第8話
「それにしても、やっぱりとても良く似合うよ、その眼」
猫はニヤッとして唐突にそう言いました。そして、続けます。
「あんたの瞳に収まっていると、なんだか輝きも違うねぇ」
「そうですか」
僕は、猫の二つの尾がくねくねと動くのを眺めました。昨日、猫はあの尻尾で器用に僕の両目を包んで、持って帰ったのです。
僕を見上げる猫の瞳が、すうっと弧を描きました。
「本当さ。よく似合ってるよ。元々あんたのモノだったみたいに、その眼は従順じゃないか」
妙なことを言う猫です。思いついた疑問を、僕は彼に打ち明けました。
「眼球が意思を持っているみたいに言いますね。特別なのは、柘榴色の瞳でしょう?」
「意思はあるんだよ、俺達のようなモノにはね。まあ、約束を取りつけなくても自分の意思一つだけで奪えちまう輩もいるし、身につけるわけでもないのにコレクションとして集めたりする輩もいる。――そういうもんだ」
よく分かりませんが、と僕は断ってから続けました。
「相性が合わない時は、どうなるんですか?」
「相性? 面白いこと言うなあ。たとえば見え方が難しかったり、勝手にごろごろと動いちまったりして、嫌でも元の眼と取り替えたくなるだろうよ。器が小さかったりすると、狂っちまうこともある」
――転げまわんのよ、馬鹿みたいな奇声上げてさ。
黒猫は喉の奥で、ぐるるるる、と低く笑いました。
「とりあえず俺は、あんたのこと気に入ったよ。意味、分かるかい? あんたと会ったのは昨日だが、どうも魅入られちまった。俺自身、きっと取って食われても文句は言わないだろうねぇ」
「それは友情というやつですか」
「情、と言うのなら違いねぇな。恋焦がれ、焦がれるやつに似てる。耐えきれないほどの脅威に強いられたいという、俺たちの本能みたいなものよ」
黒猫は楽しげに跳躍すると、軽々と塀の上に着地して、それからにんまりとしました。そして喉の奥で笑いながら、腹の底に響くような低音で奇妙な歌をうたいました。
「骨をばりばり食らわば、山の鬼
白い女の臓器に食らいつき、骨の一本も残らぬ
四肢を切り取ってちょうだいな
綺麗な頭は、傷つけずに残しましょ
死の接吻に命の逢瀬を重ねて
生みつけた子どもたちが腹から孵る
おこぼれに、可愛い猫に肝をおくれ
若い生き肝はとくに甘い」
聞いていると、なんだか懐かしみすら感じるような心地良い響きがありました。
「素敵だね」
僕が感想すると、黒猫が粘りっこい歓喜を示して笑う皺を鼻に寄せました。彼はおどけた表情をして、にゃあご、と高い声色で鳴きました。
「なあ、じいさんは、午後には死ぬんだろう? その前に生き肝を食ってもいいかい?」
「いいえ」
だっておじいさんは、陽が沈む前に死んで、それから誰にも触れられることなく一晩を過ごさなければならないから。
おじいさんは死んで一晩経つまで、そのまま床の上から動かしてはいけないから。
僕が答えると、黒猫は愉快そうにグルグルと鳴きました。その光景を見て、僕は柔らかく微笑んでいました。
◇◇◇
誰も訪ねて来る者がいないと知っていても、僕は祖父に言われた通り、午前十一時には門を開けました。その時には祖父は起きていて、いつものように縁側を眺めていました。
午後三時前に、祖父は遅めの昼食をとりました。少量のおかずを二、三口ばかり食べると箸を置きます。不思議と腹はすいていなかったのですが、僕は祖父が残したご飯を黙々と食べました。
祖父は食後に、ミニトマトとフルーツを四切れ、ゆっくりと味わって食べました。噛むことにだいぶ時間をかけました。そして、彼は途中ふと顔を上げると、庭を横切ろうとしていた芋虫を取って来るようにと僕に言いました。
「そろそろ時間だ」
丸々太った芋虫を美味しそうに飲み込むのがようやくで、祖父はそう告げると、すぐ横になってしまいました。
「私は、夕刻には死ぬだろう」
僕は両親の会社にそれぞれ電話を入れ、祖父が夕刻に死ぬことを伝えました。電話線を抜き取り、あとは夜のために備えます。
祖父は横になったまま腹の上で両手を組み、長いこと黙って天井を見上げていました。本とジャケット、蝋燭立てをいつもの位置に合わせる僕に「夕食はいらないか」と声をかけるまで、祖父はぴくりとも動きませんでした。
「お腹はすいていないんです」
僕は寝室の隅で膝を抱えました。僕にとっては十分明るく見える部屋で、祖父は日陰になっている天井に、湿気で出来た染みを探すように目を凝らしていました。
「昼に、私の残りメシを食べた時も、食が進まない様子だったな」
「きっと、朝食がおいしすぎたのでしょう。まるで食事を取りたいという気が起こらないのです」
祖父は天井の染みを見つけることを諦めたのか、顎を軽く引き寄せるようにうなずきました。
「そうか。空腹を感じないか」
「おじいさんは、どうですか」
「うむ。先程は小腹のすき具合を感じたが、食事はまるで喉を通らなかったな。米を口に入れた途端に、食べる気が萎えてしまったよ。けれど、お前が取って来てくれた新鮮な芋虫のおかげで、少しの食欲もすっかり満たされてしまった。もう、空腹は感じていないよ」
陽は、徐々に傾いていきました。僕の目には、淡い緑を揺らせるローズマリーが、輝いているようにさえ見えました。しかし祖父は顔をそちらへ向けると、寂しそうに呟きました。
「すっかり影になってしまったな」
僕は、祖父の目が、この美しい光景を映さないでいることを、ひどく残念に思いました。
「光り溢れる中で、孫に見守られて穏やかにと思っていたが……やはり死ぬ時は、それなりの雰囲気の中で死ぬのだろう」
「僕の目と交換しましょうか」
僕が祖父の眼球を抉りだそうと腰を浮かせると、祖父は顔を強張らせ「必要ない」と強く拒絶して顔をそむけました。途端に咳き込み、しばらく身体を丸めるようにして乾いた咳を続けます。
僕は、こちらに背中を向けた祖父の呼吸が落ち着くまで、膝を立て彼の様子を覗き込んでいました。
祖父はようやく呼吸を整えると、横目でちらりと僕を見ました。
「お前は、怖くはないのかね」
「何がですか?」
「抉るのは、痛いものだ。うむ、若さが違うのだろうな。私の度胸だったり勇気だったりも、すっかり衰えてしまっている。きっと私はお前と違って、耐えられずに死んでしまうだろう」
「なるほど、そうでしたか」
僕は、祖父の枕もとに坐りなおしました。少し貸してやろうと思ったのですが、それでは交換してやることはできそうにありません。
部屋の時間が経っていくことを、刻々と傾いていく陽の差し加減に覚えるのを、奇妙に思いながら眺めていました。
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