第2話

 そうして本日もこの土砂降りの中、彼はまたしても傘を差して、有給休暇が始まって三日目の昼間も、昨日と同じこのカフェ店に入ったのだ。


 今日、彼女は出勤するだろうか。


 そんな事を考えながら、こんな事をしている自分の行動理由が分からずに困惑する。注文を取りに来た三十代くらいの女性店員に、今日もひとまずブラック珈琲を一つ頼んだ。


 頼んだ珈琲が運ばれてきた後、彼は湯気の立つカップの中を見下ろしながら、今回の行動のきっかけを思い返した。


 彼の事を、母親や友人は『ヨリ』と愛称で呼ぶ。あの新聞の一件以来、ぼんやりと過ごす事が多くなったある日、会社の先輩である佐藤に声を掛けられたのだ。


『ヨリ、最近どうした?』


 佐藤とは飲みにいく仲ではあったが、深いプライベート部分を話すのも気が引けた。だからヨリは、ちらりと見ただけの何かがずっと頭に引っ掛かっているのだ、とだけ答えた。


 すると、佐藤はこう言った。



『何に対しても平常心のお前が、そんなに気になるってのは、多分良い事だよ。そういう時はさ、知らない振りを決め込まないで、調べてみたりしてちゃんと向き合ってみる事も大事なんだぜ』


 向き合ってみるといい。それが、どういう事を指すのかヨリには分からなかった。けれど、このもやもやとしたものがなくなってくれるのなら、アドバイスに従ってみようという気になった。


 まずは父親を知る事から始めた。彼なりに考えた結果、生まれて初めて探偵会社に連絡を取り、そうして入社してから初めての長期休暇まで取る事となった。


 探偵は、存命している父親の子について気になっているのだろうと思ったのか、そちらをメインに調査を行ったようだった。他界した父の写真はなかった。


 ――が、結果として、見知らぬ人間の写真と、調査書類を手に入れてしまった。


 思い返してみても、自分が何を考えて取った行動なのか不明だった。


 正直、どうかしていると思う。こんな事をして何になるのだと、ここ数日は、手に入れた「調査報告書」を前に、同じ疑問ばかりが脳裏を過ぎっていた。これまでの無関心だった自分を思うと、信じられない事だ。


 彼が調査の依頼を頼んだのは、借りているアパートからそんなに遠くない場所にあった、小さな探偵会社だった。そこには、落ち着いた風貌の初老の男がいた。


『それがいいでしょう。向き合ってみなさい』


 その探偵は、不思議なほど温かな笑みを浮かべて行動を後押しするように言った。子だけでなくたくさんの孫までいる者としての助言だったのか、一番安い料金では教えられない何かを知っての事だったのか……いまだ判断はつかないでいる。


 このカフェ店は、探偵会社から得た情報の一つの場所だった。ヨリが勤めている会社から一駅分近くにあって、今日は昨日と違ってどこか閑散としていた。


 広い店内は、客の姿もまばらだった。全て単身の客のようで、大学生かフリーターらしき若い者達、もしくは定年後のような落ち着いた風貌の男性客しかいなかった。


 昨日の午後に来店した際には、広い店内には店員が五人ほどいたのだが、今は二人のみだ。一人は三十代女性で、白いシャツと黒いエプロンを身につけている。もう一人は四十代ぐらいの女性で、清楚な私服に質の良い茶色の前掛けをしており、指示しているところを見ると店長かオーナー辺りだろうと思われた。


 そうして、しばらく珈琲を口にしながら待っていると、カウンターの奥からもう一人の店員が出てくるのが見えた。


 それはセミロングの髪を一束ねにした、化粧気の薄い可愛らしい顔立ちをした若い女性だった。写真で見た通り、髪先に少し癖があるが予想していたよりも背丈はある。


「有澤さん、さっきはありがとね」

「いえいえ、お役に立てて何よりです」


 三十代の女性店員が親しげに呼ぶと、彼女は素直な性格が窺える雰囲気で答えた。互いに笑顔を浮かべて会話する様子を、ヨリは頬杖をつきながらぼんやりと眺める。


 マンションの一室に置いてきた、探偵会社からの報告書を思い返す。


 その報告書には、ヨリが知らなかった『父親』について書かれていた。たとえば大学の講師をやっていた事、本を書いていた事。母が関係を持った数年後に結婚し、娘と息子が一人ずついる事……。


 カウンターで話している「有澤さん」と呼ばれた若い女性は、その長女である有沢茉莉だった。探偵からもらった資料によると、今年で二十五歳になる。


 大学卒業後も、資格取得の勉強を続けながら、昼間はこのカフェ店で働いているらしい。実家から出てアパート暮らしをしており、彼女の母親は、夫が十年前から始めた本屋を受け継いで現在も経営を続けている。


 ヨリと茉莉は、実質、父親だけが同じだ。しかしこうして眺めている限りでは、彼は自分と同じルーツだという類似点を探し出す事は出来なかった。


 それが、どうしてか、少しばかりショックだった。理由は分からない。教えるつもりもなければ、今後も接点を持つつもりなどないにもかかわらず、彼は珈琲に手をつける事も忘れて、半分だけ血の繋がった女をただただ見つめていた。


 その間にも、彼女はカウンターを軽く清掃し、二、三人の来店した客の対応を行った。笑顔がよく似合う女性だった。困ったように笑う顔も柔らかく、珈琲メーカーを触る際の真面目な横顔からも他者に緊張を覚えさせない。


 同じ血が半分流れているはずだが、やはり彼女と自分は何もかもが全く違っているように思えた。


 ヨリ自身は覚えがないが、知人や友人から言わせると、彼の場合は黙っているだけで話しかけづらい緊張感を生む事があるらしい。おかげで後輩からは一線を引かれ、どこか怖がられているのも態度から見て取れた。


 ――あ。珈琲が冷める。


 ふと気付き、ヨリは彼女の姿から目をそらし、少し温くなった珈琲に口をつけた。


 こんな事をしてどうなる。自分はこれからどうするつもりなのかと、心の中でぼんやりと自身に問いかける。


 探偵会社に調査を依頼したのは自分だが、だからといってどうこうする予定は何一つなかった。とはいえ父親の死を知った後で、不意に、彼やその家族を知りたい衝動に駆られて休暇まで取ったのも確かだった。

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