が浮かんでいた。チャンピオンの黒いパーカーと紺のデニムが似合っていた。話している間ぴたりと腰の横に添えられていた指がまっすぐだった。――一瞬で雨宮誠という同級生のいいところをいくつも見つけた。なんでだろう、と思った。どうしてか、ずっと見ていたい。そう思った。それがはじまりだった。私にはこの人だ、と確かに思った。でも、彼には私ではなかった。

神話のような童話のような日々のまま、いられればよかったのに。


胡桃

 十二月の広尾はきゅっと肌が引き締まるような空気だった。大使館が多いこの駅ではウールではなくカシミアのニットを着ている人が多い。ポケットに手を突っ込んで歩きたいのを我慢して、鞄からレザーの手袋を出してしっかりと嵌め、歩きだす。

 先週からずっと研究室にこもって血眼で修論を執筆していた。ようやく論の終着点が見え始めた。単なる帳尻合わせのために進学したにすぎないけれど、やはり自分は日本文学を心から愛している。そう思えてほっとした。

一昨日の明け方、夜中に篠田さんから立て続けにメッセージが来ているのを確認してうんざりした。修論と内定者研修で忙しいと説明したのに、今月はなんども食事に誘ったり電話をかけてくる。いままで誘っても「そこまで踏み込めない」などとうそぶいて訪れたことがいちどもなかった横浜のマンションまで来ようとした時は恐怖すら感じた。どうにか断ったものの、かつては慕っていた男にこうもみっともない姿をさらされると、侘しさと物悲しさしか湧いてこなかった。乾の存在を知れば危害を加えかねない、と思ったら銃口を向けられた野兎のように内臓がきゅっと小さくなった。

 おそるおそる「元彼の連絡がねちっこいから、付き合ってることがばれたら乾が何かされるかもしれない」と打ち明けると一笑に付された。「コモモの前の彼氏って経営者だろ? 俺みたいな底辺サラリーマンに時間割いたりするほど暇じゃないって」――確かに思い詰めすぎかもしれない、と顔が羞恥で赤くなった。そして我に返ったところで腹をくくった。

 どちらにせよ来年からは正社員として働きに出る。彼からの支援がなくなったところで、いままでの貯蓄もあるし引っ越しもないので大きな出費はいまのところ奨学金以外控えていない。ありていに言えば、妥当なタイミングだと思った。

パパを切ってもべつだん痛手はないのだ、という打算よりも、これ以上彼の情けない姿を憐れみたくない一方で【次の日曜日の晩会えない?】と連絡した。指定された広尾の店に、篠田さんに買い与えられたものではないシンプルな黒いワンピースで向かった。

 ものすごくやつれていたり見た目が急変していたらこっちが傷つきそうだ、と内心びくびくしていたものの、フレンチで落ち合った篠田さんは「胡桃、久しぶり」とさりげなく手を上げた。いつもと変わりのない様子に安堵すると同時にうっすらといらだちを感じた。

 普段通りの食事だった。近況報告をし合い、創意工夫と彩りに満ちた小さな建築物めいた料理を片付けていき、高価なお酒を口に運ぶ。皮肉の利いた二人にしかわからない冗談でひそやかに笑う。

そう、会えばいつもどおり楽しくて、豊かで、惜しみなく与えてもらえる。でも、この人とはそこが行き止まりなのだ。楽しいことや気持ちのいいことだけしか私たちは分かち合うことができない。ちょうど、いま飲んでいるシャンパンと同じだ、と思った。口あたりも良いし見映えもするしそれなりに値も張る、けれどその効用は結局のところ一晩限りで、一生をかけて味わうようなものではない。

そういう契約だからと割り切っていたつもりだけれど、いざ利害関係のない交際を味わった時、もう、いらないな、と思ってしまった。好きな人は一人だけでいい。そう思った。

「会わないうちに、雰囲気変わったな」

「そう? 化粧薄くはしたかな。一応、来年からは新卒だし。二十五だけど」

「それもあるけど、空気が柔らかくなった」

それ前も言われたよ、と笑い返そうとしたら「胡桃の良さを引きだせる相手なんだな」と何気なく言われた。間を置いて意味が伝わり、急ブレーキをかけたように心臓がどんと前にせり出した。

一瞬、ごまかそうかとも思ったけれど、「彼氏できた。前インターンしてた編プロの社員」と正直に言った。そうか、と篠田さんは低く呟いた。動揺しているようには見えなかったので、もしかしたらすでに何らかの手段で調べて確信していたのかもしれない、と思う。

デザートはいちじくをあしらったガトーショコラだった。午後の陽射しのような暖かい色合いの紅茶を飲んで微笑みあうと、剣呑な会話などすべて他人が用意した脚本だったような錯覚に陥った。ぽつりと篠田さんが言った。

「胡桃が、出版社の内定が出なかったって泣きついてきたことがあっただろ」

「ああうん、あの時はごめん。テンパりすぎてわけわかんないこといっぱい言ったかも」

 衝動に任せて泣きながら電話をかけてしまったことを思いだしてきまり悪くなる。篠田さんは静かに「いや」と言った。「単純に頼られて嬉しかったよ。こういう時のための関係でもあるわけだしな。ただ、俺はあの時こうも思ったんだよ」

「何」篠田さんの表情がいつになく翳りを背負っているように見えて、堰きたてるようにうながす。

「このまま胡桃が就職に失敗したら、このまま俺に依存してくれるのかな、って」

 思ってもみない言葉に、咄嗟に反応できなかった。「そういうこと言うの意外すぎて、びっくり」とかろうじて返すと、篠田さんはさっと卑屈に視線を落とした。

「申し訳ない。一瞬だとしてもおまえの不幸を願うようなことを考えて」

 もちろん何も思わないわけではないけれど、激しい嫌悪や怒りなどは別に湧いてこなかった。正直に言えば、そういう人だともそういう関係だとも思っていなかったので、面食らう気持ちがまさっていた。

「もう、ここで引き際かな」

 息を呑んだ。その一方で、さすが大人だなと冷静に思った。綺麗な思い出で終わらせられるうちに、切ってしまった方がお互い傷は浅く済む。わかっているのは彼の方だろう。

「ありがとう、いままで」

「こちらこそ。純粋に楽しかった。二年間、ずっと」

 握手を求められたので返した。渡された封筒は、とても分厚かった。案外お金じゃなくてびっしり手書きの便箋が入っていたりして、と思いながら電車の中でそっと覗きこんだら紙幣がみっちりと、抜き取れないくらい詰まっていた。慌てて鞄の奥に滑り込ませる。

 惜しいとは思わなかった。【年末札幌行こう。雪見たい】と乾にLINEした。


 飛行機から降りた途端、空気がたっぷりと水を含んでいるのを肌で感じた。一拍おいてから圧倒的な寒さに骨がしなった。

東京とはまったく段違いの冷たい空気がコートの裾やマフラーと首のわずかな隙間に水を流すように入り込んでくる。タイツを二枚履きしてブーツを履いていても、地べたから冷たさが伝わってくるかのようだ。乾はナナフシのように細い手足を硬直させ、「さっみ」とだけ発した。煙のように白い息が後ろへ流れていく。血管がしゃりしゃりと凍ってシャーベット状になっていく妄想が浮かんだ。

時計台に行ったりカニを食べたり目一杯はしゃいでいるうちに、午後から雪が降り始めた。喫茶の窓際に貼りついて騒いでいると、乾は冷静に「足があるうちに旅館の方に行こう」とコートを着始めた。

「今日は雪見温泉だね。楽しみ~」

「来る前はそれも風情あるだろうな、って思ってたけど正直こんな寒いと思わんかったわ」

 都会っ子はやわすぎる、と思いながらバスに揺られる。本当はもっと雪のなかを歩いたり、雪をさわったりしたかったけれど、乾があまりにも寒がるのでしぶしぶ切り上げた。

宿の近くでかまくら体験のイベントをしていたので「入ろう」と乾を引っ張って歩く。

季節が半分違うのでは、と思うくらい、温泉街は雪深く寒い。そのぶん、思い描いていた

ような雪景色を目の当たりにすることができた。抵抗する方がより寒い時間が長引く、とでも思っているのか、乾は唇をひん曲げて不恰好に雪を踏み歩いてついてくる。きし、きし、と片栗粉のような擦れる音がする。

「っていうかなんで北海道来たがったの。この一番寒い時に」

 足がかじかんで指がすべてばらばらになりそうなくらい感覚が消え失せていたけれど、かまくらのなかはなぜだかほんのりとあたたかかった。雪って、白っていうか水色に光るんだな、と丸い天井を見上げて思った。

「コモモってさみぃの苦手そうだから、正直北海道行きたがったの意外だった」

「うん、冬嫌い。夏の方が好き。でも、見たかったんだよ、雪」

「好きでもないのに」売店で買ったホットコーヒーを啜りながら、すでにぬるい、と乾が呻く。奪って啜った。確かにぬるく、校了明けの乾にキスした時と似た味がした。

「好きでもないものを好きな人と見たらなんか違うかなって思って誘った」

 乾はそのまま動きを止めてしまった。あんたってつくづく口説かれ慣れてないよね、と言うと「そういうところだよ」と耳を真っ赤にしてむくれてしまった。

「寒いからもう旅館にチェックインしよう」

「だな」タクシー乗ろうぜ、と乾は億劫そうに身体をまるめてかまくらから這い出た。逆光で、これから世界を救いに行く人みたいな大げさなシルエットに見えた。手つないで、と出口に向かって手を差し出すと、思いがけず力強く引っ張り上げられた。

「冬眠から出てきたクマってこんな気持ちなのかなあ」

「たぶん五分くらいしか入ってなかったよ」

「もっと長く感じた。雪が降ると時間が止まってるみたいに見えるよね。GIF動画みたいに振るし、雪」ん、と乾が短くうなずいた。

 築古の旅館は雪の重みで屋根が歪んで見えるくらい埋もれていた。小型ダンプカーで雪かきしていた職員が、「今晩は積もるみたいだから明日の朝は電車も新幹線も止まるかもしれない」と汗をかいて桃色に照った顔で教えてくれた。

中もぼろっちいのかな、と思ったけれど、内装はリノベーションが行き届いていて、広くはないけれど和風モダンな雰囲気の部屋だった。

雪の中を歩き回ったせいでふくらはぎがぱんぱんにむくんでいる。露天風呂がついている部屋なので、勢いのまますべて服を脱いだ。乾は布団に身投げしたまま欲情のかけらもない目でこちらを見上げ、「風呂っすか」と言った。

「入ろうよ。日が落ちたら余計寒いよ? あといま寝たらマジで起きれなくなるよ」

「それは言えてる」と乾がのろのろと起き上がってセーターを脱いだ。

 ううさぶ、と言いながらお湯を浴びる。岩をくりぬいたような湯舟に、向かい合う格好で肩まで浸かった。かちんこちんにこわばって大理石のように冷えて硬くなっていた肌が暴力的なスピードでほとびていく。雪が空中で旋回しては湯舟に落ちてくるのを、不思議な気持ちで見上げた。

「雪ってまっすぐ落ちてくるんじゃなくて、ぐるぐる回りながら降ってくるんだね」

「言われてみればそうだね。雨とは全然違うね。洗濯機みたいだな」

「降るっていうより舞うって感じ」

「確かに」同じタイミングで首に痛みを感じたらしく、角度を戻したら乾と真正面から目が合った。なんだか笹舟のなかで乗り合わせたみたい、と思う。「ねえ乾」と声をかける。

「何」

「恋の終わりっていつだと思う」

 乾は少し黙ったあと「え、俺いまふられてます?」と情けない顔をした。素で焦っているのを見て、あ、この人私のこと本気なんだ、とわかって急に恥ずかしくなった。

「まじか」

「いや、ごめん。全然違う、世間話のつもりだった」

 あせらすなよくっそびびったわ、と乾は拗ねたように呟き、「まあ粗を可愛いと思えなくなった時かな」とぼそりと言った。

「なるほどね。やっぱ乾って賢いね」

 心から納得したからそう言ったのに、ばかにされたと思ったのか乾は顔をしかめてお湯をかけてきた。むくれた顔してると余計に全然こいつの見た目タイプじゃないんだよな、と思ったけど、それなのに愛しいと思って不思議だった。

「私乾のこと好きだよ。同じ高さでものが見られて、ちゃんと会話できるところが好き」

「えっ」なんなんだよ、と乾が顔を真っ赤にしてぎゃあぎゃあわめく。顔を近づけて肩に顎を乗せたら、黙り込んだ。お湯の中でくっつきあっている場所の境目がわからなくなる。

ふうふうと白く息を吐く。雪がふいに乾の肩の上に落ちた。結晶の形が肉眼でも見える。

神様が精巧につくったくすだまの切り絵みたいだ、と思った。金箔のようにきらめきながら舞う雪が、祝福のようにとめどなく降りつづける。


朱莉

 新書の匂いと墨汁の匂いはどこか似ている気がする。ハンドクリームをなんど塗ってもすぐに指紋が擦り減っていく。けれどそれもとっくに慣れた。

 今月から最寄りの書店で正社員として働いている。いまはまだ試用期間だ。

 胡桃さんから「ライターにならないか」と話をもらった時、この連絡を待つためにめぼしい内定が出ずにいたのかもしれない、と一瞬思った。あなたは特別で、ほかの人とは違う光る何かがある、と手を差し伸べられているような心地にすらなった。ライター業自体、憧れはあった。【よければ話くわしく聞きたいです】と返信すると、社員だという若い男の子を連れてきてくれた。給与体系と任せたい業務内容、昇進の実態にいたるまで事細かく説明してくれた。

「はっきり言って、正社員って言っても全然うちは給料低いんで、条件はいいとは言えないと思います。本当に文章で仕事していきたいとか、フリーライターを目指されるんだったらそう悪い踏み台ではないと思いますけど、時間も不規則なのは否めないし、締め切り前はみんな朝まで会社残って残業するけど手当でないし。それでももしやってみよう、と思われるのであれば、うちは書ける人がとにかくほしいんで、いつでもお待ちしています」

 胡桃さんも横から「この会社求人出しても全然人来ないんで、全然保険にしてくれていいですよ。私も就活の時そうしてたし」と口を挟んだ。社員の彼がおい、とたしなめるように言うと、一瞬ではあるけれど柔らかい笑みを浮かべた。

「条件合わなかったら遠慮なく断ってくれてかまいませんよ。ただ、僕も白尾さんのブログ拝見しましたけど、結構読み込んじゃいました。才能あると思います。これからもぜひつづけてください」

「私も、これからも朱莉さんのファンですから」胡桃さんが力強く言った。ありがとう、と素直に返すことができた。

 なんども悩んだ。キャリア支援の人にも相談した。結果、ライターという仕事にはつかないことにした。好きなことだからこそ、単なる趣味にしておきたい、と胡桃さんに伝えると、【わかりました。朱莉さんの気持ちもよくわかります。新しいお仕事がうまくいきますように】と返ってきた。またお茶しましょう、と送ると、【もちろん。あ、相席屋とかコリドーでも可】とすぐに返信があった。

 朝倉君とは、ドライブのあといちども会っていない。

内定承諾を決めた時、礼儀として【バイト先の書店でバイトから正社員になりました。いままでたくさん助けてくれてありがとう】と送った。【おめでとう。頑張ったね】と短く返信が来た。頑張れ、ではなく、頑張ったね、だったことがとても嬉しくて、涙がぼろぼろと溢れた。粘り気のない、さらさらとした雨にも似た涙だった。

 引きずっていないわけではない。たまにぶり返してわっと泣き伏せったり、あまりにも膨大な思い出にからめとられて家から出られなくなったりもする。やさしくされて幸せだった時の日記を読み返してなおさら傷を深くして、鬱々とした遺書のようなラブレターのような長い文章をブログに投稿しては次の日の朝に消したこともあった。アパートに帰る道中、あふれそうなくらいの満月が空に浮かんでいて、水がこぼれるみたいに、朝倉君、と呟いたっきり足が止まって歩けなくなってしまったこともいちどではない。

 こうなるからさっさと手を切るべきだったんだろうな、といまさらのように思う。けれど、あの時に戻ったとしてもたぶん、同じことを繰り返すだけだろう。ここで断ち切ることが自分の精一杯だった。それはよくわかっている。

「白尾さん、今日早番だよね。お昼一緒に食べませんか?」

 店長の佐伯さんが声をかけてきた。咄嗟に返事をできずにいると「あ、お弁当だっけいつも」とつづける。

「あ、そうなんです」でも佐伯さんとお昼を食べられるならそうしたい、と思ってこたえあぐねていると、「外で食べようか。私テイクアウトするよ。寒いからしっかり着込んでね」と言ってくれた。バックヤードに戻り、紺色のエプロンをはずして二人で店を出た。

 バイトの面接の時から「素敵な女の人だなあ」とひそかに思っていた。メイクは薄く、すっぴんに近い。小さな瓜実顔からずり落ちそうなほど大きな黒いめがねをかけている。おそらく三十代半ばくらいなのだろうけれど、時々カラフルなシュシュでポニーテールに結んでいるのを見ると、自分よりうんと少女めいて見える。

「ごめん、そこのパン屋さんでささっと買ってるからここで待っててくれる?」

「はい」書店の裏側から少し歩いたところに児童公園があった。こんなところあるんだ、と思いながらベンチでお弁当のつつみを開く。赤いワンピースを着た女の子とお母さんが砂場で遊んでいるのをぼんやり眺める。

「お待たせ。今日十四度あるんだって。春みたいですねえ」

 青い袋を提げた佐伯さんが戻ってきた。「うわ、ちゃんとしたもの作ってますね。おいしそう」とお弁当を覗き込まれる。残り物を詰めただけなので、恥ずかしかった。

「白尾さんってしっかりしてますよね。私、若い時そんなこと全然できなくてずっとコンビニ弁当だったよ」

「いえ、もう二十七ですし……前の会社の時もそうしてたので」

「そうなんだ! 偉い」

 二人で並んで食べていると、なんだか高校生に戻ったような気持ちになった。佐伯さんは自分の顔ほどありそうなメロンパンにかじりついている。

「もうすぐ社員になって二か月経ちますよね?」

「はい、そろそろ」

「白尾さんって読書家ですよね。作ったPOP見てると、そう思う」

 確かに、それはいろんな人に褒めてもらった。ありがとうございます、とはにかむと「バイトさんの時から、この子がずっといてくれたらいいのになあ、と思ってたから」と言われた。面接の時にも言われたことだったので、恥ずかしく思いながらも素直に受け止めた。

「うちで働く前って何してたの? なんか広告系の会社にいたんだよね? すごいね」

「いえ、単なる契約社員だったので、全然ですよ。契約が更新されなくて、正社員で働きたい、と思って転職活動してたって感じです」

「そっか。東京で暮らす女の人にとって正社員かどうかって生活にかかってくるもんね」

そうですね、と小さくうなずいた。佐伯さんは、口の周りについた粉を男の子のように手の甲で払いながら言った。

「私ね、バツイチなんです」

「えっ」指輪をつけていないので独身なのかなとは思っていたものの、結婚していたことがあるとは知らなかった。

「小学二年生の息子がいるんだ。土日は親が見てくれてる。留守番させてる時も多いですけどね」

「……そうだったんですね」

 書店員のシフトは不規則だし、深夜の鍵閉めがある時は零時を回ることもある。小さなお子さんがいる佐伯さんがどんな気持ちで勤務しているんだろう。想像するだけできゅっと肋骨が狭くなる。

「白尾さんって好きな人とかお付き合いしてる恋人さん、いますか?」

 佐伯さんらしいたずねかただな、と微笑ましく思いながら「いえ、誰とも付き合ってないです」と首を振った。「前の会社の人で好きだった人がいるんですけど、ふられちゃいました」

「あらあ。白尾さんみたいな素敵な女の子を振るなんて、その人、地獄しか行かれないね」

 ひょうきんな口調に思わずふきだした。「ですね」と笑い返す。

「優秀なわけでもないし、仕事ができるわけでもないし、自分にはなんにもないからすがるような気持ちでその人といたんですけど……やっと、自分一人でも生活をしっかり立てていきたいって思って、転職しました。遅いかもしれないけど、もう男の人に頼ろうとしないで自分の面倒ぐらい自分で見なきゃって」

 あれ、と佐伯さんは小さな女の子のように首を傾げた。「それはちょっと悟り開きすぎじゃない?」

「え」

「ごめんね、まるでもう恋なんてしない、って言ってるみたいに聞こえたから」

 否定できずにいると、佐伯さんはにっこりと笑みを深めた。

「しんどい恋愛して、きっとつらかったんですよね。でも、そんなふうに心に蓋するみたいにして生きていくのはもったいないと思うよ。誰かに手を差し伸べられるのを待たなくても、白尾さんが自分から誰かのことを好きになったら、その人はすごくうれしいと思うし、恋愛に発展するかどうかにかかわらず、幸せだと思う。ごめん、おせっかいかもしれないけど、それだけ言いたくて」

 思ってもない人に思いもかけない言葉を言われて、胸が温かく濡れた。

 朝倉君、と心の中で呼びかけた。いまの職場で働くようになってから、ずっと自分に禁じていたことだった。げんきでね。

いつかまた、誰かの名前を恋文のようにあまく呼ぶことができたら、どんなに心地いいだろう。自分の欠落している部分を埋めてもらうのではなく、何かを分かち合ったり、与えたいと思えるような人に、この先出会えるのだろうか。

息苦しくなって、顔を上げたらぴちち、とどこかで小鳥の啼く声がした。「春になったらみんなでお花見行きたいね」と佐伯さんがのんびりと言う。

〈2月14日

 好きな人がいないバレンタイン、クリスマス、誕生日……先のことを考えて憂鬱になった。でも、自分ひとりでお祝いしたり楽しむことも同じくらい贅沢なことなのかもしれない、と思ってとても高価なチョコレートを買ってきた。

デパートのバレンタインフェアの階は、とても混雑していて、女の人も男の人もぎゅうぎゅうで人のコートと擦りあわせるようにすれ違わなければならなかった。

ニュースで見るような光景の中に自分が紛れ込んでいて、宝石箱のような小さな箱にいま身に着けているセーターと同じくらいのお金を支払っているということが不思議で、うんざりもしたけど、同じくらい楽しかった。

いつもだったら、ああいうのよくやるなあ、と毎年他人事のように通り過ぎていたし、もっとありていに言えば、メディアに踊らされてばかみたい、と思っていた。でも、そんなふうに自分の気分のために、軽やかにイベントごとを楽しめる人たちのことが羨ましかっただけなのかもしれない。正直こんなにチョコレートが高いなんて知らなくてびっくりしたし、疲れて何度も並ぶ気になれず、一箱しか買わなかった。贅沢だけど、まあ、失恋したんだしいっか、って思うことにした。でもやっぱり高いから、来年彼氏ができたとしても今まで通り手作りのものをあげることになりそう。

さっそく紅茶を淹れてつまんでみた。エメラルドに輝く、高級な石のようなまんまるのチョコレート。味が想像つかない。何気なく噛んでびっくりした。

まず、感じたのはチョコレートのやさしい甘さ。つづいて、口の中でリボンがほどけるみたいにキャラメルが溶けだした。うっとりと舌に広げているところで、爽やかに頬をくぼませる酸っぱさと、ほろ苦さを感じてどきりとした。レモンのピールが入っているのか、とあとから気づく。なんて豊かなんだろう。一粒の中にいろんな味がした。外国の恋愛映画をきゅっと球体に丸めたらこんな味がするのかな、と思う。

好きだった人は今日、誰かにチョコレートをもらっただろうか。たぶんもらっている。去年もたくさんもらっていて、自慢された。ちょっと本気で怒って涙目になっていたら、「まあいいじゃん、俺そんなに甘いもん得意じゃないし」と勝手に私の鞄に箱を詰め込んでいた。復讐めいた気持ちが先行しすぎてちゃんと味わえなかったけれど、たぶんあれも今日私が買ったものと同じくらい、あるいはそれ以上に高価だったのかな、とか思う。

おいしいチョコレートはやっぱり高いし、そのわりにちょっとしか入っていないし、贅沢なことをしているよろこびに酔いしれるより、身分不相応なことをしてしまった罪悪感の方が色濃かった。着ている服と同じような価格のチョコレートを買うくらいなら、その季節の、旬のくだものや花を買う方が自分にはあってる気がする。今度からはそうしよう。三月はいちごにしようかなと思う。牛乳をぴんぴんと弾くくらいの、みずみずしいいちご。

いろんな季節を楽しめる人になりたい、と思った。自転車でも買おうかなと思う。春になったら、近くの川まで走って、お花見したり外で本を読んだりしたい。本命扱いされず、ちっともロマンチックなデートをしてもらえないことをずっと悲しんでいたけれど、まず、自分一人のためにとびきりロマンチストな自分でありたい。演出でも作為でもなく、気分のためだけにそうしたっていい。

楽しいと思えることをしよう。単純だけど、やっと気づけた。〉

 

晴夏

 婚約まで交わした誠との終わりはあっけなかった。

 会話がうまくはまらなくなった。ぎこちなくすれ違ったり、険悪な空気に黙り込むこともあった。そんなことは七年の間でほとんどなかった。けれど、こんなに長く一緒にいるのだから、また元に戻って平穏な空気が二人の間に戻って笑いあえると信じていた。けれど、誠はそうではなかった。じっと冷静に、自分の気持ちの変化を見つめていた。

「浮気云々ってのももちろん受け入れられないけど、晴夏は、俺と結婚したいんじゃなくて、結婚がしたいだけなような気がして、一回そう思うと、もう、だめだった」

 わめこうがなだめすかそうが泣こうがすがろうが怒り狂おうが誠の頑なな態度は変わらなかった。無理やり型にはめればどうにかなる、と思っていたけれど、誠はマンションを出て行った。残ったのは夢のように美しいドレスと、幸福をきゅっとまるめてできたような婚約指輪だけだった。

「熊藤さん、私と付き合おうよ」

 頻繁に連絡をしてきて食事に誘ってくるくせに一向に交際に持ち込んだり家によんだりしないことにじれて、先週の金曜日、焼き鳥屋の隅っこで自分から言った。熊藤は一瞬目を見開いて晴夏を見つめ、手に持っていたかじりかけのアスパラガスベーコン巻を律儀に皿に戻した。

「ありがとう。驚きましたが、嬉しいです」

「どうなんですか」じれて強い口調でうながすと、熊藤は逡巡しながらゆっくりと首を振った。自分の身体の内側で、重い陶器が割れる音がした。

「やめておきましょう。僕らはここでとどまっていた方がいい」

「……ここって、何。友だちって意味?」

「男女関係ってセックスを持ち込みさえしなければ長持ちすると思いませんか」

 晴夏は黙り込んだ。ずるい、と思った。その通りだ、とも。

ということはこの男と弓子さんの間に性交渉はなかったということだろうか、とうっすら邪推しながら、しぶしぶうなずいた。それはもちろん、わかっている。セックスするから失うのだ。けれどどっちつかずの関係であっても、それは同じなのではないだろうか。どちらか一方が異性として見てしまった以上は。

なんにしろ、晴夏に男友達はいない。一人も。寝たりなんかしなければ、いまでも気軽に連絡したり、飲んだりする仲だっただろうか。どっちにしたって、結局敗れたのだ。何人かいた恋人が誰一人として誠の思い出を凌駕することなく破綻してしまったように、晴夏の存在は熊藤が抱く弓子さんへの贖罪に打ち勝つことができなかった。ただそれだけだ。

「晴夏さんの幸せを心から願っています」

 まるで別れしなのような言葉を言う。ふてくされてそっぽを向くと、「晴夏さん」と呼ばれた。「春になったら桜でも見に行きますか」

「いやだ」

「桜嫌いですか」

「綺麗すぎて怖い感じがする。毎年花見が嫌い」

 あと花粉症だし、ともごもご呟く。わかりますよ、と熊藤がうなずいた。

「綺麗すぎるものは、圧倒されすぎて一人で享受していると胸がしめつけられすぎてつらくなること、僕にもあります。だったら誰かと分かちた方がよくないですか。まあ、相手が僕なのは申し訳ないですけど」

 返事はしなかった。ふられたんだからもう会わない方がいい、と思ったけれど、熊藤に八つ当たりして溜飲を下げた気になっているだけだと自分でよくわかっていた。

桜の開花は三月の十六日だと携帯で調べながら教えてくれた。


 空腹ではなかったけれど、小太りの女の子が駅の売店でにこにことシュウマイ弁当の売り子をしているのを見たら食べたくなった。まだ温かいそれをほうじ茶と一緒に受け取る。

新幹線で移動すること自体、とても久しぶりのことだ。一昨年の九月に和樹と熱海の温泉に行った時を最後に途切れている。

有給の期限が切れそうだったので、二月の終わりに四連休を取った。予定を入れない限り家でずっと寝潰してしまいかねない、と思い、思い切って北陸行きのチケットを取った。帰省ですか、と熊藤に訊かれ、実家に寄るかまでは考えていない、とだけこたえた。

 七年前のことはもう思いだしたくもない。何年も畳み込んでいたら他人の夢の記憶のように遠い記憶として霞んでしまった。学生時代から交際していた相手に婚約破棄された挙句子供を堕ろしたことを知った両親は、烈火のごとく憤り、誠のことを訴えるとまで言いだした。けれど直接の原因は晴夏の不貞にあると判明した途端、ぴたりと誠への誹謗を止め、怒りの矛先を娘に向けた。

 学生の時からなんども連れて行ったこともあり、朴訥とした真面目な誠を両親はすっかり気に入って婿のように扱っていた。神経質な母と気難しい父をあっけなく懐柔した誠を誇りに思い、やっぱりこの人なんだ、と確信できた。

 思いだす気もなく、ゆるやかに思いだす。長いながい絵を横切るみたいに。

 実家は福井にあるものの、宿は金沢のビジネスホテルを取った。十五時半発の金沢行きのかがやきの指定席に乗り込むと、しずかに走りだした。懐かしいメロディに胸が痛む。

 熊藤から連絡が来ていることには気づいていたものの携帯をさわる気になれず、けれど眠りたいわけでもなく、目をつむる。

一時間ほどすぎたあたりで、こつこつと窓硝子に小さな石が当たるような音が混じり始めた。陽射しがまぶしくて下ろしていたカーテンを開けると、雪が残る農村が見えた。どうやらみぞれ交じりの雪が降っているらしい。どうやら長野に差し掛かったようだ。

白と黒と灰以外、彩りが何もない。膝を抱える子供のようにぽつりぽつりと家が離れてあるだけだ。一切の色彩がない、水墨画のような景色を眺める。好きとか嫌いとかではなく、あるのはただ「帰っているんだな」という実感だけだった。東京から一時間、こうも景色は変わるのか、となんだか新鮮な気持ちになる。そもそも雪の時期に北陸に帰ること自体学生の時ぶりだった。

 実家に帰るのは二年に一度程度だというと様々な人に驚かれる。家族仲がいい和樹には「そんなに帰ってないの?」と非難がましい目つきを向けられた。けれど仕方ないのだ。何の進捗報告も持たずに三十三歳の一人娘が帰省する方が、歳老いた両親を傷つけるらしいのだから。だったら「仕事忙しくて」と走り回っている方がお互いのためになる。

誰かが手を突っ込んで大雑把に混ぜたみたいに雲が不穏に天を覆い隠している。晴れ渡ればまるで初夏のように景色が眩くなるのに、曇っているときはどこまでものったりと重く暗い。晴れていたかと思えば急に吹雪きだす。いつのまにか春が来れば何事もなかったかのような景色にまた戻る。それが雪国だ。

まるで自分の性格そのものではないか。まだ地元についたわけでもないのにそんなことを思いついてしまい、いっそう気持ちが沈む。けれどたぶん、自分は落ち込んだり傷を負うために北陸行きのチケットを取ったのだ、とも思った。顔のない相手と腰から下だけを貸しあうような性交でごまかそうとすることを見越して、自分を東京ではない場所に連れ出したかった。

十八時に金沢駅に着く。雪の、濡れた埃のような匂いをひさしぶりに嗅いで、まるで高校生に戻ったような気持ちになる。精巧な折紙を思わせる鼓門がうっすらと雪をかぶってそびえていた。現代建築が好きだった誠のことを思いだし、じっと眺め、ビジネスホテルに向かった。明日に備えて二十時のうちに消灯する。

 若狭湾まで車を走らせよう、と新幹線の中で決めていた。特筆するべきものが何もない故郷において、美しい景色や北陸らしいものが見られるとしたらそこしか考えつかなかった。レンタカーの店員に「雪深いところもありますので冬用タイヤの車で用意しますね」と言われたのを思いだし、もういちど携帯でメールの新規作成画面をひらく。

 誰を宛先にするか、一瞬迷った。宛名は飛ばすことにして、文章を打つ。長い文を書いた経験がほとんどないので、結局二十二時までかかった。

【明日若狭湾に車で向かう予定です。福井駅から車を借りています。自分の運転です。ほぼペーパードライバーみたいなものなので、運が悪ければ死ぬこともあるかもしれません。

マンションの部屋のものは残さず処分してください。胡桃へ ほしいものがあればどうぞ使ってください。

 通勤鞄の内ポケットに合い鍵があるので大家さんに返却お願いします。

 口座番号、クレジットカードの暗証番号は0572です。

 私の人生には見たい景色がこの先にない、といつも思っていましたが、なぜか、地元の風景でも見に行こうと思いました。身投げするためではありません。死んだとしたら百パーセント事故です。「本当は鬱で悩んでいたんじゃないのか」「自分といても晴夏は楽しくなかったのかな」と思わないでもらえたら嬉しいです。自殺願望があったわけではなく、ただ、止まれないから歩いている、そんな感覚でした。だとしても一緒にいてくれた人たちには感謝しています。

 寝室のクローゼットの上の棚にエコー写真がありますがそれも処分してかまいません。】

晴れたらいいな、と思っていたものの翌日は天気予報通り重苦しい曇天だった。雪や雨が降っていないだけましか、と思い、サンダーバードで金沢駅から福井駅まで向かい、レンタカーを借りた。三時間もあればつくだろう、と思っていたけれど、思っていた以上に運転の仕方を忘れていた。高速道路に入ってしまえばらくなのだとはわかっていたものの、出られなくなってしまうような気がして下道をのろのろと走る。田舎だから大してクラクションを鳴らされたり煽られたりしなかったものの、汗をかきすぎて脇がびっしょり濡れて冷たくなっていた。途中から暖房を消したくらいだ。

 景色に目をこらす余裕はそこまでなかったにしろ、それにしたって何もない土地だな、と思った。北陸三県のなかで最も地味なうえ、二月ということもありすべての植物が枯葉色で泥の混じった雪をところどころかぶっているだけだった。景色を楽しむどころか、どちらかと言えば負の感情の方が呼びさまされる景色だ。彩りもなければ迫力も風情もない。

 でも、と思う。視線の先にはいつも、翡翠がかった山がしずかにそびえている。ここで暮らしていた十八歳まで意識したこともなかったけれど、東京に引っ越してまず思ったことは「あれ、景色のどこにも山がない」ということだったことを急に思いだす。

 どこにいても、世界の額縁のように山がある土地だった。とりわけ愛着があるわけでも、いまさら郷愁に浸っているつもりもないけれど、ここには山がある、と思った。

 山でなくてもいい。変わらずどっしりとそこにあり続けるものが、東京にもあったら、何かが変わっていただろうか。まさか。

 初めての道を走る長距離運転に緊張しっぱなしだったので途中で車を停め、ラーメン屋に入った。適当に入ったけれど、だしが効いておいしい店だった。豚骨のスープを遠慮なく飲む。おしぼりで額の汗をぬぐった。

 仮眠してから行くことも考えたが、間を持ちたくなくてすぐに出発した。もう、五キロ先には見たかった景色がある。音楽もかけず、ルート案内に従って車を走らせる。目的地は若狭湾国定公園で、小さい頃父が連れて行ってくれたことがあったものの実家からも遠いのでめったにいったことがなく、景色自体はほとんど記憶に残っていない。

一応はドライブコースに指定されている道を走っているというのに、そうは思えないくらい寂しい景色が延々続いた。病院の子供部屋においてあるけれど誰も手に取らないエドワード・ゴーリーの絵本に出てくるおどろおどろしい挿絵のようだ、と思った。ぐねぐねと曲折する山道は一本道でしかなく、景色はずっと一定だ。右側に薄灰色の海が見えているとはいえ、木々に見え隠れしていた。剥き出しの裸木は痛々しく、見放された土地、という感じがした。ああ、だから地元が嫌いなんだ、と思う。

心中までの道としたらとても完璧だ。でも、私は誰と死にたかったのだろうか。

午後二時にようやく目的地にたどり着いた。達成感よりも、このあといまきた道のりを引き返さなきゃいけないんだな、といううんざりとした気持ちの方がうっすらまさった。駐車場があったので車を停め、海を臨むために端まで歩く。風の鋭さで頬を切ってしまいそうだった。泥や雪で汚れていたけれど、かまわず手すりを掴んで、見下ろす。

この景色は綺麗と言えば綺麗なのだろう、と思う。地理の資料集で見たような、見事なリアス海岸の雄々しい荒削りの地形だった。

なんて暗く恐ろしい景色だろう。海は灰がかった不透明な碧色をして、底に生き物を匿っているとはとても思えず、のたのたと白く鈍い光を放っている。雲は不穏な色に濁り、けむくじゃらな獣が横たわっているかのように渦巻き、大陸のようにもったりと浮かんでいる。空は内出血しているかのような禍々しいむらが目立つ。一条の光も差し込まない。

見えない手に心臓をぐっと掴まれているみたいに、立ち尽くす。風で髪がほつれる。

暗く、大味で、せせこましく、彩りもなく、ひたすらにうらぶられていてさびしい。まさしく北陸の、置き去りにされて行く故郷のありのままの現実だった。駅で貼られていたおあつらえ向きの観光客向けポスターは所詮綺麗なお造りみたいなもので、そうではない映されない大部分こそこの土地だ、と思った。

旅行やデートとしては成り立たないのでは、と思うくらい、哀しみを帯びた景色だった。正直ネットでまとめられていたポスターカードのような晴れ渡った写真を鵜呑みにしていたので、衝撃的なくらい乖離があった。でも、いま、自分の足でここまで来て、目の当たりにすることができて良かった、と心の底から思った。

地元が好きとか、愛着があるとか、思い出がそれなりにあるとか、そういうことではなく、たぶんそんなことは一生思わない。帰ってきたいと思ったこともないし、いまも、東京が恋しい。ただただ、こここそ自分の原風景だ、と思った。やさしくも、温かくも、明るくもない、誰とも分かち合えない、写真におさめたくなるようなわかりやすい美しさがあるわけじゃない、でも。必要だった。いまの晴夏には。

しばらく風に煽られるまま、じっと立っていた。眼球が冷たく濡れた。携帯を取りだし、写真を撮って熊藤に送った。

帰りは高速に乗ろう、と思いながら車に戻る。ともすれば眠ってしまいそうなくらい、身体が泥を入れた袋のようにずしりと重く、こわばっていた。けれど、満ち足りていた。神様、と唇から言葉が漏れた。誰の顔のことも浮かんでいない言葉だった。

このまま実家に寄ることもできる、とわかっていたけれどそのままレンタカーを返し、サンダーバードで金沢の宿に戻った。葉を落とした樹々が切り絵のようだった。夕日など楽しむ余裕もなく、一瞬で夜になっていくのを見守る。ラジオをつけると、日本海側は今夜一月上旬並みに冷え込むとのことだった。

適当に夕食を済ませ、宿に戻った。熊藤から、【大冒険でしたね。無事で何よりです。】と連絡が来ていて、ふっとコンタクトレンズが剥がれた。違う、涙が水滴のようにぽとりと落ちた。通話のボタンを押す。ややあって、「はいもしもし」と熊藤の声がした。

「こんばんは」

「こんばんは。まだ福井ですか? それとも金沢?」

「金沢のルートインです」

「そうですか。若狭湾、いい写真でしたね。雄々しいのに繊細で」

「うん。いい景色だった」

 僕も見たかったなあ、とでも言うかと思ったけれど、熊藤は「よかった」と繰り返した。「いつだったか見たい景色がこの先にない、みたいなこと言ってたから。晴夏さんにも見たい景色があって、よかった」遺書めいたものにも同じことを書いたのを思いだして恥ずかしくなる。あとで消去しよう、と思った。それとも、熊藤に読ませたら面白がってくれるだろうか。それとも、晴夏のために傷ついてくれるだろうか。

「桜見たい」

「へ?」

「桜。やっぱ見たいです。車出してもらっていいですか。今日運転してみてよくわかったけど、私に運転は少しも向いてないです」

 ややあって熊藤は笑い声を上げ、「もちろん。途中で変わって、とか言いませんから安心してください」と言った。

ありがとう、と呟いて窓の外に視線を投げかける。いつか誰かと見上げた桜によく似た雨が、銀色に光りながら降っていた。

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この街はまだ終点じゃない @_naranuhoka_

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