第5話 姫の結婚

「到着致しました」


 姫を馬から降ろすと、私はいつものように少し距離を開けて控える。湖は姫が一人になりたい時に来る場所だ。本日も何か考えたいことがあるのだろう。姫の邪魔にならない場所まで下がって帰りの時を待つ。


「アイシュタルト」


 姫が突然、後ろに下がっていた私を呼んだ。湖に来て私を呼ばれるとは珍しいこともあるものだ。


「はい。いかがされました?」


 私は姫の側に寄り、跪く。


「わたくし、結婚するのですって」


 姫が私の方ではなく、湖の湖面を見つめながらそう言った。


「お、おめでとうございます」


 姫がこちらを向いていなくて良かった。私が跪き、下を向いていなければならない立場で良かった。言葉とは裏腹に、私の顔は嫉妬にまみれて酷いものであっただろう。なんとか絞り出した声は、いつもよりかすれ、聞きづらいものだった。


「ありがとう。コーゼ国の王子の元へ嫁ぐことが決まったと、父様に言われました」


「そ、そうですか。良いお相手だと良いですね」


「アイシュタルトはめでたいことだと思いますか?」


「それはもちろん。おめでたいことです」


「そう。そうよね」


 正直、突然のことで何の感情も抱けなかった。ただただ、王子というだけで姫を手に入れることのできる存在にひどく嫉妬した。その後も姫が何事かを話していたが、全く耳に入ってこない。側近として、主である姫の結婚を祝う言葉だけを、劇のセリフのように繰り返すしかなかった。


 翌日、姫の成人式が盛大に執り行われた。そしてそれと同時に、護衛騎士は女性騎士へと入れ替えられる。成人した身であり、さらに嫁ぎ先へ異性の騎士を伴っていくわけにもいかない。私の護衛騎士の任は解かれ、私と姫の距離は、私が神に祈ったように遠ざかった。

 これで、忘れることができれば、想いを消すことができれば良かった。しかし姫から離れてもなお、時間が経てば経つほど募る想いは私を苦しめる。一介の騎士である私には、もうどうすることもできない。


 姫が結婚の為にコーゼ国へ旅立つ日。私は所用があると、見送りにも出なかった。前日から泣き続け、目を腫らした顔で出ていけるわけもない。そもそも嫁ぐ姫の側にいては、奪い去りたいという自分の衝動を抑えられないだろうと、陰から見送ることを心に決めていた。

 姫が乗っていく馬車が用意されている中庭を、一望することができる城の階段の踊り場から、私は姫の出発の様子を見守っていた。姫が馬車に乗り込もうと階段を上がる。何かに気づいた様子で足を止めたのが、遠目に見える。

 姫は乗り込む馬車の中に私が置いた一輪の花に、もう気づいただろうか。この季節、庭に咲いているピンク色の小さな花。私が姫のようだと感じたあの可憐な花。姫が私の思いを少しは感じ取ってくれたのならば、それだけで私の思いは報われる。

 姫からお見舞いにとその花を賜ったあの日、庭に見に行った後で私はその花の花言葉を知った。その言葉を姫も知っているだろうか。

 『いつでも貴女の側に』

 姫を乗せた馬車がコーゼ国へ向けて出発した。もうそれを確かめることもできない。

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