9.息子に会いたい

 寿々花を待ち構えていた様子の彼と、昼下がりの駐屯地内を一緒に歩いている。


「奥様、大丈夫でしたか。そろそろご自宅に戻って、寿々花さんがこちらに帰ってくる時間だろうと、将補が落ち着きなかったものですから。診断結果をお嬢様から確認してきますということになって、待っていました」

「そうでしたか。今朝はありがとうございました。元は骨折手前でしたから、まだ復帰は早かったかもしれません。まだ慎重に過ごしてくださいとお医者様から言われました」

「凍結した道で転んだんですよね。凍った道での転倒は思った以上に危険ですから」

「転んだだけで怪我をしたのは、年齢もあったと思うと母も言っています」


 状況を報告したので、これで彼から父へ伝わり安心するだろう。

 だが館野一尉はまだ寿々花から離れない。


 緑に溢れている北国の初夏、駐屯地の木々の隙間から爽やかな午後の風が吹き込んでくる。

 制帽を被っていない館野一尉の黒髪が、風に吹かれる。短髪が多い自衛官だが、副官をしているためか、少しだけ伸びていて風になびいている。彼がその風の行方を追うように、遠くをみつめていた。


 凜々しい眉に、二重の大きな目に長いまつげ、深みのある黒い瞳。鼻筋がとおっていて、スタイルも良い。まさにモデル雑誌にいそうな男性だった。

 そんな彼の憂う眼差しに、やっぱり寿々花はときめきが止められない。だって、まだあれから一週間しか経っていない。


「よっ君を自衛官仕様に鍛えすぎましたかね」


 黄昏れたような眼差しをしているかと思ったら、出てきた言葉がそれで、寿々花はきょとんとしてしまった。


 彼が、微笑んだ。このうえなく。


「なんだか、よっ君に毒気を抜かれた気分ですよ」

「毒気、ですか」


 笑ってる、微笑んでいる、寿々花を見てまだその顔は穏やかなままだった。


「自分がひどく意固地になっていたと思わされました。あのあと、寿々花さんに酷いこと言ったと自己嫌悪に陥っていました。いままでどの女性にも、寿々花さんに言い放ったような対応をして来たので、自分としては間違っていないつもりでした。それでも上官のお嬢様ですから、翌日散歩の時に、せめて謝ろうと思ったら、お母様がよっ君の散歩を。遠目に確認して、もう寿々花さんは来ない。もう嫌われたと思いましたよ。ですが、自分が仕向けたことです。それに寿々花さんは自分より幾分かお若いので、訳ありの男など相応しくない。将補にも申し訳ないと思っていますから」


「一尉が傷ついた気持ちを考えると致し方ないことです。平穏を保とうとしている一尉の心を、子供っぽい私の後先考えない行動で乱してしまったのでしょう。申し訳ありません」


 気がついた。あの時、実は一尉も全力で寿々花に気持ちをぶつけていたのではないかと……。


「明日から、また寿々花さんがお散歩担当ですよね」

「はい。でも、時間を変えたほうがいいでしょうか。もうヨキと遭遇しないように」

「いいえ。いままでどおりでよろしいですよ。その代わり、お母様が散歩に復帰したときのことを考えて、ヨキ君を自衛官仕様の散歩から、ママさん仕様のお散歩になるよう、穏やかに歩きましょう」

「自衛官仕様ですか、たしかに。私、ヨキとおもいっきり走っていましたもんね」


 寿々花もおかしくなって笑い出していた。彼も微笑んでいる。


「ヨキ君のおかげかな……。意固地だった俺の気持ちなど、しらんぷり。どうでもよくなりました」


 彼がそっと目を閉じた。でも微笑みは残っている。

 ライラックの香りが風に乗ってきて、彼の微笑みが甘く記憶されていく。




 翌朝からまた、真駒内公園で彼と会うようになった。

 もう彼は寿々花を避けないし、むしろ同じコースに戻って、会ったら一緒に歩くようになった。

 少し休憩する時も、ベンチで一緒に座ってくれるように。


「困ったことになりましたよ」


 タオルで汗を拭いている彼が、寿々花の隣でそんなことを呟いた。

 心底困り果てているのか、最近は穏やかな笑みを見せてくれるようになったのに、この日の朝は苦々しい表情で口元を曲げていた。


「どうかされましたか」

「お父様に相談するかどうか迷っています」

「私が聞けることですか」


 ヨキにペット用水筒で水分補給をさせていると、彼もヨキの頭を撫でながらため息をついている。


「寿々花さんには思いっきり話した手前、なんでも話せるというか……」


 え、そうなの! いつのまにそんな立場になっていたのと寿々花は飛び上がりそうになる。

 館野一尉に、あんなに厳しく突き放されたが、あれがかえって彼にとって『本音を存分にぶつけた人』ということになっているらしい。

 だって。あれから笑顔を見せてくれるんだもの。


 それでも。彼が言いにくそうにしている。

 言えないならそれでもいいと、寿々花は彼の気持ちが固まるでヨキを眺めて待っている。


「婚約破棄をした時にお願いした弁護士から、あちらの両親から久しぶりに連絡がありまして。息子に会わせてくれるとか言いだしたそうなんですよ」

「え!? えええ!!」


 彼より寿々花がすっとんきょうな声を上げていた。

 だが、館野一尉は寿々花の声に驚きもしないで、重苦しい様子のままだった。


「あの、聞いてもいいですか。お子様には一度も会われていないのですよね」

「一度も。下世話な言い方ですが、ほんとうに種だけあげたかんじです」

「おいくつなんですか」

「五歳です」

「あちらのお父さんをお父さんと思われているんですよね」

「はい。そうするために身を退きましたから」

「えええ、おかしいじゃないですか。あちらが望んで、一尉に『近づくな』というようにまとめられちゃったんですよね」

「そうですよ。確かに、息子のためにはそのような環境が良いだろうと納得はしてのことですから。気にはしていますけれど、邪魔をする気など一切なかったし、首を突っ込んだこともないですよ」

「えええ~、なんですかそれ、急にどんな心境で? 怖い……」


 寿々花が『なにそれ、意味がわからない』とドン引きしてる顔を見た一尉が、ほっとしたのか微笑みを浮かべた。


「良かった。俺、間違っていないですよね。確かに息子には会ってみたいけれど、会ったらおしまいというか。それまでの『調和』が崩れる気がしているんですよ。会いたいけれど会うべきではないと思う気持ちは、父親ではないのかとか。そもそも自分は『種』だけで父親でもないかとか。あちらの両親がどうして今ごろとか、けっこうテンパっています。この状態では、さすがに上官にはまだ言うべきではないかと思っていまして」

「ですけれど。館野一尉の信条は職務の負担になるトラブルは避ける、ですよね。こういってはなんですけれど、女性トラブルを避けることも大事だったかもしれませんが、親族トラブルだって同じですよ。あ、親族ではないですよね、あれ、息子さんと血縁だから親族、かな」


 ややこしいかも。と寿々花が思ったとおりなのか。


「複雑になるから、邪魔をしないように任せていたのに。自分の両親にも相談をするために連絡をしたのですが、父も母ももの凄く怒っているんですよ」


 それはそうだろう。初孫を彼女の心変わりで見ず知らずの男に奪われたのだから。

 血は繋がっていても、もう実子ではないと思っているところに、あちらから『会わせてやる』と言わんばかりの連絡に、館野一尉の両親もご立腹らしい。


「連絡してきた理由が五歳になった息子が『自衛隊が大好きになって、自衛隊さんに会いたい』と言っているらしいんですよ。ほんとうなのかどうかと思っていましてね」

「五歳の男の子だと、乗り物や警察、消防などかっこいいと夢中になる時期ですよね。兄の子供がそうですから。自衛隊がかっこいいと思う時期でもあると思いますよ。ほんとうに自衛官大好きな男の子なら、それはお父さんと自然に会う機会だとも言えますよね」

「そうなんですよね~。どうしようかと思っています」


 寿々花はなんと言ってよいのかわからない。

 話は聞けるけれど、気の利いたアドバイスも、彼の心が楽になる判断もできない。


「もうすぐ駐屯地の記念日、一般公開日があります。その時に連れてくるとか言っているんです」

「もう日がないじゃないですか」


 つまり決断を迫られているということらしい。


「ここ2、3日が決断どころだと思っています」


 いつまでも迷わず、気持ちの整理をつけるための期間を区切っているメンタルさえも、訓練されてできあがっているようにも思えた。自己管理というもののひとつなのだろう。


 一尉の動揺も落ち着いたのか、優しい横顔で、またヨキを撫でてくれる。


「ほっとしますね。ワンちゃんとお散歩している寿々花さんとお話するのは」

「そうなんですか。なんといいますか、偶然が重なってですよね」

「ヨキ君に導かれてとも言いますかね」


 一度離れた心を繋ぎ直してくれたのは、確かにヨキかもしれなかった。


「ヨキ君に毒気を抜かれたいいましたけれど。伊藤家の朝ご飯と、陸将補ご夫妻の姿にも毒気を抜かれましたね」

「父と母にですか」


「陸将補にまでなられた優秀なお父様が、エプロンをして食事の支度をしていたんですよ。男のこだわりも自信満々にして楽しそうに。お父様も単身赴任をされているから、家事に子育てを手伝うなど余裕がない時期もあって、自衛官という仕事に邁進するほどに、ご家庭を顧みない日々もあったと思うんですよ。いまになって家事を率先してやるお父さんになりつつある。男は外で仕事、妻は家を守るというスタイルを良しとしてやってきたはずなのに……。『自衛官の妻はひとりでも家を守るべき』と思っていたのは間違いだったかなと思い改めました。自分が意固地だったというのは、それも含まれます。その時その時ある形で臨機応変にスタイルを変えて、夫婦で力を合わせていくのが正解だったかもしれないってね」


 ヨキが一尉の顔をじっと見つめて、なでなでしてくれる間はずっと尻尾を振っている。

 彼の手が離れると、ヨキは寿々花の足下に戻ってくる。

 撫でるためにかがめていた姿勢からベンチに座り直した一尉が、ジョギング用のポーチからスマートフォンを取り出した。


「個人的に、または、上官のお嬢様としていざというとき用に、連絡先をもらってもいいかな」


 軟化した一尉から、どんどんと寿々花に近づいてくるようでびっくりするし戸惑うしかない。


「もちろん。一方的に申し出ているのであって、寿々花さんが嫌なら……」

「いえ、お願いします!」


 寿々花も慌ててスマートフォンを取り出す。メッセージIDの交換を試みる。


「息子に会うなら、音楽隊も見せてあげたいんですよ」


 連絡先を交換できたけれど。やっぱり上官のお嬢様としてなのかなと思うことにした。


 その二日後、母から聞かされる。

『館野君、息子さんと初対面を決めたようよ』と。

 しかも、駐屯地が一般公開をする記念日祭典の日に、司令部でとのことだった。

 

 彼が息子と初対面する日が近づいてくる。

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