第57話 馬を必要とするとき
「わ、私がこのようなもの、受け取っていいのだろうか」
馬の立髪を撫でながら、どちらに聞くわけでもなく、まるで独り言の様に呟いた。
「アイシュタルト以外に誰が乗るんだよ。俺もステフも……なぁ?」
ルーイがステフの方を向いて同意を求める。
「うん。乗れないね」
「な? だから、アイシュタルトにしか乗れないって」
乗れぬ馬を、私のために買ったというのか?
「だ、だが世話が……いるだろう?」
「ここで預かってもらうことになったんです。アイシュタルトが戦に向かうまで」
「そんなことが?!」
買った馬の世話を頼むなど、あり得ぬ話だろう。
「もちろんそれなりに支払いはしました。ですが、僕にはアイシュタルトにもらったものがありますから」
金貨を支払いに使ったというのか。
「あれは、今後のためにとっておくべきだと、思っていたのだが」
「そんなことだろうと思いました。剣の時も僕に支払いをさせてくれませんし」
わかっていても、このようなことに使ってしまったのでは、意味がないではないか。
「僕は、アイシュタルトから受け取って以来、あれを偽物だと思っていました。つまり、僕にはすぐに必要なものではないんです」
「そうは言っても、これから必要になることがあるやも知れぬ」
「アイシュタルト、僕は商人です。必要な時に必要なことへお金は使います。その時流を読んで、ここまでやってきています。大丈夫です」
「アイシュタルト、受け取っておけば良いよ。ここまで言ってるんだから、大丈夫だって」
「今はあれを取っておくよりも、こうして使うことの方が良い時なんです」
「わかった。すまない。いや、ありがとう」
私は二人に深く頭を下げた。
いつか、どこかで、どのような形であっても、必ずこの恩を返してみせる。
私に馬を贈って良かったと、二人がそう思う未来を、私から贈ろう。
「受け取ってもらえて良かったです。この店に来ればいつでも会えます。アイシュタルトがこの馬を必要とするまで、責任をもつと約束してくれました」
私が馬を必要とする時……それはつまり。
「私が戦へ向かう時か」
「そうです」
「そのような時が、来なければ良いのにな」
「大切な方に、会いに行くのでしょう? そのようなことを言ってはいけません」
「そうだよ! 奪い去りに、行くんだろ?」
「それではまるで、私が戦を楽しみにしているようではないか」
「いいだろ? 楽しんでこいって」
「私と兄さんは、アイシュタルトの強さを知ってますから。何の心配もしてないんですよ」
「そうそう! 道を間違えないかだけだ」
私は、方向音痴ではなかったはずだ。
「国境門からコーゼの都まではそれほど難しくないので、大丈夫です」
「よかったな!」
ルーイが私の肩を叩くが、周りに他の兵士もいるであろう。道を間違えるわけがないのだが。
「あ、あぁ」
私は顔に苦笑いを浮かべて返事をする。
私がこの馬を必要とする時は、この二人と別れる時だ。私のことを諦めないと、そう言ってくれてはいたが、何が起こるかわからないのが戦だ。
姫にお会いしたい気持ちは変わらぬが、この二人と別れたくない気持ちも、同様に膨らんでいる。
そのような時が来なければ良いのに。これは間違いなく私の本心で、心からそれを願っていた。
そして、私の願いは、想いは、叶わない。
本格的な冬が始まる前、晩秋の冷たい風が、暖かい季節の長いカミュートでも吹き始めた。寒さの厳しいシャーノの山間では、そろそろ雪も舞おうかという頃。
コーゼ国の現王が逝去した。
隣の国の一大事に、カミュート全土にも衝撃が走る。
もう開戦まで、一刻の猶予もなくなった。
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