本能と衝動的殺意の(7)
目と鼻の先に迫り来る様子に気付いて、アリスがハッと顔を強張らせた。正面から彼女を確認した雪弥が、ロックオンしたまま口角を引き上げて、囁く。
やぁ獰戯、探したよ。またお前を殺してやろう――……
「ッちくしょうざけんな! ほぼ完全じゃねぇかよ!」
アリスが両腕を交差させ、その手の先から再び枝が吹き出した。巨木な幹となりながら急激に成長し続け、自身と雪弥を一気に飲み込む。それを見た蒼慶が、弟の名を呼ぼうと唇を開きかけが、次の瞬間に宵月と共にその顔を強張らせた。
白銀の閃光とともに、二人を呑みこんでいたモノが、一瞬にしてバラバラになっていた。アリスを真っ直ぐ見つめる雪弥の両手の指は、伸びた鋭利な白銀の爪を更に禍々しく広げて、骨を断つ十本の刃となって構えられる。
落下の軌道さえ立て直せていないアリスが、すぐに仕留められる状況だと察して、顔を引き攣らせた。
けれど、雪弥はすぐに爪を振るわなかった。唐突に不敵な笑み浮かべたかと思うと、まるで獣のように宙で素早く一回転し、彼女の腹部に強靭な蹴りを叩きこんでいた。
空中で腹をゴキリと潰されたアリスが、短い呻きを上げて、一瞬にして地面に叩きつけられた。衝撃音と共に着地点が粉砕され、その小さな身体が瓦礫と土埃の中に消える中、紗江子が飛散する瓦礫から咄嗟に身を守っていた。
視界を遮る土埃から、突如、十を超える鋭利な枝が飛び出した。それは落下してくる雪弥の身体を串刺しにしようと迫ったものの、呆気なくかわされて、右手一振りで切断されてしまう。
それでも枝は、攻撃の手を緩めなかった。暴れ狂うかのように地面を壊しながら、着地した雪弥を執拗に追い駆ける。
バックステップで回避する雪弥の口元が、落ち着き始めた土埃の向こうに獲物を真っ直ぐ捉えて、不意に笑んだ。何度目かの攻撃をかわした直後、地面すれすれに身を屈めたかと思うと、足場を踏み砕く衝撃音を上げて急発進する。
「調子に乗ってんじゃねぇぞクソが!」
よろりと立ち上がったアリスが、血の混じった唾を吐き捨てながら吠え、両手を地面に突き刺した。地中を伝った枝が、二人の間を遮るようにして一斉に吹き出し、太さを増して密集した幹の壁と化したが、それは一瞬にして切り裂かれていた。
彼女が対応するよりも数倍速く、凍てつくような殺気を帯びた光る碧眼が浮かび上がり、目にも止まらぬ速さで白銀の爪が振るわれた。
ドッ――と嫌な音が上がった。地面に手を残した彼女が、分断された両腕を振り乱して血を撒き散らしながら、咆哮の如く絶叫を上げて空気を震わせた。
「俺のッ、俺の『身体』の両手首がねぇよおおおおおおおお!」
その直後、悲鳴が途切れて「あ?」という間の抜けた声に変わった。
崩れ落ちそうになった膝が地面につくよりも早く、今度は彼女のスカートから覗く足が『消え』ていて、背中から地面に落ちる直前には、呆気なく腕が『余所に飛んでいって』しまっていた。
それを柱のそばから見ていた紗江子の顔は、すっかり蒼白していた。
「こんなこと、聞いてない。番犬候補にしては『あまりにも普通の子』だって、夜蜘羅様もおっしゃっていたじゃない。それなのに、どうして正常でありながら、あんな狂った残虐な『狩り』をしているのよ……まさか、私達ただの使い捨ての餌に寄越されたんじゃ……」
彼女が、ぶるぶると震える身体を柱に寄りからせて支えながら、親指の爪をガチガチと噛んで一人呟く。
歩み寄った雪弥が、倒れ込んだアリスを見下ろした。虫の息だった彼女が、苦痛と屈辱に呻いて「番犬ッ」と怨念のこもった声で吠えた。
「畜生このクソッタレめ! 俺の手がッ、俺の脚が! あんな離れた場所に……!」
ごぼっ、とアリスが苦しそうに咳き込んだ。噛みしめた唇から血を流しながら、先程叩きつけられた際に折れた背骨で、どうにか起き上がろうとしてもがく。
短くなった彼女の四肢が、バタバタと動かされて流血範囲を広げた。その様子はあまりにも異質なくらい悲惨すぎたが、鈍い光を宿した碧眼で見ている雪弥の表情に、変化はなかった。
元の長さまで引っ込んでいた彼の爪が、すうっと鋭利さを戻し始め、右手が持ち上がる。けれどその時、一つの銃声が鳴り響いて、雪弥はピタリと手を止めていた。
ゆっくりと音の発生元へ目を向けてみると、金細工の装飾がされた白い銃を、天井に向けて立っている蒼慶の姿があった。発砲されたばかりの銃口からは、薄らと煙が立ち昇っている。
「やめろ、雪弥」
蒼慶が、命令するように低い声でそう告げた。そこで一度言葉を切ったかと思うと、ぐっと目を細めてこう続ける。
「人格は違うが、彼女はアリスなんだぞ」
掠れたその声を聞いて、雪弥は再びアリスへと目を向けた。彼女は「畜生、殺してやる」と苦しそうに涙をこぼしながら、虫の息だというのに身をよじっていた。フリルのスカートはボロボロになり、大量の血液がその色をすっかり変えてしまっている。
殺すなと指示してくる兄の言葉を、上手く理解する事が出来ない。とても冷静であるはずなのに、そう考えている自分にも小さな違和感を覚えた。
「いいか雪弥。私がいくまで、そこを動くな」
そう口にした蒼慶が、分厚い本を脇に抱えたまま走り出した。その後ろから宵月が続く。
雪弥はその声を聞きながら、変わり果てたアリスの様子を見つめていた。彼女は、確かにアリスだ。でも、どうしようもないじゃないか――このままにしておいても、どうせ死んでしまう。苦しい事が続く方が酷だろう。
「ねぇ、アリス。君は一体、どんな夢を見ているのだろうか……大丈夫だよ、痛みもなく一瞬で終わらせるから」
己に言い聞かせるようにして、口の中で呟いた。はたして、それが正しいのかも分からない。迷う心が蘇って胸が締めつけられたが、その役目が果たせるのは自分だけだ。だから、ゆっくりと右手を持ち上げた。
不意に、至近距離で発砲音が上がった。アリスが心臓に弾丸を撃ち込まれて、大きく身体を痙攣させて絶命する。
雪弥は一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。手の爪を戻しながら、ゆっくりと振り返った。
すぐ隣に、彼女に銃を向けたままの蒼慶が立っていた。彼は銃口の先で絶命した幼い少女の死体を見つめており、その険しい表情とは裏腹に、切れ長の瞳には悲痛さが浮かんでいた。
「兄さん、どうして――」
だって、殺すのは僕の役目なのに。
あなたがそんな顔をしてしまわないように、僕がアリスの最期を迎えさせるつもりでいたのに……――
そう言い掛けた思考が、こつん、という物音で不意にかき消えた。残っていた敵の気配を察知した瞬間、雪弥はぐるりと首を動かして、そちらに目を向けていた。
見開かれた碧眼が冷たい光を放ち、支柱から後ずさりした紗江子の姿を認める。目が合った途端に彼女が恐怖に身体を強張らせ、まるで化け物を見るかのようにひゅっと息を吸いこんだ。その様子に目を留めたまま、彼が弾丸のように地面を砕いて急発進する。
「待て雪弥! 彼女には話す余地がッ――」
弟を止めようとして、咄嗟に銃を手放した蒼慶の手が、空を掴んだ。肩越しに振り返りもせず、雪弥が瞳孔を開かせたまま「否」と答える。
「もはや話す余地、なし」
答えたその唇が、美麗な弧を描いた。ああ、コレは殺しても良いのだ。そう獲物を捉えた瞳が嬉しそうに見開かれて、両手の爪がギチギチと音を立てて伸びる。
紗江子が悲鳴を上げて、ワンピースドレスを翻した。その一瞬後「こんなはずがない」と叫んだ彼女の言葉は、鈍い音と同時にひしゃげて、切り離された首ごと宙を舞っていた。
まるで大型獣にでも切り裂かれたかのように、地面に大きな爪跡が打ち込まれた。巨大な柱の一部が、キレイな切断面を覗かせて抜け落ち、頭部を失った彼女の身体が『一瞬にしてバラバラと』崩れ落ちる。
あっという間の事だった。長い爪をしまった雪弥は、死体の前にゆらりと立ったところで、ぼんやりとした様子で宙を見やった。その瞳から、淡い光が消える。
蒼慶の腕から、大きな古い本が滑り落ちた。それに気付いて、雪弥は返り血が付いた頬を、僅かにそちらへと向けた。けれど視線を合わせず、赤く濡らした手を下げたまま力なく唇を開く。
「これが僕なんだよ、兄さん」
ぼんやりと考えながら、雪弥は力なく言葉を吐き出した。
「そばで兄さん達を支えられたら、とは思うけれど、僕は兄さんのそばにいられない。あなたは『右腕としてそばにいろ』というけれど、これが普段から僕がやっている『仕事』だ…………アリスも傷つけたくなかった、敵じゃなければと願った。それのなに、同時に殺したくて仕方がなかったよ」
雪弥は白状して、力なく視線を動かした。
転がった紗江子の首を見つめて、泣き方も分からない子供のような表情を浮かべた。彼女の苦痛な最期の表情を眺めていると、まるで母が遠い記憶の向こうから、今の自分を非難しているようにも思えた。
「だから僕には、あなたの右腕になるのは無理なんです。……僕には『ナンバー』の仕事がお似合いで、きっと、それ以外を選べないんだ」
雪弥はポツリと言うと、一度も蒼慶を振り返る事なく地下を出ていった。
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