富士登山

たかばしえい

プロローグ

 8月末、午後2時30分。僕は、富士急行富士山駅から富士スバルライン五合目とを結ぶ路線バスの中に居た。

 車内は様々な国籍の人々でごった返し、多種多様な言語が飛び交う様はさながら国際空港のターミナルバスのようであった。

 日本を代表する山である富士山。日本人なら一度は登りたいと考える山ではあるが、それは、訪日した外国人にとっても同じであるらしい。さらにそれを近年の日本政府のインバウンド重視の政策が後押しした結果がこの状況という事だろう。

 そんなバスに乗り合わせた僕は、少しばかりの居心地の悪さを感じながら、一人車内後方の窓際の座席に座り、荷物で膨らんだボストンバッグを抱えて窓の外の景色を眺めていた。

 外は樹林帯。雨で白く霞み木々の奥の様子は伺い知れない。


 僕がこのバスに乗っている理由。それは言うまでもなく、富士山に登ることであるが、元来、出不精で休日丸一日アパートから出ずに過ごす事も稀ではない僕が柄にもなく今回の登山踏み切ったのには幾つか理由があった。

 一つは僕が今、山梨県に住んでいるという事。

 山梨と言えば、ぶどう、梨、桃等の柑橘類。ほうとう。それに戦国武将武田信玄等が有名だが、その中でも特に著明なのは富士山であろう。

 東京でのフリーター生活に限界を感じ、山梨県に住み込みで働き始めたのが3年前。

 当初は、日々生きる事で精一杯であったが、次第に生活にも慣れ、何かしらの目標を持って生きたいと思っていた。

 そんな中、自然と目に入る富士の山。

 ここに居る間に登っておこうという思いは募っていた。

 

 もう一つは昨年暮れの出来事に起因する。

 会社の同僚との忘年会の居酒屋での飲み会の帰りに、酔いの影響で転倒し激しくコンクリートに後頭部を打ち付けた。

 酔いにより痛みはなかったが、これは致命傷ではないかという予感はあった。

 翌日、二日酔いとは明らかに異なる頭部の違和感。

 不定期に襲いかかる頭痛。

 就寝の際、仰向けに寝る事が出来ない。頭痛により目が覚めてしまう。


 病院で医者に診てもらう事にした。CTスキャンの結果は骨には別段異常は無いという事であった。しかし、数年先に後遺症が出る可能性もあるとの事。

 担当の医師は、”とにかく様子を見よう”という、手の施しようがない患者に対して浴びせるお決まりのセリフを、僕に対して告げてくれた。


 長くは生きられないかもしれない。

 正直、実感は湧かないが、漠然としたそういう思いが、今出来る事は数年後には出来なくなるかもしれない、だから、今出来る事は今やろう、という意思を生み出したのだろう。


そして、僕は今このバスの中に居た。

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