変貌のバトルクライ

海洋ヒツジ

プロローグ

第1話 予感

 朝の気配に誘われて、目を薄く開く。

 寝台の上。窓を通り抜け降りそそぐ陽光が、昨日と同じ朝の到来を告げていた。


 休んでいたはずの体に残る確かな疲労感。こんなにも体の節々が重いのは、ここ数日の慣れない肉体労働のせいだ。普段ろくに使っていない筋肉がだらしなく悲鳴をあげている。

 体はとんでもなく怠くて、頭も沈み込んだ枕から一ミリも浮き上がらない。

 シーツから離れようとすれば筋肉たちがストライキを起こさんばかりだ。


 仕方ない。これも体を労わるため。


 彼は瞼を再び閉じ切って、もうしばらくの時間を寝台の上で食い潰すことに決めたのだった。


「起きて。――――起きなさい、アラタ!」


 その時、夢の世界へ片足を踏み入れていた彼の体が、勢いよく起こされる。


「もう朝だよっ! できたてのスープが冷めちゃうよ!」


 腕を引っ掴まれて無理やり寝台から引きはがされてしまえば、さすがに覚醒せざるを得なかった。


 一人用の寝室に鳴る柔らかな声。小さな雪玉を転がす、というイメージがよく似合う。


 開いた視界でその姿を見上げる。幼い丸みを残した顔を膨らませ、呆れたように腰に手を当てている女の子。どうやら自分は彼女に起こされたらしい。


「おはよう……」

「はい、おはよう。いつも通りのねぼすけだね。早く顔洗ってしゃっきりしてくるんだよ。今日も頑張らないといけないんだから」


 何百回と繰り返された挨拶をそつなくこなして彼女は部屋を出ていく。料理用の三角巾から流れ落ちた白銀色の後ろ髪がドアの隙間に吸い込まれるその時に、香ばしい朝餉あさげの匂いを一筋残していった。


 まだ本調子でない頭で、何を思ったか左手を眺める。ずきずきと痛む手のひらは、斧を使った際に作ったまめが潰れて乾き、虫刺されのような赤い跡になっている。


 彼はほっと息をつき、寝床から抜け出した。




 アラタ・マクギリは辺境の村の一人息子だ。

 アルトラン領域の北端に位置するタリエ村。人口が二〇〇に満たないほどの小さな村で彼は生まれ育った。

 村では一般的な黒髪に灰色の眼、同世代の中では若干低めの身長、優しい顔つき。

 特筆することもないような日々を繰り返し、村を離れることもしなかった、一般的な村人だ。


 顔を洗って食事の席につく。


 今にも腹の虫が鳴き出しそうな匂いの中、同じように席で寂しい腹を慰めている父親のテツロウ。向かいでは渋い顔をした祖母のナガミが「まだかねぇ」とぼやいている。


「もうすぐですよ」


 返事をしたのは、香ばしい湯気を立ちのぼらせる鍋の前に立つ母親シンシア。朝食とは思えない豪勢な料理を、てきぱきと皿によそっていく。


 そして出来上がった料理を片端から運んでいるのは、先ほどアラタを起こしに来た白銀髪の少女、キノウだった。

 キノウはエプロンと三角巾を外すと、放り出された白銀色の長髪を、しなやかな手つきでポニーテールにした。


 彼女の髪色はこの家の誰とも違う。家の中で、彼女だけは血の繋がりがなかった。


 準備が整うと、各々が目の前の料理に手を付け始める。


 こんがりと焼き上げたパンに、香辛料をまぶして炒めた羊肉を乗せてひと齧り。肉の旨味が口の中で染み出す。続いて野菜のスープを流しこめば、口に残った硬いパンがほろほろと崩れ、優しい味わいが広がった。


「――――はぁ……おいしい」


 アラタが素直な感想を漏らすと、キノウは満足そうな笑みを浮かべる。


「ふふ、今日のスープは私が作ったんだよ。どう? 塩加減はちょうどいい?」

「ちょうどいいよ。元気が出そうだ」

「よかった。味付け、憶えておくね。まだまだ残ってるから、たくさんおかわりしてね。今日のは具材もたっぷりなんだから。――お母さん。アラタ、喜んでくれたよ」


 キノウはシンシアに向けて嬉しそうに報告した。


「キノウも料理の腕はもう一人前ね」

「そんなことないってば。まだまだお母さんにはいろんなことを教えてもらうつもりなんだから。あっ、次はパンの作り方を教えてほしいな」

「はいはい。次焼くときに、一緒に作りましょうね」


 キノウはシンシアのことを「お母さん」と呼んでいた。

 血縁関係はない。けれどシンシアも彼女のことは我が子のように接している。娘に家事を教えられることが楽しくて仕方ないようだ。

 彼女は幼い頃にこの家に迎え入れられた。今では、すっかり家族の一員だ。


「人の耳元でわんわん喚くんじゃないよ。他所の娘はまったくマナーがなっちゃいない……」


 これ見よがしな呼び方で不満げに呟くのは祖母のナガミだ。


「……おばあちゃん。どうしてさっきからパンばっかり食べてるの?」

「はんっ、よそ者が人の食事の仕方にまで口を出すのかい? 随分と偉くなったもんだねぇ」

「スープも一緒に飲んでよ。パンだけ食べてたら硬いでしょ? おばあちゃんは顎も弱ってるし、口も乾ききってるんだから。喉に詰まらせでもしたら大変なんだよ?」

「うるさいわい! アンタの作ったスープは味が濃すぎるんじゃ! まったく若い娘はこれだから……こんなもん飲んでたら早死にしちまうよ」


 またいつもの難癖だ、とアラタは祖母の振舞いに頭を痛める。彼女の口の悪さは、キノウに対してだけというわけではない。誰に対してもそうなのだ。


 しかしキノウの方も、厄介な祖母に言われっぱなしではない。


「仕方ないなぁ」


 キノウは席を立つと、ナガミの後ろに回ってスプーンを取った。


「おばあちゃんは言葉と行動が不自由みたいだから、私が食べさせてあげるね。ほら、ちゃんと口開けて。じゃないと熱いスープが零れちゃうよ」

「何をするんじゃこの小娘……や、やめろ。そんな熱いジャガイモを近づけるんじゃ――」


 暴れるナガミの口を押さえてスプーンを近づけるキノウ。

 あんな風に喧嘩し合えるのも、ある意味では対等な関係と言えるだろうか。

 間違いなく言えるのは、キノウが逞しく育ったのは祖母のおかげということだ。


 こうして騒がしいもみ合いが朝の食卓を彩る。シンシアはあたふたとし、アラタとテツロウの男二人はそそくさと食事を進めるのだった。


「アラタ」


 テツロウから声がかけられる。体の大きな父は隣に座っているだけで、一家を守るかのような頼もしさを感じさせた。


「昨日の夜は遅くまで起きていたようだな。また、絵か?」

「うん。でも疲れてたからすぐに寝たよ。最後まで仕上げておきたかったのにさ」


 部屋に置いた、木の画坂に挟んだ紙片。花瓶に挿した花を描いた絵は、まだ色鉛筆で塗りかけていて未完成だった。


「そういえば緑色が切れかけてたんだった。今度行商の人に注文する時に頼んでおいてよ」

「アラタ。熱を入れるのはいいけどな。お前はその絵を生業にするつもりはないんだろう?」

「この前も言ったけど、絵はただの趣味だって。仕事にするのなら町に行かないといけないし、勉強もしないと。そんなつもりは僕にはないよ」


 アラタにとって絵を描くことは趣味以上のものにはなり得なかった。

 だからこそ父は、趣味ばかりに没頭する彼を苦々しく思っているのだった。


「……前に訊いたことは忘れてないよな?」

「何のことだっけ?」

「お前、仕事は何をするつもりなんだ?」

「あーえっと、その話ね。それは…………父さんの仕事を手伝うとか?」


 アラタは目を泳がせながら出した回答に、テツロウは呆れるように首を振った。


 似たような話は何度も聞かされていた。今アラタは十六歳。そろそろ大人たちに混じって働き始めなくてはならない歳だ。

 けれどアラタはそのことを考えていないばかりか、趣味にばかりかまけている。これでは親に心配されるのも無理はない。


「あのなぁ。俺の仕事は村の安全を守ること。これは俺が強いから任されていることで、従軍経験もないお前に引き継げる仕事じゃないんだよ」


 テツロウは元兵士だった。

 兵士時代の彼は、魔物や狂獣きょうじゅうと呼ばれる存在と幾度も戦っていたらしい。その腕を買われ、村の用心棒のような役目を引き受けているのだ。


「それとも……お前も少し経てば十七になる。兵役が認められる歳だ。軍隊に所属するつもりなら、剣の稽古はつけてやるぞ?」

「軍隊!? そんなの駄目! アラタには無理!」


 身を乗り出すように声を発したのは、祖母とのもみ合いに一区切りつけたばかりのキノウだった。ナガミにスープを飲ませることに成功したようだが、未だ睨み合っているのでしばらく喧嘩は続きそうだ。


「アラタに魔物や狂獣の相手なんてできっこない。虫を殺すのだって躊躇うんだよ? 目の前に化け物がいても、『殺すのはかわいそうだー』なんて言うに決まってるよ、この臆病者は」

「虫くらいなら鬱陶しいだけだ。我慢すればいい。わざわざ殺す必要なんてない。目の前に化け物がいるなら、どう殺すかよりも、どう逃げるかを考えるべきだ。そっちの方が生産的だし、僕にとっては生き残る可能性も高い」

「ほら。兵士には向いてない」


 キノウが「どう、この臆病っぷりは?」とでも言うようにテツロウに向けて視線を投げた。

 強いて否定はしない。臆病というよりは、平和主義と言ってほしいけれど。


 テツロウは残念そうに頭の裏を掻いた。


「……まあ、俺もアラタが戦いに向いているとは思っちゃいないさ」

「それに今日起こしにいった時、またうなされてた……私、心配だよ。遠くの場所で知らないうちに、アラタがどうにかなっちゃうんじゃないかって……」


 その報告に、静かに食事をとっていたシンシアが「またなの?」と心配の目を向けた。アラタはなるべく余裕をもった表情で「大丈夫」と言う。


「あーでも、兵士になる話は断っておくよ。キノウの言う通り、僕には難しそうだ。仕事は何か、この村でできることを探してみる」


 そうして食事を終える。アラタは今日の作業へと向かった。


 村では明日に控えた祝い事のため、準備を進めているところだった。働ける村人は作業に駆り出されている。


 道中、アラタは起床した時と同じように、自身の手を見つめた。


「…………最近は落ち着いてきたと思ったんだけどな」


 突然、自分が何者か分からなくなる瞬間がある。

 吐くほどの不快を伴って、何か自分の中の大事な物が抜け落ちてしまうという不安が襲ってくる。

 そして悪寒に身を固めた体が、自分とは別の存在になっていくという幻視。


 最近まで、これが何に対する恐れなのか分からなかった。だが、とある奇病の名前を耳にした時、足りなかった情報の空白が埋まる感覚がしたのだ。


 恐れているのは、変成へんせいやまい

 肉体が狂獣という化け物へと変化し、二度と戻れなくなる病気だった。

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