蒼天抱くは金色の星

柴崎桜衣

序章 大陸統一暦1014年9月

序章

 目の前に櫃がある。

 子どもたちには決して開けられぬよう、厳重に錠前を下ろした古い櫃が。

 屋根裏の物置、雑多な荷物の中。鍵を開け重い蓋を上げると、それは変わらぬ姿を俺の眼前に現した。

 わずかな灯火の中でさえ、はっきりとその輪郭が見える。

 まるで自ら光り輝いているかのように存在感を放つ、一振りの剣。

 父から譲られてから二十年弱。手入れを怠りはしなかったが、一度も佩いたことはない。

 銘は知らない。あるらしいが、父は最後まで教えてくれなかった。

 儀礼用ではない。宝剣でもない。何の飾り気もない。

 だが一目で判る。これは名工が精魂込めて作り上げ、戦場で多くの敵を斬ってきた剣。

『これは何人もの剣豪たちが今まで手にし、あまたの戦場をくぐり抜けてきた名剣。激戦の中でも折れず今日まであり、奇縁によって私の下へとやってきた』

 初めて俺がこれを見せられたその日、父は淡々と俺に告げた。

『なぜ私風情が、この剣を手にすることになったのだろう。そうずっと思ってきたが、今になれば判る。――これはお前の剣だ。乱世の英傑となるお前に伝えられるため、この剣は私のところに来たんだ』

 言葉の意味が、その時の俺にはすぐ理解はできなかった。だが父はさも当たり前のように続けた。

『以前も言ったように、いずれお前は当代一の剣豪になる。この大陸――いいやこの世界で、お前に敵う者などない。誰一人追いつくことも、肩を並べることも叶わない。並大抵の者では傷一つつけることもできず、お前の足下に屍をさらすことになるだろう』

 父はさらりと、俺の人生を大きく左右する言葉を投げる。

『お前より強い者など、きっとこの世にはいない。だが、それがお前の幸せとなるかは、全く別の話だ』

 一転して憂いをたたえ、父は俺に向かう。

『お前が戦場で栄達を望めば、何だって叶うだろう。騎士や将軍の地位は当たり前。王侯貴族たちはお前を召し抱えるためなら、大金や領地を差し出すこともためらうまい。貴族に列せられ城主、領主となることもたやすかろうし、もしお前が望むのなら』

 りん、と響く運命の言葉。

『新王を擁して新たな王朝を興し、国の中枢に座することすら叶うだろう』

 父が示唆することは俺には明らかだった。

 俺ですら知っていることを、父が知らぬはずがない。

 ただ判らないのは、父がそのことについてどう思っているのか。

 それはこの時も、今となっても、俺の中で答えの出ない永遠の謎。

『カティスを王子として担ぎ上げろ、と?』

『そうしろとは言っているのではない。けれどもお前がカティスと共にある人生を選べば、その選択肢はどこまでもつきまとってくるだろう』

 父は手の中の名剣に目を落とした。

『次期国王の座を巡って貴族が争い、国が乱れることはおそらくは避けられない。アルバだけではなく、大陸各地で戦端が開かれ、多くの貧民が傭兵として戦場に赴くこととなるだろう。カティスとブレイリー、その他多くの子たちがその道を選ぶことを、もはや止めることは叶わない。貧困から抜け出したい願うあの子たちを、もはや私でもとどめることはできない。その結果、あの子たちがどれほど心身共に傷を負うことになったとしてもだ』

『……ああ』

『戦場であの子たちの運命がどう回っていくのかは判らない。王位継承争いに巻き込まれていくのか、それとも市井に埋もれたまま終わるのか。カティスの存在が見明かされ、誰かに取り込まれていくのか、それともあの子自ら玉座を望むのか。何一つ未来は定かじゃない』

 ただ、と父は厳しい眼差しを俺に向けた。

『もしお前がこの剣を一度でも戦場で振るえば、もはや市井に身を潜めていることは叶わなくなる。この剣の当代の持ち主、それに相応しい逸材として、必ず権力者が食指を延ばしてくるだろう。それほどまでにお前の剣は、見る者を惹きつける。他人の人生を変え、国の行く末を変え、運命をも変える。それだけの力がある』

 そしてその力は、必ずカティスとブレイリーを巻き込む。

 冷徹に言い放った父に、俺は返す言葉がなかった。

『私はお前に、どうしろとは言えない。英雄になれとも、剣を封じてこの街で平凡に生きろとも。カティスを王にしろとも、あの子を市井に隠すことに人生を費やせとも。お前の人生はお前のものだし、二人とどう関わって生きていくのかも、お前が悩んで決めていくしかない』

 ただ、と父は小さく愁いに満ちたため息とともにこぼした。

『ただ容赦のないことを言えば、お前の人生がお前のものであるように、カティスの人生も、ブレイリーの人生も、あの子たちのものだ。お前が何を願い、あの子たちにどれほど尽くしたとしても、それがお前のものにはなることはないし、あの子たちとのことがお前の人生のすべてにもならない』

 たとえ今、どれほどこの世界が自分のすべてだと信じていたとしても。

 それが自分にとって、無上のものだと思われたとしても。

 世界は、他人は、自分は、互いに紡いでいく人間関係は、変わっていくのだ。

 自分の人生と他人の人生は、交わりあい寄り添うことはあっても、ぴったりと重なり一つとなることは、ありえないのだ。

 この時父が言伝えようとしていたことは、今になれば判る。

 確かにその後のカティスの人生は俺の思い通りになどならなかったし、俺の人生もあいつらとのことがすべてにはならなかった。

 妻となる女性に出会った。彼女との間に生まれた子どもたちは心底愛おしいし大事だ。

 あいつら以外の誰かを思う気持ち、彼らと紡いでいく時間も、俺にとっては大切なもの。

 それは確かにそう。

 けれども。だからこそ。今俺は、封じ続けてきたこの剣を目の前にして、父の言葉を思い起こす。

『お前がこの剣を一度でも振るえば、もはや後戻りはできないだろう。けれどももしお前が、力を欲するならば。力をもって砕きたい、断ち切りたいと願うものが、この先現れたのならば。この剣は、必ずお前にその力を与えてくれる』

 数年後に父は病で没し、俺はこの剣を櫃に封じた。

 父が遺した店を続けることを、傭兵として戦場に赴く友たちを見送り出迎え続けることを選んだ。

 そうして運命が巡った大陸統一暦一〇〇〇年。ただ一度だけ赴くことを選んだ戦場でも俺は、この剣の封印を解かなかった。

 驕りたかぶり、己の全力を衆目に晒すことを厭った。

 その結果、大切な人は血の海に沈んだ。

 一命は取り留めたものの、代償に身も心もあまりにも大きく損なわれた。

 それからの十四年。その大きな欠損に対し、俺は何もできなかった。

 あいつの何も守れず、何も変えられず、何も取り戻せなかった。

 あいつになすりつけた罰を引き受けることもせず、自分一人だけ安寧に身を沈めた。

 そうして十四年。飛び込んできた凶報に、俺は全身の血が泡立つような怒りを感じた。


 あいつの大切なあの子が、遠い街で、不埒な輩に手折られようとしている。


 信じられなかった。

 心穏やかに向かい合い、あいつを血の通う人間に戻してくれる女性。

 あいつがあの子に心奪われているのだと気づいた時、思った。

 奇跡だと。

 やっと救いがもたらされたのだと思った。

 それなのに、その唯一無二の存在が、遠い地で今まさに他人に奪われようとしている。

 許せるわけがない。

 そんなこと、許せるわけがないだろう。


 たった一人の大切なあの子を救い出すために、戦場に立つ。

 そのことには一欠片のためらいもない。

 けれども今この剣と向かい合い、耳に甦るのは父の言葉。


 この剣を握れば、俺はもう後戻りはできない。

 俺はそれで、本当に、いいのか。


「何を迷っているの」

 だがその時屋根裏部屋に響いたのは、幻ではなく現実の音声。

 俺の内心を見透かし、妻はぴしりと言い放つ。

「だがアデライデ」

「あなたが今ぐだぐだ考えてることなんて、お見通しよ」

 薄暗がりの中で歩み寄ってきた妻は、何のためらいもなく櫃の中の剣を掴み、そして。

 俺へと差し出す。

「私が何があっても見たくないと思っているものは、二つだけ。一つは子どもたち三人が、私より先に死ぬところ。もう一つは、あなたが私たちのことを言い訳にして逃げた挙げ句、大事なものをなくしてから、うじうじ後悔するところよ」

 恐ろしいほど容赦のない言葉だった。けれどもそれは正鵠を射ている。

 そうだ。俺は自分で思っている以上に、卑怯で臆病だ。

「取りなさい、セプタード・アイル。あなたはもう判っているはずよ。あの男を――ブレイリー・ザクセングルスの運命を変えるということは、生半可な覚悟では叶えられない。中途半端な刃では、あの男を捕らえているものを断ち切ることなどできはしないのだということを」

 俺は冷水をバケツいっぱい浴びせかけられたような、そんな錯覚を覚えた。

「あの男なくしては、この街はもはや立ちゆかない。そう誰もが認めるほどの存在と並び立つ。それがどれほどたやすくないことか、一番よく判っているのはあなたのはず」

 矢継ぎ早、あまりにも正しすぎる言葉に、俺は答えることもできない。

 ああ、判っている。お前の言うとおりだ、アデライデ。

 だからこそ俺はこぼしてしまう。

「あいつが街の者たちに、裏でなんて呼ばれているか知っているか」

「うん?」

 たった十四年であいつが成したこと。この街にもたらした福音はあまりに絶大。

 市民はいまや感謝と信頼を込めて、忍びやかにこう呼ぶ。

 俺は半分の憧憬と半分の自嘲を織り交ぜて、妻に告げる。

「『自由都市の守護神』――神に肩を並べることは、並大抵のことじゃない」

 だが俺の言葉に妻は明らかに呆れた顔をして、とんでもないことを言い放つ。

「何言ってんの、あんたも神でしょ」

「おい」

「剣神。あなたこそそうだと、私に真顔で言ってのけたのは当のブレイリーよ。違うの?」

 その一瞬、俺は虚に取られた。

 だが幾ばくかの沈黙の後、様々な感情が降るように俺の腑に落ちる。

 ああ、そうか。お前がそう言うのか。

 お前が俺をそう認めてくれるならば。俺がそうあることを望んでくれるのなら。

 そうであることを、ためらう理由など、ない。

「違わない」

 手を伸ばして、妻の差し出す剣を握りしめた。

 そうして俺は口の端を歪めて笑う。

 もう俺は迷わない。


 起きろ、俺の中の獣。

 傲慢で、冷酷で、人を傷つけることも殺めることもためらわない、剣を振るうためだけにこの世に生まれ落ちた獣。

 あいつを絡め取り、繰り続けているあの糸を、その剣で斬れ。

 それはお前にしか叶わない。

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