6章 ラビィの帰還(1)

 騒動から数日が経ち、警備棟の内部も片付けられて落ち着きを取り戻した頃、早朝一番に帰りの馬車が一台用意された。


 騎士団の紋章が入った立派な馬車の上で、黒大狼が、暖かい日差しを受けて呑気な欠伸をする光景を、見送りに訪れた男達が神妙な面持ちで見つめた。


「来た時もこうだったよ」

『乗り心地に問題はねぇぞ』


 ラビとノエルは、言葉も出ない男達にそう告げた。


 この数日間で、男達はノエルという特殊な動物が見える利点と、欠点を思い知ったような気がしていた。漆黒の優雅な毛並みを持った大型動物が、馬車の上に寝そべる光景には強烈な違和感がある。


『月の石の効力が消えれば、俺の姿も見えなくなるさ』


 無理やり摂取した事で、副作用が続いているのだとノエルは語った。『まぁ、俺ぐらいの妖獣であれば、見せられる方法はあるんだけどな』と考えるような顔で呟いたが、その声は誰にも聞かれないまま、彼の口に中へと消えた。


 別れの挨拶はしんみりとせず、ラビとノエルの「じゃあな」の二重奏で、あっさりと締めくくられた。騎士団は、共にホノワ村まで同乗するセドリックとユリシスに後を任せて、小さな獣師とその親友を見送った。


 馬車が出発すると、座席に腰掛けていたセドリックが、一つの小袋を取り出した。彼はそれを、「どうぞ」と笑顔で向かい側に座るラビに差し出した。


 ラビは怪訝に思いながら、その小袋を受け取った。


 中に入っていたのは、クッキーだった。袋を空けると、苺のいい香りが鼻についた。


「気に入っていたようだったので、お土産に一つ買っておきました」

「別に、気を使わなくたっていいのに……」


 ラビは強がって唇を尖らせたが、甘い香りの誘惑には勝てず、続く文句もなくクッキーを一枚頬張った。


 甘くて美味しい。思わず顔が綻ぶほど、苺風味がなんとも堪らなかった。


 セドリックの隣で、ユリシスが笑いを堪えて顔を背けた。どうにか笑い声を押し殺しつつも、口に手を当てて肩を震わせる。彼は上司が口にしていた「素直」という言葉を、ようやく完全に理解した。


 ユリシスは冷静さを顔に取り戻した後で、やや口角を引き上げてこう言った。


「戻ったら、多分スコーンも食べられるのでしょうね」

「何でそんな事が分かるのさ?」


 ラビが訝しげに尋ねると、セドリックが、微笑んで説明を引き継いだ。


「僕が戻るときは、いつも用意されているでしょう?」

「そっか、なるほど。お前、甘いスコーン好きだもんな」


 クッキーを食べつつ呟いたラビは、ふと思い出したように「クッキー分けてあげるから」と、袋の口を差し出した。ユリシスは「一枚だけで結構です」と言い、買った当人であるセドリックも、苦笑して同じような事を口にし、クッキーを一つつまんだ。


 馬車は人里を離れ、荒れた大地を走り、途中美しい川の流れにさしかかったが、ラビは風景を眺める余裕がなかった。


 窓に寄りかかったセドリックが、クッキーを食べ進めるラビを可笑しそうに見つめていたのだ。あまりにも飽きず見つめて来るものだから、ラビは居心地が悪かった。


「……何だよ。じっと見るの禁止」

「ラビ。母上のスコーンを、僕がどうして好きなのか知っていますか?」


 唐突に問われ、ラビは少しだけ考えた。


「美味しいから?」

「生憎、あまり甘い物は食べない派です」


 答えながら、セドリックは、疑問符を顔に浮かべるラビに微笑みかけた。


「いつも、あなたがとても美味しそうに食べてくれるからですよ。だから兄さんも、あえて苦手だとは母上に伝えないのでしょう」

「……セドリックが言ってる事、よく分かんないよ。好きなら好き、苦手なら苦手で食べないと思うけど、スコーン食べるの、本当は好きじゃないって話?」

「いいえ、母上のスコーンは美味しく頂いていますよ」


 セドリックは苦笑を浮かべると、窓の方へ視線を流した。


「――本当に。好きな物を好きだと正直に言える人だったら、僕も困らなかったんですけどねぇ」


 彼の独り言の意味が呑み込めなかったが、ラビは視線が離れてくれた事に安堵して、深く尋ねる事はしなかった。


             1


 天候に恵まれた事もあって、帰還する今回の馬車旅は、ホノワ村まで五日もかからなかった。


 ヴィルトン地方にあるラオルテの町から出発して、四日目の夕刻前、馬車は伯爵の別荘前へ到着した。セドリックが戻ると、伯爵夫人は早速スコーンを用意して三人に振る舞った。


 まだ実体化の続いていたノエルについて、ラビは伯爵夫人に咄嗟に、「仕事でしばらく連れている大きな犬」と紹介していた。そのせいか、夫人は「大きなワンちゃんねぇ」と全く警戒なく接し、笑顔でスコーンも与えていた。


 長居は出来ないからとセドリックが前置きしたせいか、伯爵夫人は世間話もそこそこに、土産を持たせるからと言って、一度席を外した。


 夫人が席を離れてすぐ、ユリシスが、早速ラビに駄目出しをした。


「犬とは何ですか。どう見ても無理があります。もっとましな言い訳があったのでは?」

「狼だって言ったら、夫人がびっくりしちゃうかもしれないじゃん」


 ラビとユリシスが睨み合うと、セドリックが「まぁ母上なら、犬と狼の違いも分からないと思います」とにこやかに場を落ち着けて、珈琲を飲んだ。


 別荘を出ると、ついでだからと、通り沿いにあるラビの家まで馬車で送る提案をセドリックは出した。手土産のスコーンを受け取った彼女は、まんざらでもなさそうな顔で「仕方ないな」と便乗させてもらった。

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