逆境を味わう

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逆境を味わう

 街外れの小高い山の郊外に、その場所はあった。

 周囲を緑の濃い、木々に覆われながらも一面の下草が覆い尽くす。手入れが怠たわれた牧草地にも似たその地には、雑草が伸び放題で人の手が入った形跡はない。

 だが、そこはかつては馬場であった地だ。

 馬場とは、馬術の訓練や流鏑馬などに造営された広場であり、馬が走るための地のこと。

 古人達は、この地を作るために木を倒し、草木が育ちにくいようにと土を耕し石を埋めて平らにしたのだ。

 江戸時代には、多くの武士が馬を乗りこなし馬術の腕を競ったと聞く。武士のための宿舎の痕跡もあったと言われているが、21世紀の現代のその建物は朽ち果てており、残っていない。

 全ては悠久の時の流れの中で消え失せていた。

 そんな場所で、二人の人影が対峙していた。

 一人は少女だ。

 黒いセーラー服に真紅のスカーフ。

 スカート丈も長くストレートベースで大人っぽいポニーテールの髪型。

 キリッとしていて凛々しい雰囲気は、どこか冷たく感じる瞳をしていた。

 背筋がピンっと伸びておりスタイルが良いため綺麗な姿勢に見えるが、可愛いというよりカッコイイという言葉の方が合っている少女。

 だが、同時に水のように清らかで透き通った美しさも兼ね備えていた。

 まるで芸術品のような少女。

 少女の名を風花かざはな澄香すみかと言う。

 そして、もう一人は黒い打裂羽織を羽織った少年だった。

 高校生くらいであろか。

 長めの前髪を額にかけ、そこにしっかりとした面立ちがあった。

 だが、武骨ではない。

 顔は親から譲り受けたものだが、環境でその面立ちは変わる。

 恵まれた環境ならば、穏やかなものに。

 荒んだ環境ならば、厳しいものに。

 少年の場合は親から譲り受けたもの以上に、環境でできあがった面立ちが感じられた。ガラスのような透明で冷ややかで、浸食を受けつけない不変さを持つ。そんな面立ちだった。

 発育の良い今日日の子供は、中学生くらいでも大人と似た体格から、年齢を見誤ることもあるが、長い年月から見れば人間の2、3年の歳の違いなど取るに足らないことであった。

 だが、少年の長い前髪の奥に存在している眼に宿るものが、切った張ったの世界で生きる者さえも戦慄を憶えるものがあるとしたら、話しは別だ。未成年という青い存在としては片付けられない。

 少年の名前は、いみな隼人はやとといった。

 二人は、その手に刀を握りしめていた。

 隼人は、その右手に刀を下げ、澄香は八相に刀を構える。

 澄香の息は少し乱れていた。

 緊張のためなのか?

 それとも運動によるものなのか?

 そのどちらとも言えた。

 二人は、すでにこの場にて斬り結んでおり、白刃が交錯する度に命を奪い合っていたからだ。

 しかし、二人の戦いはまだ終わらなかった。

 それは決着をつけようとしないのではなく、つけることができない状況にあったからである。

 澄香は、隼人の持つ刀を見る。

 刃長二尺(約60.6cm)。

 それは思いの他、短い刀だ。

 なぜなら、刀の定寸は、二尺三寸五分(約71.2cm)だからだ。

 短さは、そのまま間合いの差となる。

 刀と槍が対決すれば、リーチの長さは圧倒的に槍が有利である。

 つまり、定寸の刀を持っている澄香の方が、隼人よりも有利であるにも関わらず、未だに決着をつけられないでいた。

「戸田流の私がだぞ……」

 澄香は呟く。

 戸田流とは、短い太刀を使う中条流剣術の流れを汲む流派だ。

 言わば、小回りのきく技を得意としている。

 その自分が、その持ち味を活かしきれないでいるのだ。悔しさから奥歯を強く噛み締める。

 澄香は、隼人との間合いを詰めようとする。

 その時、隼人が自分の方を見ていないことに気がついた。

 真剣勝負において、相手から視線を外し、よそを向くことなどあり得ない。

 しかも、ここは決闘の場なのだ。

 何かおかしいと感じた澄香が警戒心を強める。

 澄香が周囲を探るように、意識を張り巡らせる。

 すると、馬場の周囲を取り囲むように、複数の男達の姿が見えた。ストリーファッションにパンクを加えたような奇抜な服装をした者達だ。

 そして、その男達は皆一様に、腰に刀を差している。

 その数は20人前後だろうか。

 澄香は、彼らの中に、一人の男がいることに気がつき目を細める。

 年齢にして30代半ば。

 身長は180cm前後。中肉。

 体格はやや痩せ形。

 髪は短めで黒に近い焦げ茶色。

 瞳は灰色で鋭い眼光を放つ。

 鼻梁は高く、顎は細く引き締まっている。

 その男はパーカーにチェスターコートを羽織っていた。

 おそらくこいつが、男達の中でもリーダー格なのだろう。

 男は、余裕の笑みを浮かべながら、腕組みをして立っていた。他の者は、ただ黙って事の推移を見守っているようだ。

「誰だ、貴様ら!」

 澄香は勝負を邪魔された怒りをぶつけるように叫ぶ。

 その声に反応して、周囲の空気が震えた。

 隼人は、澄香の声を聞くと、答えてやった。

「《がい》の数胴すどう。……と、その仲間達ってところだな」

 すると、リーダー格の男・数胴が口を開く。

「悪いな、お嬢さん。そこの《なにがし》の命は、俺がもらい受ける約束をしていてな。この勝負を譲ってもらうぜ」

 澄香はその言葉を聞いて驚く。

 《なにがし》とは、隼人のことを指しているからだ。

 まさか、自分意外に隼人の命を狙っていた者がいたとは思ってもいなかった。

 それもこんな時にだ。

「ふざけるな。この男の首は、私のものだ。誰にも渡さない。例え相手が誰であろうと、絶対にだ!!」

 澄香は、語気を強めて言い放つ。

 だが、その返答を聞いた数胴が笑い出す。

 まるで嘲笑うかのように。

 澄香には、それが気に障った。

 さらに苛立ちを募らせた。

「そういう《約束》なんだよ。なあ、《なにがし》よ」

 数胴は隼人に同意を求める。

 隼人は苦笑する。その顔はどこか諦めに似た表情だった。どうやら隼人は、数胴と何らかの取り決めをしているらしい。

 その事実に、澄香はさらに怒りを覚える。

「そうだったな。確かに俺は言った。お前と戦った時に、『俺と戦いたいなら勝負を受けてやる』

 てな」

 澄香は愕然とする。

 そんなことは聞いていないからだ。

「ふざけるな。こいつの首は私が取る予定だ。貴様らなどにくれてやる気はないぞ」

 数胴は、また笑う。

「そうかい。俺の目的は、《なにがし》の身体だ」

「なに?」

 澄香は意味が分からない。

 隼人は、そのやりとりを見て、溜息をつく。

 その仕草は、もう何もかも面倒になったといった感じであった。

「まったく。どいつも、こいつも俺の意見なんか聞きゃしない。好き勝手なことばかり言ってくれる。

 だが、良い棲み分けでもあるな。そこの女は、俺の首が欲しい。数胴は、俺の身体が欲しい。終わった後に、仲良く分けあえば、万事解決だろ? だから、さっさと終わらせようぜ」

 隼人の言葉を聞き、数胴は満足そうな顔をした。

 しかし、澄香は納得できない。

「待て隼人。私の意見はどうなる。そもそも、この勝負は……」

 澄香は、不用意に隼人の間合いに踏み込んだ。

 それは、もはや話し合いでは決着がつかないと判断したからであり、これ以上、隼人との会話をしてもらちが明かないからこその行動であった。

 だが、隼人は、澄香が間合いに入ってきた瞬間、右手で刀に下がっていた刀が瞬時に振り上がっていた。

 まるで光り輝く剣閃のような速さで、刀を振るう。

 刀が空を斬る、音はしなかった。

 ふと、澄香は自分の手を撫でるものを感じた。

 見ると、真紅のが舞っている。当初は、それを血かと思ったが、違う。それは、風に舞って澄香の足元に舞い落ちる。

 その正体は、布であった。

 その色と形状に、澄香は見覚えがあった。

 自分のスカーフを切り裂かれたのだ。下から上へと振り上げた刀によってだ。

 その異常さに、澄香は戦慄する。

 澄香は剣士だ。

 隼人の放った剣について、それがどれだけ恐ろしいことをしたのか理解をしたからこそ、戦慄を感じたのだ。

 今までに、これほどの速度の太刀筋を見たことがなかった。澄香は、改めて目の前の男の恐るべき実力を知る。

「あいつらの方が、先約だ。お前は、大人しく待ってろ」

 隼人は、そう言うと、数胴達の方に向かって歩き出す。

 その歩みは、まるで散歩でもしているかのような足取りだ。

 歩み出た隼人の前に、数胴を先頭に、男達が黒山の人だかりを作っていた。

 距離として九間(約16.3m)もあったが、数胴は腰の鞘から刀を抜く。

 他の者もそれに倣った。

 次々と鞘走る音が響く。

 一応、刀が抜けるだけ素人ではなかったが、実力の程はたかが知れて、隼人は

溜息をつく。

 刀を抜く際に、音がするということは、刀身が鞘の内側を削っているからだ。つまり、その分、抜刀が遅くなる。

 相手が2~3人なら、それを隙とみて一気に距離を詰めて斬っても良かったが、ここまでの大人数となると、そうもいかなかった。

 斬っている間に、背後に回られれば、背中を狙われる可能性がある。

 剣術は基本的に一対一を想定された武術だ。

 それは剣術に限らず、あらゆる武術についても同様の意見と言える。

 複数を相手に戦うことを想定したものではない。

 だが、武術であれば、どうしても一対一だけではなく、対多数にも向き合うことが求められる。

 古流剣術には、一体多を想定した剣技がある。

 居合道にも、型に多数を想定した技がある。

 ある武道家が、

「敵がきちんと順番にかかってくる想定ですが、もし一度に来たらどうしますか」

 と師範に質問したそうな。

 すると、その師範は

「そんなはずはない、そう考えるお前の心が正しくないのだ!」

 と怒られた、という笑い話がある。

 ナンセンスだ。

 実際に、そうならないとは限らない。

 だが、そう考えることの方が自然だ。

 敵は、打ち合わせも、正々堂々の勝負もなく、なるべく当方が嫌がる状況で襲ってくるだろう。

 だからこそ、心構えが必要だ。

 そして、隼人は、その心構えができていた。

 思わず口の端が裂けてくるのが分かる。それは、戦いへの期待から来る笑みなのか、他者を傷つける喜びからか。

 はたまた、圧倒的不利な状況に対する自嘲からだろうか。

 どちらにせよ、隼人はこの状況を楽しんでいる。

 その事実だけは確かだった。

 数胴は、隼人が一端どこかで脚を止めるものだと思っていた。

 だが、予想に反して隼人は歩みを止めることなく、男達の集団に歩みを変えること無く突き進む。

 男達の集団は、隼人を避けるように広がり、道を開けた。

 まるで『聖書』にある聖人が、海を割るようにだ。

 男達は、誰が指示された訳でもなく隼人を中心に円を描くように囲む。

 そこで隼人は、ようやく歩みを止めた。

 澄香は、隼人の行動が信じられなかった。

 どういう策があって囲ませたのか理解できなかったが、集団戦の基本は背後を取らせないことだ。

 なぜなら人間には3つの死角があるからだ。

 すなわち、頭上、真下、背後だ。

 頭上、真下は特殊な事例だが、その内、最も想定しなければならない死角が背後なのだ。

 この位置取りで、一番警戒すべきは、後ろからの一撃である。

 だが、隼人はその死角を自ら作っていた。

 なぜ、こんな馬鹿な真似をする? 澄香は、その意図が全く読めず、混乱していた。

「死ぬ気か……」

 澄香は、思わず呟いた。

 澄香は、数歩、隼人に近づこうとしたが、思い留まる。

 これは、隼人の戦いだ。

 自分が手を出すべきではない。

 隼人の実力は本物だ。

「お前が、どう戦うか見せてもらうぞ。隼人」

 澄香は、隼人を見守ることに決めた。

 隼人は、目の前の男達を眺める。

 数は20人。

 一人一人の強さはそれほどでもないが、これだけの数が集まると、なかなか厄介だ。

 しかも全員が真剣を手にしているのだから、その脅威は計り知れない。

 隼人の周囲は、刀を正眼に構えた男達が囲んでいる。

 だが、隼人は焦らない。

 むしろ余裕の表情を浮かべている。

「ずいぶんと目つきが悪い連中だな、数胴」

 隼人が言うと、数胴は鼻で笑う。

「全員、薬中さ。こいつらは金のためになら何でもやる。剣道崩れのクズどもだが、人殺しすら厭わない奴らだ。事前に薬でブッ飛んでもらったから、尻尾巻いて逃げることはない。

 今度は、前の借りを返させてもらうぜ!」

 数胴の言葉を聞きながら、隼人は思う。

 米軍は、第二次世界大戦から現在にいたるまで、兵士たちの注意力を高めるため覚醒剤(デキストロ・アンフェタミン、通称スピード)を配布し続けている。

 米軍兵士は覚醒剤の助けで戦闘に臨んでおり、日本の覚醒剤の3割は、米軍の横流しという噂もある。

 なるほど、これが数胴の手かと。

 つまり、数胴は隼人を確実に殺すつもりだということだ。

 以前、隼人にやられたことを根に持っているのだろう。

 確かにあの時は、数胴を殺さないでおいたが、今回は違う。それならば、こちらも全力で迎え討つまでだ。

 それにしても、数胴も必死だ。

 隼人は、そう思った。

 以前の数胴は、こんな小細工などしなかった。

 もっと正々堂々と真正面から向かってきた。

 それが、ここまで姑息な手を使おうとは……。

 数胴もまた追い詰められているという事だ。

 だが、それも無理もないかもしれない。

 今の状況を考えれば、仕方のないことだ。

 隼人を取り囲む輪が狭くなってくる。

 20人の輪が徐々に狭まる。

 それが、16人になり、10人へと減っていく。なぜなら輪を縮める為には、人数が多いとできないからだ。

 隼人は微動だにしない。

 だが、その顔は、不敵に笑っている。

 まるで、これから起きる出来事を心待ちにしているかのように。

 男達は、じりじりと間合いを詰めていく。

 囲む人数が、8人になり、半径は二間(約3.6m)にまで縮まる。肩と肩が当たり腕が触れない為に、ついには4人にまで減る。

 その時だった。

 隼人は、背後に立つ男を左逆袈裟斬りにした。さらに隼人は、そのままの勢いで体を捻ると、左の男の身体を袈裟に斬る。

 再び背後の男に対し、肝臓を斬り上げ、残った男に対しては胸を薙ぎ斬った。

 一瞬の出来事だった。

 隼人は、その場でくるりと反転して、残心を決める。

 4人の男達が、一瞬で斬られた。

 それは、あまりに自然体の姿であった。

 まるで、後ろにも目が有るかのような動きだ。

 深甚流という流派がある。

 草深甚四郎が開いた流派だ。

 甚四郎は、囲まれた斬り合いで、妙な斬り方をした。左右の敵、あるいは背後の敵を先に斬った。

 それができたのは、目を開きながらも目を閉じた状態になっており、四方が見えたという。囲う側は、左右と後ろの者が油断をする。斬られるのは正面に立つ者からだと、そこを甚四郎は隙を見せた左右、後ろの敵から斬ったのだ。

 また、一対一の場合も通常は向き合って戦うところを、甚四郎は横向きになって相対したという奇剣だ。

 その理論から言えば、一対一を想定した道場剣法ではなく、一対多を想定した実戦剣術だ。

 隼人の動きは、まさにこれだ。

 隼人の剣は深甚流を受け継ぐ者ではないが、その理合を自分の剣に活かした。前後左右に視線を走らせ、相手がどう動くかを予測し、相手の隙を見つける。

 そして、最も油断し防御が手薄になっている背後の敵に、最も得意とする技を叩き込んだ。

 これが、隼人の真骨頂だ。

「テメエ!」

 仲間が斬られたことで、残りの男達が吠える。

 だが、隼人には動揺はない。

 むしろ、これでいいと思っていた。

 3人が斬りかかって来る。

 正面からだ。

 隼人は、その3人を同時に相手する。

 まず、左側の男が上段からの振り下ろしをする。それを半身になる事で避けると、隼人は右手の刀を水平に寝かせて、鳩尾を横から斬り裂く。

 返す刀を、男の左脇から心臓にかけてを斜めに斬り上げる。

 最後に残った男に対しては、右脇腹から左肩口へ斬り上げた。

 血を流しながら、3人の男は倒れた。

 これで7人死んだ。

 数胴は、震えていた。

 だが、それは恐怖ではない。

 怒りだ。

 数胴は、歯軋りをしながら隼人を睨みつける。

 数胴にとって、隼人の実力は想定外だ。

 まさか、これほどの使い手だと思っていなかった。

 隼人は、数胴を見据える。

「殺せ! 奴を殺せば、金は思いのままだ!」

 数胴は叫ぶ。

 すると、男達が隼人に向かって殺到してくる。

 今度は前後左右からだ。

 だが、隼人は慌てない。

 むしろ、笑っていた。

 この逆境を楽しむように。

 隼人は、襲い掛かってくる男達を斬り捨てていく。

 男の内股にある大腿動脈を断ち斬り、太股の筋肉を切断した。

 刀を振り上げた男に対しては、最小の動きで躱し抜き胴を決める。

 左から斬り込んできた男に対して、隼人は体を入れ替えながら、下から上へと斬り上げ、顎から脳天までを斬り裂いた。

 同時に隼人は身を低くしながら、右側から来た男の膝を薙ぐ。その衝撃で男は転倒した。倒れた所に刀を突き入れる。

 更に4人を斬り、11人が死んだ。

 男達は斬り込めないでいた。

 それは隼人に対する恐怖も大きかったが、それは薬物で緩和されており斬りかかれない理由ではなかった。

 一番の理由は、隼人を中心に死体が垣根に成っており、その隙間からしか攻撃ができないからだ。

 斬りかかって来た男達は、皆その空きから侵入して来た者達だ。侵入ルートが限られているならば、隼人はそこに対してのみ意識を向けていれば良かった。

 つまりは、敵の死体すらも己を守る堀か土塀として使用して、敵の攻撃に対応していたのだ。

 男達は多人数で囲んでしまえば、どんな相手だろうと勝てると思っていた。

 だが、それは大きな間違いだ。

 囲んで追い詰めたつもりが、囲むことで逆に追い詰められていたのは男達のほうであり、それが、隼人の狙いだった。

 澄香は青ざめていた。

 隼人の惨たらしい斬り方もだが、何よりもその動きが凄まじかった。

 まるで、背中に目が有るかのように、背後の敵を斬っている。隼人は、この動きをずっと練習してきたのだろう。

 それは、まるで舞いのような動きだった。

 隼人が舞う度に、男達が死んでいく。

 それは、地獄絵図だ。

 一振りの刀で斬れる人数は、2~3人という話があるが、それは俗説だ。

 司馬遼太郎が作中でそのように書いたため、それが真実だと誤解が広まった。彼の作中、達人が業物を使用しても、3、4人で切れなくなっている。

 戦時中の軍刀の記憶が新しいため、「日本刀は切れない」と誤解されたことも起因していると思われる。

 軍刀は、当時から評判が悪く、機械打ちの大量生産の刀が切れないのは当然だった。兵士の証言では、軍刀はすぐに折れ、脂巻きが発生した。

 だが、所有の刀では軍刀と違い、抜群の切れ味を誇った。という記録が多く見られる。

 家庭用包丁で肉を切り続けると脂を巻き、上滑りを起こして切れなくなることは事実だ。

 しかし、職人が使うような高級な包丁では、そのような事は起きない。無論、使い手がヘボでは高級包丁も意味は無いが。

 現代の試斬において肉斬りと言って、豚の半身を使用して行ったものがあるが、腰骨のような固い箇所で刀身が曲がることはあっても、肉は何回切っても切れた。

 また、江戸時代の首切り役人・山田浅右衛門は、一振りの刀で13人の首を斬った記録がある。

 太い骨の部分を斬って13人ということであれば、戦闘のプロである武士なら更に多くの人数を斬ることができるのを推察することができる。

 充分に修練をつんだ者が良作の刀を使えば、数十人は斬れるのだ。

 男達は斬り込めない。

 隼人は、頃合いだと思うと、膝を曲げること無く足首のスナップを使い、ノーモーションで死体を飛び越える。

 黒い打裂羽織がはためき、黒い天使が舞った。

 男達に動揺が広がる。

 残る男達は9人。

 その隙を逃さず、隼人は一気に踏み込む。

 男達は慌てて迎撃するが、既に遅い。

 隼人は、目の前の男を左逆袈裟懸けに斬ると、その勢いを利用して左の男を袈裟斬りにする。さらに回転し、左の男の上腕動脈を断つ。

 これで、また3人が死んだ。合計で14人。

 残り6人の内、5人が斬りかかって来る。

 隼人は、あえて左端に居る男を最初のターゲットにした。

 男は、上段から隼人の頭を叩き割ろうと、刀を振り下ろす。

 隼人は、それを半身になりながら避け、男の頸部を斬った。

 頸動脈が裂け、鮮血が噴き出す。

 心臓が血液を送り出す圧力は凄まじく、約2mの高さまで吹き上げる力になる。

 その力を使って、隼人は4人の男達に血を浴びせた。

 血は目潰しとなり、また柄を濡らして刀を振るうのを阻害する。

 斬り合いにおいて、返り血は避けなければならない事案だ。血は脂を含む為、目に入った場合は拭っても視界が確保できない。

 そして、柄が汚れれば柄糸を巻き直さなければ、血でぬめって掴んでいることができなくなる。

 ただ斬り合いが上手いだけが剣士ではない。相手の血肉さえも武器として利用するしたたかさが必要なのだ。

 もはや、その4人の男達は、隼人から見れば、まな板の上の鯉だ。

 悠々と歩を進める隼人に対し、男達は怯えた。

 その光景は、まさに地獄だ。

 男達は隼人を恐れ、後退する。

 隼人が一歩進むと、男達は二歩下がる。

 男達の恐怖がピークに達した時、彼らは行動爆発を起こし、隼人に襲いかかる。

 隼人は、彼らの行動を予測していた。

 柄がぬめっている刀は、刃筋が定まらぬ。隼人から見れば、それは刀ではなく鈍器でしかなかった。

 だがら、刃の前に身を晒すこともできる。

 隼人は、最も近くに居た男に向かって走る。

 男が振り下ろした刀を掻い潜り、隼人は下から斜め上に斬り上げた。脾臓を

斬られた男はそのまま崩れ落ちる。

 返す刀で、隣の男の胸を横薙ぎに斬った。

 隼人は流れた刀を引き戻すことなく、逆に自分から迎えに行くと、その切先を次の男に向けた。

 それは、刺突だった。

 男は、隼人の刀が届かない距離だと思った。

 しかし、隼人の刀が伸びた。

 刀は伸び、男の鳩尾を貫いた。

 隼人は、刀を引き抜き、後ろに跳ぶ。

 最後の一人が刀を薙ぎ、隼人の腹を斬ろうとする。

 その時、隼人は跳んでいた。

 単に脚力を使って跳んだのではない。足首のスナップも使い、頭の重さを使用して身体全体を引っ張り上げるように跳躍したのだ。

 高さは刀を躱す高さで良い。

 前転の要領で空中で身体を捻って着地する。

 隼人の背後で、男の首から大量の血が噴出した。

 地に脚が着いておらず腰の切れもないために、斬撃力そのものは無かったが、皮を斬り頸動脈を裂く程度の力はあった。

 これで5人を斬り、合計で19人。

 残りは、数胴の一人のみだった。

 数胴は、震えていた。

 自分の命が危険に晒されているからでは無い。

 彼は、感動に打ちひしがれていたのだ。

 現代に、これほどまでに人を斬る剣士は見たことが無かった。剣士としての本能が、彼を震わせ、武者震いさせていた。

「《なにがし》とは、これ程のものなのか。勝ちたい。俺は、お前を斬って伝説になる!」

 数胴の瞳孔は開き、口元には笑みが浮かんでいた。

 隼人は、刀を右手に下げたまま、ゆっくりと数胴に近付く。

 数胴は、刀を正眼に構えた。

 二人の間合いが縮まる。

 隼人は、摺り足で前進しているのに対し、数胴は大股で歩くような感じで近づいている。

 その動きの違いから、両者の力量差は明らかであった。

 先に動いたのは、数胴の方だ。

 踏み込みと同時に、袈裟懸けに斬りつける。

 速い。

 隼人は、それを半身になって避けると、左手を柄頭に添えて数胴の刀を押し込んだ。隼人に押されたことで、斬撃の軌道が変化し、刃先が地面に当たる。

 その瞬間を隼人は見逃さなかった。

 隼人は刀を跳ね上げ、そのまま振り下ろす。

 狙いは、その右手だ。

 手首を斬られる。

 そう思ったのか、数胴は刀を離して飛び退いた。

 刀が地面に落ち、甲高い金属音が響く。

 数胴は、死んだ仲間の持っていた刀を拾う。

 自分の武器に固執しない良い判断だ。

 数胴は、隼人との間合いを詰めると、刺突を繰り出した。

 隼人は、その攻撃を読んでいた。

 刺突を繰り出すためには、刀の切先を反りに合わせて下げなければならない。刀は西洋にある剣とは違うのだ。

 そして、隼人の刀の方が短い為、懐に入られれば不利となる。

 だから、数胴の攻撃パターンとしては、まずは刺突で隼人の刀の間合いを把握してから、必殺の一撃を繰り出そうという魂胆だろう。

 だが、それは甘い。

 隼人は、その刺突を掻い潜って斬ろうと、右前に出ながら身体を横に倒した。

 刺突を避ける為に、横移動したと見せ掛けて、実はその動作に隼人はフェイントを入れていたのだ。

 つまり隼人の狙いは正面突破。

 数胴はフェイントに引っかかり、刺突から横薙ぎへと変化させる。

 刀は、隼人の頭上を通り過ぎようとした時、隼人は、その刀の峰を自分の刀の柄頭で叩き、横薙ぎの勢いを加速させる。

 数胴が、しくじったと思った時は全てが遅かった。

 正面には隼人が立ち、その両手は八相に振り上げられている。

 次の瞬間、隼人の刀が数胴を斬り下ろした。

 隼人は、刀を振り抜いたままの姿勢で静止していた。

 澄香は、隼人がどんな斬り方をしたのか分からなかった。なぜなら、隼人の刀は、数胴の腰骨の上辺りで刺さっていたからだ。

 見た時は真直に斬り落としたと思っていた。

 だが、結果は腹部に刺さっているのだ。

「奴は、どんな刀法を……」

 澄香が、そう呟いたときだった。

 数胴の左肩がピリッと裂けた。

 それが始まりだった。

 次の瞬間には、数胴の左肩が見えない力で、まるでザクロの身を割るように裂けていく。

 左腕の重さで、身体が魚の身を二枚におろすようにむがれたのだ。

 肺のある胸膜腔が木の洞のように覗き、その奥に握りこぶし大の肉の塊がある。心臓だ。

 だが、斬撃の凄まじさからか、心臓はすでに拍動を止めていた。

 肉が収縮し、肋骨の切断面が歯のように浮き出てくる。

 雁金斬りであった。

 背中にある雁金(肩甲骨)を斬り下げる刀法は、通常は、一寸(約3cm)、二寸(約6.1cm)。

 免許皆伝の腕前でも三寸(約9.1m)。

 うまく斬っても五寸(約15.1cm)程という。

 澄香の腕を以ってしても六寸(約18.1cm)が、やっとだ。

 それに対し、隼人は一尺五寸(約45.5cm)を斬り下げていたのだ。

 しかも、刃筋は真っ直ぐに通ったままだった。

 偶然やマグレなどではない。

 隼人は、自分の剣による斬人剣の結果について、全くの無関心であるかのように、表情を変えず佇んでいた。

 一方、数胴は斬られたことにすら気付かずに、立ったまま絶命している。

 これで20人目であった。

 隼人は刀を抜く。

 すると、数胴の身体が崩れて倒れる。

 腹に詰まった内臓が飛び出してきた。

 隼人は、刀を手に澄香の方を振り返った。

 澄香は、魔物が振り返ったのかと思った。隼人の顔を見ただけで、全身に鳥肌が立ち、背筋に悪寒が走る。

 そこには、人の皮を被った魔物がいた。

 隼人は、澄香に向かって歩いてくる。

 その姿は、獲物を狙う肉食獣を彷彿させた。

 隼人の足取りは、どこか夢遊病者のような頼りない感じだ。

 だが、その瞳だけは爛々と輝いている。

 澄香は、隼人の瞳の中に狂気を感じた。

 そして、恐怖で動けなくなっていた。

 隼人は、刀を右手に下げたまま、澄香の前に立った。息は乱していない。ただ、少しだけ呼吸が荒くなっているだけだ。

「終わったぜ」

 隼人は、そう言った。

 澄香は、ハッとした。

 そうだ。自分は何を怯えているんだ? 私は、こいつを斬るために、挑んでいたことに今更ながら気付いた。

 澄香は、隼人を睨みつける。

「なら。今度は、私と再戦だな」

 澄香は、そう言うと構えを取った。

 隼人は応じなかった。

「勘弁してくれ。首を汚してしまった」

 隼人は、自分の首に血が付着しているのを澄香に見せた。

「そんなもの洗えば落ちるだろう?」

 澄香は、隼人の首を見ても冷静だった。

 いや、内心では動揺していた。

 だが、それを表に出さなかった。

 それは、澄香なりの意地でもあった。

 隼人は、困ったような顔をする。

「すまん。そいつは言い訳だ、20人も斬って疲れちまった。この上、お前との戦いを続けられる程、俺は元気じゃねえよ。悪いが今日は帰ってくれ」

 隼人は、頭を掻きながら答えた。

「なるほど。それは、そうだな。なら首を洗って待っていろ!」

 澄香は、隼人を指差して宣言した。

 隼人は、それを見て笑った。

「……約束しよう。俺の首は、澄香。お前に預ける。いつでも取りに来い」

 澄香は、その言葉を聞いても表情は変えなかった。

 だが、心の中は怒りで煮えたぎっていた。

 隼人は、その場を立ち去りながら刀を拭って鞘に収めた。

 澄香は、その後ろ姿をじっと見つめていた。

 隼人が去った後、澄香は一人残された。

 身体が震えてくる。

 澄香は、必死に抑えた。

 落ち着け。

 あいつは、まだ生きている。

 必ず殺せる!

 自分にそう言い聞かせた。

 あの男は、もうすぐ死ぬ。

 私が殺すからだ。

 その時こそ、私の復讐が成就される。

 澄香は、唇を噛み締めていた。

 その顔には、憎悪と殺意が滲んでいた。

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