第20話 踏み外した貞操観念

「それではアストさん、ここにお願いします…」ユイナは鎖骨を撫でている。


 肩まで伸びた青い髪をズラし、上の制服も乱した少女。彼女の目的は俺のキスマーク。付き合ってもない男子に、とんでもない事を要求してきた。


「アストさん、きすまーく…。ここに、ここに」


 少女の名はユイナ・クリフォード。俺のヒーラー時代、訪れた村で仲良くなった姉妹の一人。美しい見た目と、安定しない情緒は、皮肉にも彼女の個性を強調してゆく。


「ゆっ、ユイナちゃん積極的…」


 生物室の密室といえど、マリオン先輩も同室にいる。透き通る緑色の髪をショートボブにカットしている先輩。彼女顔の色が赤く染まったかと思えば、両掌で包むように隠してしまった。


「俺、キスマとか出来ないんですけど」


「じゃあ、噛んで? 血が出るくらいにいっぱい噛んで?」


 ユイナは冗談めかした顔じゃない。本気でキスマや噛み跡を望んでいることは、彼女の雰囲気から察してしまう。


 カチカチと時計。声を押し殺すマリオン先輩。ユイナの荒い呼吸。俺の神経が澄まされれば一貫の終わり、雰囲気に飲まれてしまうだろう。


「どっちも却下。もう手の甲引っ掻くからユイナ、手出して」


 故に冷却するための一言。この空気を冷却しないと本格的にマズい。


「最低でもキスマークです。この条件が飲めないのなら私は実験台をやめます」


この発言にマリオン先輩が食いついた。


「そっ、それはダメです! アストくん、私向こうでカエルのお世話してますから、その間にどうか、どうかお願いします!」


 マリオン先輩は必死だった。この生物学の単位を落とせば留年、というのは想像でもなく現実らしい。


「ほらアストさん、マリオンちゃんが困ってますよ? 仮にもヒーラーの貴方が、困っている人を見捨てるんですか?」


 …まぁ、噛むくらいなら、友達同士のスキンシップと思えば平気か。俺が気にしすぎなのかも知れないよな。


「首をちょっと噛むだけなら」


「むぅ…。分かりました、今日はそれで手を打ちましょう」


ピューンとマリオン先輩は部屋の奥へ、ど根性ガエルと共に避難した。


「アストさん、こっち向いて?」


 ユイナは、俺が想像していたより湿り気のない爽やかな笑顔でいた。しかし、視線をたった少し落としただけで景色は一変。


 彼女の火照った首筋には一筋の汗が。普段なら見ることのない領域の視覚的破壊力に、経験の浅い俺は息を飲む。


「…ここにお願いします」


「……」俺は一言も発さず、ただ彼女の首筋に顔を埋める。


歯が首筋の肌に触れる。本当に噛みちぎりたい。


 目を瞑り、鼻呼吸で、ユイナの肩に手を置いて、ユイナの心音と呼吸音だけを聞く、五感はいかに不自由であるか。


お互いの太ももが触れ合う。


 永遠のように感じるこの瞬間。秒針の音は、たった数回動いただけ。浸る時間さえ一瞬だったというのか。


強く、強く、マーキングする。噛み跡を残す。しかしそれも一瞬。


「──終わったよ」


自分でも驚くほどに優しい声が出た。


「わあっ、アストさんの跡。……私の体についてる」


 ユイナは艶やかに呟く。俺の噛み跡をさするその姿は、妊婦がお腹の子を愛でるよう。俺の目にはどうしてもそう見えてしまう。


「それじゃあマリオン先輩、お願いしまーす」


 俺は部屋の奥へ向かって声をかける。先輩はゆらりゆらりとまた、俺達の対面へと座る。三人の配置は、入室当初と変わらない。


「そっ、それでは。ヒールをさせていただきます」


 先輩はいつの間にか触媒を持っている。どうやら、この部屋のを拝借したらしいな。両手で胸に押し付けるように杖を持っているから、果実が強調されるのは必然的で、俺は目のやり場に困ってしまう。


「あっ、マリオン先輩すみません。先に電気だけ消させて下さい。ヒールはその方が見やすいので」


 俺はガタリと椅子から立ち上がる。部屋の入り口まで歩き、パチンと電気を消して戻った。途中で後ろから「分かりました」と先輩の了承も聞こえたため、足取りに迷いは無い。


「すみません、気を取り直してお願いします」


「はっ、はい!」


 マリオン先輩は杖をユイナに突き出す。杖の丸っこい先端を俺の噛み跡へ向けている。


「うう、アストさんの噛み跡が…」ユイナはしょぼんと呟いた。


「いきます。──ヒール」


 杖の先端から淡い光が出て、ユイナの首筋へ伸びる。螺旋を巻くその光に包まれた噛み跡は元の肌へと変化していった。しかしまだ光が止まない。むしろ拡大してゆき、ユイナはもちろん、俺まで包み込んでしまう。


「マリオン先輩、もう治ってますよ。これ以上は──」


「あっ、あれ? あれ? なんか止まらない」


「そんなこと絶対に無いですから、落ち着いてください」


「ごめんなさい、ほっ、本当に止まらないんです」


「じゃあもう、杖を取ればいいんです。こうやって!」


 俺は光に包まれたまま、マリオン先輩の杖を引き抜く。案の定光は徐々に収まって行く。しかしユイナは寝てしまっており、最悪の状況一歩手前だ。


俺は杖を観察する。


「やっぱり、これ攻撃魔法用のやつですよ。しかもいろんなカスタムされてる気がするし。こんな杖、どこで見つけたんですか?」


「そっ、それ、私が愛用している杖なんです…。ごめんなさい、ふわぁ」


「マジかよ……」


 言葉尻、マリオン先輩は欠伸をした。俺はそのことに危機感を覚える。どうかただ眠くなったってだけで、今回の件とは無関係であってくれ。


「あれぇ? アストさぁん、わたし寝ちゃってましたぁ。ふわぁ」


「アストくん、私も眠くて…ふゎ」


 おそらくだが、俺に対するヒールも分散するという結論だ。その証拠に、マリオン先輩も睡魔に襲われているようだしな。


「アストさぁん、大好きれすぅ」


ユイナは俺に抱きつき、足を絡めて、腕を背中に回している。彼女は最終フェーズに移行してしまった。


ヒール中毒には段階がある。


 第一段階では、睡眠欲が爆発的に増加して数日間の睡眠へと誘われる。そこから更にヒールされると第二段階へ。端的に言うと、性欲が増す。


 そして最終段階。性浴は食欲へと変換され、目の前の異性を貪るように求める。それは、カニバリズムという表現とは異なり、食欲の発散を異性に委ねているだけに過ぎない。


「ふーうっ、ふーうっ」マリオン先輩も第二段階へ。


 さっさとこの場から逃げ出したいが、ユイナの体が絡みつく現状。今では指の一本一本まで絡め取られている。


「だいすきぃ、だいすきぃ……えい!」


「うわぁ!」


 ユイナは俺をものすごい力で押し倒した。ガタン!と生物室全体に響く音だけが唯一、現実を知らせてくれる。幸いお互いに怪我は無いが、ユイナに跨られてしまった。


「えへへ、押し倒しちゃいましたぁ」


 俺の両腕はユイナに押さえつけられ、身をよじることさえ出来ない。さらに、もう一人の獣の呼吸音も耳元で聞こえる。


「あすとくん、体があっついです。ずーっとキュンキュンしてます」


「あすとさぁん。もっとぉ、もっと噛んでぇ」


「誰かー助け、むぐぅ!」


 マリオン先輩は、俺の口にハンカチを詰める。助けも呼べなくなり、強制される鼻呼吸。鼻腔を擽るのは女の子のフェロモンで、俺の頭もクラクラしてくる。空気と一緒に二人の吐息を吸っている感覚。


生物室の机と机の間。俺達はきっと、外から見ても死角の所。


──なんて素敵なoverdose

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