その青年、碧眼のエージェント(5)

 ナンバー4と呼ばれる青年の名は、蒼緋蔵雪弥といった。今年で二十四になるとは思えないほど童顔な青年である。とても温厚でおっとりとしており、エージェントの中では珍しくのんびり屋だった。


 国家特殊機動部隊には、暗殺部隊を除いて本当の名と家族がある。彼らは同僚にも本名は明かしておらず、与えられたナンバーの他、仲間内では自分でつけたニックネームを使用しているが、その中で唯一とくにこだわる事もなく「雪弥です」と名乗る異例のエージェントは彼一人だった。



 ナンバー三十番から上の者は、数字の高さによって権力のある職と肩書きを持っているが、異例のエージェント雪弥は、とことん権力に興味を示さなかった。


 外で彼を見かけた際、「普通のサラリーマンをしています」と語っているところを目撃した仲間たちが震え上がった、という話は、ここでは有名である。


 

 異例なエージェント、雪弥は少し特殊な生い立ちをしていた。蒼緋蔵家といえば本家、分家ともに大手の企業会社を持ち、弁護士、裁判官、医者、国会議員などを多く排出する一族で、広大な土地を持った国内有数の大富豪である。しかし、彼は蒼緋蔵現当主の正妻の子ではなく愛人の子だった。


 奇妙なのは、そんな雪弥と蒼緋蔵家の関係である。蒼緋蔵現当主の正妻である亜希子は、夫の愛人である紗奈(さな)恵(え)をあっさりと受け入れたのだ。


 紗奈恵は仲は良くても、蒼緋蔵家の豪邸に住まう事はしなかった。出身県の隣にある、埼玉県の安アパートに住んでいた。不憫に思った当主と亜希子の提案は以前からあったが、四年経ってようやく紗奈恵が妥協し、雪弥たちは東京に建てられた一軒家に住む事になった。


 住宅街にある、小さな庭ばかりがついた二階建てのこじんまりとした家だった。紗奈恵はそこで、普通の子供として雪弥を育てた。


 雪弥が歩き回れるようになった頃から、蒼緋蔵家と紗奈恵の交流は、より一層深くなった。彼女は雪弥が四歳になると、遠出も大丈夫だと判断して彼を連れて蒼緋蔵邸に行くようになった。


 亜希子には雪弥より四つ年上の息子と、三つ年下の娘がいたが、当初雪弥は紗奈恵のそばから離れず、遠目で彼らを見ているだけだった。


 幼いながらに蒼緋蔵家関係者からよそよそしい雰囲気を肌で感じて、愛人の子である意味を理解していたのである。そんな雪弥を見て、亜希子の子供たちも、はじめは遠慮して遠目から見ているといった様子だった。


 一緒に過ごす中で、三人の関係はしだいに変わり始めた。


 雪弥は「兄」と「妹」が紗奈恵と接するのを見て、彼らが自分の母を「もう一人の母親」として想ってくれている事に気付いた。家族なんだ、という実感が込み上げたときには彼らが特別な存在になっていて、それから亜希子の息子は「兄さん」、娘の方は「可愛い妹」になった。



 雪弥が兄弟たちと話せるようになってしばらく経った頃。双方とも子育てが忙しくなり、当主の仕事が増えていたとき紗奈恵が病に倒れた。診察の結果は、悪性の癌だった。当主と亜希子は、蒼緋蔵家の主治医がいる設備が整った病院を紹介したが、紗奈恵はそれを断って地元の病院に入院した。



 当時小学生だった雪弥は、既に中学生までの勉強を終わらせていたほど賢かったから、医者から話を聞いて母が長くない事を悟った。「母が望むことを」と心に決めて、紗奈恵が抗癌治療を希望しなかった時もそれを受け入れた。


 懇願し「長く生きていて」するよりも、最後まで自分らしく生きたいといった紗奈恵に「じゃあ僕の出来る事をせいいっぱいする」と子供らしかぬ考えを持っていた。


 紗奈恵は数カ月に一度だけ、家に帰れるばかりで、それ以外はずっと病室での入院を強いられた。それでも、雪弥は常に母の傍に寄り添い続けた。早朝一番に顔を出し、学校が終わるとすぐに病院へと向かった。


 面会時間が終わるまで紗奈恵と過ごす日課は、中学生になっても変わらなかった。たった一人残された家での家事疲れもあったが、彼は一度だって弱音を吐かずにそれを続けた。当主が週に二回、仕事の時間を削って会いに来たときの紗奈恵の嬉しそうな顔を見るだけで、雪弥は満足だった。


 紗奈恵の医療代は、決して少ない金額ではなかった。中学一年生の春、病室に訪れてきた蒼緋蔵家の見知らぬ人間たちが、突然一方的に話を切り出した。雪弥は大富豪の家と、愛人となった自分たちの立場の難しさを実感した。


 多くの分家や親族繋がりが存在し、当主に可愛がられている愛人とその子供として自分達は確かに嫌われているのだ、という事を知った。それだけではなく、この先もしかしたら、父や亜希子や兄妹たちに迷惑を掛けてしまう恐れがある事にも、雪弥は気付かされた。


「最低限の生活費や治療費は入れてやる。しかし、これ以上当主と私たちに関わらないで頂こう」


 前触れもなく訪れた男たちに対する嫌悪感よりも、家族に迷惑をかけたくないという想いから、蒼緋蔵家と縁を切る事を決意した。雪弥は母に代わって、二度と蒼緋蔵家の敷地内に足を踏み入れない事、彼らと今後一切関わらない事を男たちに告げた。


 決意しながらも、「これで良かったのよね」と言いながら紗奈恵は泣いた。父は苦渋したが、二人の覚悟を最後は受け入れて「けれど、どうか名字だけは残させて欲しい」としてその手続きを行い、形式上縁を切ったと公言しながらも病院に見舞いに来続けた。


 雪弥は自分の母に対する彼の想いの深さを感じながらも、父がしだいにやつれている事に気付いた。完全に蒼緋蔵家を断ちきるためにも、頑張って早く就職しようと決心した。



 そんな焦燥を引き連れたまま、季節は急くように流れて行き、雪弥が中学二年生になった春、母である紗奈恵が三十三歳の若さで亡くなった。


 紗奈恵の葬式は、十四歳の誕生日もまだ迎えていない雪弥の希望により、自宅でひっそりと行われた。蒼緋蔵家の人間は来ないようにと釘を刺した家は、数少ない紗奈恵の知人が時折来るばかりだった。



 一日泣いただけで、雪弥は恐ろしい精神力で立ち直った。その頃から、紗奈恵と一緒にいた時は感じた事がなかった、これまでにない苛立ちに似た感情を覚え始めた。


 それを紛らわすため、彼は学校の運動部に時々顔を出しては暴れた。今まで以上に勉学に励み、貪るように知識を詰め込んだ。睡眠もほとんど取らずに行動し続けるその姿は、まるで獣のようだった。


 雪弥は高校入試で全科目満点の数字を叩きだし、奨学金をもらって都内で有名な高校へと進学した。以前のような落ち着きは戻っていたが、どこか荒々しい一面が浮かぶようになっていた。


 ぶつかりそうになった学生を反射的に叩き伏せてしまったり、外で素行の悪い他校生にからまれた少年少女を見かけた時は、構わず声を掛けて、一人で十数人の不良を再起不能にする事も多くなった。


 多くの者たちは、雪弥に足か腕一つで地面に叩きつけられる。不良の間では「かなりの強者だ」とひそかに恐れられたが、彼自身は、ほんの少し力を入れて払っただけにすぎなかった。

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