第3話 明日の向こうの話

 一面の雪景色の中、震えている少女がいた。


 まだ幼かったキノウを見つけた時、彼女はもう一人ぼっちだった。周囲に親も、保護者と呼べる大人も居らず、一人きりで雪の森に放り出されていた。


 アラタは彼女を助けようと思った。震えるばかりの彼女を、暖かい場所へと連れ帰ってやろうと。

 降りしきる冷たい雪の下、彼女を背負って歩いた。凍る手足。霜に覆われた視界。極限の零下を、ただ彼女を救いたいという一心で。


 そんな折、彼女は言った。


「私はね、壁の向こうから来たの」




 過去の景色が走馬燈のように思い出される。


 時は現在。村の林を抜けた先にある小高い丘で、アラタは座り込み、じっと目を閉じていた。


 瞑想。己の中身を空にし、無想に耽る行為。

 一日の終わりになるとこの場所へ来て、数十分の瞑想を行うのが、アラタの日課だ。

 それは我を失いがちな自分を敢えて一時的に忘れ、自我を取り戻していく儀式。いつでも精神を落ち着けられるように、これを習慣としている。

 昔、同じ症状で苦しんだ時、とある兵士に教えられた方法だった。


 だが自身の内側を白紙にする瞑想が、ふと脳裏に甦った思い出によって濁った。こうなるともう一度集中し直すのは難しい。


 仕方なくアラタは今日の日課を終了することにする。瞼を開き、ぼやけた夢のような視界が現実味を帯びるまで待った。数秒経って、目の前の景色がようやくはっきりと見えてくる。

 顔のすぐ正面には、キノウが居た。


「おはよう」

「そんなところで何やってるんだ?」


 アラタは問いかける。胡坐をかいたアラタの腿を枕にして横たわるキノウは、あどけない顔で見つめ返してくる。


「んー、今日はたくさん働いたから、ちょっと休憩!」

「それなら別のところでやってくれないか? そこに居られると動けなくて困る……」

「むぅー。いいでしょ?」


 見つめてくる藍色の瞳。どこか眠たそうに蕩けている。


 アラタが諦めたようにため息を吐くと、キノウは顔を綻ばせ、腿に額をぐりぐりと押し付けてきた。

 いつもの甘えたがりだ。アラタは彼女の白銀色の髪を、壊れそうな物に触れるような柔らかな手つきでいてやる。


「んーっ……えへへ」


 キノウはこそばゆそうに喉から高い声を出した。

 しばらくそんなことを続けた。


 遠くの方から微かに聞こえる騒ぎ声。広場では今頃、前夜祭と称して大人たちだけの酒宴を催しているところだ。遠くから来たばかりの新郎を巻き込んでの宴は、もうしばらくは終わりそうにない。


 見上げれば、星々が飾る夜空が地上のあらゆるものを包み込んでいる。

 その下で眠るキノウは、揺り籠に抱かれる幼子だった。


 彼女はたまにこうなる。

 歳の近い幼馴染に気を許しすぎてしまう。十五の娘が、まるで幼子のよう。

 それは恋情や友愛というよりは、父母に対してするような親愛の表れに見えた。


「お加減はどうですか?」

「うん。もっとやってー」

「はいはい。しょうがないな」


 キノウに促されるまま、幼い戯れを続ける。

 彼女は本来の親とは離れ離れになっている。

 こうして甘えることは、幼い時期に作り残した思い出の埋め合わせなのだろうか。


 六年前、彼女はたった一人で外からやって来た。

 村の外ではない。

 世界の外から。

 彼女はアルトランの人間が決して越えられない壁を越えて来たのだ。


 広場とは逆の方向。タリエ村からほど近い北の果てに見える、〈揺籃ようらん〉。

 それはアルトラン領域を円形に覆い尽くしている蒼色半透明の壁。人も物も通さず、先の景色も見通せないその壁は、「世界の果て」とも呼ばれていた。

 どうやって成り立ったものなのかは不明。分かっているのは、アルトランの技術でそれを破るのは不可能ということ。

 〈揺籃ようらん〉という名前の通り、それは揺り籠のように、アルトランを外敵から守り、安寧で包みこむ。それより先にあるものを、誰も知らない。


 けれど、キノウは壁の向こうからやって来たという。誰も知らない外の世界から。

 このことは、二人だけの秘密だ。


「アラタ~。明日の結婚式、楽しみだねぇ」


 キノウが腿の上でごろんと顔を上に向ける。


「そうだな。ソラノさんがまたお転婆しないといいけど。旦那さんも酒を飲まされ過ぎて潰れないか心配だ。こういう時、大人はすぐ羽目を外すから」

「ふふっ、しょうがないよ。だって幸せな日なんだもん。一生に一度の晴れ舞台! きっと明日のソラノさんは、今までで一番綺麗だよ。はぁ、憧れるなぁ」


 キノウはため息を吐くように言う。

 やっぱりそういうことに興味があるのだろうか。アラタにはまだ、よく分からない。


「キノウは、将来のことを考えてたりするのか?」

「……なあに? 唐突だね」

「そうかな。結婚の話だったから。それに今日はやたらとそんな話題ばかりだったんだ」

「ああ、今朝の……」


 気持ちよく綻んでいたキノウの表情が、一瞬だけ固まったように見えた。そんな変化を確かめる間もなく、キノウはアラタの傍から離れる。

 彼女は踊るような足どりで丘の上へ向かうと、首元に提げた雪結晶のペンダントを手に取って、頭上の星空を透かすように眺めた。


 濃紺の夜空に白雪が降り積もっていくような、不思議な色模様の宝石。

 初めて出会った時から身に付けていたものだ。そのペンダントが彼女の首元から離れたところを一度として見たことがない。彼女はそれを、何よりも大切に扱っていた。


「私はね、ずっとこの村に居ることはできないんだ」

「……どうして?」

「私にはやるべきことがあるから。そのために、いつかこの場所を離れなくちゃいけない日が来る」


 彼女の話は曖昧なのに、その口ぶりは確信に満ちていた。それが心の中へ言いようもない恐怖をもたらす。


 アラタは焦る気持ちで彼女へ疑問を投げかける。


「やるべきことって、何?」


 キノウは背を向けて佇んだまま、言葉を返そうとしない。


「六年前に壁を越えてやって来たことと関係があるの?」


 くるり。彼女は足を引いて軽やかに体を回す。くるくると、風に膨れるスカートの裾をつまんで、楽しげに舞う。


「どう? さまになってるでしょう」


 童話に出てくるような白銀の妖精が、夜空の下で戯れている。


「明日の婚姻の儀で、私、おめかしして踊るの!」

「キノウ……」


 そんな風に誤魔化すキノウが、どこか遠い場所に居るように感じる。

 彼女は昔から、壁の向こうの話をしたがらなかった。それは今この時になっても同じ。

 所詮は違う世界の人間だ。心からの信用は得られていない。


 アラタの落胆を感じ取ったのか、キノウは動きを止める。膨らんだスカートが力なくしぼんでいった。


「僕は君のことを知りたいって思ってる。出会った日からずっと。でもやっぱり、駄目なのか?」


 返される無言。彼女との間にあるのは〈揺籃〉のような、強固な隔たり。

 それを取り払うのがどれほど難しいか、想像もつかない。彼女が背負っているものの深刻さも。何も知らない。教えてくれない。


『お前はどうするつもりなんだよ。キノウとのことは』


 ジュドの言葉が思い出される。


 今日、事あるごとに考えさせられた将来の話。

 アラタが歩んでいきたい未来の形とは、つまりキノウとの関係の形でもあった。


「僕はずっと君と一緒に居たい。それすらも期待してはいけないのか?」


 そう口にした時、わずかに肩を上げる彼女の姿が見えた。

 たっぷりと間を置き、おもむろに振り返るキノウ。顔を遠慮がちに伏せて言う。


「えっとぉ…………それって、どういう意味……?」

「言葉通りの意味だ」

「えぇ!?」


 飛び跳ねるように上げた顔は、赤みを帯びていた。


「でも……でもでも、きっと後悔するよ。私と居ても、あんまりいいことないかも……つらい目に遭うかもしれないよ?」

「何があっても、後悔だけは絶対にしない」

「そんなこと分からないクセに……ずるいよ……」


 キノウはまた顔を伏せてしまう。そうやって隠した口元から、「でも、そういうのもアリなのかな」と呟くのが聞こえた。


 ここまで来れば後戻りはできない。明日も、その次の日も、何年後でも一緒に居るために、もう心を決めてしまおう。


「キノウ。僕と――――」

「ちょっと待って! 明日はソラノさんの結婚式! 私たちの話はまた今度にしようよ! ねっ!?」


 意を決して紡ごうとした言葉は、そんな気迫あふれるキノウの言葉に遮られてしまうのだった。


 確かに。婚姻の儀で人の幸せを祈る時に自分たちのことで頭を悩ませるのも不健全な気がする。結果によっては、祝うものも祝えなくなってしまう。


 しかし、ここまで言ってリセットを要求されたアラタの落胆は、それはもう凄まじいものだった。気を張っていた分、なおさら。


「それはあんまりだ……もう二度とこんなこと言えないぞ」

「……明日の儀式が終わった次の日に、また話そうよ。きっと、この丘で。またこうやって、あなたを起こしに来るんだから」


 肩を落として小さくなるアラタへ、キノウは歩み寄って手を差し出す。


「ねえ、ちょっとだけ一緒に踊りませんか?」

「そんなことで誤魔化されたりしないんだからな」

「そうだね。……でも後悔はしないんでしょ? ほら、手を取って」


 なんだか発言を都合よく切り取られた気がするが、仕方がない。


 アラタはキノウの小さく柔らかな手を取った。そうしてぎこちないステップを踏んで、二人で笑い合う。キノウは微笑み、体をアラタに預けた。


 行きつかない思いをそのままに。今はこの楽しさがちょうどいい。

 星夜の下、観客のいない丘の舞台に立って。

 互いを見つめる二人だけが、そこにいた。

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