第3話
本当に、自分の事なのに訳が分からない。実際、半分血の繋がった娘の顔でも見れば満足するのだろうかとも考えていたが、どうやらそれも違っていたらしい。
もやもやを感じた当初、望んでいたような、自身の心が納得するような感覚は何も起こらなかった。だからこそ、彼は落胆も覚えている。
ヨリは、しばらく窓から見える雨模様を眺めた。ガラス窓に反射した店内の中に、楽しそうな顔で接客を続けている茉莉の姿を見ていた。
ふと、ガラス窓に映っていた彼女の視線が、彼を捉えた。その一瞬、ヨリは、彼女とガラス越しに目が合ったように感じた。
そのまま視線は離れていき、茉莉の姿が一旦カウンターへと戻る。気のせいだったらしいとヨリは判断し、心に留める事もなく珈琲を口にした。彼は自意識過剰でもない。もしかしたら、という可能性を考えればきりがないので、普段からそんなことをしない男だった。
それから少しもしないうちに、ガラスに映った店内風景の中に茉莉が戻ってきた。そのまま、こちらへと近付いてくるのが見えてヨリは手を止めた。
彼女の目は、珈琲カップと彼の後頭部を行き来しているようだった。テーブルの上にカップを置くと、彼女の歩みがやや速くなってこちらへと向かってきた。
「お客様、ホット珈琲のおかわりは如何ですか? ブラック珈琲でしたら、おかわりが可能なんですよ」
どうやら、彼女は珈琲の量を気にしてわざわざやってきてくれたらしい。恐らくは、常連客と、そうでない客も把握出来ているのだろう。
ヨリが何気なく視線を返すと、茉莉が営業向けの笑顔を浮かべてきた。しかし、彼が軽く手を振って物静かに断りを示すと、どうしてか少しだけ目を見開いた。
「ありがとう、十分だ。あまり量は飲まない性質でね」
まさか言葉を交わす事になろうとは思っていなかったが、彼は見る事以外に何も目的がなかったので、ただただ一人の客として冷静にそう答えた。
茉莉は、愛想笑いの忘れた顔で目を見開いたままだった。
「そう、ですか」
ようやく、絞り出すような声でそう言った。見開いた目から大きな黒い瞳がこぼれ落ちてしまいそうに感じて、かえってヨリは少し心配になった。
普段からヨリは、会社で愛想がないとよく言われたりした。
素直そうな若い娘には、少々きつい感じの言い方にでもなってしまったのだろうか?
特に、普段から女性とは話す機会があまりなかった。同期で一番接客術に長けている藤川のように、愛想笑いの一つでもうまく出来る人間だったらよかったのな、と今更ちらりと思ってしまう。
「珈琲、すごく美味しかったよ。またの機会に頂くとしよう」
藤川が言いそうな言葉を考え、そう続けて口にしてみた。笑って見せたつもりだったが、ヨリの表情は困ったような微笑になっていた。
すると茉莉が、途端に我に返ったような顔で「すみません」と謝ってきた。
「あの、困らせるつもりは全然なかったんです。その、ちょっとぼんやりしてしまったというか…………勝手に驚いてしまって、すみませんでした」
「いや、気にしないでくれ」
やはり驚かせてしまったのかとヨリは思った。認めてしまえば社交性がない。威圧感を与えた覚えはないが、言葉も表情もあまり豊かではない自覚はあった。
茉莉は、会釈をして去っていこうとした。しかし、ふと、ヨリを振り返った。
「次にブラック珈琲を頼まれる機会がありましたら、ぜひ利用されてください。声をかけて頂けたら、すぐにお持ちしますから」
そう言って、やや崩れた営業スマイルを浮かべる。まだ完全には大人になりきれていない少女が、弱った表情に無理やり浮かべた笑顔のようにも見えた。
また来るつもりはなかった。もう目的は達成した。言葉を交わす予定もなかったのに、余計に通っていたからこうして接客されてしまっている。
この場合、社交辞令として、どう言えばいいのか分からない。ヨリは返答に困った。結局は「そうだな」とだけ曖昧に答えて、とうとう口をつぐんでしまった。
彼女が一つ申し訳なさそうに微笑んで、それから来店した新規の若い女性二人組の方へと向かっていった。客も増え始めていたので、彼はそこから逃れるように会計を済ませて店を出た。
◇◇◇
外に出てみると、雨はまだ降り続けていた。
頭上は暗い雨空が広がっている。傘の外側を、相変わらず激しい雨が叩いてきて、歩道の信号が青に変わる際に発生する聞き慣れた機会音も、傘の内側に届きにくい。
ヨリは、目的地も定まらないまま歩いた。茉莉の弟についても顔を見てみようと考えていたのだが、彼が頻繁に訪れているらしい店を探してみる気分でもなかった。
茉莉の弟は二十二歳。姉とは違って大学へは行かず、高校を卒業後、二十歳で就職している。彼も同じく実家を出ており、この都内で一人暮らしをしているのだとか。
ヨリは都会育ちではあったが、元々中小企業の就職を考えていた。熱意も情熱も持ち合わせていない自分が、まさか一つ目の面接先の会社で採用が決まるとは思ってもいなかった。
入社した頃は、立派なオフィスに慣れるまで時間がかかった。研修期間を経て、配属部署が正式に決まって仕事が始まった。与えられていたデスクのリーダーであった佐藤が部長補佐へと昇格し、ヨリがデスクのリーダーとなり――今に至る。
忙しくないといえば嘘になるが、辞めたいと思って事はなかった。プライベートを忘れて仕事に向きあっている時間というのが、彼の性に合っていた。
先程見た茉莉の人柄を考えると、弟の方も社交性や順応性があったするのだろうか。調査報告書にあった写真の横顔には、就職二年目の苦労な印象はなかった。
「……ああ、そろそろ本日のメイン業務は終了か」
時刻は、そろそろ午後の五時に近付いている。通行人の数が増え、雨音とは別に人々の雑踏が街に溢れ始めていた。
うちの会社も、ほどなくして定時退社のための準備が始まるのだろう。そう思って腕時計から目を離したタイミングで、胸ポケットに入れていた携帯電話から着信音が上がった。
今はスマートフォンが流行っているが、ヨリはプライベートでは使い慣れたガラケーを使っていた。仕事用にそちらも持っているが、休みの間の緊急連絡などは全てこちらで対応している。
着信画面を確認すると、そこには佐藤の名前があった。ここで足を止めると通行の邪魔になるだろうと辺りを見回し、数人の男女がいるバス停の屋根の下に入った。
「どうされたんですか?」
『どうよ、連続休暇は楽しんでるか?』
傘を閉じて電話に出た途端、向こうから笑うような問いかけがあった。その調子がいい声は、ヨリの脳裏ににやつく佐藤の顔を連想させた。
「そうですね、暇を持て余している感じですかね」
『お前、今、少し考えたな? 相変わらず可愛くねぇ発言だなぁ』
佐藤は、実に楽しそうに笑う。
『お前さ、システム会社の方で知っている奴はいるか?』
「はぁ。また唐突な質問ですね……。代表の須藤さんや田中さんには、毎回対応して頂いていて面識もありますけど。何かトラブルでもあったんですか?」
『まぁ、昨日、一時的にシステムがダウンしちまったのはあったな』
「ああ、それで先方が僕を指名してきたんですか?」
デスクのリーダーになってからは、システムに問題が発生した場合は、ヨリがシステム会社との対応にあたっていた。もう数年は付き合いがあり、向こうから折り返しの連絡やメールがあった場合、ヨリを指名してくる事も多かった。
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