5章 ラビィと妖獣と氷狼(8)

 恐らく我を忘れているのだと察し、セドリックがラビの腕を引き寄せようとした時、黒大狼の胸元が大きく膨れ上がった。


 剥き出しになった黒大狼の牙の間から、赤黒い炎がもれた。黒大狼が四肢で大地を踏みしめ、一気に顎を引いたのを見て、グリセンがハッとしたように顔を強張らせた。


「ぜッ、全員更に後方へ退避―――――――――ッ!」


 グリセンが叫ぶと同時に、黒大狼が、強烈な火炎砲のように赤黒い炎を放った。


 激しい熱風が巻き起こり、全員が吹き飛ばされて地面の上を転がった。セドリックがラビを引き寄せて、熱風から庇うように抱きとめる。


 黒大狼は、長い間赤黒い炎を吐き続け、黒い炎に呑まれる氷狼が悲鳴を上げて頭の上の悪鬼が燃え尽きた。


 強烈な炎が止んだ時、黒大狼の周りに立つ氷狼はいなかった。どうにか息はあるようだが、悪鬼が引き剥がされた事で既に意識を失い地面に崩れ落ち。虫のような息を吐いていた。


 そんな氷狼達に、黒大狼が鋭い眼光を向けた。


『喰ラッテヤル』


 喉の奥で唸り、地を這うような呪いの言葉が呟かれた。


 肉食獣の狂気のような吐息をこぼした黒大狼が、鋭利な牙を覗かせて唸り、地面に転がる一頭の氷狼に顔を向けた。


「駄目だよノエル!」


 ラビは、セドリックの腕をすり抜けると、ノエルに向かって駆け出した。彼女は「待って下さいラビ!」と追ってくる彼に気付くと、「邪魔しないでッ」と転がっていた石を勢いよく放り投げて、見事腹にヒットさせて地面に沈めた。


 セドリックが崩れ落ちた様子を見た騎士達が、ギョッとしたように目を剥いた。しかし、すぐ我に返ると「あいつを止めるんだ!」と叫んだ。


 地面に背中を強打したまま転がっていたテトが、走るラビに向かって手を伸ばしたが、届かなかった。腹ばいになったままのサーバルが、駆けるラビの足止めをするべく咄嗟に足を出したが、器用に避けられる。


 ラビの両脇から、ユリシスとグリセンが飛びかかったが、走りながら器用に足蹴にされ、彼らは地面に転倒した。他の男達も次々に加勢に入ったが、ラビの服の裾さえ掴まえられなかった。


 ジンとヴァンが、ラビの進行方向に立ち塞がり、大きな身体で彼女を捕えようと身構えた。相手は小さな女だと言い聞かせ、肉弾戦では負けない自信を持って睨みつける。


 すると、ラビが地面に転がっていた木材を拾い上げた。


 彼女は一気に跳躍を付けて飛び上がると、ヴァンとジンの腹と後頭部に、容赦なく木材を打ちつけ地面に沈めた。彼女は打倒した敵の様子さえ確認せず、「ノエル!」と再び一直線に走り始める。


「くっそ、なんて凶暴なガキなんだ……!」

「俺は、あんなのが女だとは認めんッ」


 後頭部を負傷したジンが、目尻に涙を浮かべて悶絶した。


 ラビは、痛む身体に鞭を打って駆け続けた。優しいノエルが、氷狼を食い殺してしまうところなんか、見たくなかった。


 大きな黒い口が氷狼を持ち上げる直前、ラビは彼の顔に飛び付いた。すっかり大きくなってしまったノエルの口は、ラビが手を伸ばしても、全部を抱きしめる事が出来ないほどに大きくなっていた。


「ノエルッ、食べちゃ駄目だ!」


 ラビは、彼の耳に届くよう必死で叫んだ。ノエルの口の隙間から零れる赤黒い炎に、強い熱気を覚えて「あつッ」と顔を歪めた時、ノエルがピクリと耳を立てて、動きを止めた。


『……ラビィ……?』


 ノエルは遠慮がちに、すっかり低くなった声でその名を呼んだ。


 低い呟きが地面を這ってすぐ、黒大狼の全身から炎が消え失せ、広がっていた五本の尾が地面に落ちた。


 ラビは、ノエルの口に回した腕に力を込めた。漆黒の獣の口に抱えられた氷狼が、彼の牙に乗りかかったままぐったりとしていた。


「駄目だよノエル、もうやめて。お前、いっぱい怪我してるんだよ。だって血が、地面を何度も焼いて――」


 ノエルが暴れ回って怪我をする様を鮮明に思い出し、ラビは込み上げる涙を止められずに、とうとう泣いた。ノエルの漆黒の毛に顔を埋め、ぎゅっと握りしめた。


『……ラビィ、怖イ思イヲサセテ、ゴメン…………俺ノ血ハ全テヲ焼キ尽クスシチマウ。危ナイカラ、少シ、離レテナ?』

「やだ、絶対に離れない。オレはお前なんて怖くないし、離れたくないんだもん」


 ラビは、堪え切れず嗚咽をもらした。涙はどんどん溢れて止まらなくなった。


「ノエルは、ずっと一緒にいてくれるって言った。オレの事、独りにしないって言ったのに、怪我がひどくて死んじゃったら、もう会えないんだよ」

『…………俺ハ、死ナナイ。殺セル奴ハ、イナイ』


 どこか呆れたようにノエルが言って、口許から氷狼を離した。


 黒大狼の姿は次第に小さくなり、五本の尾が一つにまとまって、優雅で贅沢な漆黒の毛並みを揺らめかせた。彼女が大声を上げて泣き始める頃には、いつも見慣れたノエルの姿がそこにはあり、彼はそっと腰を落ち着けた。


 座りこむノエルの首に、ラビは改めて抱きついた。


 彼の赤い血は、もう何者も焼き尽くさなかった。ラビの腕と頬を赤く染め上げ、静かに地面へと滴り落ちる。


 疲れ切って項垂れたノエルの金緑の瞳が、ラビの華奢な背中を見据えた。その視線が彼女の傷ついた腕へと流れ、尻尾が労わるようにその腕を撫で上げる。


「……ノエル、帰ろう。どこまでも一緒にいてくれるんでしょう?」


 場が収束した事を知って、セドリックを筆頭に、騎士団が駆け寄って来る。


 ノエルは、その光景をラビの肩越しに見つめて、静かに目を閉じた。


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