第6話 来ない明日
逸る思いで足を走らせ、アラタは約束した場所へと辿り着く。
鐘楼の下には、婚姻の儀が執り行われた舞台があるばかり。広場で宴が始まった今となっては、ここに人影はない。
「キノウ……?」
彼女の姿も見当たらなかった。自分の方が来るのが早かったのかもしれない。
昂って破裂しそうな心を落ち着けるように、アラタはゆっくりと歩いた。地面に散らばる花びらは、子供たちが摘んで式の際に振り撒いた祝福の跡。参列した人々の表情を、ここを歩いた花嫁の足取りを、なぞって感じるように鐘楼へ進む。
そうした時、待ち合わせの鐘楼のすぐ傍に、何かが落ちていた。
「これは、キノウの?」
降り積もる繊細な白雪を濃紺色に閉じ込めた宝石。そこに紐を通したペンダントは、キノウが片時も手放そうとしないほど大切な物のはずだった。
何故、ここに落ちているのだろうか。アラタはペンダントを拾う。
少なくとも一度はここにキノウが来たということなのだろう。しかしその時アラタはおらず、キノウも何らかの用事で帰った? 自分の代わりにペンダントを地面に置き残して……?
ともかく待っていた方がよさそうだ。下手に動けばすれ違いになってしまう。
そうして二、三十分は待っただろうか。キノウがやって来る気配はない。
さすがに遅すぎる。何かここに来られない事情でもできたのだろうか。これなら無駄足を踏んでも探しに行った方がよかったか。
広場から微かに聴こえていた音楽も止まっているようだ。
丁度いい、とアラタは広場で何をやっているか確認がてら、一旦戻ることにした。
それに無性に喉も渇く。戻ったら水を貰おう。
一度通った道を駆け足で辿りなおす。鐘楼から広場までは木々に囲まれた一本道で、知らずにすれ違うことはそうそうないはず。キノウは道を外れたのだろうか。
「それにしても、妙な気分だな……」
小走りしているだけなのに息が上がる。運動不足のせいだろうか。脂汗が止まらず、腹の奥では違和感が呻きを立てているかのようだ。
自分も酒気に当てられたか。酒を飲み過ぎた祖母のように。
ああ、気持ちが悪い。
喉が、渇く……そう、渇きだ。
何でもいい。この渇きを、癒す、ものを。
いつの間にか走ることも止めて、アラタは重い足を必死に引きずっている。
広場までがやけに遠い。ただ宴会に戻りたいだけなのに、それが気の遠くなるほどに難しい。どうして。おかしい。おかしい。
「おかしい。おかしい…………オカシイ………………オカシイ…………ナニガ?」
そもそも自分は、何をしているのだったか?
求めているのは渇きを潤すもので、それ以外は…………分からない。
やがて広場が見えてくる。
とにかく飲み物を。アラタはおぼつかない足取りで人々の群れに混ざろうとした。
だが、足が向かない。動こうとしない。
どうしてだろうと考えて、そうかと思い至る。
だってあそこにいるのは人じゃない。
広場に集まっている人間だと思っていたものは、ほとんどが醜い獣じゃないか。
「――――――――ひっ……!?」
そこまで考えて、アラタは目が覚めた。
今、何をしようとしていた? だらしなく垂らした涎を、慌てて拭い去る。
「は…………なんだ、これ?」
眼前に広がっているのは獣の群れ。いや、一概に獣と括るべきかも怪しい様々な形状の
それらの眼と思われる部分には一様に、血染めの
血を求めて狂う殺戮者が、この村に入ってきたのだ。
その広場は、既に血で汚されている。見知った顔が、何人も転がって。
「誰か、いないのか……?」
誰か、息のある者は。
道の脇の草木に分け入って、狂獣が徘徊する景色を迂回する。まだ生きている人がいるはずだ。大勢でどこかに避難しているのかもしれない。
懇願するような気持ちで進んでいた時、声が聞こえた。人の叫び声だ。
まだ誰かいるのだ。声の方向へ向かう。
いた。狂獣の群れの中で未だ奮闘する戦士たち。固まって戦っているのは遠方からやって来た兵士と、父親だ。
彼らは武器を振るって狂獣に抗う。一人が手のひらから放った火球に熊型の狂獣が怯んだ。その隙に切り込んだ剣士が敵の腕を切り飛ばす。
勝てる。少人数でも力を合わせれば、狂獣を相手取ることくらいできる。そんな希望を持ち始めた時、異変が起こった。
火球を放っていた兵士が突如として膝をつく。苦しそうに息を荒げ、意識を朦朧とさせていた。
そうして、それは始まった。
兵士が纏う制服の内側から、何かが飛び出そうとするかのように蠢く。それはやがて制服を突き破り、黒々とした何かが徐々に肥大化していった。兵士の姿は黒い蠢きに呑まれて、形を、変えていく。
現れた獣。その眼光は血に狂う赫。形容しがたい四足の身体には、破れた兵士の制服を貼りつけていた。
「変成の病……」
肉体が狂獣へと変化する現象。正気を失い、二度と人の姿には戻れない。
その獣は、すぐ傍で別の狂獣相手に奮戦する兵士へ突っ込んだ。転がる兵士の体を、自身の長大化した四肢で器用に押さえつけ、一心不乱に牙を立てる。
もはや立っているのは父のテツロウのみだった。
「とう、さ、ん……!」
彼は叫び声を上げながら、何かを振り払うように戦っていた。
相手にしているのは巨大な蜘蛛の狂獣。骨ばった硬い装甲を、テツロウは両手で握り込んだ剣の大振りで傷つける。足の一本を切り落とすと、ガードの空いたその部分から体を入れ、切り上げる。底面からの斬撃に、蜘蛛は引っくり返った。
動けない蜘蛛に剣を振りかざすテツロウ。けれど彼はその状態のまま、剣を振り降ろせないでいた。
「何をしているんだ……俺は……」
立ち尽くす父親に、アラタは声をかけることも、駆け寄ってやることもできなかった。ああなってはもう助からないと、分かってしまった。
もはや希望を持つ段階は過ぎてしまって、終わりへ向かう諦観ばかりが体を支配している。
そうして空から飛来したフクロウが、テツロウの頭を咥えて挟み切った。
果実を潰すように、血が弾けた。
フクロウが足に纏う布きれは、今朝目にした母親の衣服にそっくりだった。
「…………キノウを探さないと」
辛うじて頭に残った約束事のために足を動かす。
この広場にキノウはいない。
ここの村人はみんな死んでしまった。だからここにキノウがいるはずはない。
さまようように走っている。
平穏だったこの村に、もう自分の居場所はない。奥の繁みから、いつ自分を狙う影が飛び出してくるか。考えただけで、生きるのを諦めてしまいそうになる。
今は自分の首に提げたペンダントだけが希望だ。
軋むような痛みを感じた右手に触れれば、そこは何かふさふさとしたものに覆われているようだった。
アラタは見ないように、ひたすら心を無にして走った。
そうして辿り着いたのは、いつもの約束の場所。彼女と踊った丘。
その頂上に、見つけた。
眠るように横たわった、キノウの姿。
「キノウ」
「あ。アラタだ」
か細い吐息と共に、彼女は声を発した。
うっすらと開いた瞼の奥から、必死に焦点を合わせようと揺れる虚ろな眼。
腹部は衣服の上から大きく裂けて、血を、溢れさせている。
「キノウ……そんな、あぁ…………」
アラタは彼女から流れる血を止めようと、手を傷口に当てる。それでも止まらず、衣服を脱いで押し当てる。白い布が真っ赤に染まった。
傷は背中まで貫通して、そこからも血は流れていた。
「来てくれると、思わなかった。こんな格好じゃ、恥ずかしい、ね」
「何言ってるんだ……! 早くここから離れよう! ここは狂獣が溢れて危険だ!」
「……ペンダント、ちゃんと拾ってくれたんだね」
「そうだ! 君のペンダント、鐘楼の下に落ちていた。大事なものなんだろ? 駄目じゃないか、ちゃんと持っていないと!」
「ううん。あなたが持っていて。きっと助けになるから」
「助けって……助けが必要なのはキノウの方じゃないか!」
それなのにどうして、自分を諦めたように言うのだろう。
「あなたに伝えたいこと、いっぱいあった。でも、ごめん。頭が回らなくて、うまく伝えられそうにないや……」
「そんなの後でいくらでも聞くから。しっかり――」
言い終わる前に、キノウが力なく手を持ち上げる。白く、美しい手だ。その折れてしまいそうな腕をどうすればいいか迷っていると、キノウは言う。
「ねえ、手を。温もりを感じさせて」
今、手を差し出せば、堰を失った傷口から血が流れ、キノウを死に至らしめてしまうのではないか。そんな不安がよぎった。
「あれ。アラタ、どこ……?」
けれど、自分を求めてさまよっている手を見ていられなかった。アラタは両手でキノウの手を包み込む。壊れないよう、優しく。
「……あったかい。でも、なんだか毛むくじゃらだね?」
「それは……なんでもないさ。すぐに良くなる」
アラタの右腕は、もはや人間の形をしていない。灰色の毛に覆われた獣だった。
「そっか。でもそのままだと困るよね……」
その時、キノウが苦しげに咳き込んだ。液体の混じった咳は、芝の上に赤い飛沫を散らす。
「キノウ、もうしゃべるな……!」
「大丈夫だから。アラタ、起こして」
キノウが両手を上げる。そんな格好が駄々をこねているようで、甘えたがりな昨夜の彼女の姿が重なった。
無理をさせていると自覚しながら、アラタは彼女を抱き起こす。
しがみつくキノウ。温かい息を首元に感じる。
「……私、考えたんだけどね」
彼女は振り絞るかのように声を出す。
「やっぱり、私もずっとあなたと一緒に居たかったよ」
そう言って、彼女はアラタの首筋に触れた。
弱々しいそれは、口づけだった。
彼女はアラタの首にしがみつくように口を押し当てる。感覚もほとんど残っていないのだろうか。力加減の間違えた、不器用で、必死な口づけは、痛いくらいだった。
私の
そう言って、彼女は口を離した。
「今はこれが精いっぱい」
柔らかく笑うと、ふっとその体から力が抜ける。
「キノウ!」
腕の中で彼女は生きる力を失くしてゆく。雪が融け、地面に染み込んでいく。
もう何を呼びかけても彼女は反応しなかった。ほとんど吐息を吐き出すように、「ごめんなさい。ごめんなさい」とうわごとを口にするばかり。
何もできなかった。
「アラタ……生きて…………――――――」
最後にそう口にして、キノウは動かなくなった。
彼女との出会いがあった。彼女の命を救うことになる出来事があった。彼女との触れ合いがあった。少しずつ埋めてきた距離があって、これから埋めていくはずの距離があった。
そして永遠に、彼女とは離れ離れになってしまった。
「あ…………あァ……」
それからのことをよく憶えていない。
泣いていた。叫んでいた。無力な自分を嗤いさえしていたかもしれない。
ただ、守るべき存在を失った自分は、狂ってしまったということだけ。
肉体に宿った変成の病が右腕から獣性を広げ、体を侵食していく。抗う意志を手放したアラタは、己を浸し、存在を置き換えていく不快感に運命を委ね、その身を狂獣へと変えていった。
幼馴染のまま、もう届かない、彼女とのこれからを夢想しながら。
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