第7話
ひどく現実感がない。
まるで、フィルター越しの映像のようだと思えた。
その時、子供の笑い声が私の耳に入った。
振り返りざま、視界の端に麦わら帽子を深くかぶった男の子が映った。あ、と思った時には、私はその子とぶつかってしまっていた。
危うく転倒しかけた私の前で立ち止まって、その子供が麦わら帽子から小さな顎と口許を覗かせて、悪びれもなく「ごめんよ」と言って見上げてきた。それを正面から目に留めた私は、彼を幼い日に見たことがあるような気がして、途端に落ち着かなくなった。
確か、霊感テストをやろうよと、そう声を掛けてきた子供がいたのだ。
隼巳が自分で仕入れた話ではない。そもそも彼に、その話を持ちかけた別の子供がいたのだ。そう思い出しかけた私の目の前で、麦わら帽子で目元が隠れているその子供が、不意ににたりとした大きな笑みを浮かべた。
「ねぇ、おじさん。荷物をどうしたんだい?」
まるで悪戯を楽しむかのように、ニタニタとそう問われた。
「荷物……?」
私は数秒遅れて、自分が腕時計以外、背広の一つさえ持っていないことに気付いた。少し皺の入った白いシャツに、スラックスのズボン。ポケットには財布も鍵も入っていない。乗り継いでの出先だというのに、荷物を何も持っていないなんておかしな話だ。
新幹線に乗り、タクシーに揺られ……と、出来事を順序立てて思い返した。けれど私は、時間ごとに出来事を並べられないと気付いて、不意に自分の記憶に疑いを覚えた。
順を追ってココまで来た、という実感が込み上げないでいる。まるでそんな事など経験していないかのように、それらの出来事がうまく記憶に結びつかず、体験したという感覚として身体や脳に残されていない気がした。
そもそも、私は学校の教師などしていただろうか?
何故なら私は、大学へは行かなかったのではなかったか。
受験については一時考えていたものの、高校を卒業する前に夢中になるくらいの恋をして子供が出来た。そのまま卒業後に籍を入れて、妻と子のため就職したのではなかっただろうか。私は昔から人見知りとは無縁だったから、勤めた営業仕事が性に合っていて――
何か、要の部分を履き間違えて思案しているような違和感。
その正体の一つが、ふっと解けたてストンと胸に落ちた。人見知りだったのは私ではない、別の子であった、と。
次第に頭の中の霞が解けていくのを感じながら、私はぼんやりと視線を移動させた。
向けた視線の先には、今日出会ったばかりの『知らぬ女』が立っていた。だらりと両腕を降ろし、長い年月を経たように髪はごわごわと痛んで顔のほとんどを覆っている。
そこから、色の悪い唇が覗いた。大きくいびつに笑うように口が開いて、
「――コンコン」
笑んだ女の口から、聞き覚えのあるノック音がした。
耳元で、何者かの低い囁きがぼそぼそと私の名を呼ぶのが聞こえた。シャツの裾を遠慮がちに、つん、と引かれて振り返った私の視界は真っ黒に染まった。
※※※※※
霊感テストをした日、私達は怯えた男の子を皆で家まで送り届けた。
その帰り道、最後に【彼】が「またね」と去って行くのを、心細そうに見送った【彼女】が、私のシャツをそっとつまんで引き留めた。
「私ね、『玄関』をノックし忘れたの。開けた後に気付いて、慌ててやり直したけど、ずっと心臓がドキドキして、お母さんに叱られる前みたいにとても怖かったわ」
ただの想像ゲームだ。私は、不安でいっぱいだという顔をした彼女にこう言った。
「大丈夫だよ、ただの頭の中の想像の家だ。誰も君を叱ったりしないさ」
「うん……でも、※※※※君たちには秘密にして欲しいんだけど、実は……」
そう口にした彼女が、内緒話をするように手招きしてきた。
私は続く話を聞くため、彼女の方へと耳を傾けた。近づいてきた彼女の唇から、こぼれた吐息が耳にかかって少しくすぐったかった。
「…………※※※君、実は私、オバケがすごく怖いの。怖くて早く終わらせたくて、急いで走ったらこけてしまって、そうしたら【家】の廊下で片方の靴が脱げて」
彼女はまるで、その際に靴を失くしてしまったかのような口調だった。急くように話された私は、一体どういうことなんだろうと彼女の足元へ視線を落とした。
きちんと靴を履いている状態だった。ひとまずは両方の足に靴があることを確認してから、私は軽く指を向けて落ち着かせるようにこう教えてあげた。
「君の靴は、ちゃんとあるよ」
「違うのよ、右と左を見て」
彼女は、今にも泣き出しそうな声でそう言った。
よくよく見てみると、右の靴にはある大きな花飾りが、左の靴にはなかった。
「外れてしまったのかい?」
「多分……。男の子みたいに走り回ったんでしょうって、きっとお母さんに怒られてしまうわ。公園で皆が話をしている時に少し探してみたのだけれど、どこにもなくて」
もしかしたら、あの【家】でこけた際に落としたのでは、と彼女が小さな怯えを浮かべて呟いた。その極度の不安の原因がそれである事を察した私は、怖くなってすぐに否定した。
「そんなわけがないよ。きっとどこかで落としたんだろう」
だから心配する事はない、明日みんなと一緒に捜そうと言って彼女を励ました。
商店街の夕方のタイムセール時は、彼女の母親はいつも買い物に出ている。一人になるのを恐れているようでもあったので、私は親が帰ってくるまで一緒に待つつもりで、自分の家から十メートルも離れていないアパートまで彼女を送ることにした。
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