第7話

 祖父にとって最後の朝食は、いつもと変わりがないようでした。ミニトマトが三個、切られたフルーツの盛り合わせが一つ、硬くなった食パンを焼いてマーガリンを塗ったものが一枚。


 準備には時間もかかりませんでした。冷蔵庫には、二人分の皿にトマトとフルーツの盛り合わせが用意されていたのです。僕が担当したのは、祖父が小さなトースターで一枚ずつパンを焼く隣で、マーガリンを塗ることでした。


「あの女と出会って後悔したのは、狂気に触れたことだ。向こうの境界に、人間は入るべきじゃない」


 言いながら、祖父はテーブルに置いたバケツを覗き込みました。バケツに入っている蜘蛛をしばらく眺め、その中から一匹を取り出しました。


「隣の村の※※さんも、発狂して大騒ぎになったことがあった――子供をバラバラにして調理してたんだ。意思が弱いと、すぐに狂っちまう」


 祖父は手に取った蜘蛛を頭から、がぶり、と噛み千切りました。ひどく美味しそうに食べます。


「活きがいいのは、ぷりぷりしている」


 そう僕に教えた祖父の手で、残った蜘蛛の手足が小刻みに痙攣していました。バケツの中からそれを眺めていた他の蜘蛛達が、わらわらと蠢き出します。


 逃げ出そうとしているのかと思いましたが、そうではありませんでした。つるつると滑るバケツの中、蜘蛛達はスムーズな動作で折り重なり合って柱を作ると、最後の一匹がそれを伝って丁寧に登って来ました。


 そして、バケツを出て真っ直ぐ僕のもとへと歩いて来ると、二本の手を広げ、器用に動かして懇願するように複数の眼で僕を見上げました。


 僕は、祖父へ視線を滑らせました。


 祖父は二枚目のトーストの焼き具合を確認しながら、痙攣の収まってきた蜘蛛を口の中に放り込みました。ぷりぷりと身の詰まったそれを、音を立てながら咀嚼します。


「美味しいですか」


 僕が尋ねると、彼は「ああ。うまい」とにんまりとしました。


「そら、そいつもお前に試食されたがっているぞ」


 祖父は唇を舐めるようにして、しゅしゅしゅしゅしゅ、と空気をもらして笑いました。


「食べるには、一番手頃の大きさなんだ。こいつらは、硬くなく、とても甘い。一日の活力になる」


 僕は、蜘蛛を親で挟むように持ち上げました。見てみると、なるほど、確かに柔らかい。芋虫のそれによく似ています。


 試しに、その蜘蛛を一齧りしてみました。数本分の足と、肉汁を弾かせて、半分の腹部が僕の口の中に収まりました。


 ――妙な味がしました。


 甘いとも苦いとも違うものを、舌や口の中全体に感じました。ジュル、と果実が溢れるような、柔らかな触感がしばらく舌の上に残りました。更に噛みしめると、確かに独特の甘さが口と鼻腔に広がるような気がしました。


 朝の食事も、昨日と同じように寝室で取りました。


 約十八匹いた蜘蛛は、すべて僕と祖父の胃につるりと収まりました。あれを食べると、マーガリンを塗ったパンもよく進みました。


 寝室には、庭から強く香ってくるローズマリーの匂いが溢れていました。朝食を終えると僕はバケツと食器を片づけ、祖父は床の上に座ったまま庭を眺めました。


「午後には死ぬようだ」

 片づけを終えた僕に、祖父は庭を眺めたままそう言いました。


「何時頃になりそうですか」


 僕が尋ねると、祖父はこちらを振り返り、難しいという表情を作って「ううむ」と考え込みました。


「もう少し、時が近付けば分かるだろう。その時は、お前の父さんや母さんに連絡を入れなさい。日が暮れる前には死ぬだろうから、今日で一晩の遺体安置も終わる」

「分かりました。死亡連絡と一緒に、明日には来るようにと指示します」


 祖父は僕の答えに満足したのか、深くうなずいて微笑みました。


 食後三十分足らずで祖父が寝てしまうと、僕は午前十一時まで屋敷の庭を眺め歩くことにしました。


 太陽に照らし出された祖父の庭は、すっかり蜘蛛の巣が取り払われています。


 以前より色彩が豊かで美しいと感じるのは、素晴らしいことです。石垣で囲われた池を覗き込むと、薄茶色の髪をそよ風に揺らせた、薄紫色の瞳の僕が映っていました。


 映えるような白ではなく、溶けてしまうような色素の薄い肌にも、その瞳の色はよく馴染んでいるように思えました。そうすると、昨日までの黒の瞳だった頃の自分の方が、異質な感じがしました。


 更に池へ身を乗り出すと、後頭部に日差しが当たって顔の部分が影になりました。風で揺れる水面の中で、薄紫色がぼんやりと発光していて綺麗でした。まるでアメジストに、月の光りが透過しているような色合いです。


 水面に映った小奇麗なその顔が、初めて満足そうに微笑するのが見えました。感情の起伏がないと言われていた僕が笑うなんて珍しく、そして気分がいいものでした。


 庭の気配が、どうも昨日とは違うような気はしていました。今日の僕が、締め切られた門の内側にいるからではありません。


 僕は朝一番の掃除でも見た祖父の敷地内を、今度はゆっくりと歩いて見て回りました。塀で囲まれた祖父の屋敷から眺める空や山々も美しいのですが、やはり昨日とはどこか雰囲気が違っています。


 僕は、昨夜の男の、とても気に入ったテノールの響きを思い出しました。彼がどこかにいるような気がしましたが、ぐるりと見渡しても見当たりません。


 その時、ちょうど別の気配を感じて、僕はそちらへ顔を向けました。塀の上に着地した黒猫が、驚いて金の瞳を見開きました。


「びっくりした。こりゃあ随分、まるではじめからあんたの物だったみたいに馴染んでいるじゃないか」

「様子を見に来てくれたんですか」

「そりゃもちろんよ。俺は、親切で可愛い、無害な猫だからね」


 黒猫は、石畳にひょいと降りてきました。


「お友達の猫さんはどうでしたか?」

「とても喜んでいたさ。それに、驚くほどよく馴染んだよ。――あんた、妙な人間だねぇ」


 黒猫は、じっと僕を見つめました。不意に「おっと」とおどけたように二歩ほど下がりました。


「頼むから、俺を取って食おうなんて考えないでおくれよ?」

「そんなこと、考えませんよ」

「まぁ、あんたは人間だしなぁ」


 自分で言い出したのに、猫は不思議そうに首を傾げました。相変わらず黒猫の金の瞳は美しくて、漆黒の毛並みが艶々と立派でした。


 ――是非欲しいなあ、と僕は思いました。


 自然な微笑みに似た表情が、自分の顔に浮かぶのが分かりました。けれど、はがしてしまいたい気持ち以上に、彼とはもっと話していたい気持ちが勝りました。

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