6章 ラビィの帰還(2)
馬車は、ホノワ村の伯爵家の別荘を出発すると、十分もしないうちに村はずれの小さな家の前で停まった。
ラビは馬車を降りるなり、我が家の懐かしさに吐息をこぼした。
二週間近く家を空けたのは初めてだったから、何となく安堵感を覚えてしまう。彼女の隣では、ノエルが飛び去る鳥を目で追っていた。
「……なんか、やっと帰って来られたって感じがする」
『そうか? 俺にはよく分からねぇな』
「ノエル、冷たい」
別れの言葉もなく感慨深く家を眺めるラビを、セドリックは馬車の前に立ったまま、声を駆けるタイミングを探していた見つめていたが――
セドリックは、不意に言葉を失ってしまった。ユリシスも、彼の横で一人と一匹の後ろ姿を眺めて目尻に皺を刻んだ。
小さな少女と大きな狼が暮らす家は、物語に出てくるような、ママゴトの一軒家を思わせた。並ぶ後ろ姿が溶け込む風景が、午後の柔らかくなった日差しの中で、淡く霞んでいるようにも見える。
二人の男が見つめる中、ラビが頬を膨らませ、ノエルが首を傾げる。すると、黒大狼が彼女の脇腹に頭をすり寄せて、幸福そうに目を閉じた。
『お前が隣にいる。それだけでいい』
「ふふ、突然どうしたの。オレも、ノエルがいてくれて嬉しいよ」
ラビは彼の頭を撫でると、スコーンが入った袋を後ろ手に持って、改めて自分達の家へと目を向けた。
山から降りる初夏の夕風が、ラビとノエルを柔らかく包んだ。小さな家は何度も修理の手を加えていたから、壁のペンキも真新しい。
それでも、昔、釘を打ちつけられた場所は穴が空いたままで、人里から切り離された建物が寂しく佇む光景を、ラビは遠くを見るような目で眺めた。ここで過ごした多くの歳月が、胸の奥で重く渦を巻いて黙り込んでしまう。
両親を失ってからは、ここに居る理由もなくなってしまっていた。
あの頃の懐かしい匂いも、暖かさも、全て嘘のように思えてしまう事があり、ふとした一瞬「ああ、辛いな」と感じる鈍い胸の痛みが、喉に引っ掛かった小骨のように離れないでいるのだ。
何がどう辛いのか、耐えるうちに分からなくなっていた。ただ、それを感じる時には、いつも呼吸が苦しくなって、息のし辛さを覚えるたび、この土地が自分に合わないような錯覚に陥る。
動き出せないラビの隣で、ノエルが先に数歩進んで、足を止めて振り返った。
『ラビィ』
ひどく柔らかい声色で、ノエルは大事そうに名を呼んだ。彼は肩越しにラビを振り返ると、私情の読めない美しい金緑の瞳を向けて言葉を続けた。
『お前が望むのなら、このまま二人で、誰も知らない何処か遠くへ行こうか』
囁くように発せられた言葉が、やけにはっきりと耳に触れた。
柔らかい風が勢いよく山を下って、ノエルとラビ、セドリックとユシリスの身体を打った。
ラビは、頬にあたる髪を手で押さえた。改めて目を向けると、途端にノエルの金緑の瞳が悪戯っぽく笑った。元気づけようとしてくれているのだと分かって、ラビは「あの日の夜みたいだ」と笑みをこぼして、ノエルの隣に立った。
「ノエルだったら、どこへ連れて行ってくれるの?」
『お前が人間に苦しむのであれば、朝と夜を紡いで、このまま遥か遠くの美しい妖獣世界へ連れて行こうか』
ノエルが大人びた顔で静かに笑うから、冗談なのか本気なのか、ラビには分かりかねた。まるでプロポーズされているみたいだと思ったが、いつもの優しい冗談なのだろう。
「ずっと遠くにある、ノエルの故郷? うーん、そうだなぁ、そこを目指しながらいろんなところを見て回るのも、きっと楽しいだろうなぁ……」
少しだけ、それが寂しいように思うのは、どうしてだろうか。
この世界の事を、まだ全然知れていないせいなのか。それとも、セドリック達や、村の子供達、拒絶もせずノエルを受け入れてくれた騎士団の存在があるせいか……
その時、ラビは強く腕を掴まれて我に返った。
驚いて振り返ると、まるで悪い夢を見て飛び起きたような顔をしたセドリックがいた。
「どうしたの、セドリック?」
「……あ、その……どこかへ消えてしまうんじゃないかと思って」
「何言ってんの。消える訳ないじゃん、家に帰るだけだよ」
そばに来ていたユリシスが、伸ばし掛けた手を下ろして「別れの言葉もないのですか。礼儀がなっていませんね」と眉を顰めた。
ラビは、セドリックの手から解放されると、片方の腰に手を当てて「じゃあな。さよなら」と納得いかぬ顔で首を傾げた。すると、ユリシスが苛立ったように眉間に皺を刻んだ。
「ほんと、君を見ていると無性に腹が立ちますね。挨拶の握手ぐらいあるでしょうが」
「握手?」
『人間の挨拶なんだよ』
ノエルが、短い息をつきながらそう教えた。
ユリシスが怪訝な顔のまま手を差し出して来たので、ラビも彼の手を握った。大きな手はやや冷たく、ラビの力に合わせてしっかりと握り返される。
なるほど、これが挨拶かと、ラビは物珍しそうにそれを眺めた。
「ではラビ、僕にも挨拶してくれますか」
手を離してすぐ、セドリックが向き直って来たので、ラビは彼にも手を差し出した。しかし、彼はラビの手を握ったかと思うと、不意にその手を引き寄せて抱き締めてきた。
苦しさと困惑で、ラビは「うぎゃ」と色気のない短い悲鳴を上げた。セドリックの身体はノエルのように暖く、身体は大きくて硬かった。堪らず彼の胸板を両手で押し返すが、更に強く抱きしめられて身動きがとれなくなる。
「な、ななななな何ッ?」
「知らないんですか、友人同士の挨拶の抱擁ですよ。いつもノエルとやっているでしょう?」
セドリックが、非常に落ち着いた声色で答えた。
ラビは、ノエルとの日常的な触れ合いを思い出したが、あれは親友だから出来るのであって、セドリックの挨拶とは訳が違うと思った。
「ノ、ノエルは親友だからッ」
「僕だってラビの幼馴染で、あなたとは付き合いの長い友人同士です。何だか、僕だけが仲間外れのようで寂しいですよ」
昔から付き合いはあるのだし、確かに親友に近い存在ではあるような気はする。
しかし、苦しい事に違いはないのだ。めいいっぱい背中から締め上げられ、ラビの身体は悲鳴を上げていた。
「……友人同士のスキンシップっていうか、これ一方的に抱き締められているだけなんだけどッ。お前今までこんな事しなかっただろ! 苦しいからッ、はーなーせー!」
「社会に出て、友人同士の付き合いを学びましたからね」
セドリックは、涼しい顔でしれっと答えた。ラビの髪が顎先に触れるのを感じながら、ふと苦しそうな表情で、彼は華奢な身体を更に強く抱き寄せた。
「――嫉妬しますよ。どうか、僕以外の男に触らせないで下さい。焦燥でどうにかなってしまいそうだ」
風が吹き抜けた一瞬、彼は口の中で小さく囁いた。
ラビは、風の音で聞き逃してしまった。彼が何を呟いたのか不思議に思ったが、苦しさに変わりはなかったので、強硬手段に出る事にした。
「くっそぉ、礼儀作法なんてクソくらえ!」
勢い余って右足を振り上げたが、セドリックがひらりと離れていった。ユリシスがどこか苦々しい顔で、言葉使いの悪さを指摘したが、ラビは反省の色もなく二人を睨みつけた。
どこか少しすっきりとした表情で、セドリックが、申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません、ちょっとした友人のスキンシップだったんですよ。どうか怒らないで下さい」
「どうせ、オレは礼儀作法の一つも知らねぇよ、悪かったな」
ラビは舌打ちした。
セドリックは馬車に戻る前に、ラビに「旅の件は保留にしておいて下さいよ」と何度も念を押した。必ず話し合う時間を作りますからと、有無を言わせず強く断言する。
一体何を話し合えというのだ、とラビは鼻白んだ。旅とは、自由気ままに出ていいものではないのかと彼女が愚痴ると、ユリシスが物知り顔で「旅にもいろいろとあるのですよ」と上司を擁護した。ラビは、やはり彼の事は嫌いだと思った。
二人を乗せて馬車が出てすぐ、ラビとノエルは、今度こそようやく踵を返して、我が家へと入っていった。
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