第2話

 長い廊下が続いている。


 廊下の左側には、正方形の窓が延々と同じ間隔で続いていた。じめじめと生い茂った暗い森があるばかりで、いくつの窓を通り過ぎたのかも分からなくなる。

 建物の中は薄暗い。ギシギシと音を立てる木目調の廊下が、規則的な距離をもってつきあたりで右手に折れ、そこからまた同じ長さで真っ直ぐ続いて、そしてまた右へと曲がる。



 出口は――、『玄関』はまだか。



 そこを歩いている私は、だんだんと焦りを感じ始める。

 何十歩進もうが、同じ景色ばかりが続いているような錯覚に恐怖心が煽られた。ここには終わりがないのではないかと、刻々と進むごとにそんな焦燥に駆られるのだ。

 窓、廊下、薄暗いせいで色の識別が難しい質素な壁。

 踏みしめるたび廊下から上がる軋みが、静寂の中に響いてやけに耳についた。


 いつまで経っても玄関が見えてこない。

 曲がっても、曲がってもまだ廊下が続く。もう間がった回数さえあやふやになった私は、さすがにおかしいぞと気付き始める。


 私は想像を誤ったのか?

 この【家】は四角形だ。だから時計回りに一周すれば、元の玄関に戻るはずなのだ。


 不意に、私は足元から心臓を貫かれるような恐怖に呑まれた。


 ここは私が空想している妄想の世界なのだから、この家の中に私以外誰もいないことは分かっている。それなのに何者かが、ひたひたと迫ってくるようなイメージが脳裏を掠め、まさに後をつけられている気がしてならなくなってしまった。


 恐らくは、自分の足音がやけに鮮明に聞こえるようだと感じた時から、とうに私の冷静さは失われ始めていたのだろう。怖さが一気に爆発したみたいに、私は慄き怯えた。


 私は怖かった。心の底から、恐怖していた。


 全身から、嫌な汗が噴き出すのを感じた。

 こんなところから早く出てしまいたかった。

 すぐにでも、こんなことは止めてしまいたい。


 でも、そんなことは出来ないのだ。途中放棄は、絶対にしてはいけない。何故なら私は、玄関まで【時計回り】に真っ直ぐ進み続けなければいけないのだから。


 この家は、どこまでも人の気配を感じない場所だった。薄暗い森だけが静止画のように窓の向こうに広がっていて、己の妄想とは思えないほど鮮明であるのに違和感を覚えた。


 妄想はやけに鮮明で、終わらないままでいる。


 足早に進む廊下は、黴臭い湿気に満ちていて喉にこびりつくようで生々しい。けれど古風な窓と廊下は新品同様で、それでいて廃墟の如く生活感がないという奇妙なズレが発生していた。


 私が終わらないと思っているから、廊下はいつまでも続いてしまうのだろうか?


 だって妄想の中のはずなのだ。それなのにどうして終わらない。

 ここはなんだ。一体、どこなんだ?


 そう思った時、唐突に廊下以外の屋内風景が目に留まって私は驚いた。

 壁が続いているはずだった右手に、難しい本がギッシリと詰まった部屋が見えたのだ。扉もない入口が、ポッカリと口を開けていて――私は、ひどく怖くなった。



 ここには、よくないナニかが住んでいる。



 そんな独白が脳裏を過ぎった私は、自分で想像しておきながらより怖くなった。その部屋には、急に人がいなくなってしまったかのような生活感が、ひっそりと残されているような気がしたからだ。


 一度覚えてしまった恐怖は、私の中で独り歩きし始め急速に膨らんでいった。それは嫌な予感となって、途端に私を焦らせる。


 ここに何者かが存在している可能性を覚え始めた。

 本能的な恐怖からか、ソレに捕まってはいけない、という事を感じた。


 恐怖が喉元までせり上がった直後、私は弾かれるようにして駆け出していた。頭の中で、とても怖い何かが、こちらにぐるんっと顔を向ける恐ろしい想像が浮かぶ。



――腕を掴まれたんだ。



 不意に、【彼】が口にしていた言葉が思い出された。


 私は廊下の床を大きく軋ませているのが、あの頃と違って革靴である事に気付いた。そうだ、これは過去に一度だけやって、もう終わってしまったことなのだと思い出す。


 それなのに何故、私はまたここを走っているのだろうか?


 後ろを振り返ることは出来なかった。ただただ、必死に逃げるようにして走り続ける。嫌だ、嫌だと、幼い頃の私が胸の内で悲鳴を上げているみたいに心臓がバクバクしている。


 その時、まるで身体が揺さぶられるように視界が左右に動いた。


 目の前の風景が歪んだ直後、ガッと肩を掴まれたのを感じた。

 ギョッとした私は、悲鳴を上げるべく口を開けて――


             ※※※


稲畠いなはたさん!」


 名を呼ばれて、私はハッと目を開けた。

 どうやら少し眠ってしまっていたらしい。座席で座っていただけであるはずなのに、私の呼吸はまるでどこかを駆け続けていたように荒くなってしまっている。

 向かいの席には、そんな私を心配そうに覗き込んでいる女性の姿があった。


「どうしたんですか? もしかして怖い夢でも見たんですか?」

「いや、別になんでもないんだ……。少し乗り物酔いをしてしまったみたいだ」

「あっ、だから飲んでおきますかって提案したのに」


 手が震えそうになるのを堪えて、額の汗を拭いながらそう言い訳した。可愛らしい少女のような目鼻立ち整った顔をした彼女が、ショートパンツから覗く白い太腿にショルダーバックを引き寄せるのを見て、私は白髪がまばらにある髪を後ろに撫でつけた。


 静岡から新幹線で出発したものの、途中で会話が途切れているのを思い出した。窓側には厳しさの和らいだ日差しがあり、チラリと腕時計を確認すると、午後三時を大きく過ぎてしまっていた。


 私の向かい側に腰かける若い女性は、ミサナといった。自己紹介の際に二十六歳の社会人だと教えられたが、華奢で幼い顔立ちのせいか成人しているようには見えない。

 私が彼女と知り合ったのは、つい数日前のことである。人付き合いが苦手で、ましてや異性と話すことに関してはとくに億劫になってしまう。それでもこうして自然体でいられるのは、彼女が幼い頃に過ごした幼馴染の雰囲気を持っているせいだろう。


「それにしても、彼が高校を卒業してすぐに結婚していたとはなぁ……」

「またそれですか? 稲畠さん、その台詞もう十回くらいは聞いてますよ」


 水なしで飲めるという薬を私に手渡しながら、彼女が少年みたいに笑った。

 その笑い方は私の幼少時代の幼馴染であり、友人だった隼巳はやみにそっくりである。彼が口から整った白い歯を見せて、「シシシ」と笑っていた時の顔を思い出させた。


「三時四十分、か」


 新幹線の速度が落ちて行くのを感じた頃、私は到着を察して腕時計でもう一度時刻を確認した。完全に停車して降りたところで、歩きながらミサナが後ろから声を掛けてきた。


「稲畠さん、本当にいいんですか? 私の考え過ぎかもしれないし……」

「君のその台詞も数回目だぞ。いいんだ、確かめに行く程度ならどうってことはないだろう。私にとって、君の父親は大切な友人の一人でもあるんだから」


 行き交う人の間を縫うようにして進んだ。


 不意に、控えめに引っ張られるような感覚を覚えた。

 肩越しに振り返ってみると、華奢なミサナが、慣れない人混みに埋もれて迷子になってしまうことへの不安を覚えたような顔で、私の背広の裾を遠慮がちに掴んでいた。



 私は、何故だか覚えのあるように、ぐらりと眩暈を覚えた。

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