Melancholy dusk

無月彩葉

Melancholy dusk

 世界の果てから、徒歩5分の景色を見に行こうと思った。

 時折不具合を起こす私の中のこのポンプが完全に停止しないうちに。

 だって暇つぶしに見ていた夕方のテレビのワイドショーがあまりにもくだらなかったから。


 この病院でレンタルしている若草色のパジャマを脱ぎ、お気に入りだった黒いワンピースに着替える。上から下までボタンが並んでいてちょっと着るのが面倒臭いやつね。

 それからちょっと深めの茶色いキャップを被って、歩きにくいスリッパから白いサンダルに履き替えた。

 部屋の隅っこにある蛇口の上についた鏡で、キャップを被った自分を見つめる。

 こんなんで全然変装にならないことは分かっていたけど、こういうのは雰囲気を大事にした方がいい。お忍びの脱走。それはちょっとだけワクワクする。なんて。


 ステンレスの枠がついた窓の外では夕日が雲間で僅かに揺れる。赤信号を思わせるような真っ赤な色は、なんだか来るものを拒むような怪しさがあった。

 建てつけの悪い窓枠をキーっと動かし、ちょっとだけ窓を開ければ、残暑の匂いが頬を掠めて落ちてゆく。

 まさしく、世界の終わりって感じ。

「行ってきます」

 と、シーツが乱れた空っぽのベッドに告げて、誰もいない六人部屋を飛び出した。

 

 入院患者にとって、ナースステーションは天敵だ。下手な動きを見せると職質のごとく声をかけられる。

 でも、大丈夫。左右どちらの廊下からも入れるようになっているトイレを通って反対側の扉を出れば、ナースステーションの前を通らずにエレベーターホールに入れるのだということはもう知っている。

 こんなの朝飯前。三ヶ月も居れば身につく裏技だ。


 そのまま見舞人に紛れて一階へ降り、静かなロビーを平然と通り過ぎる。

 端っこの席で、やけにぐったりとした男の人が番号札を持ったまま浅い呼吸を繰り返していた。早く呼んであげればいいのに、看護師たちも呑気なものだ。

 私にとっては他人事だけど、同情しなくもないよ。横顔を見ながらそんなことを思った。

 あ、唐突にきたツーンと鼻につく消毒薬と鉄が混じったような匂い。これ、嫌い。

 逃げるように向かった自動ドアは、脱走者を引き止めやしなかった。


 私を縛り付けるこの建物は海辺にあるから、5分くらい歩けば海の見える高台にたどり着ける。

 部屋の窓からずっと見ていたから、その道を辿るのは簡単だった。車一台ともすれ違わない。

 ここにいる私を見つけられるのはきっと、病室の窓からこちらを覗いた人くらいだろう。


 私が思うに、病院っていうのは世界の果てみたいなものなのだ。

 命が次々と終わっていく場所。

 そこにあった数多くの「世界」が冷たくなって消えていく場所。

 きっと私の世界もまた、あの真っ白な箱の中で終わってしまうのだろう。

 最近、そんな想像が膨らむようになった。ていうか、実際そうなんじゃないかな。

 私は自分に自信を持たない方だけど、これだけは、妙に確信めいたものがあった。

 哲学みたい。


 カモメが夕日を背に何匹か群れて飛んでいく。定期的に聞こえる波のジャバンという音が心地いい。 

 肌に悪いっていう潮風も今は気にならない。海藻みたいな独特の海の匂いが、鼻腔をすうっと通って消えていった。

 時計は持ってきていないけど、夕日が次第に海の中に落ちていくことで、夜に近づいているのは分かった。

 夜は嫌いだ。私は生まれつきあまり夜目が利かない。だから、暗くなる前に帰らないといけない。

 でも、このままここで夜を明かすのであれば、別に慌てる必要もないのかな。

 木でできた転落防止の柵に凭れかかって、薄白い月が次第に姿を現しているのを見上げる。

 赤からオレンジになって紫に。地平線って案外忙しない。

 

「あ……」

 さっきまでいろんなことを考えていたのに、急に心が空っぽになった。

 カーン、と金槌か何かで頭を打たれたかのように、今まで頭の中にあった蟠りとか、ちょっとは賢い思考回路とかも消えてしまって、虚しさとか、切なさとか、好奇心さえも消えてしまった。

 どうせなら、世界の果てから徒歩5分のこのなんでもない場所を、本当の世界の果てにしてしまおうかな。

 きっとまだ海の水も少し熱を持っている。

 足を浸しても冷たくて断念するなんてことはない。

 時折動きを間違える私の中のポンプが惨めな思いをしないうちにいっそ……そういうのも、ありかもしれない。


「何してるんだ」

 そんなことを考えていると、急に背後から声が聞こえたけど、私は振り返らなかった。

 聞き覚えのある声に、一々反応はしない。だってどんな言葉が続くかも容易に想像ができるから。

「今から気温も下がる。身体を冷やさないうちに……」

「関係ないじゃない」

 想像はついたけど、その通りに言われるのも嫌だ。

 だから、背後で話す誰かに、仕方がないから受け答えをする。

「私が寒かろうと、あなたには関係ない」

 放っておいて欲しかった。このまま消えさせて欲しかった。

 大方病室からこちらが見えたのだろう。だからといって、出てこなくてもよかったのに。

「明日は手術だ。万全の体制で臨んで貰わないと困る」

「成功確率が半分を切っている手術に、何を期待すればいいの?」

 失敗する覚悟はもうできている。だから今更何も思うところはない。

 私の心臓はもう、長くは持たない。それは、病院の先生よりもずっと、私の方がよく分かっている。

 身体の中を通して知っている私と、機械の力を借りてそれを知るあの人では、全然理解度が違う。

 この虚しさだって共有はできない。他のどんな人とも、きっと。

 

 力の入らない目で、命の執行人おいしゃさんを見つめる。彼はそんな私の目から1センチも視線を逸らすことはせず、それからそれ以上こちらに近づいてくることもなく、たった一言だけ呟いた。

「サーティーワンのアイスクリームトリプルキャンペーン」

「え?」 

 ああそうだ。くだらないワイドショーの前に、そんなコマーシャルが流れていたような気がしなくもない。

 もうずっと口にしていない甘味の感覚が、ちょっとだけ記憶の中で味覚に作用した。

 イチゴのケーキ味。好きだったんだよね。

「明後日までらしいじゃないか。帰るぞ」

 背中に、ばさりと温かいものがかけられた。少し大きめの、誰かのパーカー。

 薄っすらと消毒液の匂いがする。これ、嫌い。でも……悪くもないかも、なんて。

「買ってくれるの?」

「三段目の分だけ金を出してやる」

「0円じゃん」

 私は相変わらず規則正しい音を繰り返す波に背を向けた。だって、アイスの話をされたら仕方がない。

 カモメに混じったカラスの声。どこからか聞こえて来るツクツクボウシの声。

 そういうのが全部、どこか空っぽの心を埋めていく。とても中途半端に。


 明日、半分の確率で世界は終わる。けど、半分の確率で終わらないかもしれない。

 どうにもバランスの悪い世界で私は、徒歩5分の道を引き返した。


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Melancholy dusk 無月彩葉 @naduki_iroha

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