蒼緋蔵家の番犬 2~実家編~

百門一新

~螺旋~

 地下のその部屋には、空調の冷気が立ちこめていた。


 手足を動かすたびに、それがあとを追いかけて肌寒い。けれど、張りつめた緊張の空気に加えて、『彼』が異常なほど麻酔の効きが短いために急がされ、データの収集にあたる研究員たちの額や鼻上には、脂汗が浮かんでいる。


 ここは、厚い鉄で覆われた巨大施設の、地上からもっとも低い場所にあると言われている最下層の階の一つだ。室内には、規則的な音を立てる多くの精密機械が置かれている。人の数よりも上回るせいか、どこか伽藍とした印象を与えていた。


 薄暗い室内で、中央に置かれたガラス張りの個室だけが、強い光に照らし出されていた。寝台には一人の青年が横たわっていて、四人の白衣姿の人間が黙々と仕事にあたっている。


「どうだ?」


 ふと、そんな腹に響くような重低音が発せられた。


 声を発したその男は、隔離されたガラス張りの個室の前から、機械的に動く白衣の人間たちを睨みつけるようにして立っていた。歳は五十と少し。浅黒い顔や手に刻みつけられた皺は、軍人らしい威圧感をもって本来の歳を忘れさせる。


 そんな大柄な男のそばで、問われた女性が、パソコン画面に目を向けたまま眼鏡を掛け直した。艶のある小さな唇を一度引き結ぶと、吐息をもらすようにして小さく開く。


「遺伝子の変化が、更に進んでいます」


 そう答えた彼女は、動揺を隠すように、今度は指の外側で眼鏡を押し上げた。そのそばで、尋ねた凶悪面の男の褐色の手が、コピー機から出される紙の一つを取り上げる。その大きな手には、いくつも傷跡があった。


 つい、それを見つめてしまっていた女性は、「どうなんだ」と詳細を問う声と視線に気付いて、慌ててパソコン画面に目を戻した。肌寒さを覚える室内で、形のいい彼女の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。


「それが、過去の記録と比較しても、恐ろしいほどのスピードで進んでおりまして……我々研究班も驚くばかりです」


 そう言って息を飲んだ。ありえない、そう首を振りかけた彼女を見て、男は険悪そうに顔を顰めたまま「身体に異常は?」と、続く言葉を遮るように口を挟む。


「いえ、実は異常がほとんど見られないのです。通常ですと、各細胞が死んでしまうほどの変化なのですが、前回同様その数値も変わっておりまして……」

「…………そうか」


 女同様、男も語尾を濁すようにして言葉を切った。しかし、そこには安堵の響きもあった。


 思わず男の唇から、「あいつの身体は、大丈夫なんだな」と自分で再確認する言葉がこぼれ落ちる。独り事だと分かっていながらも、女はその上司をチラリと見て「健康そのものですわ」と答えていた。


 検査対象である青年の事は、彼女達は長く見てきている。けれど、そう答える彼女の顔には、素直に安心出来る類(たぐい)の問題ではない、という複雑な感情も浮かんでいた。


 二人は沈黙し、言葉なく自分達の仕事をこなす白衣の人間たちの様子を見つめた。しばらくした後、男が苦み潰したような表情で、こうぼやいた。


「すまない。レベル5の研究班七人では、全然足りない仕事だな」

「仕方ありませんわ。組織の中でも、ごく一部の者しか関われないトップシークレットですもの」


 そんな彼の横で、彼女は唇の片端をくいっと引き上げて答えた。腰かけている事務椅子をキシリと鳴らして「ナンバー1」と、男の呼び名を口にして振り返った。


「あなた自身、もうお気付きだと思いますけれど……『これ』もレベル5研究班の責任者である私の口から、直に今、報告すべきですか?」


 多分、うちの研究班は、全員気付いていますよ。


 印刷されたばかりの紙束を指しつつ、彼女が問う。確認された大柄な男――ナンバー1は、続けろと伝えるようにして頷き返した。重要視されている項目ではなかったが、彼にとっては、誰かの口からハッキリ聞きたい事の一つだったからだ。


 許諾を得た女は、強化ガラスの個室へと目を向けた。その隔離された個室に横たわる、一人の青年を見て話の先を続ける。


「遺伝子の変化に対応していくたび、彼の頭髪の色素にも、ゆっくりずつ変化が見られています。最近入ったエージェント達は、気付いていないでしょうけれど、数年前の写真と比べると違いが分かります」

「人が持っているはずがない色素、というやつだったか」

「この世のどこを探しても、他にはない色でしょうね。肉体の外的成長の遅さに対して、体内では変化が続いている――通常なら自身でも異常を感知して、精神的に不安定になってもおかしくはないのですが、彼の精神は『ひどく安定』しているんです。異常なほどの殺戮衝動が強まるにつれて、彼自身が安定へと向かっている……なんだかそう思えて、少しだけ恐ろしいです」


 彼女は、そこで言葉を切って男を見やった。彼は難しい表情を浮かべて、印刷された数値とグラフを見つめている。


 しばらく、二人の間には重々しい沈黙があった。意見が返ってこない様子を見て、女性が「ナンバー1」と吐息混じりに声を上げた。彼は「なんだ」と返すものの、それでも視線は忙しそうに印刷面を追っていた。


「これだけ変化が現れていて、彼自身が気付いていないというのもおかしくはないでしょうか。だって、これでは、まるで変化の後こそが当然というような……。あなたは『極秘で調べて欲しい』とおっしゃいましたが、一体、彼は何(なん)なのですか?」


 ナンバー1は、そこでようやく顔を上げた。『何者』ではなく『何(なん)なのか』と尋ねた部下を見つめ返す。


 確かに、その表現は正しいのかもしれない。

 けれど同時に、それが彼の胸を締めつけた。


 初めて出会った時の、空から降って来たようにさえ感じられた少年の、風に踊るやや明るい髪を思い出した。まだ高校生だった頃の姿を、今でも鮮明に覚えている。車窓の外を何気なく見ていたら、突然自転車が飛び込んで来たのだ。


 ナンバー1は、まるで遠くを見るようにして目を細めた。彼女は、見解を聞きたくてしばらく待っていたのだが、結局は視線を外されてしまっていた。


「すべては、蒼緋蔵家(そうひくらけ)の闇の中に、か……」


 彼は『診察』を受けている青年の、どうも実年齢の二十四歳には見えない、まだあどけなさの残る姿を見つめた。


             ※


 ナンバー1が口にしたのは、今『診察』を受けているエージェントの苗字であるとは知っていた。滅多に聞かない彼の個人的な呟きが気になって、彼女は問おうと唇を開きかけたが、ふと自分の立場を思って口を閉じた。


 自分にその質問は許されていないだろう。そう分かって、視線をそらして椅子の背にもたれかかった。そして、一つの仕事をやり終わるごとに、ほぼ人の出入りがない『この部屋』にやってくる青年エージェントをじっと見つめた。


 この青年は、『4』の数字を与えられているエージェントだった。


 心優しくて裏表がなく、この息苦しい職場の中で、唯一心安らげる雰囲気を持っている――そんな人だ。それでも、研究員としてこの階の最高責任者としている彼女は、そんな青年が『碧眼の殺戮者』と呼ばれている事を知っていた。


 五年前の就任時から、彼女はナンバー1に任命を受けて、調査のため彼の実技演習なども見てきた。冷静沈着な美しい碧眼で捉えてすぐ、『人工』の標的をあっという間に壊していく。それはエージェントとして素晴らしい実力だったが、その標的が『生き物』に変わると、違う一面を見せた。


 その碧眼は『生きた標的』を捉えると、残酷なほど冷やかな殺意が満ちる。躊躇なく的確に息の根を止めていく様子は、生命がなんであるのかも思わないかのような殺戮を展開し、ぞっとするほどに容赦がない。


 この地下には、『ナンバー4』が関わった任務だけを集めた、地獄絵図のような光景が詰め込まれた資料が多々ある。青年がたった一人でやった悲惨な光景が記録されていて、先日あった『学園任務』も新たに加わえられていた。


「それでは、引き続き頼む」


 少し黙っていたナンバー1が、そう言って踵を返していった。先日送られてきた資料とその写真を思い出していた彼女は、小さく応えてから、眼鏡の下から目頭を押さえた。


 先日、この青年エージェントが担当した現場は、とある学園で、そこで撮られた写真はまるで地獄か戦場だった。数十人もの人間が『処分』されたらしいのだが、その光景はかなり悲惨で、吐いた新人もいたのだとは話に聞いた。



――おはよう、今日もよろしくお願いします。



 今日の朝、この階へ降りて来た際の『ナンバー4』の様子が思い出された。「ようやく休みをもらえまして」と語っていた笑顔は、嘘や社交辞令も苦手そうな、それでいて控えめな性格が滲むぎこちない笑いだった。


 実をいうと、前々回の任務帰りだった彼の姿を、彼女は上の階で見掛けていた。


 黒いスーツとロングコートに身を包んだ彼は、血まみれだった。足音を響かせて歩いてくる姿に気付いて、廊下にいた他の屈強なエージェント達が、自分たちよりも小柄で細身の彼を避けるようにして道を開けた。


 仕事直後の彼と遭遇したのは、五年勤めてきて初めての事だった。肌に刺さる殺気だけで、奥歯が勝手にガチガチと震えたのを覚えている。


 特殊機関で、もっとも残忍で容赦がないと恐れられている一桁エージェント【碧眼の殺戮者】を目の前にして、彼女は廊下で一歩も動けなかった。アレが現場で仕事をしている時の、ナンバー4としての彼の姿なのだと知ったが、それでも。


「…………それでも私は、心優しいあなたを信じたいの」


 彼女は祈るように口にして、そっと目を閉じた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る